紙の本
実存主義とはなんぞや
2019/01/27 19:42
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
「実存主義」の哲学者、サルトルの小説。理解して読むのには骨が折れた。「存在は必然ではない。存在するとは単に、そこにあるということなのだ」と本文にあるように、サルトルは存在になど意味はなく(全く無意味)であり、そこにある(いる)だけだという。ということは、「人生の目的」などまったく意味のないことなのだろう。そのようなものに人生を縛られても、世の中は不条理で無秩序なのだから意味がないと。「実在は本質に先立つ」というサルトルの言葉は、人間は自由だからこそ己の行為に責任をもたなければならないということを意味しているということらしい。と、わかっているように書いているが実存主義とは何ぞやということをまだ私は理解できないでいる
投稿元:
レビューを見る
30歳の独身歴史家、アントワーヌ・ロカンタン。
彼の身に起こった出来事や思想が、約1ヵ月間の日記という形式で綴られていく。
海で石ころを拾った主人公が感じた、突然の吐き気。
その意味とは?
図書館、居酒屋、街の通りなど、孤独な青年の思考が繰り広げられていく。
独学者との昼食。
かつての恋人との再会。
存在に絶望したロカンタンの思索がいきつく場所とは。
20世紀フランスの哲学者・小説家サルトルによる存在の不条理を描いた作品。
鈴木道彦の新訳。
投稿元:
レビューを見る
2度目の嘔吐。サルトル自身が、文学的に見れば自身の小説としては一番上手く出来た、と述べていたらしいが、その通りだと思う。しかし、小説から透けて見える「サルトルの哲学」(「存在と無」で語るようなもの)を理解するには、あまり向かないようにも思える。文学的な面が強すぎて、始めてサルトルを読む人には理解しづらいからだ。「水いらず」に収録されている「一指導者の幼年時代」から先に読んだ方が良いと思う。そこから、(「自由への道」→)「嘔吐」だろう。。
ところで、この小説には、まだ「アンガージュマン=関与」の用語はまだ出てこなかった。「アンガジェ=拘束」の語は出てきたが。そういう意味では、これだけを読んでサルトルを理解した!とは言えないように思える。だから、まだサルトルから離れるわけには行かない。次はいよいよ「存在と無」を読もうか。。
投稿元:
レビューを見る
実在論を描いた哲学的小説。
存在と非存在の間の瞬間を違和感として嘔吐という形で表している。実存は本質に先行する。意味もなくただただ存在してるだけ。
まだ僕にはこの本を読むのがはやかったようだ…
投稿元:
レビューを見る
高校生のころ、今から40年も前に読んで忘れられない感覚を覚えた。それはゴダールの映画に共通する感覚だ。新訳は少し違う味わいがあると思うのは、時間の隔絶からくるものが大きいのだろう。
投稿元:
レビューを見る
暗いきもちだったからなんとなく手に取ったけど、読了できず。この人がもともとおかしいのか、ひとりでいるからこんなにあたまおかしくなったのかわからないけど、当たり前のことがこんなにねじ曲がってみえるならもはや生きていけないと思う
投稿元:
レビューを見る
目立ちたがりで喋りたがりで知りたがりでおせっかいで、それで何が不幸って頭が良くて、でも結局したいことはそんなことじゃなかった、ただ慎ましく生きていければ良かったんだ。
投稿元:
レビューを見る
精一杯うんと背伸びして、アルベール・カミュの『異邦人』や、アンドレ・ブルトンの『ナジャ』や、ジャン・ジュネの『泥棒日記』や、ルイ・フェルディナン・セリーヌの『夜の果てへの旅』や、アラン・ロブ・グリエの『反復』や、トマス・ピンチョンの『V』や、ドナルド・バーセルミの『口に出せない習慣、不自然な行為』や、そしてこの本、ジャン・ポール・サルトルの『嘔吐』などなど、誰も見向きもしないから綺麗なままの本をほとんど独占して読むことが出来た中学から高校にかけて,それにしても各々の学校の図書館に何故あれほどまでに尖鋭な現代文学の本が、私を待っていたのでしょうか?
それはともかく、『嘔吐』は、カフカの影響を云々されていますが、骨の髄まで徹頭徹尾そのころ芥川龍之介に影響されていた私の文学観では、主人公ロカンタンの吐き気をもよおすこの嫌悪感は、まさに芥川龍之介のペシミズムに通じるものとして理解されたのでした。
実存的存在などこれっぽっちも知らなかった中学生には無理もないことでしたが、その後ひそかにサルトルに少なからず入れ込んでいくにつれ、たとえ今ではもう誰もその思想性に注目しようとはしない流行遅れのような過去の遺物のような扱いをされようとも、私にとっては、思想や哲学をただ思弁的なものとしてだけでなく、現実の社会とのかかわりの中で見出そうとして批判して闘った人として、また1901年から始まったノーベル賞をベトナムの革命家のレ・ドゥク・トとともに二人だけ辞退した反骨の人として、深く記憶に刻まれたのでした。
投稿元:
レビューを見る
『私は この壁のそばで存在に傷ついている。』
『存在のなかで彼は立ち止まる、』
『欲望、嫌悪、彼は存在することに嫌気がさしたと言う、』
『すべては充満しており、至るところに存在があり、それは濃密で,重く、やわらかい。』
『ごく近くでありながら、何と余りに遠くにあり、若々しく,冷酷で、しかも澄み渡った』
『火曜日
書くことは何もない。存在した。』
自分が存在しているという不気味さに吐き気をおぼえる
わかるーなんていうのはちょっとあぶないけど
『Some of these days
You'll miss me honey』
そうだったらいいな
投稿元:
レビューを見る
孤立した人間×マロニエ(木の根っこ)×「存在は必然ではない。存在するとは単にそこにあるということなのだ。」というラディカルな気づき=『嘔吐』
『本質的なことは偶然性なのだ。つまり定義すれば、存在は必然ではない。存在するとは単に、そこにあるということなのだ。存在者は出現し、出会いに身を委ねるが、人は絶対にこれを演繹できない。そのことを理解した人もいるだろう。ただし彼らは、必然的な自己原因の存在を作り上げて、この偶然性を乗り越えようと試みたのだ。ところで、いかなる必然的なものも、存在を説明することはできない。存在の偶然性は見せかけでもなく、消し去ることのできる仮象でもない。それは、絶対であり、したがって完全な無償性である。』
投稿元:
レビューを見る
主人公ロカンタンの日記形式で綴られた日常から、「存在」に悩む様子へ。
んー、私にはやはり難解でした。
投稿元:
レビューを見る
1970年代という不安定な時代に、高校生という不安定な世代で読んだ。不安を増長するような気もした。「嘔吐」が現代に受け入れられるかは解らない。自分の子供に勧める自信はない。
不安な時に、本を読むのでは安定できないかもしれない。運動したり、旅行するとよいかもしれない。
不安な時に,いろいろな作品を読むとなにか、ひょっとしたらつかめるかもしれない。
いろいろな本を読むことが大切だという意味で、お勧め1000冊に入れたい。
歴史に興味をもち、近代を理解しようと思ったときには、近代の代表作の一つにあげてもよい。
時代を理解するという視点で読んでみて欲しい。
人はそれを「実存主義」と呼ぶ。
実存主義という言葉は気にしなくてもいいかもしれない。
投稿元:
レビューを見る
好きな箇所
”ーところが今は、このサクソフォンの歌がある。そして私は恥じている。輝かしい小さな苦悩、典型的な苦悩が生まれたのだ。サクソフォンの4つの音。それが行ったり来たりする。まるでこう言っているようだ、「私たちのようにすべきだ、リズムに合わせて苦しむべきだ」。その通りだ!もちろん私もこんなふうに苦しみたい。リズムに合わせて、自分自身への媚びも憐れみのなく、乾燥した純粋さを伴って苦しみたい。しかし、ジョッキの底のビールが生ぬるかったり、鏡に茶色の染みがついていたりするのは、私が悪いのだろうか?私が余計な者であり、このうえもなく誠実で乾ききった私の苦悩が、ずるずると重たくなって、潤んだほろりとさせる大きな目、しかし醜悪そのものの目をしたゾウアザラシのように、だぶだぶの肉と広い皮膚を同時に備えるようになったとしても、それは私のせいだろうか?ー”(p.290)
読めば読むだけ、味が増す作品だと思う。
この本との出会いに感謝したい!
投稿元:
レビューを見る
存在の不確かさ。ぼんやりと感じたことのあるような感覚が言葉で言い表わされていて、しっくりするところもある。サルトルの思想は面白い。
投稿元:
レビューを見る
「私にはいわゆる心配事がない。金利生活者のように金はあるし、上役はいないし、妻も子供もない。私は存在している。ただそれだけだ。そしてこの厄介な問題は、あまりにぼんやりした、あまりに形而上学的なものなので、恥ずかしくなるほどだ。」
ロカンタンとはこういう男だ。こういう男の悩みにどれほどの価値があるか……まあそれは置いておこう。本人もそのことは自覚してるのだから。
ただこういう男の主観で語られる物語は、予想通りとても退屈だ。ロカンタンは「嘔吐」を感じるのではなく、ロカンタン自身が「嘔吐」そのものなんだ。
昔の彼女であるアニーの「自分では何一つやろうともせずに、まわりの物が花束みたいに配置されていないからというので、愚痴をこぼしているだけじゃないの。」という批判もそれなりに的を射ていると僕は思う。
ロカンタンは存在を恐れる。もっというなら「不確かな存在」を恐れてる。
「存在している。だから何だ?」
興味深かったのは独学者がアメリカの著書について話しながら、ロカンタンが自身に課している問題は「人生は生きるに値するか?」ということじゃないかと探りをいれる場面(もしかしたら、とカミュの「シーシュポスの神話」を思い浮かべたけど多分ちがう)。
ロカンタンは「もちろん違う」と一蹴する。
……うーん、こじれてきた。ちょっと整理しよう。
ロカンタンが癒しを感じるものはユダヤ人歌手がうたうレコードを聴いている時だ。音楽は、音符は、鳴らされるべく配置され、その音を出した次の瞬間にはもう死んでいる。音楽には過去も未来もない、ただその瞬間にのみ在る。
それはロカンタンが〈冒険〉と呼び、アニーが〈完璧な瞬間〉と呼んだものじゃないか。二人とも別々の方法でそれを求め、そうして裏切られた。
〈冒険〉は物語となった時点でまったくの別物になっている。だから「選ばなければならない。生きるか、物語るかだ。」
そして例え生身の〈冒険〉を選んだとして……要は、人間は飽きるし、倦み疲れる。〈冒険〉が「生」だとしても、人間は生き続けることはできない。
マロニエの根を見つめながらロカンタンは洪水のように一挙に悟る。
けどこれは今までよりもっと説明が困難だ。よくわからん。
なんか「存在のデフレ化現象」という言葉を思い付いた。
「木(人間)とかたくさん存在しすぎて価値がない」(ゲロゲロ~)
「本質的なことは偶然性なのだ。つまり定義すれば、存在は必然ではない。」うーん、わかったような気になるけどよくわからん!
僕のこの本に対する評価は、ロカンタンの次の言葉に集約される。「そして考えた、『なんて長いこと笑わなかったんだろう』」。
ロカンタンの物語は僕にとってはあまりに卑屈で、窮屈で、退屈だ。
そして僕としてはやっぱりニーチェの「ツァラトゥストラ」のこの一節に漂着する。
「わたしは踊ることのできる神だけを信じるだろう。
わたしがわたしの悪魔を見たとき、悪魔はきまじめで、徹底的で、深く、荘重であった。それは重力の魔であった。――かれによって一切の物は落ちる。
怒っても殺せないときは、笑えば殺すことができる。さあ、この重力の魔を笑殺しようではないか!」
ロカンタンはちょっと運動したほうがいい。