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紙の本
あの日私は何をしていただろう
2011/06/23 08:09
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る
80年代を舞台にした重松清の自伝風短編小説集。
「一九八一年―。僕は、東京で暮らしはじめた。十八歳で、ひとりぼっちだった」。
そんな文章が巻頭の「東京に門前払いをくらった彼女のために」という作品のなかにある。本当であれば、東京暮らしの相棒になるはずだった裕子。しかし、彼女は東京の大学に落ちてしまい、上京できなくなってしまう。そして、「僕」はひとり東京での生活を始める。
わずか十八歳で「終わった時代がなんだったのか」はないだろうが、気分としてはよくわかる。
特にただ都会というだけで右も左もわからない東京で出てきた上京組の若者にとっては、それまでの生活はやはり「終わった時代」だったし、これから始まる東京での生活は「新しく始まる時代」だったのだ。
そして、また故郷で生活をおくる裕子もまた「新しく始める時代」を生きるのだ。
十八歳の「僕」はそんな裕子をいつしか忘れていくしかない。
青春とは、そんな残酷さを秘めている。
「ふぞろいの林檎たち」、「いとしのエリー」、「アルバイトニュース」、村上春樹の「1973年のピンボール」、「見栄講座」、そしてブルーベリー味のガム。
巧みに配置された時代の小道具とちょっと鼻の奥がツンとするいつもの重松節。過ぎた時代を描かせたら、重松清は当代一ではないだろうか。
誰もが同じ経験をしていないはずなのに、「そうだったよな」って思い出しているそんな物語たち。
巻頭の作品でもそうだが、時々あれから何年も経った「今」が挿入されることで、物語は思い出の層をよりいっそう深めていく。
あの日、たとえば「僕」と裕子が東京で別れた最後の夜、具志堅用高が14回めの防衛戦でKO負けした1981年3月8日、私は何をしていたのだろう。
あるいは、東京で相棒になれなかった私の「彼女」は、何をしていたのだろう。
そういったそれぞれの物語は、ブルーベリーをようにどこかでいつもほろ苦く、酸っぱい。
たくさんの水が、橋の下を流れていったのだ。
紙の本
あの頃を思い出しながら
2012/02/08 17:42
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ひろし - この投稿者のレビュー一覧を見る
12の短編からなる本作を読み始めてすぐ、「え゛~・・・マジで!?」と声が出てしまった。重松氏の作品は、年代が近いせいもあっていつも胸に来るのだけれど。いわゆる青春時代だった80年代の、何と重松氏自身の「自分語り」的小説になっていたからだ。これまで重松氏の作品は相当読んできたけれど、こういうテイストの作品は初めてではなかろうか。しかしまぁ、ドラマチックな学生時代を過ごされたこと。
「恋するカレン」「ホイチョイプロダクション」「ジョン・マッケンロー」「ふぞろいの林檎たち」「ボブ・マーリー」。どの単語を取っても、今40代半ばを迎えた僕らにはなじみ深くて、本当に懐かしい物ばかり。それらの単語がそのまま、青春そのものと言ってもいいくらいだ。重松氏の青春時代も、やはりそんな単語に包まれた物だったのだ。学生時代と言うのは、ある意味人生で一番色んな出会いと別れがある時ではなかろうか。それと共に、色んなドラマもまた同じ数だけあったりする。重松氏の物語を読みつつも、思わず遠い目で自分の当時を思い出してしまった。確かに僕にも、そんなドラマがあったっけ。「恋するカレン」を、地で行ったようなドラマが。と、こんな風に読むのがこの作品は一番合うのではないかと思う。だから今40代半ばを謳歌している皆さんに、オススメしたいと思います。忘れかけていたちょっと甘酸っぱい思い出に、たまには浸ってみるのもいいものです。
紙の本
私小説風に感じるが…
2016/03/10 11:24
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:海(カイ) - この投稿者のレビュー一覧を見る
私小説風に感じるが、そうではないと書いている。 物語のベースは重松さん自身の青春であっても主役は1980年前半という時代そのものだと言う。'80年代はこんな感じだったのか!?と思える作品なのかな?