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まずこれが100年前に書かれたものとは全然思えません。
小さな頃にエロ本をチラッと見たり、女の子の股を見ようとしたりする経験は100年前も今も変わらないんですね。また、最近の若者の性の乱れとかなんとか言われたりしますが、100年前の若者たちも軟派なものもいれば硬派(同性愛者が多かったようである)もいたようです。
この小説を載せた雑誌が当時発禁になったそうですが、わたしは18禁だと思います。自分の性欲との付き合い方は、若いうちにもがき苦しみながら自分で探さなければならないものでしょうから。
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本題はラテン語で「VITA SEXUALIS」(性欲的生活)とのこと。森鴎外の前半生の性欲体験を小説に託し自伝体的に描いたもののようだ。これを収載した雑誌「昴」は風俗を乱すかどで?発売禁止になったとのこと。
男なら誰でも体験するような性欲の芽生え(!)について、自らの体験?に基づき赤裸々に描いているのに驚かせる。
ただ、本書の最後にもあるように中途半端さ感は否めず、その描写にしても大体スルーしているので、エロティックなところは全くなく、逆に物足りなさが残った。(笑)あまりにも淡々とした思い出の羅列のような記述で、あるいは微笑ましくもあり、いまひとつ入り込む余地がないまま終わってしまった感じだ。もっと言えば、むしろストイックなのではないかという内容であり、「性欲的生活」の逆説的物語だったのではないだろうか。
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10月6日読了。題名はラテン語で「性欲的生活」の意味、哲学者の金井(鴎外自身がモデル?)が自らの性欲の芽生えを振り返る自伝的小説。発行当時は大いに物議をかもし発禁処分にもなったというが、今だって決して幸せなすばらしい時代とは思わないが、この程度の自己認識も文章で発表できないこの時代(1909年)よりはずっとマシだな。他人からどう見られているか・によって自分の振る舞いを決定付けるような思春期のもどかしいような自己愛は現代にも通ずるものがあるが、男色の硬派・女色の軟派が互いに競い合い、膂力のない男子学生が硬派の襲撃を恐れるという当時の学生の風土は現代ではありえないな。(いや、今もそうなのか!?)
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まず感想を先に言えば、自分は作者の性に対する姿勢に共感した。けれど、だから自分にはこの小説が特別面白くはなかった。むしろ現代人の性意識からいけば、これくらい固い人間はかえって面白いのかもしれないが。出だしは面白かった。淡々としていて、摩擦がない。けれども、哲学的な小さな視点も発展しないし、また、筋という筋もないので物語的な面白さも薄い。全体としては、余り面白くなかった感が否めない。自然主義的私小説の流行り初めだから、鴎外も書きたかったのかな。これだけ読んでも分からないから、先行研究に当たろう。
ところで、高橋義孝は巻末の解説でこの作品がフモール(ユーモア)に富んでいると言うが、これは正確でないと思う。ヰタ・セクスアリスの諧謔性はむしろ、ロマン的イロニーだと思う。つまり、作者は現実の苦痛に耐える自己を蔑視することで、そうすることのできる自己を一つ上に上げて誇っている。その証拠に、103pには《しかし自分の悟性が情熱を枯らしたようなのは、表面だけの事である。永遠の氷に掩われている地極の底にも、火山を突き上げる猛火は燃えている。》と書いて、性欲が理性の支配下にありながら、それを上回り得る力を秘めていることを告白している。ユーモアとは、フロイトに依れば、自我の苦痛に対して超自我がそんなことは何でもないと激励するものだ(「ユーモア」『フロイト著作集』第三巻、人文書院)。鴎外の態度はユーモアの側ではなく、衒学的なイロニーの側にある。高橋義孝がこれをユーモアと感じたのは、恐らく氏の精神性がヰタ・セクスアリスに親近的なものだったからだろう。そのため、イロニー的不快感を覚えなかった。イロニーはその内側ではユーモアになり、外側の読者によって初めて発見されるという宿命を持っているとも言えるだろう。確かに主人公は周囲に対してユーモアの視点から眺めている。けれど、回想する自分自身については、やはりユーモアに徹し切れず、イロニーの側に転倒してしまった。ここに鴎外の人間性というか、他の作家との差違とでも言いたくなるものを見ることが出来ると思う。
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漢字とかドイツの哲学者の名前だったり、髪の毛の結い方の名前とか、ギリシャ神話、着物の名前など、かなりのキャパオーバーな感じでしたが、文自体はさすがに有名な人だけあって読み易かったです。
時代背景も明治40年ごろの話らしく、自分には予備知識ほぼゼロの未知の時代だったので、そのへんも楽しめました。
まぁ、ストーリーは、金井って主人公が幼少時代から大人になるまでに体験したエロを、あの時はあんなエロいことがあったんだよって回想してくってだけの話なんだけど、不思議とまったく内容はエロくないという面白い小説でした。
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もっと過激な描写を期待していたので
あっこんなもんか…という安心とも残念ともつかない言葉にしづらい感想が。
というかこの描写で発禁処分になる当時と現代の差にふむふむと思うとこありました。
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課題図書。自然主義との対比としての課題だったので、アンチ自然派小説としていえばそう訴えたいのはわかるけれど、そこまで捻くれて回りくどくせずにもっと正面切って主張していいんじゃないかと思う。
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哲学者の金井湛(モデルは森鴎外自身)の性欲の歴史。
春画、男色、三角同盟、吉原、見合い、結婚…。
主人公は様々な『性欲的生活(ヰタ・セクスアリス)』の中で自問自答を繰り返す。
時代背景が異なるだけで、今も昔も『性』について考えることは同じだと思った。
また、たったこれだけの内容なのに(少なくとも私は全くエロさを感じなかった)、ポルノグラフィティ扱いされ、発売禁止されてしまうなんて、当時の人々の純情さに驚いてしまった。
禁止にされたことでこの美しい文章が当時世の中で注目を浴びることがなかったのかと思うと、純情はときに残酷なものだと思わざるを得ない。
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この時代の生活はこんなだったのでしょうか。
興味深いです。
「自分の性欲の歴史」がとても理性的に淡々と語られるので、
なんだか可笑しみを感じます。
面白い表現が多々ありました。
「体の恐ろしく敏捷に伸屈をする男」
「橘飩の栗が一つ一つ児島の美しい唇の奥に隠れて行くのを眺めていた」
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読んでいたら分からなくなった。
性への欲に対して疑問を持つ事はしばしば私自身にも起きることで、それを人間だから、本能、快楽、nature、で片付けることも
フロイトのように極端に結びつけることも私にはまだよく分からないのだ。
そして実生活でも、性や異性への何某の話題を餌にして、ぴーちくぱーちくお喋りすることに対して少々?潔癖で、果たしてそれは異常なことなのだろうか
読み終えた今とても混乱している。
自分の中で何かを掴めたら、掴めそうになったら、再読する。
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全然エロくはなかった。
前〜回想〜後という構成で、前で何気なく使われている「性欲」という言葉がどんどん肉付けされていく。そもそも性欲というのも漠然とした言葉だ。
基本的には常に対象に到達しない。どこかずれているし、行為に及んでもそれは何も書かれず、何となく焦点がない印象がある。だがそれがまたひとつの切り口ということなのだろう。
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あらゆる事に自覚的な主人公が性に関するこのに掛けては自覚的になれない(他の多くの者とは反対に働いてはいるけれど)というところが面白い。
彼は性的なものに特別惹かれることはないが、不意に訪れた性欲に呵責を感じないとも書いている。
主人公は性的なものに対する評価を不当に低くしているように思うが、それが逆説的に多くの人が性的なものに与えている価値が高過ぎるのではないかという思いを促す。
性に関する価値の再評価という意味ではとても面白い作品だと思う。
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物語的でなく話がつまらない上に注釈責めにされて、読むのがしんどくなってしまった。
なんとなく、古文の模試を思い出した。冊子をぴらぴらさせて読む面倒臭さ!
しかし装丁がとても素敵で、勢いで買った後悔も抑えられます。
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子供の頃みた春画、寄宿舎での男色、覚えたての自慰、親友の継母の不倫、女に入れ込んで学校を去る旧友、初めての遊郭(と童貞喪失)……とまさにvita sexualis=性欲的生活。ここれだけセックスの話が書かれていれば発禁処分にもなるのもいたしかたなし。
しかし、セックスを話題にしながら、鴎外は決してそれを特権化しない。セックスを取り上げるとき、多くの場合、セックスになんらか特別な意味を込めすぎるか、あるいは特別なものではないとこれ見よがしに描写するかのどちらかになる。セックスが自意識と密接に関係している以上仕方のないことではあるが、いずれにしてもそれはセックスを特権化してしている。
それに対して、鴎外はセックスに対してどこまでもニュートラルでありつづける。これは鴎外が医者であったことも無関係ではないだろう。その姿勢は自然主義に対する極めて強力な対抗になり得た。100年が経った現代でさえ多くの文学においてセックスが今も特権的な存在として扱われることを考えれば、鴎外の態度のほうがよほど現代的ですらある。
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これがポルノか否かは読み手の判断に委ねられる様に思う。そんな表面的な事よりも、明治から現在の平成に至る移り往く世情に焦点を當てると興味は尽きない。歴史に意思は無く、作為の下歴史は生まれる…言葉一つとっても日本人の参考書的意味あいを強く感じた。