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紙の本
過ぎ去った甘酸っぱい記憶の追体験として
2020/11/26 16:20
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本のタイトルだけで胸がときめくということはあまりない。
その点ではこの小説は稀有といっていい。
何しろ日本語読みにすると、「性欲的生活」なのだから、発表された明治42年(1909年)当時発表誌が発禁処分となったのはわからないでもない。
ただし、21世紀の現代においてこの作品を淫らに性欲を高めるものと評する人はいないと思う。
もちろん、この作品をどのような年齢で読むか、それは関係するかもしれない。
森鴎外といえば夏目漱石と双璧をなす明治の文豪だし、彼が書いた作品の代表作のひとつともなれば早ければ中学生、遅くても高校生でこの作品を読むだろう。
若い読者にとってこの作品がどの程度刺激的であるか、今はそんな時代から遠く離れたしまったシニアの読者には想像すらできない。
シニア読者がこの作品を読んで刺激されたかと問われれば、明確に「否」である。
むしろ純な青春小説ではないかと思えてくる。
吉原に繰り出して相手の女性と腕角力をしていたなどといったエピソードは笑えるし、「世間の人は性欲の虎を放し飼にして、どうかすると、その背に騎って、滅亡の谷に堕ちる。自分は性欲の虎を馴らして抑えている。」と真面目に書かれると、鴎外の厳めしい顔を思い出してしまう。
読みようによってはシニアの読者こそこのような作品を必要としているかもしれない。
過ぎ去った甘酸っぱい記憶の追体験として。
紙の本
鴎外の「人生に対する慈しみ」
2010/02/14 08:44
5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:analog純 - この投稿者のレビュー一覧を見る
以前『雁』を読んだ時も、はじめ気になって仕方がなかったんですが、なぜ鴎外はこんな作品を書いたのだろうということです。
漱石を読む時なんかはこんなこと思いませんね。「贔屓目」なのか知れませんが、漱石の時は「内的必然性」なんて言葉で、あっさりこの部分はクリアしてしまうような気がします。
鴎外でも、短編の時はそんなことはあまり思いません。
鴎外の短編は、いわゆる「テーマ小説」が多く、要するに、なるほどこの時は鴎外はこんな事を考えていたんだなーで、わりと簡単にクリアします。
なぜ『雁』とか本作の時にだけそんなこと考えるかというと、ひとつは、その長さのせいですね。「中編」くらいの長さがありますから、そのぶんあれこれ書き込んであって、それで、なぜこんなに頑張って書いているのかなー、と、そう考えるということですね。
そしてもう一つの理由は、鴎外自身が本作でもシニカルに書いていますが、こんな風に批評され続けたという表現。
「情熱という語はまだ無かったが、有ったら情熱がないとも云ったのだろう。衒学なんという語もまだ流行らなかったが、流行っていたらこの場合に使われたのだろう。」
鴎外にシニカルに笑われても、やはり僕も、読んでいてそんな気が大いにするんですがねー。
もちろん鴎外も、そんなことは分かっていて、わざとそんな風に書いているんですよね。かなり屈折的ですよねー。
今ふっと思ったのですが、こういうのを
「上から目線」
って、言うのかも知れませんね。
ま、相手は天下の鴎外ですから、上から見られるのは当たり前なんでしょうけれども。
いえ、僕は別に鴎外が嫌いなわけでは全くないんですが、なんか変な展開になってきたんですが、でもやはり、こんな風に思ってしまうということなんです。
「鴎外先生、そんなにこの小説についても情熱的に書かれているわけでもないんでしょ。なぜ、こんな小説をお書きになるんですか」と。
えーっと、いわゆる文学史的には、なぜこの小説を鴎外が書いたかということについては、以下の定説があります。
猖獗を極めるように文壇中に流行っている自然主義小説が、極めて「露悪的」に性欲を描いていることについて、果たして日本人の性欲はさほどに「どぎつい」ものであるのか。ワシなんか全然そんなことないもんねー。いっちょ、ワシの「性欲的自伝」を書いてみるか、と。
しかしこんな「定説」では、納得できませんね。
そこで、以前の『雁』の時のこともあったものだから、ちょっと注意しながら読んでいったんですが、ああ、やはり僕は間違っていたんだなーと、つくずく思いました。
例えばこんな所です。
「飯の時にはお蝶がお給仕をする。僕はその様子を見て、どうしても蝶ではなくて蛾の方だなどと思っている。見るともなしに顔を見る。少し縦に向いて附いた眉の下に、水平な目があるので、目頭の処が妙にせせこましくなっている。俯向いてその目で僕を見ると、滑稽を帯びた愛敬がある。」
他にもいろんなところに散見されますが、ちょっと意地悪に言うと、こんな表現を書いてしまうところに鴎外の「ねじれ」があるんですよね。
そして、この「ねじれ」こそが、「諦念」なんて言われる鴎外の人生に対するニヒリスティックな信条を不十分なものにしつつも、一方我々小説好きの読者にとっては、すばらしい作品群を残してくれた、鴎外の「人生に対する慈しみ」「小説表現の豊かさ」であるわけですねー。
小説を書くことに対する「やめれないおもしろさ」、後年鴎外は史伝の世界に沈潜してしまいますが、少なくともそこに至るまでは、やはり、例えば上記の引用部分を、とてもおもしろがりながら丁寧に丁寧に書いたであろう鴎外の姿を、今更ながら、改めて見つけたように、僕は思いました。