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1.小説における「キャラメル」の威力。
2.
「あのね。あたし、こんなこと言いたくないけど、この話ゆうべ聞いて、それからずっと、きょうあなたに会ったら話してあげようと思ってたんだわ。」
「でも、いまの気持をお伝えすれば、舌かんで死んじゃいたいわ」
3.椿姫、ケーコートー
4.薫くん四部作、清水次郎長
5.枝葉の部分を刈り込んじゃうとなんだって同じような意見に要約されかねない
つまり、私はすっかり薫くんに惚れちゃったわけです。
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薫くんシリーズ、第一弾。1969年の二月の出来事です。著者曰く、あわや半世紀のあとがき、が読めます。初めて手にして、四十四年、改めて味わう薫くんの世界。なるほど、なるほどです。村上龍の69と併せて読んでは、如何でしょうか。
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はじめて読んだときは、斜に構えていない村上春樹みたいな小説だなぁと思った。
最後のページが大好き。
こころの中では饒舌で、みっともなくて、ひとりぼっちを手玉にとっていて。
男の子の青春小説は、こういうものなのだと思う。
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かるいかるいと噂の庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」を読む。
本を読もうとして本屋をめぐったら、何故か今さらながら、新潮文庫に収められることになってちょっとした、ほんとうにちょっとしたブームが来ているらしいと知った。
赤頭巾ちゃんはなかなかに面白かったので、続編の「白鳥の歌なんか聞えない」と「さよなら快傑黒頭巾」まで一気読みした。
シリーズ最終の「ぼくの大好きな青髭」は、まだ、新潮からでてない。
でるのは今月末らしい。
確かに文体はかるい。ベーテーとかケーコートーとか平気で使ってしまうあたり、すばらしくかるいといっていいだろう。いまどき、そんな単語を並べられても何のことやらさっぱり分からない。それでも3作読んだ段階で一番に感じるのは、重さについてだ。いろいろとごたごたと並べ立てて説明したいのだけれど、まずそれについて真っ先に書いておきたい気がする。薫くんが青春の真っ只中を迎えて高校を卒業する1969年は、学生運動が真っ盛りで、薫くんもこれから世の中で一戦交えるために着々と準備中っていうのが、すごく簡単に要約したときの物語の中身なのだけれど、薫くんは別に学生運動で戦うために準備してるのではなくて、まるで現在とは別世界のように景気がよくって、人々はどんどん軽佻浮薄になって、馬鹿みたいに騒ぎまくって、自由を謳歌する時代と戦うというか、流されないで生きるために戦うというか、単純に生き方についての暗中模索が延々と、そしてかるがると並べ立てられていくっていうのが話しの骨子だ。そして物語にいい味を添えているのが薫くんより10歳ばかり年上の兄貴で、これはもう実戦を積んでちょっとしたベテランの勇士みたいな扱われ方なのだけど、まだ20代後半というわけだ。ここがね、どうしても重さについて考えざるをえないところなのだ。果たして今どき10代やら20代前半で自分が戦うべき舞台に出会えるかというと、どうもそうは思えない。それって単純に逃げてきたからでしょうと言われるかもしれないけど、そう言われてもどうもしっくりこない。最近、薫くんの兄貴と同じような年齢になって、ようやくまともに戦うべき時と場所にようやく辿り着いた、手をかけたという感じがしている。世の中にたて突ける年齢が50年かけてどんどん高齢化しているような気がするのだ。新潮文庫の後書きで、作者があわや半世紀前には49歳は老婆だったという話しを書いているけど、それと何か関係ある気がするのだ。50年かけて婚期も10年ほどは高齢化しているし、たて突ける年齢が30歳ともなれば、それこそそのままの流れで一生社会にたて突くこともなく、たて突くという表現が悪ければ、何かを成そうと戦うことを考えもせずに淡々と人生を送っていこうとなっても何の不思議もない。若くして戦える場所を失わなかったのは高校野球の球児くらいなもので、きっと、だから、やれ体罰だ留学だと問題がいろいろあっても多くの人が高校野球を特別視して好むのは当然なのだ。
何しろ世の中はずいぶんと洗練された入試システムを組み上げて、社会人になる段にいたってもなおリクルートという素晴らしい会社が素晴らしく洗練された入社システムを築き上げて、すっかり堕落させ���世の中で濡れ手に粟式にいっそう有利にビジネスを推し進めている。すごく残念なことにさっぱり勉強ができないので負け惜しみみたいで説得力にかけるのだけど、そんな洗練されたシステムに乗っかるのが得意なことと、社会で仕事ができる能力というのは全然違う。本当に仕事ができる人というのは、勉強なんてかるがるとこなして、その上で誰にも出来ない仕事というのをかるがるとやって見せるというのは真実だ。けれど、もの凄く井の中の蛙的な発言なことを承知で書くけれど、いわゆる頭がいいとされてる人々が全然仕事できなくて、むしろこっちががっかりさせられることが多くてしょうがないというのも真実だ。もちろん頭が悪くて仕事も全然できない人だってごまんといるわけだが。そして口はばったいようなこと書くけれど、仕事ができなくたっていいと思う。それが全てではないし、仕事をする能力なんて個人の人格となんの関係もない。
話しがずい分と脱線してしまった。ここで言いたかったのは、現在の社会の仕組みが洗練されたがゆえに、社会で戦う機会もどんどん引き伸ばされてきたし、洗練されたがゆえに自ら薫くんみたいに考えずとも、簡単に生きて社会にでられるようになってしまった。例えば、明治維新みたいに既存の仕組みをことごとく壊してしまって、もう自分たちで考えて、何もかも自分たちで築き上げるしかない状況で、それも10代、20代前半でそんな状況に置かれて最前線で考え続けて来た人たちとか、戦後に何もかも荒廃してしまって自分たちで何かを築き上げるしかなくなってしまった人たちとか、今から見れば幼稚にも映るけど自らが学生運動(何も全共闘という武闘派だけが学生運動じゃないだろうし)という形で社会を変えようと立ち上がって戦ってみた人とか、そういう人たちと比べてしまうと、システムに乗っかってきただけの世代はどうしようもなくかるい。特に自ら考えることを推奨しない社会システムを築いて、反射神経だけよくてソツがなくて、つつがないものをありがたがって、ようは現在の社会においてトップに成り上がるような人たちくらいからだろう。先代が自ら汗水流して築き上げたものを自分たちが築いたもののように誤解して、考えることも経験値もずい分低いレベルにしかいなかったことに気がついていない。そして、残念ながら自分がその末端に席を連ねて、考えることも経験値もいっそう低いレベルにいることを知りながら安穏としているわけだ。
そんな時代がやってくるよりちょっとばかり前に、そうなっちゃても君たちいいのかい、とオブラートに包んでかるくかるく読者をいなしているわけだけど、そのオブラートの包み方が上手いとか下手とかはどうでもいいし、中身が文学的テーマとして正統かといわれるとちょっと違うような気もするけど、とにかく中身がその言葉遣いとは裏腹に古びてないし、むしろ時宜を得ていて、思わず重さについて考えちゃって、そうすると舌かんで死んじゃいたくなっちゃったわけだけど、死ぬのも嫌だから、こんなへんてこな感想を思わず綴ってしまったわけだ。
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こりゃ重い。物語の構造にしても、思想的な部分にしても。語り口の軽妙さが読みやすさを助長して、読後、きっと皆がなにがしかを考えるだろう、傑作じゃないかしら。
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これはなんだか、キャッチャー・イン・ザ・ライを日本版にして小説的効果を放棄させたような、そんな本だとおもった。要するに、けっこうぼこぼこ『これだ!』みたいなものがそのまま書いてある。その『これだ!』みたいなものは、文学として力を持たせるためには、技巧的になりますが小説という装置の中にしっかりとした技術をもって落とし込むことが必要で、それが本当に素晴らしくできたものっていうのがずっと読み継がれるような強力な力を持つ文学である。って考えると、この本はちょっと弱い小説というか、小説の機能を放棄している節はあるんだけれど、その『これだ!』みたいなものが結構な純度の高さで一生懸命書かれているので、やっぱり心動かされるところがあるのかなあ。
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ぼくは言葉を探し、
さまよい、迷い子になり、
そしてどうしてもつかまえられぬまま
もどかしく繰返した。
「とても嬉しかったんだ。」
(ぼくは本当に、それだけでいいんだから)
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庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』、良かった~。サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』みたいでもあり、山田詠美の『ぼくは勉強ができない』みたいでもあり。。
もっとも、主人公の薫くんは、ホールデンくんのように精神分裂病の気があるわけではないし、時田秀美くんのような劣等生とは対極の存在で、全盛期の日比谷高校から東大文Ⅰを「なんとなく」めざしちゃおうとするエリートの卵なんだけど。
口語調で括弧書きの中に沢山の譲歩と仮定とイイワケを詰め込みまくった庄司薫の文体は、確かに軽くて瑞々しくて、スイスイと読めるんだけど、その中に「おいおい、それ言っちゃうか」って思うような、17歳のエリートの卵だからこそ辿り着いた真理(にかなり近そうなもの)が時限爆弾みたいに仕込まれていて、読後はなんだかいろいろと考えてしまった。
『もっともこれは日比谷だけではないかもしれない。芸術にしても民主政治にしても、それからごく日常的な挨拶とかエチケットといったものも、およそこういったすべての知的フィクションは、考えてみればみんななんとなくいやったらしい芝居じみたところがあって、実はごくごく危なっかしい手品みたいなものの連続で辛うじて支えられているのかもしれない。』
あとは、物語の転換点になる小林くんの独白が、けっこう、ずーんってきたなー。
『つまりね、おまえが読んでるかどうかは知らんけどね、みんなが言うことにゃいまや狂気の時代なんだそうだよ。つまり知性じゃなく感性とかなんとかだ。まあおれには、どうして感性やなんかか知性から切り離されて存在するのか全く分らないけどね。でもそんなことを言ってみても始まらないんだ。要するにおれみたいに、おれの感受性も含めた知性に或る誇りを持っていたりすると、それだけでもうパーだ。』
これ本当に40年前の小説かー、すごいなー。未だに、というか、いよいよ最近、〈なんだか理屈では説明できないんだけどこれってオシャレでイイカンジでイケテルよね〉みたいな感覚だけの土俵で優劣つけたがる感じ、あるじゃないですか。なんとなくイケテル音楽ふわふわ聴いて、なんとなくイケテルカフェで美味いかどうかもわからん珈琲飲んで、なんとなくイケテル企画展観て最先端だなーってつぶやいちゃう、的な。こりゃ小林くんも浮かばれないよ。というわけで文庫版の解説にあった『これは戦いの小説である。あえてもっと言えば、知性のための戦いの』という評は、わりと腹落ちしました。
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1969年芥川賞受賞作。読み始めた瞬間、ああホールデンくんだと、日本版「キャッチャー・イン・ザ・ライ」だとおもった。というか、あまりに似過ぎていて、この小説の良さに思う存分浸りたいのに、「それにしてもあまりに似ているんじゃないか」ともやもやしたりしちゃって浸りきれない部分があったのがかなしい。まあでも、わたしはキャッチャーを読んだとき、あっ救われないんだ、じゃあどうしようって思って本当に絶望したので、庄司薫の描くやさしさがけっこうありがたい。たぶん世の中には狂いきれないけれど苦しくてどうしようもない、っていうひとがそれなりにいると思うので、この小説はそういうひとたちをきちんと助けたと思う。良く出来た小説だ、素晴らしい文学だ、とは思わないけれど、確実に世界に存在していて欲しい種類の小説で、その点において非常に評価したいです。「自分を少しでもまともに保ち、誰かを少しでもまともに愛する努力をすること」と言ったのは村上春樹ですが、庄司薫がやろうとしたことはまさにそれ。
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学生運動になにもリアルを感じないの、私は。生まれてなければ、それは遠い時代のようなもので、なにも。なにも。
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高校を卒業してはや6年近く、世間的にはまだまだ若者の分類に入る私ですら、どうしてどうして、高校時代の考えかたといまの考えかたは180度異なってしまっている。それぐらい高校時代は特別であり、この一瞬を切り取って一篇の小説に仕立て上げることに、どれだけの困難があるかわからない。でもかつてベスト・セラーとなった本作は、その難題をみごとに解決してしまっている。ガールフレンドのこと、大学受験のこと、学園紛争のこと、セックスのこと、……etc。青春時代はとかく悩みごとが多すぎるが、その全部をしっかりと反映しているのが本作なのだ。さすがに世代が違うので、読んでいてはっきりと頷けるシーンは多くないし、とくに小林のくだりなんて、なにをいっているかさっぱり理解できないのだけれど、それでもどこか惹かれてしまうのは、なぜだろう。それどころか、薫くんは私の分身であるような気さえする。共通点なんてまるでないのに、そういう不思議な魅力があるのがこの小説の凄いところであり、また「高校生」という世代がもつ凄いところだろう。どこがいいのか、と問われれば答えに窮してしまうが、とにかく傑作というしかない。これはベスト・セラーになるのもまったく当然の話である。
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何となく進むこの話で、意識・考えが目まぐるしく変化している。自分にもあるこの情緒不安定かのような変化。
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とても健気で、いじらしく、それでいてしなやかな強さが感じられる作品だと思った。
しかし、同時に私はこの作品に、膝からがっくりくずおれるような、思わず目を固くつぶってしまうような、そんな不安と悲しみも感じてしまった。
みんなが幸せに生きられる、そんな社会を、「本物の知性」で実現することは、果たして可能なのだろうか。
この本の主人公・薫くんは、そのことについて、よくよく、自分で考えている。そして、そのためには、今、自分はどうするべきなのか、ということも、彼はとても真面目に考えている。
けれども、わからないのだ。彼は作中でも何度も何度も、「でも、どうしたらいいんだろう?」と言っている。それはゲバ棒を振り回して安田講堂に立てこもったり、あるいはそういう世間と開き直ってよろしくやっていくことだったりではないのではないか、と彼は思っている。思っているがしかし、ではどうすればいいのか、となると彼は悩むのである。
自分はこんなにも美しいものを愛し、人に優しくし、多くのものに感動し、しっかりした知性を身に着け、強くなりたいと思っているのに、そのはずなのに、どうしたらいいのか、それがわからなくて……むしろ、そのことを真剣に考えると、自分の中の冷酷なものに、怒りに、憎しみに、気が付いてしまうのである。
私たちはどう生きればいいのだろう? 私たちは、本当に、賢くなれるのだろうか?
その答えは、この作品が書かれて半世紀が経とうとしている今でも、全然、まったく、はっきりとしていない。いやむしろ、もっともっと混沌としていると言えるような気がする。
それを思うと私は、固く目をつぶりたくなるし、耳をふさぎたくなるし、何も言いたくなくなる。
それでも……けれど、それでもやっぱり私も、この本の主人公・薫くんの言うように、大きくて深く優しい海のような人間に、のびやかで力強い素直な森のような人間に、なりたいと思うのである。
それを強く強く、仰ぐように、願い続けたいと思うのである。
赤頭巾ちゃん、気をつけて。
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最初は主人公の恵まれた環境にケッてなった(笑)し'60年代はそうだったのかーとしか読めなかったけど、最後には共感。知性を持って、大きく優しい人間になる。私もそうなりたい‥。今でも、それはとても難しい。
こんな柔らかい文章でこんなことを書けるってすごい。
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村上春樹の系譜に連なる唯一無比の饒舌体に感動。
69年の芥川賞受賞作は学生運動真っ只中の時代の人間賛歌やね。
シニカルな主人公が徐々に人間味を取り戻していくところが良い。