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何故芥川賞を獲れたのか理解できない
2021/03/28 00:15
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投稿者:まなしお - この投稿者のレビュー一覧を見る
これが芥川賞を獲ってベストセラーになったとは。題名は前から知っていて、気になって読んだが、何故当時評価されたのか、何故沢山売れたのか、全くわからない。この饒舌調の話言葉の文体が新しかったとしても、それが芥川賞を獲るくらいの物なのかと疑問に思う。続編など読みたいとも思わない。
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俗にいう「ポップな文体」とはこのことを言うのだろうか。読みやすかった。
内容も最初は若者の悩みというかモヤモヤした感じが描かれているが、途中から、街をさまよい始めるあたりから、徐々に新たな章に突入していった感があり、個人的にはその感じが好きだった。
もちろん、若者のモヤモヤ感満載の前半も大好物だったが。
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学園紛争や受験競争が身の回りで起こっている中で、自分はそれをどう受け止めたらよいのか、周囲に流されずに考えようとしているところが良いと思った。週刊誌の記事までしっかりと読んで、さまざまな情報を知っているけれど、問題を自分のところまで持ってきて、自分の身の丈で考えているところが立派だと思った。
高校生らしく、その気になったらみんなぶっ飛ばしてやる、見たいに考えるところが若々しかった。
ちょっと考えすぎて頭でっかちになりそうになると、現実として起こるさまざまなハプニングが「ぼく」を引き戻す働きをしていて、良いと思った。
友人がやってきて演説をぶって帰っていくところが、とても青春で、あつくるしくさわやかなだけでなくて、小説ができてから数十年たつ今でも考えさせるところが大きくて、印象的だった。
私は学園紛争が起きていたころを知らないので、細かい事情がよく分らなくて、残念だった。
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映画のポスターが小学生の頃、街にあったような気がする。
60年代にブームになったそうであるが、中途半端に古さを感じた。
学校群制度が導入される前の日比谷高校をいやらしくて、キザで、鼻もちならないほど欺瞞的という。受験勉強なんて無いかの如く、民主的で礼儀正しく、紳士らしく。誰に聞いたって素晴らしい学校だったなんてほめやしない。「だから、僕だってほめやしない」「あんな学校どうなろうと、まあどうってことありません。」
なるほど、薫君は日比谷高校に愛着が強かったんだ。
ひたすら、粘着型モノローグが続き、ちょっと疲れる。知性なんて話になると、ちょっとギアが入った感覚。文体が変わるわけではないけれど。
キャッチャー・イン・ザ・ライに似ている。ナイーブで、自分のことをこまごま語りたがる。「みんなを幸せにするにはどうしたらよいだろう」という科白は「ライ麦畑のキャッチャーになりたい」という言葉に近いと思う。大きなブームとその後の長い沈黙も。
そんなブームになったのが、不思議。民主主義もまだ金属疲労を起していない。その理想主義がちょっと羨ましいが、この本に現在の価値を見出すことは難しいと思う。
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最初に読んだ中学生の時はなんて薫くんって、優しくてかわいいんだろうと思ったのでした。
文庫化で数十年を経て読み返してみると、苦悩する怒れる薫くんが印象に残りました。
とうに彼の年齢を追い抜いてしまって大人目線で若者を見ることができたからかもしれません。
社会情勢は目まぐるしく変わってしまいましたが、青春の苦悩や怒りは普遍的なもの。やはり青春のバイブル的な永遠の一冊です。
続けて「白」「黒」「青」も文庫化されますので読みたいと思います。
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庄司薫の4部作、赤・白・黒・青、が新たに新潮文庫から発刊されることになった。この「赤頭巾ちゃん」が第一作で、以降、1ケ月に1冊づつのペースで発刊されるようだ。「赤頭巾ちゃん」の刊行は、1969年8月のことだ。僕が読んだのは、発刊されてから10年くらい後のことだけれども、それでも、今から30年以上も前のことになる。
小説の主人公の庄司薫君は日比谷高校の3年生。この小説は、1969年2月9日が舞台となっている。日比谷高校は、当時、日本有数の東大合格者を出す超進学校で、でも、1969年は東大入試が安田講堂占拠事件などもあり、中止になった年。薫君は「みんなを幸福にするにはどうすればいいか」の方法を一生懸命に考えようとしているわけだけれども、その方法がはっきりと分からないうちは、「ひとに迷惑をかけずに」「自分のことは自分でやって」精一杯やっていくしかないのではないか、と思っている(分かりにくいだろうけれども、小説を読めば薫君の考えていることは何となく分かる)。
言うなれば、善意の人なわけであるが、ある日(というか1969年2月9日なのだけれども)、友人の小林君から「そんな風に頑張っても、もう駄目。要するに、時代は既に知性を、あるいは、知性を持った人間を必要としていない、というか、そんな人間は邪魔なだけ、ということで一致している」というようなことを聞かされ、ナイーブに落ち込んでしまう。
その後、何となく銀座に薫君は出かける。薫君はその時、左足の親指の爪をはがしたばかりなのだけれども、その左足の親指を5歳くらいの女の子に踏んづけられてしまう。女の子は、お母さんからお金をもらって「赤頭巾ちゃん」の本を買いに書店に向かって急いでいたのだ。その女の子は薫君のことを心配して気を遣ってくれたりするわけであるが、その女の子といっしょに「赤頭巾ちゃん」の本を書店に買いに出かけた薫君は、何とか落ち込んだ気持ちから立ち直り、頑張ろうという気持ちを取り戻す。
あらすじを書け、と言われれば、こういうことになるだろうか(この小説は筋が大事なわけではなく、薫君の気持ちの揺れが大事なので、それは読んでみるしかない)。
作者の庄司薫は、4部作の小説以降、1冊の小説も書いていない。4部作の最後の小説である「ぼくの大好きな青髭」も1969年が舞台だったように記憶している。1969年の冬から夏にかけての薫君を主人公とした4冊の小説以降、何十年も音沙汰なしなのだ。
僕は、この新潮社文庫版の「赤頭巾ちゃん」の発刊を非常に楽しみにしていた。バンコクの書店には随分と遅れて入ってきて、やっと入手できたのは先週のことだけれども、何故楽しみにしていたかというと、作者の庄司薫自身の「あとがき」が収録されている、ということを広告で読んだからだ。
「みんなを幸福にするにはどうすればいいか」ということを、実行に移せるようになるまでその方法論を考え抜く、けれども、それがはっきりとしない間は、やたらな消耗を避けるために、実力を蓄える、みたいなことが、小説の主人公の薫君の考えていたことで、それは作者の庄司薫が考えていたこと、と思っても間違いないだろう。
それでは、作者の庄司薫はこの数十年、そのことの実現のために何をやっていたのだろう、というのが僕の興味だったのだ。
が、実際の「あわや半世紀のあとがき」と題されたあとがきは、文庫本2ページ弱の短いものであり、僕の興味が満たされることはなかった。「あわや半世紀のあとがき」の前に、「四半世紀たってのあとがき」というのも収録されている。それによると、「みんなを幸福にするにはどうすればいいか」とは、資本主義につきものの「優勝劣敗の最終的な緩和は可能か」というのが事柄の核心、と作者の庄司薫は考えているようだ。
う~ん、と思う。確かにそれは幸福の実現の一つの方法であるようには思うけれども、それだと、1969年の学生運動からあまり進歩していないのではないの?って思ってしまうわけである。
でも、それはどうでも良い。
主人公の薫君が銀座で足を踏まれた女の子のおかげで、やさしい気持ちを取り戻し、その後、ガールフレンド(とは呼べないけれども)の由美ちゃんと仲直りをして、静かに手をつないで歩いていく小説の最後の場面は、薫君がどのような社会的信念を持っていたか、とは関係なく美しいと思うから。
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エッセイみたいだなって思った。
作者が小説って言っているし、出版社も小説として取り扱っているから、小説として読もう。って思いながら読んだけど、エッセイみたいだなって、やっぱり思った。
そしたら、解説に『「筋のない小説らしい」という評言があるけど何を読んでいたのだろう。』と書いてあって、あ!私の事だなとドキッとした。何を読んでいたのだと言われても、意味がわからなかったんだよ。と反論したい。反代々木系も、ゲバ棒も意味がわからないんだよ。
時代は、作者も解説者も想像できないくらい流れていて、確かに不勉強で、無知なことも一因だけど、世界観が全然つかめない。学生紛争という言葉は知っているけど、一体どんな紛争だったのか、誰と誰が争ったのか、何で争ったのか、そういうこともわからない。わからなくても、物語には関係ないのかもしれないけど、主人公の置かれている状況が全然わからないから、感情移入がしにくくて、関心のない同僚に不満や悩みを聞かされている感じで、「はぁー」以外言う言葉がない。こっちの機嫌がよければ、「お気の毒」ぐらい言ってあげるけどね。みたいなそんな小説。
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40年くらい前の青春小説だと思います。
やっぱり駄目でした。
古い小説は、楽しめないのが、多い。
むだな、つまらぬおしゃべりがくどくど書いてあって、私は読みあぐねた。って、解説にあった通りでした。
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私はいわゆる“ゆとり世代”に近いぐらいの年齢ですが、本作品には非常に共感を覚えました。人間の本能的な部分を解放しようとする潮流に、そっくり乗っかることが出来ない、という点においてです。
考えたり律したりすることはどこへ行ってしまうのか、それは私たちが放してはならないものではないのか?
小林の独白にも、そういった純粋な熱っぽさを感じて、好きな作品です。
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印象的なタイトルで前々からずっと気になっていた本。
予備知識無しに読み始めたので、始めは、その独特の文体(頻繁に出てくる括弧付きの挿入句)にかなり読み辛さを感じたが、「小林」くんの告白の件から加速度的に読書ペースが上がった。時は1969年。ベトナム戦争に対する反戦の機運や70年安保闘争への盛り上がり、そして「薫」くんを否応無しに巻き込んだ全共闘運動が激化していた時代。僕はその時代を生きた若者の大多数の気持ちを代弁していたのが、小林くんのこの言葉であったように思う。
「この新しい敵ってのは、おまえたちみたいにはっきりとマークできるような見事な相手じゃない。なんともつかまえどころがないような得体の知れないような何か、いわば時代の流れそのものみたいな何かなんだ。つまり、ちょうどおれがおまえたちをマークし、おまえを狙い撃ちにしたみたいに、今度は、気がついたら、このおれもおまえたちと一緒になって時代の流れそのものからマークされ狙い撃ちされている、というようなそんな気がし始めたんだ」
当時、本気で国を変えようという志を持った若者がいたのは事実だと思うし、その可能性も実際あったと思う。でも、本書で言うところの、踊らにゃ損々の"阿波踊り"の連中がどんどん増幅していって、結局彼らが次第に小林くんの言うような心境になっていった結果、運動自体も衰退、さらには「内ゲバ」みたいな最悪な結末を迎えてしまったのだと感じる。
当然僕は該当世代ではないので、当時のリアルな社会の空気が感じられ、そこに葛藤する若者の姿を垣間見られたのは良かった。ただ、「みんなを幸福にするにはどうすればよいか」などと、聖人君子じみた結論を持ってきている割には、あとがきの著者の文言が妙に鼻についた。
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学生運動時代というのを舞台にした小説は世に多く、これもそういうもので、芥川賞をとったという、なかなか評価されたもののようですが、私にはいまいちよさがわからないのです。
東大の入試がなくて云々なんて迷惑被ったのはごく一部なんでしょう。そういうのを、皆が共感したり、興味を持ったり、していたのでしょうか。
文体や主人公薫さんの性格が昨今のライトノベル風でイライラしてしまいました。こういうもやもやしたのは嫌いですね。悩める友人の小林くんのがま好ましいかもしらん。
ただ、最後の女の子と書店に行く部分は『檸檬』風味ですね。
赤ずきんなら赤い服にでもしそうだけと、黄色い服を着ているし。
一度拒絶した本屋にも女の子連れだと、すっきり息ができている感じ。
そこは悪くない、かな。
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2012/09/17読了。
装丁が可愛くなっていたので今更ながら手にとってみた。
正直恥ずかしながら、ここに出てくるシェイクスピアやらサルトルやら読んだことはないのだけれど、この60〜70年代への憧れの思いを私は抱かざるを得ません。
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家にあったので読んでみた。
東京大学への受験を考えていたが、学生紛争により東大が入試を取りやめになってしまった日比谷高校3年生の薫くんの、発表その後の数日の思考が綴られた本。
学生紛争に対して知識がない、その時代の学生の流行が分からない、シェイクスピアや椿姫で盛り上がるだけのこだわりがないということから、自分にはまったくあわない小説だった。
感性の合う人には共感できる作品となるのだろうが、申し訳ないが自分の評価は低い。
作者と同名の主人公ということもあり、どうしても作者の頭の中に浮かんだ考えを見ているだけ、という感じで、途中から読むことが苦痛になってしまった。
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東大入試が中止になった。愛犬のドンが死んだ。左足親指の生爪を剥がした。幼馴染の由美と喧嘩した。いろんな不幸が薫くんに押し寄せる。
これを最初に読んだ頃も随分時が経っていて、学生運動とか時代背景のことはよくわからなかった。実はいまでもあまりわかってない。読み返した意味はあまりなかったのかと思うけど、以前(中学生だった)と同じように、薫くんの優しさにじわじわきた。足を踏んづけた5歳の女の子に「あかずきんちゃん」を選んであげる姿。難しい話もいっぱい出てくるけど、そういう場面を楽しむだけでもいい話だと思う。
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女の子を殺さないために、を読んでから気になっていた。
おもしろかったー。これが1969年の本、信じられない。
次の本も借りてきているので、とても楽しみ。