紙の本
共鳴によって繋がっていく思想
2016/09/29 18:15
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投稿者:親譲りの無鉄砲 - この投稿者のレビュー一覧を見る
黒川創編による鶴見俊輔コレクション1。表面的には、鶴見による人物評伝を集めたもの、という感じ。ただし、巻末の坪内祐三の解説にもあるように、金子ふみ子から末尾のホワイトヘッドへの連環の妙は、黒川に帰される作品性がみられる。ただのアンソロジーと侮ってはいけない。一冊の本として通して読むことによって、個別のエッセイをそれぞれ読むのとは明らかに異なる、鶴見の思想を立体的に把握できるような読後感を持つことになる。そこに編集の意義があるといえる。
鶴見の長編の評伝には、本書には収まりきらないような「高野長英」といった長編作品もあるが、個人的には、短めのものの方が鶴見の良さが出ている、と感じる。何よりも、圧巻は、「金子ふみ子―無籍者として生きる」である。朴烈大逆事件で不当検挙され獄中縊死した金子ふみ子には、「何が私をこうさせたか」という自伝がある。(鈴木重吉監督の映画の原作でプロレタリア作家・藤森成吉著「何が彼女をそうさせたか」はこれにインスパイアされたものと思われる。)これは、獄中で書かれた。この(自伝に書かれた)彼女の苛烈な前半生が、彼女の精神を強靭にし、そして抵抗者としての人生を選択させた。そこには鶴見が信頼するクロポトキンの思想と共鳴した彼女の哲学がある。鶴見はその点に共鳴(彼の言葉で言えば同情)した。
普通の人はあまり思いつかないのだが、「亡命」という言葉から、新島襄の生涯を考える。それと似たパターンで、エイケンの「ウシャント」を読み、石原吉郎のシベリア抑留体験に思いを致す。石原は語っている。「苦痛そのものより、苦痛の記憶を取りもどして行く過程の方が、はるかに重く苦しい・・・」だから、似たパターンを繰り返しつつ、同じ場所に戻ってくることはない。記憶の暴力性は鶴見自身も体験した事である。そこで、難破が次の難破に繋がる人生として、鶴見はさらに田中正造を思い出す。その中で、自らの精神の中に、繰り返し抵抗するものを見出す。ただし、鶴見は安易にカルマというような言葉を使わない。個人のなかでの繰り返しだけでなく、人から人への共鳴によって、歴史的に、空間的につながっていく部分があるからだ。ただ、金子ふみ子とホワイトヘッドを結び付けられるのは鶴見ぐらいのものだろう。そう思ってこの本を読むと、バラバラの人物評伝が、鶴見を媒介として、大きな思想の流れの中で生き生きと立ち上がってくるのを感じる。鶴見の視座を通して、一般の人は哲学者とはみなさないであろう金子ふみ子、加藤芳郎、南伸坊や、知名度のあまり高くないであろう、仁木靖武、ヤング夫人、能登恵美子らの生き様を、かけがえのない哲学そのものとしてみる。鶴見は、彼らの生き様の系譜を、読者が受け継ぐことを期待しているのかもしれない。(内村鑑三がいうように、人の生き様こそ後世への最大遺物なのである。)ここに、自身が共感した有名無名の人々の評伝を鶴見が書き続けた真の意味があるのであろう。
蛇足だが、鶴見がゲーリー・スナイダーとの仁義上、彼の導きでLSDによる幻覚体験をしたことがあることを、本書を読んで初めて知った。ただし、鶴見は、クエイカーとは別流の霊震の経験を既にしていたはずである。だからかもしれない。かような神秘的体験を絶対視しないで相対化できる心の余裕度を感じる。葬式仏教から得るものは少ないだろうが、ティク・ナット・ハンの唱える上座部仏教や、ゲーリー・スナイダーの仏教に向き合う姿勢に対する共鳴は十分あるものとみた。
紙の本
普通の人々の生き方から哲学を考えてみるという姿勢から、先人の生き方を見つめる一冊です!
2020/05/28 11:28
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投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、哲学者として、また大衆文化研究者として数々の著作を残しておられる鶴見俊輔氏の珠玉の作品集です。河出文庫からは、鶴見俊輔コレクションとして全4巻シリーズが刊行されていおり、同書はその第1巻目です。同書では、著者は「専門哲学の外にいる哲学者が人類の中にいると考え、むしろそこから、その哲学を考えてみたい」と言い、先人の生き方を知ることで、ものの見方を日々更新し続けてきた著者が、オーウェル氏、花田清輝氏、ミヤコ蝶々氏、武谷三男氏らの思想と肖像を追っていきます。「イシが伝えてくれたこと」、「イシャウッド―小さな政治に光をあてたひと」、「戦後の新たな思想家たち」、「戸坂潤―獄死した哲学者」、「伸六と父」、「義円の母」、「ヤングさんのこと」、「大臣の民主主義と由比忠之進」といったテーマで話が進んでいきます。とっても興味深い内容です。
紙の本
鶴見俊輔の守備範囲の広さがうかがえる
2018/03/12 23:42
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投稿者:まなしお - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本の中では、様々な人が取り上げられている。芸人や漫画家から哲学者やアナーキストまで、多岐にわたっている。鶴見俊輔の守備範囲の広さがうかがえる。
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伝記的な作品を集めたアンソロジー。ジョージ・オーウェルからミヤコ蝶々まで、あくまでも共感をもとに描かれる人物像よりも、むしろその共感ぶりに共感してしまいます。
読み物としても面白い伝記であると同時に、共感される思想の連鎖から、氏の膨大な著作群を読み解いていく糸口を見たような気がしました。
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本屋でみかけて、ぱらぱら見ては戻しを何度かして、買おうかなーーと思いつつ、図書館でわりとすぐ借りられたので、図書館の本で読む。しかし、自分の本ではないのに、読んでいてあやうく何度かページの隅を折りそうになって、ちゃうちゃう図書館の本やと、紙の切れ端を挟んだりしながら読む。ページの隅を折りたくなるのは、しまいまで読んだあとで、そこのページにまた戻ってきたいから。
このコレクションは何巻まで出るのか知らないが、黒川創が編んでいくらしい。京都のSUREの人やという記憶はある。たしか何かの本で、鶴見の話の聞き手にもなっていた。いつだったかは、この人の小説も読んだ。文庫の袖にある略歴で、「十代の頃から「思想の科学」に携わり、鶴見俊輔らとともに編集活動を行う」という人であることを知る。
この1巻は、「人物を通じて鶴見の哲学の根本に触れる作品を精選した」というもの。黒川の言葉では「鶴見の著作のなかから、「伝記」に類するものによって構成した」巻。私がいつだったか、鶴見の別の本で読んだ文章もあったし(たとえば金子ふみ子や柴田道子について書いたもの)、初めて読むものもたくさんあった。
とりわけ巻頭に置かれた「イシが伝えてくれたこと」がよかった。この最初の文章を、私はゆっくり、ゆっくり読み、この本も、日をかけて、時間をかけて読んだ。(イシについては、シオドーラ・クローバーによる評伝『イシ』がある。)
▼哲学とは、当事者として考える、その考え方のスタイルを自分で判定するものだ。ある当事者の前に開かれている一つの視野がある。独特の遠近法、パースペクティブというようなものがある。その遠近法の中に他人の視野が入ってきて、他人の視野もその中に配列する。それが、私の定義するところの哲学だ。(p.11)
イシと対等につき合ったウォーターマンと、アルフレッド・クローバー。かれらが自分のほうから対等性を築き上げられたのは「現場」という考え方があったからだ、と鶴見は書く。イシが道具を全部自分でつくり、計測するには、指、掌、身長、歩数などをつかうこと、それらの驚くべき熟練と美しさに対する尊敬の念。対等性はそこから現れる。
シオドーラとアルフレッドの娘、アーシュラ・K・ル=グウィンが「太古の言葉を掘り出したい」と『ゲド戦記』を書いたことにふれて、太古の言葉とは我々の暮らしの中で言えば生まれたばかりの子供がしゃべっているものだと鶴見が書いている。
▼文明社会の中で生きていると、だんだんにその文明が入っていってしまうが、それ以前に子供は、非常に強い問題を、太古の言葉で、哲学的な質問として投げかけてくる。これに対して、「子供は黙っていなさい」とか、「大人になりゃわかる」なんて言い返すのは間違っている。子供の質問は、極めて哲学的なものなのだ。それを子供の言葉で答えようとすれば、これはル=グウィンの作中人物である魔法使いと竜の対話みたいになる。その状況は私たちの毎日の生活のなかで繰り返し起こっている。(pp.24-25)
子供の質問の哲学性ということを、そのあとに鶴見が書いている体験を読みつつ、しばし���える。
石原吉郎について書いた部分で引かれている、石原自身の言葉も心にのこった。『ライファーズ』を読み、アミティの活動について読んでいたせいもあると思う。
▼「苦痛そのものより、苦痛の記憶を取り戻して行く過程の方が、はるかに重く苦しいことを知る人は案外にすくない。」(「強制された日常から」『日常への強制』構造社、1970年)(p.295)
ソヴィエトの強制収容所の体験をへて、日本にかえって平穏な生活にもどってからのほうが苦しかたのだという石原。この石原の経験と言葉について、鶴見は「経験とはある人におこった何事かではなくて、自分におこったことについてその人が何をするかなのだ」というオルダス・ハックスリーの言葉に照らしている。
石原吉郎のことは、前にもなにかで読んで、その名前とシベリア抑留の経験者だということが記憶に残っている。(ここで過去ログを検索してみると、それは鶴見の本『読んだ本はどこへいったか』だった)
古今の人の存在や言葉を自分をくぐらせて書く鶴見による「伝記」の類を、一つ一つ読みながら、鶴見のコンパッション、同情ないし共感というものを考え、私自身のコンパッションの行く先を考えもした。
コレクションの2巻目もしばらくして本屋でみかけ、2度ほどぱらぱらしたが、どなたかが購入したのだろう、数日して棚から消えてしまって、そちらも図書館に予約する。
(11/17了)
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●本の概要
様々な人物の思想を鶴見俊輔が語ったものを編集者が纏めている。そのため、テーマとして何かしら一貫したものはない。それぞれの枚数もバラバラである。何名かを書きだそう.
イシ(先住アメリカ人ヤヒ族最後のひとり)、ジョージ・オーウェル(英国人作家)、金子ふみ子(アナキスト)、ハヴェロック・エリス(性心理学者)、ガンジー(インドの弁護士、思想家、政治指導者)、由比忠之進(エスペランティスト、反戦運動家)、新島襄(同支社創立者) etc
●好きな場面
いくつかを抜粋、※で補足や所感を記述する
尚、長文が多いため、一部を省略し、辻褄を合わせるために、文章を一部編集している
イシは文明人を知識はあるが、知恵のない人達だと考えていた。彼の最後の言葉は「あなたは居なさい。私は行く」である。死に対して平然とした態度を崩さない。文明人には稀なことだ (イシが伝えてくれたこと)
※イシが持つ文化を人類研究者であるアルフレッド・L・クローバーは研究、のちに妻が、イシの伝記を書く。その娘は「ゲド戦記」の著者である。鶴見俊輔は、ゲド戦記とイシが伝える知恵との関連を説明する
「たとえ私達が社会に理想を抱けなくても、私達自身には私達自身の真の仕事がある。それが成就しようがしまいが関係ない。私達は、その真の仕事をすればよいのだ」 (金子ふみ子 無籍者として生きる)
※この言葉は鮮烈だ。鶴見俊輔は、金子ふみ子の人生をシンプルに語り、彼女を知らない読者に彼女を知ってもらおうとしている。金子ふみ子は大逆罪で捕まり、獄中で手記を纏め、獄死した
私は人生を全体としてみる。そして人生が終わったことを嬉しく思い、もう一度、この人生を繰り返したいとは思わないまでも、人生を全体として眺めると、喜びをもって、うっとりとして眺めるのだ
(ハヴェロック・エリス 人生の舞踏)
※美しい人である。間違いなく変態、変人ではあるが、美しい人だったのだと思う。
私はある種の老人のように青年たちから理解されようとも思わない。人生教訓を授けようとも思わない。ただ人生を漠然たる一場の夢と感じて死にたいのだ。死は夢の続きであり、望みうる唯一の生かもしれないと、一度でも思ったことがあるだろうか?若者よ、諸君は私に関係なく、私は諸君に関係がない。私と諸君の間に言葉も不要である (親子相撲)
※森於菟が73歳に書いた文章。彼は森鴎外の息子である。確かに、この文章は毅然としていて良い
戦後、日本全体は明るくなって、灯りをともしているところを見分けにくくなった。私が、そう言うと、武谷三男は、こう返した。「闇の定義を変えれば、見える」 (武谷三男 完全無欠の国体観にひとり対する)
※今回の抜粋は「死」を意識したものにしたが、これはそのテーマに属していない。しかし、闇を知ることで、光を知るという観点ではなく、「何が闇なのか」から自分で考えるんだ、という、この返しは、まさに今の時代にも通じる