紙の本
ファナティック(狂信的)ということ。
2004/11/15 02:59
10人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:すなねずみ - この投稿者のレビュー一覧を見る
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三島由紀夫(1925〜70)が自らにとってのただ一冊の「座右の書」であると語る「葉隠」は、佐賀藩士田代陣基が元藩士山本常朝の草庵を訪れて、宝永七年(1710年)から七年あまりの歳月をかけて、その語るところを聞書・編纂したものである。
山本常朝は、主君鍋島光茂の死に際して殉死(切腹)を望むも受け入れられず、元禄十三年(1700年)出家し、隠遁生活に入る。生前の鍋島光茂が「天下に先んじて殉死を禁止」していたため、殉死の覚悟を固めながら、それを遂げられなかったということらしい。
>(「プロローグ 『葉隠』とわたし」より)
三島由紀夫(1925-70)の自衛隊市ヶ谷駐屯地での割腹自殺。そんなデータゆえに、この『葉隠入門』自体が今ファナティックなイメージで捉えられがちなのかもしれないと思いながら上の一節を読むと、なんとも皮肉な感じがする。
無責任に断言してしまおう。(僕は三島由紀夫をほとんど読んでいない……)
「葉隠」も『葉隠入門』も決してファナティックなものではなくて、これをファナティックだと思うならば、そのことのほうが余程ファナティックなのだ。そういう泥仕合……今の世の中にはすごくたくさんあるように思う。そういうのは昔からあったのかもしれないけれど、その矛盾がすごく目につくようになってきて、あたりに淀んだ空気が流れている。そんな時代だからこそ、この『葉隠入門』みたいな本がすごく生きてくる。輝いてくる。
不思議と僕は三島由紀夫好きな女性たちと縁があって、そんな縁のひとつが広がって『近代能楽集』に入っている「葵上」という芝居に出させてもらったことがある。看護婦役(というか僕は男なので看護士だが)である。そのなかにこんな台詞がある。
「ごらんなさいまし。灯のついている家はもうほとんどありません。街燈の列がくっきり二筋に並んで見えるだけですわ。今は愛の時刻ですわね。愛し合って、戦い合って、憎み合って。昼間の戦争がすむと、夜の戦争がはじまります。もっと血みどろな、もっと我を忘れる戦いですわ。開戦を告げ知らせる夜の喇叭が鳴りひびく。女は血を流し、死に、また何度も生きかえる。そこではいつも、生きる前に、一度死ななければならないんです」
『ノルウェイの森』のなかに、「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」という有名なフレーズがあるけれど、ある程度の年齢になると人は「死」を身近に感じるようになる。天寿を全うするようなかたちで訪れる「死」もあれば、自殺や病死や事故死というかたちで不意打ちのようにやってくる「死」もある。友人の身に、あるいは自分の身に。
「死」を弄ぶようにして語るのは良くない。でも、気づかぬふりをしてほったらかしておけばいいわけでもない。「文藝」の2004年春号(行定勲特集)で行定さんは「僕は映画を撮る、死んだ八人の友のぶんだけ」と語っている。「カッコつけやがって」なんて、これっぽっちも思わない。そういう思いは、絶対に必要なものなのだから。
紙の本
武士道とは死ぬことと見つけたり
2023/04/30 19:48
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投稿者:a - この投稿者のレビュー一覧を見る
独特の死生観と元禄、戦後という戦乱の後の比較的平和な時代という似通った背景が三島由紀夫を葉隠にのめり込ませたのだろうか。
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過労で死んでもそう悔いは無い。わたしにとって、仕事は食うための生業であり、社会人としての責務であり、そして同時に最大の楽しみでもあるからだ。組織人として仕事をするときの心構えを、わたしはここに学んだ。
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武士道は死ぬことと見つけたりというフレーズが有名ですが、
誤解されてる方も多いようです。
とにかく読むべし。
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とても読みやすい本だと思う。
人生における座右の銘のような言葉が数多くあり、とても感銘を受けた。
武士道とは死ぬ事と見つけたり・・・という言葉は有名だが、その後に続く言葉があるのは知らなかった。
おすすめですね♪
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私が初めて読んだ三島さんの本はこれでした。新渡戸稲造の「武士道」と山本常朝の「葉隠」と一緒に読んだ。
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三島なので、それに男色にも触れているので『非ゲイ系』とは言い難いかもしれないけど。 三島がいかに葉隠に心酔していたか、彼の行動がそれを表してますね。
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080820購入。8月25日読了。
三島をその一生の虜にした「葉隠」に関する、彼自身の文学的思想的自伝でもある解説書。正直言うと葉隠の教えそのものにはあまり惹きつけられるものがなかった。もちろん一つ一つの口上は堕落しきった現代の社会にとって古典的ゆえに良薬の匂いを予感させるものだし、本質的に見てもかなりプラクティカルな金言であるが、なにとぞ実践的すぎて物足りない。この本を読み僕はやはり「名言抄」のような治癒の手段としては手っ取り早い処方箋は受け付けないのだと実感した。即効性のありどんな時代でも効く薬は時代の要請が途絶えることはなく、普遍的にも苦くない良薬のほうがニーズが高いほうが当然なのだろうが、やはり薬の苦い部分はそれはそれで精神的心理的な面では結構な有益を産み出すのである。むしろ肉体より精神に重きを置く人間にとっては実践的に効かずとも苦いものを求めるのがその性なのである。精神的闘争、思考の葛藤を切り捨てるこの量産された応急道具箱は少なくとも僕の枕の傍らには必要のないものである。また、内容自体はサラリーマンの処世術そのものとかわりはない(中世、武士はサラリーマンだったのだからしょうがないが)。それは差し引いても、ところどころに散見される矛盾、これは三島自身も言及しているが、行動の純粋なエネルギーを肯定するのに和や引きを推奨したり、一瞬を生に他対し晩年の人生を考慮させたりと日和見が多い。三島はそれをこの本の面白いところだとむしろ愛着をもって評価しているがあれほど、絶対というものに執着した彼が、しかもその人格的根拠にもおく座右の書に矛盾を認めるとは何事だろうか。また、ニヒリズムに満ちたこの本の空気も三島の偏執ぶりにそぐわない気がする。ただ、中盤の「自由意志としての自殺と自然的運命的な死の相克」に関する所見は必見である。
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仏門に入って武士のあり方を語る。
なまぐさ。
取っ組み合いをするときは、常に相手より上に見えるようにしなければいけない。
今下にいて、その内相手に勝つ機会を窺うというやり方は、仲裁が入って止められた時点の状態で部外者に評価される。
使用人が失敗しても、他人の目がある所ではけっして怒ってはいけない。
恥をかかせれば恨まれる。
使用人をやめさせたいときは、失敗した時点で暇を出すのではなく、少し時間を置き、何故辞めさせられたのか分からないような時点で暇を出す。
武士は毎日イメージの中で切腹するのを日課にして、切腹に慣れさせる、等の人生訓。
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フジマキさんのバイブル。
共感できる、実践してみたい考えもあれば、そうでないものもある。
読みにくい。でもつい読んでしまう。
ついつい口にしてみたい言葉が多数。下手なハウツー本よりも、説得力のある読み物。
08年12月23日21時43秒07秒より更新
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海外に住むようになって、武士とかサムライ魂というものに思いを馳せることが多くなった。
サムライに関する本を、と思ってめぐりあった一冊。
武士道について書かれた葉隠という古典と三島を別々に知っていたけど、三島が解説をかいたものがあったのは知らなかった。
三島といえば、自分の意志を貫いたその生き方はまさに昭和のサムライ!
その三島が武士道について語っているなんて!
想像通りおもしろかったです。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」
常に死を念頭においている武士だからこそ、生が生きているという考え。
自決した三島が傾倒した考えだというのは、偶然ではないはず。
ラストサムライは渡部謙じゃなくて、三島由紀夫かもしれない(?)。
サムライを考えるとき、葉隠は逆説的に読むべきだという三島の考えに、なるほどと納得。
できの悪い武士が多いからこそ、こうした武士道を説く書物が読まれ続けたのだと。
サムライっていうのは、みんながみんなサムライらしいサムライじゃなかったんだなと気づかされた。
腰抜けのサムライも、ずるがしこいサムライも、いろんなサムライがいただろう。
そんなサムライたちがサムライらしいサムライになるべく説かれたのが武士道の教え。
現代人でサムライでない私たちにもためになることが多いと思う。
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「生きてるだけでまる儲け」もええもんやけど、
お前は自分のことどんだけ好きやねん。
それだけやったら、
「自分甘やかし過ぎやろ」と思う今日この頃。
机の右手の届く所にいつもあるようにしとく本。
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三島由紀夫が心酔した山本常朝の「葉隠」。「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」の一句で名高く、死という概念を中核に据えた闊達な武士道精神を著したものです。三島由紀夫に「私のただ一冊の本と」まで言わしめ、その精神を今日によみがえらせ、その教えを現代という乱世に生きる「武士」たちに説こうとした本です。また、彼の人生論や道徳論であり文学的な思想的自伝でもあります。
この本は、前段では山本常朝が述べていることについて、三島由紀夫がコメントをするような形のつくりになっています。あるところは共感し、あるところは矛盾を指摘し、あるところはきちんとした根拠を持って批判をしたりするなど、鋭くかつ醒めた目でこの思想を見つめています。
後段では「葉隠」の彼なりの読み方を紹介しています。「死ぬこと」という概念を鋭利な刃物のように鋭い目で見つめています。「葉隠」の暗示する「死」、特攻隊の「死」、自殺者の「死」についての精神的な考察が深いです。われわれは、一つの思想や理論のために死ねるという錯覚に、いつも陥りたがります。しかし、「葉隠」が示しているものは、もっと容赦ない死であり、花も実もない無駄な犬死でさえも、人間の死としての尊厳を持っているということを主張しています。生の尊厳をそれほど重んじるならば、死の尊厳を重んじないわけにもいかないはずです。
この本を突き詰めていくと、死という真理を感じるとともに、踏み入れていはいけないところに足を踏み入れたような恐怖も感じます。巻末に「葉隠」の名言抄がついていますが、それを踏まえて読んでみると三島の「鋭さ」を感じます。しかしながらよく切れるけど、一つ間違うとすぐ刃が欠けて使い物にならなくなる刃物のような思想。そんな諸刃の剣の怖さも感じます。
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一読したが、この本を果たして「読了した本」の一冊に数えていいのか、疑問に思ってしまった。この本は、三島という作家から想像される内容と比べれば易しいものの、他の作品と同じく、深い含蓄を持っているように思える。ゆえに一読では大半を理解することは難しいと思われたからだ。
それでもこの本が現在でも多くの人に愛されているのは、我々の心身の部分々々にずきずきとインパクトを感じさせるからであろう。それは我々が日本人である証拠のように思える。
一読目は理解する以前にこの本の衝撃を感じ取ってほしいと思う。それからは折に触れて再読するのがよかろうと思う。後半の葉隠の現代語訳は、何度も読み返すうちに味が出てくると同時に、その真意があらわになってくるだろう。
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武士たるもの顔色が悪くみえる時には化粧すべし!的なところに言及した辺りが面白くて、よく読み返します。