紙の本
ガルシア・マルケスの「コレラの時代の愛」
2022/06/01 18:59
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投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
コレラをあつかった小説として、私が真っ先に思いつくのは、ガルシア・マルケスの「コレラの時代の愛」、疫病で主人公二人が死ぬわけではないのですが、疫病により歪んだ世界が二人の間に立ちふさがる、といえます
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感染症と文学・哲学の関連性に気付く1冊です
2022/04/12 12:32
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投稿者:広島の中日ファン - この投稿者のレビュー一覧を見る
例の新型コロナ問題を踏まえ、過去に起きた感染症と文学・哲学にはこんな関連性があった、という事実を著者が丁寧に示した1冊です。
文学・哲学が感染症にこれほど深く関わっていたのか、ということに気付く、読んでいて視野が広がる1冊です。紙幅が300頁を超える厚さですが、読み終えるにはたくさんの時間はかからないと思います。
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戦争を題材にした文学はなじみ深いが疾病・医学をモチーフにした哲学、文学の馴染みは余りない。
一般向け 「医学・疾病等にまつわる諸々の諸説の海」に乗り出す羅針盤的叙述。私には決して平易とは言えなかったが、次々と知らないトリビアが出てきて面白かった。
哲学者 文学者に医学の家柄に生まれた、或いは医学への道を変更してペンを持った人物が結構多い事も面白かった~かつては医学を目指すものは下位の者として蔑まれていたとはびっくり。
医術は算術になって行った現代で姿を変えたのか、はたまた社会の要請か。
パンデミック・エピデミック・エンデミックの違い
すべからく「健康に輝く人物」を目指すのではなく、「不健康な人間がそこそこうまくやって行く」社会になるのがベターとはユニーク・・一理あり。
フローベルは「ボヴァリー夫人」でしか知らぬが「漁色に耽りすぎた挙句、梅毒に罹患し 身体をぼろぼろにして・・」そしてラブレーとの異なりをフーコーが分析しているのは面白い。
人体は膨大な微生物(380兆個とも!)との共生で成立しているのであり、「コロナに戦いを挑み、勝つ」と言うのはおかしく、「病と共に生き、知はジグザグな迷宮の中を進む事になる」と言うのが命題の答えかと。
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序章 パンデミックには日付がない
病気のなかに入ること
日付なき出来事
時間の麻痺
第1章 治癒・宗教・健康
癒やすこと、患うこと
疾病と宗教
健康の哲学
第2章 哲学における病
古代ープラトンからルクレティウスまで
近代Ⅰーデカルトとその批判者
近代Ⅱーカント・ヘーゲル・ニーチェ
近代Ⅲーフロイトの精神分析
第3章 疫病と世界文学
古代ーホメロス・ソフォクレス・ヒポクラテス
ペストー額縁・記録・啓示
コレラー西洋を脅かす失敗
結核ーロマン主義の神話とその終焉
エイズ以降ー疾病と文学の分離
第4章 文学は医学をいかに描いたか
小説は薬か・毒か
解剖学的想像力ーラブレーとフローベール
解剖学的SFーH・G・ウェルズとJ・G・バラード
病院としての社会
終章 ソラリスとしての新型コロナウイルス
感染モデルと衛生モデル
ソラリスとしての新型コロナウィルス
病という戦略
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哲学者も文学者も疫病や医学のイメージを戦略的に操作してきた。その仕組みを理解する手引書。著者は終章の「鏡としての新型コロナウイルス」で、この度のパンデミックは人間側の思考や欲望をデフォルメして映し出しているだけであり、「コロナが世界を変えた」という言説には警戒する必要があると説く。確かに生活習慣は変わったし、もう元には戻らないものもあるだろうが、IT礼賛、エコロジストによる環境との共生、共産主義者による資本主義批判等々、これまでの主張が先鋭化されただけであり、分断や対立が激しくなっただけなのかもしれない。
本書は西洋限定ではあるが古代ギリシアから現代までの様々な著作からの医学・医療に関する引用・解説がある。カントが反ワクチン派(確率よりも道徳が基準)だったとか、フーコーによる死の区別(万人を同じにするカーニバルとしての死と個体を分析可能なモノに変える死)等興味深い話が多々あり、読み応えがあった。
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ペスト、コレラ、天然痘、結核、エイズなど。文学は疫病のイメージを利用し、変形し、哲学者も文学者も、疫病や医学のイメージを戦略的に操作してきた。個人的には、種痘に対する視点が興味深い。ヴォルテールは種痘を評価し、カントは道徳的に批判した。リスクや確率を基準にして推奨するのか、道徳を基準にして批判するのか。両方とも間違ってはいないだろうが、どちらか一方だけを重視することが最善とも思えない。
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文学と哲学はいかに「病」の影響を受けてきたのか――を
文芸批評家が考察。
19世紀吸血鬼小説アンソロジー『吸血鬼ラスヴァン』
https://booklog.jp/users/fukagawanatsumi/archives/1/4488011152
解説で言及されていたので興味を持って読んでみた。
以下、非常にザックリしたまとめ。
■序章 パンデミックには日付がない
パンデミックには「いつからいつまで」といった
明確な日取り・期間が存在せず、
ヒトの時間の感覚を麻痺させる。
■第一章 治癒・宗教・健康
ケアは新種の道徳=日常生活における自発的医療化:
人間は自分自身を日々モニタリングするよう、
社会に仕向けられている。
■第二章 哲学における病
[1]古代――プラトンからルクレティウスまで
魔術から医学へ。
[2]近代Ⅰ――デカルトとその批判者
哲学と生理学の融合、
抽象的な思弁を弄したロマン主義医学の盛衰。
[3]近代Ⅱ――カント・ヘーゲル・ニーチェ
哲学vs医学/唯心論vs唯物論。
[4]近代Ⅲ――フロイトの精神分析
細菌学のコッホや免疫学のジェンナーがもたらした
巨大な変革に匹敵する(とフロイトが考えた)
精神分析。
フロイトは細菌学を一つのモデルとして、
心の病因の特定という至難の業を
成し遂げようとした。
しかし、ラカンの精神分析に影響された
フランス現代思想は
人体と感染症の問題から遠ざかっていった。
■第三章 疫病と世界文学
[1]古代――ホメロス・ソフォクレス・ヒポクラテス
文学における疫病と医学。
[2]ペスト――額縁・記録・啓示
『デカメロン』と「赤死病の仮面」の、
疫病と祝祭の隣接という類似性を指摘した
ミハイル・バフチン。
[3]コレラ――西洋を脅かす疫病
・ブラム・ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』は
アジア由来であるコレラの恐怖を反映している
(善良な英国人・アメリカ人・オランダ人による
病原=吸血鬼の殲滅劇)。
・コレラ文学のレジュメ:
トーマス・マン『ヴェニスに死す』では
病んだ環境が個人を圧倒する。
文明人アッシェンバッハは
東欧の美少年に幻惑され、
アジアから西漸したコレラに冒される。
[4]結核――ロマン主義の神話とその終焉
結核文学のスーパー・ノヴァ、
トーマス・マン『魔の山』は、
この分野の最後の傑作で、
現実を置き去りにして独歩した
結核のロマンティックなイメージが有効だった時代
=20世紀前半までの掉尾を飾った。
[5]エイズ以降――疫病と文学の分離
映画は感染とパニックの描写において
文学を凌駕し、
疫病テーマは文学の独占物ではなくなっていった。
■第四章 文学は医学をいかに描いたか
[1]小説は薬か? ���か?
ラブレーは物語の薬効を語り、
ルソーは毒を以て毒を制した
→小説は「病の内なる治療薬」。
[2]解剖学的想像力――ラブレーとフローベール
医師の家系に生まれたフローベールは幼い頃から
霊安室の遺体を盗み見たり
父による解剖を覗き見したりしていた。
[3]解剖学的SF――H.G.ウェルズとJ.G.バラード
人間を分解して組み立て直したメアリー・シェリー
『フランケンシュタイン』、
H.G.ウェルズ『モロー博士の島』、
更には解剖学を下地とする想像力の開花、
人体を暴力的かつ精密に腑分けした
J.G.バラードの諸作品。
[4]病院としての社会
↑演劇や小説の中で再現されてきた、
病んだ社会を治療するという医学的ポーズ。
■終章 ソラリスとしての新型コロナウイルス
[1]感染モデルと衛生モデル
感染は集住の代償であり、差別せず偏見も持たず、
動物に寄生して越境と増殖を続けるウイルスは
究極のリベラリスト。
[2]ソラリスとしての新型コロナウイルス
文学に入り込んで
各々特徴的なイメージを提供してきたペスト、
コレラ、結核などに対して、新型コロナウイルスは
単なるデータとなって社会を覆い、
梅毒‐セックス、結核‐ロマン主義、コレラ‐アジア、
エイズ‐同性愛のような目立った意味的結合を
生じさせていない、つまり、
特徴がないことが特徴であり、
無色透明であるが故に
容易に人間の生活環境に溶け込み、拡散してしまった。
[3]病という戦略
パンデミックが起きてから
パンデミック文学を書いても役に立たない。
言葉は現実のフリをする記号でしかない。
※後でブログにもう少し細かいことを書きます。
https://fukagawa-natsumi.hatenablog.com/
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そうそう、この3年くらい、こういう本を読みたかったんだった。
さらに映画も追記していきたい。ex.ヴェルナー・ヘルツォーク「ノスフェラトゥ」、ジョージ・A・ロメロ「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」etc...
さらに読み継ぐなら、平凡社ライブラリーの「病短編小説集」「疫病短編小説集」「医療短編小説集」。
@以下、コピペしたものに、目次に反映した人名のみを●で追記。
◎目次
序章 パンデミックには日付がない
第一章 治癒・宗教・健康
【1】癒すこと、患うこと
【2】疫病と宗教
【3】健康の哲学 ●イマニュエル・カント
第二章 哲学における病
【1】古代――プラトンからルクレティウスまで ●プラトン ルクレティウス ヒポクラテス
【2】近代I――デカルトとその批判者 ●ルネ・デカルト パラケルスス アンドレアス・ヴェサリウス ウィリアム・ハーヴェイ
【3】近代II――カント・ヘーゲル・ニーチェ ●イマヌエル・カント ヴォルテール ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル フリードリヒ・ニーチェ
【4】近代III――フロイトの精神分析 ●ジークムント・フロイト アンドレ・ブルトン ジャック・ラカン
第三章 疫病と世界文学
【1】古代――ホメロス・ソフォクレス・ヒポクラテス ●ホメロス ソフォクレス ヒポクラテス
【2】ペスト――額縁・記録・啓示 ●ジョヴァンニ・ボッカッチョ ダンテ・アリギエーリ ダニエル・デフォー エドガー・アラン・ポー アルベール・カミュ
【3】コレラ――西洋を脅かす疫病 ●フョードル・ドストエフスキー ミハイル・バフチン ブラム・ストーカー トーマス・マン ギュスターヴ・フローベール ガブリエル・ガルシア=マルケス
【4】結核――ロマン主義の神話とその終焉 ●フランツ・カフカ トーマス・マン 梶井基次郎 堀辰雄
【5】エイズ以降――疫病と文学の分離 ●ドミニック・フェルナンデス
第四章 文学は医学をいかに描いたか
【1】小説は薬か? 毒か? ●ミシェル・ド・モンテーニュ フランソワ・ラブレー ジャン=ジャック・ルソー
【2】解剖学的想像力――ラブレーとフローベール ●フランソワ・ラブレー ギュスターヴ・フローベール
【3】解剖学的SF――H・G・ウェルズとJ・G・バラード ●クロード・ベルナール エミール・ゾラ メアリ・シェリー ハーバート・ジョージ・ウェルズ ジェームズ・グレアム・バラード
【4】病院としての社会 ●安部公房 ウィリアム・シェイクスピア イワン・ツルゲーネフ アントン・チェーホフ イワン・ソルジェニーツィン
終章 ソラリスとしての新型コロナウイルス
【1】感染モデルと衛生モデル ●エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマン レフ・トルストイ
【2】ソラリスとしての新型コロナウイルス ●ジャン・ボードリヤール スタニスワフ・レム
【3】病という戦略
あとがき
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〇新書で「コロナ」を読む⑮
福嶋亮大『感染症としての文学と哲学』(光文社新書、2022)
・分 野:「コロナ」×「人文学」(哲学・文学)
・目 次:
序 章 パンデミックには日付がない
第1章 治癒・宗教・健康
第2章 哲学における病
第3章 疫病と世界文学
第4章 文学は医学をいかに描いたか
終 章 ソラリスとしての新型コロナウイルス
あとがき
・総 評
本書は、新型コロナウイルスを含めた感染症やそれに対応する医学の進歩について、哲学や文学はどのような影響を受けたのか/与えたのかを分析したものである。著者は立教大学の准教授を務める文芸批評家である。
ペスト・コレラ・結核・エイズ、そして、新型コロナウイルス...これまで何度となく世界を襲ってきた感染症を前にして、人々はどのように世界を描いたのか――そのポイントは、以下の3点にまとめられる。
【POINT①】医学の進歩を「哲学」はどう取り入れたのか
心身二元論を唱えたデカルトが自ら医学的な観察や実験をしていたように、近代哲学は「死体の研究を抜きにはあり得なかった」という。その後、精神(意識)という哲学的思考の前提を解体することを目指したニーチェが推奨したのが「生理学」のモデルであった。また、心の「病因」を特定しようとしたフロイトがモデルとしていたのは「細菌学」であった。このように、医学と哲学には強い繋がりがあったが、二〇世紀以降は、哲学者が人体の究明からも感染症の課題からも遠ざかってしまったと指摘する。
【POINT②】文学は「感染症」をどのように描いたのか
いずれも大量死をもたらすペストとコレラは、両者とも「個人の差異」を打ち消す一方で、前者は「〔共同体内部の〕無秩序なエネルギーを覚醒させる」役割を、後者は「〔外部からの〕他者(とりわけユダヤ人とアジア)の悪夢に浸食された」役割を文学によって与えられた。それとは対照的に、結核は「〔近代文学の〕個人主義」の要求に合わせ、特別な感受性を備えた「個」を際立たせる役割が与えられた。しかし、平成以降の文学は「心の病気」へと傾斜し、代わりに映画が感染症を描くようになったと指摘する。
【POINT③】新型コロナウイルスを人々はどう「語る」のか
新型コロナウイルスのように、人類のすべてが標的となる現代のパンデミックでは、文学における「隠喩としての病い」の有効性は失われつつある。特に、コロナは「特徴がないのが特徴」というウイルスであり、何かの意味や象徴というよりは、変化を加速させる触媒として機能したという。それに伴い、人々は元来もっていた思想を、ウイルスに託していっそう強力かつ極端に語るようになった。即ち、パンデミックは世界を一変させたのではなく、すでに生じつつあった変化を極端にしたと指摘する。
今回の新型コロナウイルスによるパンデミックは、第二次世界大戦後の時代が「疫病をつかのま忘れることができた時代」であったことを人々に思い出させた。また、コロナは、世界を変えたのではなく、あくまで「生じつつあった変化」を極端にした���けという指摘も非常に興味深い。コロナという感染症を個別に見るのではなく、人類と感染症の攻防という歴史的な文脈から分析を行うことで、新たな視点を提示する――まさに、哲学や文学といった人文学の面目躍如と言える一冊である。
(1180字)