「内的亡命」作家の日記
2022/10/04 14:03
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投稿者:BB - この投稿者のレビュー一覧を見る
ケストナーの作品は、子どもの頃読んだが、終戦日記は岩波文庫になって初めて読んだ。
この文庫になっているのは1945年部分。ナチに批判的だった作家が、ドイツにとどまりながら淡々と日々の様子をつづっている。
酒寄進一氏による注釈も多く、理解を助けてくれる。
何より酒寄氏の解説がよかった。
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投稿者:オタク。 - この投稿者のレビュー一覧を見る
邦訳者が訳者あとがきでプロレタリア文化運動に関わって国外に亡命した人達を紹介しながら、「過去を糾弾する場ではない」と言いつつ、河盛好蔵や戦後、岩波書店と関わりがあるはずの中野好夫と並んで、旧訳の翻訳者の高橋健二の戦時中の経歴を批判しているが、それと高橋健二訳ではある文章がない事と関係があるのだろうか?グデーリアンが報道陣を招いて「ガス室といった悪魔のかまどなど病んだ空想の産物」と発言したとある個所の前には高橋訳では「ロシア軍の鬼畜の行動は最高司令部の命令によるものだと言い、彼はその一つを朗読した」という一文があるが、今度の新訳はない。コピーライトは高橋訳と同じだが、使っているテキストが違うのだろうか?高橋訳にはあるが、新訳にはない個所は言及すべきだ。
どちらにしろ、柏葉付き騎士十字章に輝く「装甲戦の考案者」たる陸軍上級大将ハインツ・グデーリアンと邦題「電撃戦」では信用出来ない事には変わりがない。彼は「零時」まではガス室を知らなかった、と嘘をついているのだから。本当は、いつから稼働していたか、知っているのではないか?彼が東部戦線で指揮を執っていたのはモスクワ戦までで、この時点ではガス室は「試験運転」中だから。ここは多分、グデーリアンが書いている宣伝省次官のナウマンから依頼されたラジオ放送を指すのだろう。
折角だから、グデーリアンの「名著」の該当個所を紹介すべきだ。
グデーリアンの伝記を書いた「独ソ戦」の著者は「トレイシー」の著者を快く思っていないらしいからか、読まないで「兵士というもの」の邦訳に関わっていたが、同じようにこのケストナーの日記も読まなかったらしく、重要な記述なのに何も書いていない。
4月18日条の訓令に出て来る「裏切り者の将兵」、「自分のお粗末な命惜しさに、ロシアの傭兵となり、ドイツの軍服を着てわれわれに向かって戦いを仕掛ける輩」、「知らない者が退却の命令を出したら」というのはソ連が宣伝していた「ザイトリッツ部隊」とドイツ軍が呼んでいた存在を指すのだろう。実際に自由ドイツ国民委員会・ドイツ将校同盟に参加した将校がドイツ軍に対して降伏を勧告したから。高橋訳同様、注釈はない。
5月4日条に出て来るヴラーソフ将軍と彼の部下らしき将校達は「少し前バーベルスブルクで戦い、最後の瞬間に南へ血路を開いたという」眉唾物の話が「本当の話なら、ウクライナ人パルチザンは連隊ごと赤軍の手中にかかることになる」は、おそらく注釈にあるウクライナ蜂起軍ではなく、パヴロ・シャンドルクのウクライナ(ガリツィア)師団だ。この師団ならオーストリアで赤軍と戦って「血路を開いた」のだから。高橋健二が訳した時点では「ドイツに協力したロシア兵団」という注釈がついても読者には分からない存在でも、今の時代、調べれば分かるだろうに。ヴラーソフと彼の2個師団はチェコにいて、ケストナーの目の前に現れない。
訳者あとがきに杉本良吉・岡田嘉子が「プロレタリアートの祖国ソ同盟」に「愛の逃避行」をした年度を昭和12年ではなく、昭和14年になっているのは、杉本が「憧れの首都モスクワ」で銃殺された年度と混同しているのだろう。あるいは八島夫妻の渡米の年度か。
ケストナーと荷風の同時代性
2022/07/19 12:41
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投稿者:kapa - この投稿者のレビュー一覧を見る
酒寄進一氏訳本最新刊。「解説」で氏の「…をお届けする」を確認してから、本編に進むのが、氏の訳本を読むパターン。氏のドイツ・ミステリ訳を多く読んでいるが、この口上が決まり文句。この本を手にしたのは、氏のクラウス・コルドン著「ベルリン3部作」(岩波少年文庫)第3部が1945年であり、本書が「終戦日記1945」とあたかも姉妹編・続編のように読めると考えたからである。また、ちょうど新潮社の月刊読書情報誌「波」連載中の川本三郎「荷風の昭和」(川本氏には『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』1996年都市出版がある)が、最近は1945年の東京大空襲・疎開・終戦の時期であり、「日乗」と「終戦日記」、また、両人とも政権によって弾圧されたという同時代性を感じたからである。
ケストナーは、TVアニメ『二人のロッテ』や映画『点子ちゃんとアントン』を子供たちと見て、児童文学作家として知っていた程度。ナチ時代は政権批判とユダヤ系ということで著作活動は禁止され、しかも著作が焚書された。しかし児童文学作家として強制収容所送りにはならなかったし、また、児童文学は焚書されていない。かといって国外に亡命したわけではなく、いわゆる「国内亡命者」としてドイツ国内にとどまり、戦後まで生き延びている。彼の日記は、『日乗』のようにナチ時代の日々を毎日書き綴ったものではなく、1941年・1943年・1945年の時期に書いたもので、本書は1945年の日記をまとめたものである。荷風のように「日記文学」として後世読まれることを想定はしておらず、構想していた長編小説のためにまとめたもの。
内容は、ベルリン、オーストリアのチロル地方のリゾート地マイヤーホーフェン村、そしてミュンヘンを転々とした1945年2月から8月までの日記であり、ほぼベルリン市街戦・疎開、ナチスの最後とドイツ敗戦そして占領軍進駐というナチス・ドイツ終焉期に符号している。前半はナチ政権下での抑圧やプロパガンダへの不快感が辛辣に綴られるが、いざ敗戦となると、平和の訪れへの安堵感とそれが次第に醒めて先が見えないことへの不安、そしてナチが占領軍に置き換わっただけという現状への嫌悪感へと変わっていく。
敗戦必至の状況でもベルリンで官僚的な事務処理が繰り広げられる一方で、郵便がまだ機能している、また、どのような情報源か、ナチス政権・国防軍の関係者の名前と動静が細かく出てくるが、ほぼ正確なことに驚かされる。映画関係者は註で説明があるが、今一つ分かりにくいところがある。ただ、リーフェンシュタールが同じ疎開先に逃げ込んだとか、ヒトラーが下心を持った女優とのアバンチュールなど、業界ならではのエピソードもいくつか出てくる。
ケストナーは、かつての仕事仲間であったウーファー映画スタッフに紛れ込んで疎開したが、疎開先は併合されたオーストリアの村。住民は、自分たちはオーストリア人であるが、ドイツ国民として戦争に加担したというアンビバレントな立場にあり、それがケストナーらベルリン疎開者との間で微妙な軋轢となって苦労する様が描かれる。
本編の最後は、絶滅収容所生還者から聞いた話で終わる。この部分は後に加筆したのだろうが、詳細であり、現在知られている歴史的事実と同じ。そこには「ドイツ人には美徳や才能が欠けている。ドイツ人には国民になる資格がないのだ」という嘆きと絶望、そして戦後の「ドイツ特有の道」論を見ることができる。これを受けて日記を閉じ、戦後日記の底流にある戦争の愚かさを追記として書いている。偶然というか、ロシアのウクライナ侵攻最中の出版となったわけだが、今の地球への警鐘となった。
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戦中日記第四弾。高見順「敗戦日記」、「大佛次郎敗戦日記」、「吉沢久子、27歳の空襲日記」の次にお読みください。1945年5-6月の日記。ここで、初めて田辺聖子の日記が登場して、大阪空襲を語る。更には、ケストナーにとってはヒトラー死亡が確定して、ドイツでの「内的亡命」が終わりを告げるのである。また、高見順たちの鎌倉文庫は予想外の好調を示した。
エーリッヒ・ケストナー(1899-1974)。「エミールと探偵たち」「飛ぶ教室」などで、既に著名な児童文学作家であり、詩人で脚本家であった。翻訳者の酒寄氏は、ドイツ文学者は迎合者、亡命者、内的亡命者の3つに分かれたと書いているが、ケストナーは3番目の内的亡命者だった。本書は1941年から2回の中断を挟んで、「青い本」という束見本の本に速記文字で書かれた日記の、最後の半年分の内容である。「将来書く長編小説のため」の日記であると「まえがき」に書いてある(結局実現しなかった)。確かに日記にしては、「読ませる」工夫に満ちている。しかし、公表は1960年まで待たねばならなかった。ケストナーは3月9日までベルリン、そのあと6月15日までチロル地方のマイヤーホーフェン村へ、6月18日から28日までバイエルンへ、そのあとマイヤーフォーフェン村、またバイエルンのシュリアゼー村へ居を移した。
5月1日
大仏次郎 ○ムッソリーニが殺害せられミラノの広場にさらされし由。新聞には遠慮して出していないが逆さつりにしてモッブの凌辱に任せたそうである。ベルリンもほとんど陥落。ヒトラーも死んだらしい(次の日新聞で正式に報道)。
高見順 開店。遮二無二、(鎌倉文庫の)開店という感じだ。
「よくまぁ予定通り開きましたな」
と言われ、
全くーと私自身が言うのだった。これで私もひとまずほっとした。引き受けておいて開けなかったら、面目丸つぶれだ。しかしこれからが大変だ。
久米さん夫婦、川端夫人、中山氏夫妻、小島さん夫婦、横山隆一、清水、大仏次郎、林房雄、永井龍男の諸氏、まず総出動の形で、手伝ってくれる。100名あまりの申し込みがあった。現金千余円。派手なようで、これは預かりの金だ。
ムッソリーニ逮捕される。
ドイツ降伏説あり。
←大佛次郎はこの時も鎌倉文庫のこと書いていない。
5月2日
ケストナー 最新の説によると、ヒトラーは危篤なのではなく、「ベルリンで戦死した」という!死に方にはいろいろあるが、戦死は戦った場合に限るから、ヒトラーが戦闘に加わったことになる。これはありえないだろう。そんな場面は想像もできない。
シュタイナー家の居間に集まる面々に、下士官2人が加わった。(略)ヒトラーの死にかんするニュースが流れるのを待っている間、2人はいろんな話をした。(略)ロシアやポーランドで行われたユダヤ人銃殺、特にユダヤ人には見えなかった美しい少女や若い母たちを撃ち殺した話。
←ヒトラー死亡の確定は、遠く離れた日本よりも、結局2日遅れてやってくる。けれども、みんなヒトラー死亡を確信している。何故ならば、下士官までもが絶対話すこと叶わなかったドイツ軍の非道な仕打ちを打ち明け出したのだから。
5月4日
ケストナー オストマルクは再びオーストリアとなった。断末魔の苦悶は終わりを告げた。クリオ(※)はお子様死亡証明書を交付した。死ぬまいとあがく政権はもはやここには存在しない。※ギリシャ神話の女神。英雄詩と歴史を司る。
←人々は基本的にはこの変化を歓迎している。しかし、女教師養成学校の校長の家族と友人の家族5人がピストル自殺を遂げている。
5月19日
ゲストナー 西側のプロパガンダはどうしてこうも上品なのだろう。絶好の機会をなぜ利用しないのだろう。民衆は建設的な話をソ連よりも西側からたっぷり聞きたがっている。(略)ドアは開いているのに、西側列強はいつもそのドアの前で足踏みし、スターリンに言う。「どうぞお先に!」
上品さを履き違えとはどういうことだろう。民主主義は良いものだから、勧める必要はないと思っているのだろうか。負けた者の取り合いは余計なことだと言うのだろうか。品位にかけるとでも言うのか。これは取り返しのつかない重大な勘違いだ。
私の母は皮肉っぽい気分になるとよくこう言う。
「気高さが世界を滅ぼす」
民主主義の世界は、勝利を放棄しないように警戒する必要がある。戦争が終わった今こそ、民主主義の世界が平和を手にしなければ、確かに世界は滅びるだろう。降伏後の最初の数週間は歴史にとって貴重な瞬間だ。いつまでも待ってくれないし、やり直しもきかない。
←つくづく、ケストナーは凄い。
後でも展開するが、日本にはケストナーのような「成功した」文学者で、このような見解を示した文学者は居なかった。
5月24日
ケストナー 復讐心を乗り越えなければだめだ。さもないと、勝利のファンファーレが響く中、平和は見失しなわれてしまう。こちらの平和とか、あちらの平和とかではない。あらゆる前線で平和が失われるだろう。破壊はうまくいったのだから、今度は建設を成功させなくては。
←日本の文学者が、終戦後20日後ぐらいにこんなことを言っただろうか?
5月7日
大仏次郎 宇佐美氏、(略)山下太郎満鉄の社宅造営、台湾の米などを入れて1代で産を作りし人、楠木公同族会長、秋田人。今年の暮れには2千万人が餓死するだろうと言う説があると平然として言う。不思議な神経だし計算違いしているのではないかとこちらは疑う。当人は真面目らしいし動揺がない。1つのタイプであろう。僕らは10人の餓死者が出たと聞いても平気ではいられぬ。帰ってから酉子にこの話をし、いよいよ日本も支那に似てきたよと言う。
←この時点で、大陸で横暴のかぎりを尽くした人間からすると、敗戦の場合、そのように予想するのもあり得るかと思う。宇佐美氏は随分荒んだ神経だとは思う。しかし大佛次郎も少しのんびりしすぎているし、支那の現実を作ったのは日本にも責任があるという視点が抜けているのでは?と思う。
5月31日
田辺聖子 町会でやっている3月13日の(第一次大阪大空襲の際に)防空壕で蒸し焼きにされた人間の死屍が発掘された。
(略)
「どこなの、どこ」と私が言うと「お嬢ちゃん、それ、そこ、そこ」と隣の人があわてて指差した。ぎょっとして思わず飛び退く。土運びの筵の上に、土にまじっ���なるほど、牛肉の筋に似てぷよぷよと赤い土まみれのひと塊の肉が見える。
(略)
このときくらい、人間がいかにも物質的に思われたことはない。
「ええ肥料になりますやろ」
と、おばさんが残忍な諧謔を弄してエヘヘと笑うと、日よけの手拭をかぶり直した。そうかと思うと、
「肉の特別配給だっせ。ご馳走したげましょう」
と年よりまで言う。あたりの人は胸わるそうに顔をしかめたが、年より婆さんは、きゃらきゃらと笑った。(略)
←ここの描写はほとんどそのまま小説として使ってもいいくらい。もちろん「年より婆さん」の素性は、誰が読んでも直ぐに知れると思われるので、作品化されなかったのかもしれない。でも、非常にリアルだ。婆さんの心情は、私は想像がつく。冗談を言わないとやっていられないと言う大阪特有の空気もあったろう。一方で、罹災者の死体はどんな形であろうとも、葬らないといけないという、人としての義務感もあったはずだ。吉沢久子の日記にもあった。つい最近、私は「ウクライナ戦争が五年前に終わった」2030年のウクライナの近未来を描いた「アトランティス」という映画を観た。そこでは、やはり、半分ミイラになりかけている遺体を「発掘」していた。最初主人公はもどしてしまう。義務感としてのボランティア活動である。同時に、人間としての(悲しいという)感覚もなくってゆく雰囲気がリアルに描かれていた。
6月1日
吉沢久子 ぜいたくは敵だといわれるけれど、今、私の1番したい贅沢は、二日間くらいぶっ通しで静かに眠ること。それだけ眠ればどんなに元気になれるだろう。
←今年、水島空襲に遭った当時7歳の女子の体験を聞いた時に、「戦争中全然眠れなかった。終戦と聞いても3日ぐらいねむれなかった」と言っていた。それほど辛い経験だったのだ。昼間の疲れで、ふとぐっすり眠った時に爆弾が落ちて死んだら、死んでも死にきれない、と思うのは当たり前だったろう。ウクライナは、空襲警報もなくミサイルが飛んでくる。どんな心持ちなのだろう?
田辺聖子は大阪大空襲(6月1日)の次の日、まるでそれが義務かのように本書にして8ページに渡って、河内小阪の女専寮から大阪駅近くの実家まで歩いていった空襲当日の様子を詳細に書いている。
6月2日
田辺聖子 土曜日 曇ときどき雨 風加わる
母とのいさかいや、死体の発掘などの平和的事件の次に、こんなにもおそろしい、終生忘れられ得ない様な、痛手を与えられた事柄が起ころうとは、誰が一体予知し得たであろうか?
(一時限目の授業の時に空襲警報、その後、「大阪がやられた」との報に、鶴橋まで電車で行き、実家が心配で級友と共に歩いてゆく)
(略)
梅田新道はものすごい。まだ炎炎と燃えさかっている。真っ赤な火だ。
のどが痛く、目がしむ。第百生命は全滅だ。きれいに中が抜けている。閉じたガラス窓からプゥーと黒煙が噴き出している。ざわめきながら通る通行人は、それぞれの家が心配らしく目もくれない。わずかな荷物を持ち出して、呆然と立っている罹災者。
(略)
お母さんは、私を見つけて見るみる目をうるました。
「聖ちゃん、家が‥‥家がやけてしもうた‥‥」
その声は涙��曇って鼻声になっている。私は不覚にも涙がこぼれた。
「あんたの本なあ、たくさんあったのが出してあげたかったんやけど、出すことが出来なんだ‥‥」
「‥‥」
私は何も言えなかった。鼻がじんと痛くなり、涙がぽとぽと水槽の水の上にこぼれおちた。
(略)
← こんな日記が、今まで全く発見されず、彼女の死後2019年に見つかったのは、改めてビックリする以外にはない。昨年12月に刊行されたが、もっと読まれるべき(近いうちに必ず文庫化されると思う)「作品」だと思う。
←この後田辺聖子一家は、知人宅を転転とし、6月27日、尼崎市稲葉荘という所に小さい家を借りた。田辺聖子は家の仕事をしながら、小説を書いて過ごす。
高見順
平和な時代に彼は月並を嫌い、にくんだ。
異常な時代になって、いち早くそして最も月並みな男になったのは、その彼だった。
彼は利口ぶることが好きだった。
彼は愚鈍な男だったから。
愛想よくしようと努めるほどいっそう無愛想になる彼。
←だんだんと心情の吐露が多くなっている。
6月4日
大佛次郎 10時過ぎに起床、沖縄のために 朝を完了。朝刊を見ると那覇首里もいよいよだめらしいので全編について多少調子を変える必要が生じた。「急迫」と報道せられると玉砕と続くものとみなければならぬ。(略)米国は31日に沖縄占領を発表した。また通信連絡は既に絶えているのである。例によって発表は遅くその間「急迫」やら何やらが穴埋めするのだ。1番戦争を知らぬが戦争の専門家なのである。
←この意見は達見。
高見順
店へ行く。夜、川端さんと久米家に行き、配当金を封筒に入れる。
久米正雄 911.44円
大佛次郎 659.20円
高見順 472.33円
(略)
川端康成 129.46円
片岡鉄平 89.30円
(略)
吉屋信子 56.38円
(略)
小林秀雄 2.82円
沖縄の急迫化を新聞は伝えている。那覇市内、首里城跡に敵は侵入したという。沖縄も駄目なのだろうか。沖縄が敵の手に落ちたら、どうなるのだろう。
←高見順が第三位の本の供出をしていたとは驚いた。大佛次郎は、やはりこのことを記していない。小林秀雄の少なさにはビックリ!(←よほど蔵書がなかったか、出し惜しみしたか)高見順は沖縄の「急迫」をそのまま受け止め、大佛次郎は「玉砕」と読む。
6月22日
大佛次郎 夜に鎌倉文招待にてニ楽荘に集まる。長田秀雄老もいる。久米正雄より報告あり本の保証金一万五千円終始減らず会員700名を超ゆと。
←鎌倉文庫に大佛次郎も関わっている事を初めて明らかにした。
高見順 二楽荘の集まりのこと記す。「鎌倉文庫も軌道に乗ったので、雑誌を出そう」との提案。小林秀雄が責任者。「自らのジャーナリズムをつくってお互いに仕事をさせること、これが肝要だ」
←大佛次郎とは視点が全く違う。
一応、田辺聖子の日記原作で15日(月)11時よりNHKドラマがあります。原作の雰囲気は全くないと予想はされますが‥‥「セイコグラム 転生したら戦時中の女子学生だった件」。
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『飛ぶ教室』や『エーミ-ルと探偵たち』の作者として知られるドイツ人児童文学者エーリヒ・ケストナ-(1899-1974)が、第三帝国崩壊の寸前から連合軍占領までの記録を通して、混乱を極めた社会の様相や戦争の愚かさについて綴ったドイツ1945年の終戦日記。ナチの暴虐無尽、迫害、焚書事件など同時代への強烈な批判や比喩、皮肉をこめた論調には、祖国ドイツへの憐憫と深い悔恨の念に駆られる〝ドイツ人には美徳や才能が欠けている。ドイツ人には国民になる素質がないのだ〟と嘆き〝生ける屍〟とすら書き留めている(45.7.9)
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"数字が生きたり、死んだりするだろうか。ポーランドの広場でドイツ軍の機関銃の前に並ばされたとき、ユダヤ人の母親たちは泣いている子どもたちを慰めた。母親たちの列は数列と同じだろうか。 その後、精神科病院に入院させられた親衛隊分隊長は数字だろうか。"(p.14)
"自他ともに理解することが必要だ。といっても、理解することは納得することではない。すべてを理解することとすべてを許すことは、決して同じではないのだ。"(p.241)
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戦争末期から終戦後にかけて書かれたドイツの作家ケストナーの日記。ナチスドイツでの人々の様子が、作家の細やかで皮肉のこもった筆致で書かれていて、同時代史料としてとても興味深かった。終戦後に強制収容所を生き延びた人物からホロコーストの実態を初めて聞いた際の驚きを極めて冷静に書き残そうとした様子がうかがえる。
ケストナーが「一九四五年を銘記せよ。」と記したように、このような時代を書き残すことは作家にとっての責任なのかもしれない。
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1945年ドイツにおける終戦前後の著名作家(反政府的とみなされていた)の生活状況と考察を書いた日記。日本同様ドイツでも終戦前後の混乱はあったようだがその様相は若干違うよう。人名・地名等になじみがないこと、歴史・思想に対する知識不足により少々読みにくかった。それでも全体的な動きは大体理解できたと思う。戦争というものを考える時にその時代の(ほぼ)生の証言は必要であろう。
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描写が鮮やかで、「偽物映画を撮っている滑稽な絵面」も含め、全体が映画のように頭に浮かんだ。
ツィラータール鉄道の終着駅、マイヤーホーフェンはいつかTVで見たように思う。
金色の草原に立ち、眉をひそめてこちらを見送るケストナーを、列車の窓から見ているような読後感である。
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敗戦色濃い祖国で、亡命せずに過ごしていたケストナー。ケストナーの『こわれた時代』のあとに読んだ。書くことを止められた作家がどんな生活を送っていたのか。どんな噂を聞き、どんなものを見て、何を感じていたのか。何故、祖国に留まったのか?
『1945年を銘記せよ』