紙の本
人類文明発祥の地イラク
2023/08/30 12:33
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投稿者:nekodanshaku - この投稿者のレビュー一覧を見る
とても面白い冒険談だった。地理や歴史が好きな私だが、チグリス川とユーフラテス川に囲まれたイラクの湿地帯をよく知らなかった。その地で、地元の船大工が作った船に乗り、旅をしようと計画した日本人のおじさん二人旅の話だ。結局は、船は造ってもらえたが、船旅は日帰り周遊となったが。イラクというと、危険なところという認識しかなかったが、二人のブリコラージュ的な旅の仕方に引き付けられ、湿地帯に生きる人々の自然との共生や、氏族間の拮抗などが、物語を盛り立てる。人類最古の都市国家・人類最古の文字の生まれた地がとてもまぶしい。
紙の本
イラク水滸伝
2023/11/01 21:28
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投稿者:雄ヤギ - この投稿者のレビュー一覧を見る
イラク南西部でイランと国境を接し、ティグリス川とユーフラテス川に挟まれている湿地帯、そこに生きる人々や文化を取り上げている。この湿地帯はウル、ウルクといった都市文明が始まったころから権力に対抗する人々が集っており、数十年前にはフセインが築いた水路によって湿地帯に流入する水の量が激減、現代でも上流のイラン、トルコで建造されたダムによって水量が減ったり、イスラム国の台頭で治安が悪化し、氏族の勢力が増すなど、湿地帯を取り巻く環境は不安定になっている。著者はこうした背景を丁寧に解説しつつ、証拠となるような体験も紹介してくれているので、とても分かりやすい。あまり同じような内容の本を見かけないので、とても貴重な本だと思う。
紙の本
世界のディープなとこ
2023/11/11 14:38
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投稿者:ブラウン - この投稿者のレビュー一覧を見る
地球は広いと思い知らされた! 戦争・紛争・テロに砂漠なイメージしかないイラクに湿地? 現地のホスピタリティや食文化、そこで暮らす人に芽生える認識等々の興味深い異文化を根掘り葉掘り調べては、著者の人脈、計画性、コミュニケーション、場当たり的な機転を総動員して、湿地の未知を知っていく様子を、快活明快な筆致で綴られている。著書のファンになっても著者のファンになることはほとんどなかったが、今回に限っては高野秀行のファンになったと胸を張って公言したい!
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忘れられた?「辺境の地」が文明の生まれたところ
2023/10/24 18:58
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投稿者:オタク。 - この投稿者のレビュー一覧を見る
マンダ教徒が暮らしていたところとして出て来るので読んでみた。著者が取材している青木健の「古代オリエントの宗教」ではイラン・イラク戦争以降の戦争の中でマンダ教徒は居住地を追われたかのように書かれているがみんながみんなそうではないようだ。ナイル川のような南から流れる川ではダメでチグリス川のような北から南に流れる川でないと洗礼儀式に使えないとあるのはヨルダン川が北から南に流れる事と関係があるのだろうか?
イラク共産党がマンダ教徒などが中心となって成立したというのはイスラーム教徒の世界では無神論者は「人間以下」だと見做される事と関係がありそうだ。他の中東の共産党はユダヤ教徒とキリスト教徒の中から生まれ出たというし。そうなるとソ連のアフガニスタン侵略に関わり「アフガニスタン民主共和国」の支配政党となったアフガニスタン人民民主党はイスラーム教徒以外の宗教の信者が少ない土壌に生まれているのでどうなるのだろう?
ザンジュの乱が「世界最初の奴隷解放闘争」とあるけれどスパルタクスの乱を見落としているようだ。
メソポタミア文明は葦と湿地帯と共に成立したという視点は面白い。
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刊行前から読みたい、とわくわくしていた本書。
(ある程度、危険のある地域ではあるけれど)危険で未知なところをぐいぐい冒険していくというよりも、長期にわたってその地域に滞在し、地域の人たちになじんでいく中で、さまざまなことを調査していくスタイルの本。
湿地帯の人々の暮らしや、マーシュアラブ布など、興味をそそられる内容が満載でとても楽しく読みました。環境や政治状況の変化などによって、今後この地域がどのように変化していくのか、ぜひまた続編をいつか読みたいなと思いました。
コロナ禍などさまざまなことで心が折れそうになりつつも、地道に調査したり、他の道を切り開いていくのはさすが高野さん!という感じでした。
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この作品、いやこの文献、高野ファンでなくとも必読ですよ!これまでのイラクのイメージが完全に払拭されました。
アフワールという超巨大な湿地帯を、船で旅する目的でスタートしたものの、高野さんは見るもの聞くものを次々と消化し栄養に変え、面白おかしく伝えてくれるし、毎度ながら読み手を惹きつけてくれます。
中でも謎のラグ(布)の歴史を追いかける旅はもっとも読み応えのあるストーリーのひとつだ。
アフワールで協力してくれる仲間を水滸伝に出てくるキャラにたとえて進めていく展開もなかなか面白い。
期待通り、いやそれ以上の文献ですよ、これは。
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表紙の写真がかっこいい!
なかなか分厚いので読み終えれるか心配だったが、内容が面白かったのでわりとすんなり読み終えることができた。
イラクの湿地帯を水滸伝風になぞらえて記載されていたので、より一層親近感がわいておもしろかった!
誰も知らない未知なるイラクの湿地帯アフワール。
写真にもあったが葦が高い。こんなところに人が住んでるの?
出会う人も強烈で面白い。
アフワールの調査も面白かったが、マーシュアラブ布の調査も面白かった!世界で初めて?この布の原産地を解明したのではないか?単なる探検ではなく調査書を読んでいるような感じがした。
食べ物がいろいろ出てくるが、ゲーマル食べたい!!
シュメールからの伝統などもあり興味がつきない。
人脈がものを言う世界、自分の知らない世界に連れて行ってくれる一冊。
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もはや文化人類学では?と思うが、この読みやすさ、面白さはすごい
内容では、葦でできた家がすごい
地面(浮島?)とは生えた状態でできているのか?
見た目もきれいだ
建材のひとつとして注目されていいくらいだ
それにイラクの料理
どれも美味しそうだけど、なかなか食べられなさそう
イラクに行ってもてなされたい
水牛の乳製品ゲーマルが気になる
考えるより先に動き、舟を建物?から出すところも面白い
計画を立ててなど、問題解決のひとつの技法にすぎないのだ
肝心の舟での湿地帯の旅は少し消化不良だけど面白かった
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メソポタミア以前からの時間軸、テイグリス=ユーフラテス川の流れ、湿地帯の規模、降るような星空‥言葉も習慣も、日本に生まれ育った私にとっての「当たり前」や「常識」がまったく通用しない世界。これまで世界史の教科書で暗記したワードがポンポン出てくるし、史実なのか伝説なのか謎は謎をよび、頭の中は?と!マークだらけ。
「湿地帯を伝統の舟で旅をする」という当初の目的は前途多難ではじまる前からありとあらゆる不運やトラブルが続くのだが、なんだかんだあっても結局は最高の笑顔で舟に乗れたんだな、と本を閉じた時には思わず貰い泣き笑いしてしまった。そもそも人間は洋の東西を問わず、その文明の始まりから仲間を作り、助け合って(だからこそ余所者を警戒しながら)大自然と共に暮らしてきたのだろう。これまで探検してきたところも凄かったけれど、今回の旅はスケールも情報量も桁違い!写真も絵もわかりやすい。
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久しぶりの高野節。
私達からしたら秘境や聞いたことが無い場所でも、そこには住んでいる人がいて、生活を営んでいる当たり前のことに気づく。
ただ、高野さんは欧米でも研究がされていない場所や、紛争のため鎖国されていて外国人が入ることが出来なかった土地へ行くので、私達からすると未知の世界になるのだ。
気候変動、上流に出来たダムが原因で湿地帯の面積が減っているそうだ。まさに今行かないと消えてしまう幻の取材だったのかもしれない。今のイラクの湿地帯が消えてしまうだけではなく、紀元前から続いてきた人類の生活の痕跡が無くなってしまうかもしれないのだ。世界的にも価値があるルポだと思う。
水滸伝を欧米の人にどう説明するのかは疑問だが…ついでに水滸伝も知って欲しいものだ。
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これは凄い、社会学者の長大な論文を読みつつも色鮮やかにイラクの風景が浮かぶ。そんな読後感を受けました。
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p8 イラクの国名の由来 ウルク 5000年前 ユーフラテス川のほとりで栄えた
p14 三大民族+クルドとスンニーとシーア派が容赦なく肌を押し付けあっているのがイラクとその国境地帯
アラブ、ペルシャ(イラン)、トルコ
p21 船大工なら多くの氏族と取引があり、湿地帯で最も顔のきく人に違いない
p79 イラクに行ったら絶対のこれ食べて (池袋のファイサル)
鯉の円盤焼き、ゲーマル(ヨーグルトみたい)
p71 メソポタミア ギリシャ語で2つの川の間 ティグリス、ユーフラテス川
p208 イスラム世界の裏番長がアリーの後継者であるイマーム、そしてイスラム裏番長最強説を唱えるのがシーア派(アリーの党派)
p237 引きノコ(日本、中国) ヨーロッパでは押しノコ
p242 プリコラージュ フランスの文化人類学者クロード・レヴィ・ストロースが提唱した概念で、ありあわせの材料を用いて自分のものを作ることとかその場しのぎの仕事といった意味であり、文明社会のエンジニアリングと対照をなすとされる
p260 私は長年ミャンマーやアフリカの反体制武装勢力を診てきているが、ゲリラに必要なのはイデオロギーと金と武器の三点セットだ。
p264 マアダンは水牛中心の生活を送っている人たち
p310 一般に、語学力は個人の能力だと思われている。しかしそれは違う。個人の中にある語学力は(絶対語学力)は半分くらいだ。後の半分は相対的語学力であり、相手との関係性による。コミュニケーションは自分ひとりでは成立しない。相手との共同作業なのだ。相手が興味があるかどうか、親しい間柄かどうか、互いの文化的背景を知っているかなどで通じ方は変わってくる。そして、相対的語学力はコツさえつかめば、短期間でグッとあげることができる。
p373 書き言葉はここに始まった the first written words started here. イラク政府機関の立てた看板
p436 見切り発車とその場しのぎの連続。
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これは著者の新たな代表作となるに違いない。「謎の独立国家ソマリランド」は、知る人ぞ知る存在だった高野さんが、ノンフィクション界に軽やかな殴り込み(?)をかけ、その名を広く知らしめた作品だった。そして本作は、さらに進んで、これぞノンフィクションの王道だと思わせる、圧巻の内容だ。私たちがまったく知らなかった世界に体を張って飛び込んでいき、見て、行動して、書いて、読む人の世界の見方を変えてしまう。まったくすばらしい。
これまでも高野作品を読むたびに「世界は広いなあ」としみじみ思ってきた。本作もそうだ。西欧中心のものの見方にどっぷりつかっていたのでは見えない、たくさんの人の営み、文化や価値観にふれて、固まった頭がマッサージされるような感じだ。世界の「グローバル化」つまり「アメリカ化」は、押しとどめられない流れのように見えるが、いやそうでもないかも、と思えてくる。
これまで自分は、イラクについてどんな知識を持っていただろうか。うーん、情けないほどに断片的だ。イラン・イラク戦争、フセイン、バクダッド(アラビアンナイトの世界)、メソポタミア文明はイラク?イラン?大体イランとイラクってどう違うのか……、そんなレベルである。それでもまったく問題なく、興味津々で面白く読んでいけるのが、信頼の高野印なのだった。チグリス・ユーフラテスのほとりに生まれた古代文明から現代へとつながる歴史や、今現在の社会情勢も、楽しく読みながら頭に入ってくる。異文化の背景にある歴史を知ることがいかに大事か、教えられるのだ。
・著者独特のスタイルの一つに、「見立て」があると思う。ソマリの氏族を戦国武将にたとえたり、「ミャンマーの柳生一族」という本があったり。本書ではイランの湿地帯の人々を水滸伝の面々になぞらえている。それですごくわかりやすくなるかというと、正直微妙なんだけど、面白いのは確か。私がいちばん気に入ったのは、イスラムシーア派の祖を「裏番長」と見立てたところ。「シーア派は究極の裏番がいつの日かこの世に降臨し、その裏番によって永遠の正しい秩序がもたらされると考えている」そうな。なるほど、これはマイノリティであるシーア派の(過激な)行動をよく説明している気がする。
・「今の主流派は真のイスラムではない」というこの考え方を、著者は「立派なグノーシス的裏読みである」としていて、まあ確かに、と思ったのだが(グノーシス主義は「人間は<偽りの神>が創造した偽りの世界に墜とされている」とする)、その続きにはたまげた。「考えてみれば、マルクス主義もグノーシスっぽいところがある」、なんと!マルクスとグノーシスをつなげて考えるとは、思いもよらなかったが、言われてみればそうかも。「この世界は間違っていて、労働者は疎外されており、それを正しく認識した人たちが立ち上がれば、理想の社会が訪れる……。」同じパターンだなあ。これはオーストラリアの哲学者も論文に書いているそうで「残念ながら私の独創ではなさそうだ」と高野さんは言うが、それにしてもすごい視点だ。湿地帯のマンダ教徒(グノーシス主義の混合宗教)の多くが共産党員だった事実ともぴったり符合しているではないか。
・湿地帯に住む人たちマアダンについての次の分析も、実に鋭いと思う。
「マアダンは抵抗する人かもしれないが、闘う人ではなく、消極的に文明や国家の側と接する人たちだと私は思う。他の抵抗者は『文明』や『国家』にもっと近い。だからこそ戦うわけだが、マアダンの人たちは文明/国家を『他人事』として見ている」
なるほど、支配と被支配といった二項対立からは微妙にずれているところに、湿地帯の民のわかりにくさがあるわけだ。
とまあ、おお!とか、なるほど!と膝を打つところがいろいろあるのだが、もちろん高野さんなので、見所は「行動力」なのだ。表紙になっている舟は、古びた感じなのでもともとあったものかと思ったら、現地で舟大工に注文して作ってもらったものだった。この製作過程も、当地の人たちのありようがリアルに感じられておもしろいし、何より舟がとてもカッコイイ。高野さんも同行の山田隊長も、すっかり背景になじんでるのだった。
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【感想】
辺境探検家・高野秀行さんの最新作は、イラクの南東、ペルシア湾沿いに存在する湿地帯(アフワール)を冒険する。
この地帯は昔から、戦争に負けた者や迫害されたマイノリティ、山賊や犯罪者などが逃げ込む場所であった。さながら「水滸伝」の梁山泊のようであり、現地の人の生活スタイルや周辺社会の構造は謎に包まれたままである。そうした「未知」に惹かれた高野さんは、現地の舟大工に木舟を作ってもらい、舟を拠点に湿地帯を探検しようと考えた。師匠の山田隊長と連れ立ってイラクに(いつものように)突撃し、現地の有力者たちとコミュニケーションを取りながらアフワールの現状を取材していく。
実際、湿地帯の人(マアダン)はどのような暮らしをしているのか。イラクについて背景知識のない私たちはつい原始人のような生活を想像してしまうが、大半の人は日本人と変わらない生活を送っている。陸の上に家を建て、水道・ガス・電気が完備された部屋の中でエアコン暮らしだ。だが、一部の湿地民――特に水牛を中心とした生活を営んでいる人――に関しては、水上に生える藁を折って浮島を作り、その上に藁小屋を建てて生活している。電気やガスは通っておらず、水牛の糞と藁を燃料に調理を行う。水道ばかりか食器や衣服の洗い場やトイレも無く、浮島の周りにある水ですべてまかなっている。
何故か、彼らの生活レベルは1000年以上昔のままなのである。数キロ先の町に暮らしている人は文明の利器に与っているのに、浮島の人たちは今でも古代人の暮らしを続けている。一応、商売道具である船外モーターは所持しているのでお金はあるはずなのだが、何故貧しい暮らしを続けているのかは謎のままであった。
そうした現地住民へのリポートに加えて、「マアダン史」とも呼べる民族史的エピソードが本書のところどころに挟まれるのだが、これがとても面白い。古代メソポタミア人と現代マアダンとの血脈、アフワール社会の慣習、フセイン政権との確執及び政治的動乱など、彼らがイラクという激動の地でいかにして湿地生活を維持してきたかが丁寧に紐解かれていく。
また、歴史に加えて、地元有力者の語る「マアダンから見た湿地帯の現状」も綴られていき、物語の厚みがどんどん増していく。
文献にあたるだけでも相当な量の作業が必要だったに違いない。完成まで6年かかったのも頷けるボリュームである。
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「イラク水滸伝」は、高野さんが今まで書いてきた本と比べても、テーマが広い。それは今回の旅が「失敗に終わっている」ことが一因だと思う。
当初の目的であった舟旅はできなかった。そもそもの計画が行き当たりばったりであり、現地情勢のことを深く考えずに見切り発車してしまった。しかし、その無鉄砲さが返って現地住民との接触を多くし、取材内容を多様なものにしていった。
もとからアフワールには規則などない。湿地帯の広がりも水量次第であり、ずっと同じ風景が存在するわけではない。そこにはイラクという国特有の「予測のつかなさ」が横たわっている。だがそうしたカオスな空間が、同じくカオスな行動をする筆者のチャレンジとピタリと合致した���当初の目的通りにはいかなかったが、目標が右往左往することで、ブリコラージュ的に研究が広がっていったのだ。
アナーキーで多様性に富んだ「エデンの園」。その自由奔放さに沿うようにあちこちを駆け巡る高野さん。間違いなく読み手を魅了する一冊だった。
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【メモ】
イラク南東のペルシア湾近辺、ティグリス川とユーフラテス川の合流地点付近には、かつて最大で日本の四国を上まわったこともある面積の「湿地帯(アフワール)」が存在し、30~40万人もの水の民が暮らしている。アラビア語を話すアラブ人でありつつ、生活スタイルや文化がまるで異なるらしい。
この地帯は昔から戦争に負けた者や迫害されたマイノリティ、山賊や犯罪者などが逃げ込む場所だった。湿地帯は馬もラクダも象も戦車も使えないし、巨大な軍勢が押し寄せることもできない。迷路のように入り組んだ水路では進む方角すらわからなくなるからだ。「水滸伝」の梁山泊さながらである。
世界最古の文明が誕生したと同時に発生したアフワールは、1990年代に、フセイン政権により水を堰き止められ枯れてしまったが、フセイン政権崩壊後、住民が堰を壊して水を再び流し、湿地帯は半分ぐらい復元されているという。
しかし、イラクの湿地帯では各氏族が点状に住んでいる。道もなく、村もない。このような状況では滞在のために誰に許可を取るべきかわからない。
そこで筆者が考えたのが、湿地帯で舟大工を探して、舟を造ってもらうという方法だった。地元の舟大工、とくに「名人」と呼ばれるような人の造った舟に乗っていたら、誰もが一目置いてくれるだろう。それに大工なら多くの氏族と取引があり、湿地帯で最も顔のきく人にちがいない。舟を基点にして湿地帯を調査するのだ。
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・バグダードや湿地帯に住むマイノリティ「マンダ教徒」は、2005年頃から、スンニ派とシーア派両方から迫害の対象となっていた。彼らは伝統的に銀細工や舟大工を生業としている。また、教育水準が高く、天文学、占星術、物理化学などの学問に秀でていた。
彼らは歴史学の見解とはまるで異なり、最初にマンダがいて、後にシュメール人が分かれ、それから何千年もあとにユダヤ、キリスト教、イスラムなど諸宗教が枝分かれしていったと考えている。しかもマンダの人たちからすると、それらのユダヤ以降の教えも全て間違いなのである。
・「湿地帯の王」と呼ばれるカリーム・マホウド。1980年代末からフセイン政権崩壊まで、アフワールで反政府ゲリラ活動を行っていた。脱走兵や元囚人、フセインに迫害されて逃げてきた知識層を束ね、フセイン政権が倒れる2003年まで湿地帯の人々の支援を受けながら政府軍に抵抗していた。92年にはフセインの娘婿で石油大臣でもあったフセイン・カーメル将軍が直接部隊を率いて大攻勢をかけてきたが、アミール曰く「全滅させてやった」。
しかし、アミールが周辺地域を支配するようになると、彼の水滸伝時代の好漢達が中心となって治安部隊を結成したことで、腐敗と独裁が行われ、今では信用を失っているという。
・湿地帯の恐ろしさは、その境界があ���まいなところにある。例えば、背の高い葦が生えて迷路状になった水路はたしかに厄介だが、それでも舟に乗って進むことができる。でも今、目の前に広がる土地では舟も使えない。かといって、四輪駆動車や戦車で入っていけるかというと、それは危険だ。どこに深い泥濘があるかわからない。重い車両であればあるほど、泥にはまって抜けられなくなる。
純色の雲が地平線まで垂れ込めた空の下、どこまでも続く湿地とも荒れ地ともつかない土地を走っていると、なんだか世界の始まる前の原初の状態にいるような感覚にとらわれる。いわゆる「混沌」である。文明社会でもなければ、日本の自然とも全くちがう。
同じようなもやもやした気持ちで、湿地民(マアダン)のことも考えていた。どこが湿地かわからないのと同様、誰が湿地民なのかもよくわからないのだ。
・イラクのアフワール(湿地帯)は大きく三つに分けられる。ティグリス川とユーフラテス川にはさまれた中央湿地帯、ユーフラテス川の右岸(南部)に広がる南部湿地帯(別名ハンマール湖)、そしてティグリス川の左岸に広がる東部湿地帯だ。
東部は他二つの湿地帯とはかなり異なった特徴をもっている。まず、アフワールはフセイン政権によって一度完全に干上がったと言われるが、それはあくまでも中央と南部の湿地帯のことである。1990年代や2000年頃の衛星写真を見ると、東部湿地帯はけっこう水がある。
水は減少したものの、ダメージは比較的少なかった。生態系に継続性があるからだ。他の湿地帯は一度完全に消滅したので、哺乳類、爬虫類、両生類の多くは絶滅してしまっただろうし、他の動植物の被害も尋常ではないはずだ。かつての姿をとどめている場所があるとすれば、東部湿地帯だけなのだ。鳥や魚、植物にしても、他より豊かな可能性が高い。
・東部湿地帯のハウィザ湖は魚が豊富であり、それを餌とする鳥もたくさん生息している。湖には葦や泥を重ねて人工的に作った浮島(チバーシェ)があり、村人の一時的な休憩所になっている。
湿地には絶えず水と栄養分が運ばれてくるため、カサブ(葦)の再生力はふつうの森に比べて桁違いに高い。薪を獲るのも運ぶのも容易だし、水面より上の部分は乾燥しているので火もつきやすい。
・湿地帯にある唯一の島「チバーイシュ町」はアフワールの中心地であり、役場、学校、病院などがある。水路が縦横無に走り、石やコンクリートで造られた大きな家がぎっしり立ち並んで車の量もけっこう多い。
・川のほとりでは、水牛、浮島と並ぶアフワールの象徴である「カサブのムディーフ」にも遭遇する。ムディーフとはイラクの言葉で、ゲストハウスを指す。文字通り、客人が来たら泊めるためのものだが、それだけにとどまらず、氏族や仲間たちの集会所でもある。形状は縦長で、入口を入るとマットレスのような座席が敷きつめられている。立派なムディーフでは各座席に、背中にあてるクッションや肘掛けが用意されている。
バグダードなどの都市部ではムディーフは鉄筋コンクリートや石造りの建物だが、アフワールでは藁で作られている。
・私は、「長年の苛酷な独裁に加え、激しい内戦がつづき、治安がひじょうに悪く政治も腐敗している」という点から、イラクをソマリアやアフガニスタンなどと同列に置いていた。山田隊長はアフリカで長く活動していたため、やはりアフリカの最貧国チャドなどと比べがちだった。その目線で見ると、イラクは比較にならないくらい秩序がある。
例えば、イラクではバグダード市内でも地方へ行く街道沿いでもチェックポイントが多いものの、一度もカネを要求されたことがない。私たちはそれを「評価」してしまうのだが、ハイダル君たちにすればそんなことは当たり前で、アフリカと比較されること自体が「屈辱」なのである。
・彼らは「今のイラクはダメだ」と繰り返す。家や店の前の歩道にその家・店のモノが置かれていたり、道路がゴミで汚れていたりするのを見ては「あんなことは昔はなかった」と嘆く。
アフリカ慣れした私たちからすれば、ずいぶん贅沢な悩みに見える。いや、アフリカでなくても、パキスタンやインド、東南アジアなどアジア諸国の多くでも、家や店の前の歩道を近所の人が勝手に使っていたり、道路にゴミが落ちたりしているのは珍しくない。
ハイダル君の親戚の若者は、私たちが「アフリカよりいい」と言ったら、声を荒げた。「アフリカと比べないでくれ。アメリカや日本と比べてくれ」
返す言葉もなかった。
日本で見聞きするイラクのニュースはよくないことばかりだ。実際に現地へ行ってみれば決してそんなことはないだろうと私は自分の経験から確信していたものの、それでもイラクを「なめていた」のは否めない。
イラクは1970年代までは豊かな産油国だったのだ。教育と医療は無料で、レベルも高かっ たようだ。それが80年代に入ってからイランとの戦争で徐々に疲弊し、湾岸戦争の後の経済制裁で国民生活はどん底に落ちた。しかし、必ずしも政府の各省庁の能力までが大幅劣化したわけではないらしい。ハイダル君は言う。
「外部からの援助が止まって何でもイラク人が自分でやらなきゃいけなくなったからじゃないかな。サダムがやれって言えば、どんなことでもやるしかない。それに外国へ行くのも禁止されたから頭脳流出もなかった」
・彼らこそが新世紀の「水滸伝的好漢」なのではないかと思う。湿地帯を愛するマイノリティという意味で。なぜなら、今も昔もアフワールのことを大事に思うイラク人などごく稀だからだ。私がアフワールに興味があるとイラク人に話したとき、「ああ、あそこは美しいよ」とか「素晴らしい文化がある」などとポジティブに反応した人はこれまで皆無だ。みんな、「へえ、物好きだね」という薄い反応である。湿地民のことを「彼らはトラブルメーカーだ」と嫌っている人もいる。
湿地帯を回復させたところで何の利権にもつながらない。だからこそ、湿地帯の回復はある程度成功したのではないか。イラク政府が他の行政面では国民に非難され続けているのとは対照的だ。
そして今、新世紀梁山泊の中心にいるのがジャーシムである。もはや現地代表の地位をとっくに飛び越し、全アフワールで最も強い影響力をもつ人物となっている。大胆な治水工事を計画実行する能力と統率力、驚くほど広いネットワーク、国籍や身分や素姓に関係なく、自分を頼ってきた人は誰でも最大限に面倒をみようという親分肌、そして個人の自由を無視した権力を忌み嫌い、自分が納得できないことには徹底して反対し戦う、反骨にして異能の人でもあった。
・南部湿地帯の湖に浮かぶ葦の家には、文明的なものが何一つ見当たらない。チバーイシュ町では多くの家が電気・水道・ガス・エアコン完備という日本人と同じ生活水準なのに、ここでは船外モーターを持っている以外は古代メソポタミアの生活と変わらない。
家の外側には至る所に水牛の糞が貼り付けてあった。水牛の糞はカサブより嵩張らず、火力が強い。燃料として使える。
水道ばかりか食器や衣服の洗い場やトイレも見当たらない。浮島の周りにある水ですべてまかなうようだ。水牛がいる場所とは柵で仕切られているし、洗い場とトイレは別のところで行うから別に問題ないらしい。この辺の人たちは町の人もただの生水は飲まず、お湯を沸かしてお茶を飲む。
・(舟(タラーデ)づくりを目の当たりにして)しかし、この工法は一体何だろう。設計図を作らない。あらかじめパーツをきちんと用意することもない。材を正確に測ることもない。長さ、幅、厚さ、すべてにおいて無頓着である。メジャーはたまにしか使わず、その辺に落ちているカサブを切って、メジャー代わりにあてている。そして、大事な三日月フォルム造りに使うのは使用済みの板の切れ端。
「日本の大工はカンナだけでもいろんなサイズのものを何種類ももってるもんだけどな」と山田隊長は呆れる。ここの大工はカンナ自体使わない。なにしろ道具といえば、ジェッドゥーンと呼ばれる手斧、金槌、釘、ノコギリの四つしかないのだ。しかも釘は長さ5センチぐらいのもの一種類。ジェットゥーンは万能の道具で、のみやカンナ、金床の代わりにもなる。
ずっと湿地帯の舟大工を雑とか適当と言ってきたが、ちょっとちがうのかもしれない。
これは「ブリコラージュ」なのだ。ブリコラージュとはフランスの文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースが提唱した概念で、「あり合わせの材料を用いて自分でものを作ること」とか「その場しのぎの仕事」といった意味であり、文明社会の「エンジニアリング」と対照をなすとされる。
・マアダンは水牛中心の生活を送っている人たちなのだ。定住しているマアダンも、何か政治的な問題や自然災害などが起きたら、移動生活に戻るのだろう。また、後で知ったのだが、定住しているマアダン一家も、子供が成人して結婚をすると、親から水牛を分けてもらって、湿地の移動生活を始める。
・チバーシェ(浮島)は、水に浮いているカサブをそのまま踏みつけながら作る。ちょうど水面から20センチぐらいのところで直角に曲がる。踏みつけながら2メートル×2メートルぐらいの広さを確保したら、周囲に生えるカサブの束を刈り取り、そのスペースに乗せていく。浮島の地面には蒲の葉を敷き詰めてなめらかにする。
小屋がけでは、長さ2メートルぐらいのカサブの束を切って水面下の地面に突き刺し、テントのポールのように立てる。そのポールを何本か刺すと、今度はカサブの束を横に渡して、各ポールを縛る。これで骨組みは完成。「あとはゴザで覆えばいい」とのこと。全工程が20分程度で完成する。
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高野さんの本は何冊か読んでいて、冒険旅行的な内容が好きだが、今回の作品はちょっと趣が異なる感じがして、それが好きな人もいると思うが(そして学術的には今回の作品は評価されるものだと思うが)、個人的には興味があまり持てない分野だった。