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テトラさんのレビュー一覧

投稿者:テトラ

49 件中 31 件~ 45 件を表示

紙の本浪花少年探偵団

2020/01/19 23:50

「少年団」というほどには…

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竹内しのぶ25歳独身。彼女と彼女の教え子らが遭遇する5つの事件を扱った連作短編集。

「しのぶセンセの推理」はいきなり教え子の1人の父親が殺されるというショッキングな事件。
「しのぶセンセと家なき子」からシリーズのサブキャラクター田中鉄平が物語に大いに絡んでくる。
「しのぶセンセのお見合い」は新藤刑事の恋のライバル本間の登場する話。
「しのぶセンセのクリスマス」は本シリーズの中で一番奇抜な状況を扱っている。
そして最後の「しのぶセンセを仰げば尊し」は本作の掉尾を飾るに相応しいハートウォーミングストーリー。

大阪弁が軽快に飛び交うライトミステリ。しかし、小学校教師を主人公に扱っているが殺人事件の中には結構深刻な真相もある。
しかし、十分大人である私にとっては逆に人間関係の陰惨さよりもノスタルジーを誘う事が多かった。

まず最初の1篇は真相に感心した。なかなか小説では思いつかない真相だと思う。
次の「~家なき子」はクラスに1人はいたゲームの達人というのが琴線に響いた。これもいたよ、やたらとゲームの巧い奴。私の時はファミコンも全盛だったが、ゲームの達人はゲーセンに一日中入り浸っていたんだけどね。
シリーズの折り返し地点の短編「~お見合い」で本間を登場させてシリーズにカンフル剤を打ち込む。逆に云えば、この短編からシリーズに彩りが出てきたように思う。しのぶセンセも恋相手が2人になり、魅力が行間から見えてきたように感じた。
そして個人的なベスト「~クリスマス」は殺人事件と思われる事件の凶器がケーキの中から現れるという謎が非常に魅力的。一見、その奇抜さのみ先行した設定かと思いきや、最後には鮮やかに凶器をケーキに隠した理由を解き明かしてみせる。
最後の「~仰げば尊し」は事件そのものよりもやはりシリーズの幕引きを飾るお話としての感慨が深い。もちろん布団干し中の墜落の真相は逆説めいていて面白いが。

ふと思ったのだがこれはもしかしたら北村薫氏に先行して所謂「日常の謎」系ミステリに成り得た作品集ではなかったということ。ファミコンゲームのひったくりやベランダからの落下の事件は正にそう。
基本的に「日常の謎」系ミステリは人が死ななくて、日常に潜む些細な謎、違和感に隠された意外な真相・思いがけなかった悪意を導き出すのだから、常に殺人が絡む本作品集ではそこが条件的に成り立っていない。そこが非常に惜しい。

そしてシリーズ全体を通してみると、作者が定石に乗っ取って各短編を紡いだ事が解る。
まずは主人公の紹介。次の短編でシリーズ全体を通して出てくるサブキャラクターの紹介。中盤において恋のライバルの登場。最後に締めの1編。正に淀みがない。

そしてこの頃から作者が色んなジャンルへ挑戦しているのが窺える。
デビュー作以降、主に学生時代を舞台に青春ミステリを書いてきた作者だったが、前作『ウィンクで乾杯』ではパーティ・コンパニオンを主人公にしたトレンディ・ドラマ(古いなぁ・・・)風ミステリに、本作では学校の図書館においてある『ズッコケ少年探偵団』シリーズのようなジュヴナイル・ディテクティヴ・ストーリーに挑戦している。そしてそれらにおいてもきちんと水準を保っているのがやはりすごい。

最後の短編で一応のお別れを告げたしのぶセンセ。しかしこのシリーズ、もう1作あるので、この後、どのような展開をするのか楽しみだ。
しかし、前にも述べたが、ホントこの作者、タイトルに対して頓着しない。『浪花少年探偵団』といっても活躍する少年はせいぜい2人である。題名よりも中身で勝負という事か。

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紙の本ウインクで乾杯

2020/01/19 23:23

色んな単語が時代を感じさせます。

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2時間サスペンスドラマ用といってもいい軽めのミステリ。読んでいて映像が眼に浮かぶし、実際に一度映像化されているようだ。
一介のコンパニオン・ガール香子が事件を調べる事を可能するにするために彼女のアパートの隣りに軽いノリの若い刑事芝田を引越しさせるという設定もご都合的だが、まあ良しとしよう。

たった300ページ足らずの本書だが、そんな中にでも密室殺人事件が取り上げられている。初期の東野作品は本当に密室物が多い。恐らく素人時代に色々なトリックを案出してストックしていたのではないだろうか。
今回はドアチェーンを使った密室トリックである。このトリックはギリギリ解明シーン前に答えが閃いた。しかし、犯行に至るプロセスはパズルのようなロジックで、しかも第2、第3の真相を用意しているのだから畏れ入る。そして主人公香子とちょっと間が抜けていつつも鋭い閃きを発揮する若き刑事芝田、そして理想の独身男性像を受け持つ高見などなど、キャラクターにも特色があり、単純な推理小説以上の面白みもある。こういった小品にも手を抜かないその姿勢には感心した。

しかし毎回思うが東野のタイトルのセンスにはちょっと疑問が残る。『放課後』、『卒業』、『秘密』、『片思い』など素っ気無い物、『ある閉ざされた山荘で』、『容疑者Xの献身』、『使命と魂のリミット』などすわりの悪い物など数あり、今回も『ウィンクで乾杯』と正にキオスクノベルスど真ん中だなあ。
しかもこれは改題されたもので原題は『香子の夢』なんだからあまりに素っ気無い。
今はネームヴァリューで売れるからいいものの、この頃はまだまだ新人で早く売れたかったろうに意外と淡白だ。それがこの作者らしさなのかもしれないが。

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紙の本11文字の殺人

2020/01/19 22:44

タイトルだけが残念だ

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復讐者による連続殺人譚。タイトルにある「11文字」とは復讐者の手による「無人島より殺意をこめて」という1文に由来し、ケメルマンの『九マイルには遠すぎる』など、11文字に込められた謎を追うものでなく、単純に復讐のテーマだけの意味でしかない。
いきなりちょっと肩透かしを食らった感がしたが、もしかしたら、当初東野氏が予定していたこの作品の没タイトルだったかもしれない。

初版はカッパノベルスということで、前の『白馬山荘殺人事件』でも感じたが、このノベルスで発刊される作品は作者自身、読者層は駅のキオスクで購入して、車中で読み終わる程度の読み易さを心がけているような気がして、文章は軽妙だ。しかし、今回はなかなか読ませる。事件の構造も単純ながらも真相は最後で二転三転し、私なぞは映画『戦火の勇気』を想い起こした。
復讐者の正体はモノローグ4においてようやく解った。海難事故の遭遇者の中で唯一現れなかった古沢靖子についても途中で解った。この辺の難易度もやはり駅売りノベルスという事を配慮してか、軽めに設定している感じがした。

今回は今まで東野作品で扱われていた密室殺人が一切無く、本格的要素は最後の殺人でのアリバイ工作がある程度。海難事故で起こった事に関する謎を主題にしており、トリックよりもストーリーとプロットで勝負した感がある。
しかし、やはり二時間サスペンスドラマ小説と云った雰囲気は拭えない。主人公への脅迫の仕方もそうだが、特に肉体を求めるといった内容が出てきた時には時代の古さを感じたものだ。昭和の頃の作品だからまだこういう物が横行していたのだろうから仕方がないのかもしれないが思わず苦笑いしてしまった。

しかしまだ5作目で、外れはない。東野作品、お楽しみはこれからだろう。

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紙の本学生街の殺人

2020/01/19 00:31

学生街は心を学生レベルに押し留める

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東野作品4作目の本作は2作目の『卒業』の流れを汲む青春ミステリで、分量も今までの作品が350ページ前後であったのに対し、470ページ弱と増した事からも、当時この作品にある思いを秘めていた事が予想される。
とにかく東野氏の若さの主張が横溢しているのだ。

舞台は大学の正門の場所が変わったことで寂れゆく一方の旧学生街。そこの一角にある喫茶店兼雀荘兼ビリヤード場の店でバイトする主人公光平。大学を卒業するも、素直に社会の組織に組み込まれる事に嫌気が差し、自分が何者であるかを模索しているモラトリアムな男。そして同じバイト仲間の松木に至っては一旦勤めていた会社を辞め、あるチャンスを待ちながら同じバイト先で燻っているといった男である。
そして光平の彼女広美はいきなり堕胎を告白するシーンから登場し、しかも光平との不思議な出会いから、光平には内緒に通っている障害児童の幼稚園へのボランティアなど数々の謎めいたエピソードを孕み、そして唐突に殺される。そして光平と一緒に広美の死の真相を探る事になる妹の悦子に加え、他にも登場するのは派手な男性経験を重ねてすぐに寝る同じバイト仲間の沙緒里に、ビリヤードを打ちに来るサラリーマンの『ハスラー紳士』こと井原、同じくビリヤード仲間の大田助教授と本屋の時田、広美の友人かつスナックの共同経営者日野純子、かつて広美の恋人だった香月刑事、そして後半、重要な役回りを演じる斎藤医師と、老若男女問わず、それぞれが非常に青臭い信条や傷を持って生き、主張する事を止めない。
これだけみんなが青臭い純粋さを持っていると、なんだか二流のテレビドラマを観ているようで、今回ばかりはちょっと恥ずかしさを抱いてしまった。

この作品には『卒業』同様のペシミズムが流れているのは確かだが、『卒業』が私の中で高評価なのは主人公加賀の一本筋の通った性格と、サブキャラクターである恩師の南沢雅子の含蓄ある台詞に痺れたからだ。
それに対し、本作の主人公光平の確たる目標もなく、ただ現状に不満を抱きながらも行動を起こさない弱さ・青さ、そして周囲の人間誰もが自ら恣(ほしいまま)に振舞う未成熟なところが物語の要素として物足りないのだ。やはり物語を引き締めるには他に同調しないキャラクターが必要なのだ。被害者である光平の恋人広美にその片鱗が窺えるものの、その自己犠牲的な性格が他者に比べて両極端すぎて、バランスを欠いているように感じた。

しかしこの若い頃経験するまったりとした雰囲気、常に何か満ち足りない物を感じていた想い、これこそ東野氏が本作で書きたかったことなのだろう。いわゆる大人の常識に逆らうように世間の波から外れた生き方、そういう青い時期を本作ではテーマにしたように思う。

そして光平の父親の言動。定職に就かずフラフラしている息子に対し、叱責することなく、むしろその生き方を認めて去っていくその姿は、大人のそれではない。やはり親というのは子供に対して壁であるべきで、子供の人生の選択に対し、その覚悟を確かめるべきなのだ。私ならば、こういう物分りのいい親は自分の成長をストップする悪しき存在でしかないので願い下げである。

この470ページ弱の物語の中には、旧学生街の退廃感、そこを訪れる人々それぞれの思惑、彼ら彼女らが微妙に交錯することで始まり、あるいは終わる群像劇を背景に、エレベーターにおける密室トリック、アリバイ工作、そして1987年当時、最新の科学技術であった人工知能AIの話などなどが盛り込まれており、正直ページを繰る手を止まらせなかった。

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紙の本白馬山荘殺人事件

2020/01/16 23:52

意外と骨太

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それぞれの人にそれぞれの事情。
約340ページに纏められた本書はその題名から駅の売店で売られている読み捨て感覚のノベルスの1つに過ぎないと高を括っていたが、いやはや色んな謎が重層的に織り込まれたなかなか味わい深い作品だった。

密室殺人の謎、「マザー・グース」の暗号の謎、遠隔殺人トリック、2年前の事故死の謎に加え、ペンション「まざあ・ぐうす」の前の所有者である英国未亡人の自殺の謎と盛り沢山である。
またそれぞれの謎についても1つの真相に留まらず、そのまた隠れた真相と二重構造になっているのもかなり贅沢だ。デビューした作家が必ず通るカッパ・ノベルスでの、所謂『量産物』的作品と位置づけるには勿体無いくらいの満腹感がある。

しかしとは云いつつ、本作のメインの2つの謎―密室殺人と暗号―は結構複雑。
まず密室殺人。過去2作の密室殺人から判断できるように、東野氏の密室殺人は密室が何段階にも分けられて構成されていることに特徴を感じる。最初は開いていた扉が次には閉まっていた、ここが逆に読者を更なる難問へと導くのである。
だからその解明も結構複雑だ。詰め将棋が解かれる様を見ているようである。
しかし、逆にこれが所謂“ファイナル・ストライクー最後の一撃”効果を大いに減じているのは確か。読者はロジックを理解するのに腐心して、カタルシスを感じないのである。
それは「マザー・グース」の暗号にしてもそうである。いやいや、かなり難しい。英文と訳文2つを駆使して、しかもそれぞれの詩の構成を参考にして分解・再構成をしなければならないとくれば、いやもうこれは一種、数学の難問と取り組むのと変わらない趣きがある。

先ほど述べたように、カッパ・ノベルスと云えば出張や旅行の車内で暇つぶしに読むといった感じの蔵書であるから、この作品だと暇つぶしどころか、かなりの頭脳労働を強いられる事だろう。おっとこれは本作の出来には関係のない余計な詮索だった。本筋に戻ろう。

東野氏の作品は物語にコクがあるのも事実で、本作もそれぞれの宿泊客は元よりペンションのオーナーにシェフ、従業員の男女にも深みのあるバックストーリーが用意されている。これが今回のプロットを重層的に構成させるのに大いに貢献しているのだが、このストーリー性とロジックに偏ったトリックとがいささか上手く溶け合っていないように感じる。前2作はまだ良かったが、3作目の今回は特に強く感じた。
しかし、まだ東野ワールド創世記である。現時点このクオリティだから、今後更に大いに期待できるのは間違いない。ああ、次はどんな話を用意してくれるのだろうか。

最後にちょっと蛇足めいた感想を。他の人の書評にもあったが東野氏の過去の作品には昔の時代を感じさせる表現が時々出てくる。今回もあるにはあったが、1つだけ。
数千万円相当の宝石を評して、プロ野球のトップ選手の年棒とあるが、今の数億円プレーヤー頻出の世の中では失笑を免れない表現である。これは次回重版時に削除したらよいかと思うが、どうだろうか?

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紙の本戦旗不倒

2020/01/13 09:50

イヤな予感的中

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アルスラーン戦記15巻目。最終巻まであと1冊と迫った本書ではとうとう、いやようやく蛇王ザッハークが動き出す。13巻目の『蛇王降臨』で復活し、14巻目で大暴れの兆しを見せるかと思いきや、特段目立った動きはなかっただけにようやく重い腰を起こしたのかという思いがした。

蛇王ザッハークは前作で魔神の如き強さを見せたイルテリシュを恐怖と困惑の只中に陥れ、まるで赤子のように捻じ伏せる。つまり前作でイルテリシュが大いに暴れさせたのは蛇王ザッハークの脅威を引き立てるための序章であったようだ。

しかしただ単に蛇王ザッハークとアルスラーン達パルス軍との一騎打ちという構図に田中氏はしない。パルス国を狙うのは流浪の身となり、マルヤム国王ギスカールと手を組むヒルメスやパルス国王の正嫡子である孔雀王フィトナを擁してパルス国を簒奪しようと企むラヴァンを中心にしたミスル国に、同盟を結びながらも信用しきれない愛すべきシンドゥラ国の“苦労王”ラジェンドラ二世と、4つ巴の様相を見せる。
これほどの役者を、残り1巻で完結という段になって放り込む盛り沢山の内容に果たして全てに決着が着くのかと不安を掻き立てられながら読み進めた。

一方で終幕に向けての畳み掛けも見られた。但しそれは何ともイヤな予感が的中する形で。
まさに“皆殺しの田中”の本領発揮なのだが、恐らくあの人物が最終巻の前巻で死ぬのは当初の構想にあったと思われる。なぜなら『アルスラーン戦記』は田中氏にとっての『三国志』であるからだ。つまり最終巻で田中氏は『三国志』終盤の今でも格言などで使われる有名なエピソードをこのシリーズでやろうとしていると思われるのだ。

しかし幸福から悲劇への落差は物語を強く印象付ける演出の定石とはいえ、この結末は胸を痛まずにいられない。

もう1つ気になったのはファランギースだ。それまでミスラ神の女神官として純潔を守り、その美貌ゆえに云い寄る男どもを歯牙にもかけないでいた彼女が自分の相手について自分より強い男でなければならぬと、翳りを帯びた声で話すシーンにも何かの含みがあるようでちょっと胸がざわついてしまった。彼女は本書の終盤にアルスラーンが行った行為を見て彼の優しさが自身の運を暗いものにするかもしれぬと呟く。これはパルスの正嫡子と対面した時のアルスラーンの対応を示唆しているように思える。

しかしこのシリーズも随分長くなるため、初期の読み応えについては既に忘却の彼方であるのだが、読中荒川弘氏のマンガがどうしても脳裏にちらつき、作者自身も荒川氏のデザインしたキャラクターに対して当て書きしているように思えてならない。特にダリューンに関してはどこか間の抜けたキャラクターとして描かれており、かつての無双ぶりに胸躍らせた私にしてみれば、こんなキャラだったかなと首を傾げずにはいられなかった。

まあ、何はともあれ次が正真正銘の最終巻である。このような英雄譚が悲劇で終わることはないだろうが、“皆殺しの田中”がその異名通りにどこまでの登場人物を大団円までに殺すのかが不安でならない。
上に書いたように既に死亡フラグが立っているキャラも散見される。もはやスプラッターホラーなみの殺戮振りであるが、できれば晴れ晴れとした結末を迎えたいものだ。ある意味最終巻は恐る恐るの読書になるのではないだろうか。

頼む、田中氏、その殺戮の筆に手心を加えてくれぃ!

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紙の本深夜勤務 ナイトシフト 1

2017/01/01 23:29

溢れんばかりのアイデアの迸り

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キング初の短編集。日本では本書と『トウモロコシ畑の子供たち』の二分冊で刊行された。

はしがきにも書かれているようにデビュー作『キャリー』以来、『呪われた町』、『シャイニング』と立て続けにベストセラーのヒットを叩き出した当時新進気鋭のキングが、その溢れんばかりに表出する創作の泉から紡ぎ出したのが本書と次の『トウモロコシ畑の子供たち』に分冊された初の短編集である。
今まで自分の頭の中で膨らませてきた空想の世界が世に受け入れられたことがさらに彼の創作意欲を駆り立て、兎にも角にも書かずにいられない状態だったのではないだろうか。
その滾々と湧き出る創作の泉によって語られる題材ははしがきで語っているように恐怖についてのお話の数々だ。

古い工場の地下室に巣食う巨大ネズミの群れ。
突如発生した新型ウィルスによって死滅しつつある世界。
宇宙飛行士が憑りつかれた無数の目が体表に現れる奇病。
人の生き血を吸ったことで殺戮マシーンと化した圧搾機。
子取り鬼に子供を連れ去られた男の奇妙な話。
腐ったビールがもとでゼリー状の怪物へと変わっていく父親。
殺し屋を襲う箱から現れた一個小隊の軍隊。
突然意志を持ち、人間に襲い掛かるトラック達。
かつて兄を殺した不良グループが数年の時を経て再び現れる。
忌まわしき歴史を持つ廃れた村に宿る先祖の怨霊。

これらは昔からホラー映画やホラー小説、パニック映画に親しんできたキングの原初体験に材を採ったもので題材としては決して珍しいものではない。ただ当時は『エクソシスト』やゾンビ映画の『ナイト・オブ・リビングデッド』といったホラー映画全盛期であり、とにかく今でもその名が残る名作が発表されていた頃でもあった。
そんなまさにホラーが旬を迎えている時期に根っからの物語作家であるキングが同じような恐怖小説を書かずにいられるだろうか。
その溢れ出る衝動の赴くままにここでは物語が綴られている。

しかしこの着想のヴァラエティには驚かされる。今ではマンガや映画のモチーフにもされている化け物や怪異もあるが、1978年に発表された本書がそれらのオリジナルではないかと思うくらいだ。

本書の個人的ベストは「やつらはときどき帰ってくる」だ。この作品は少年時代にトラウマを植え付けられた不良グループたちが教師になった主人公の前に再びそのままの姿で現れ、悪夢の日々が甦るという作品だが、扱っているテーマが不良たちによる虐めという誰もが持っている嫌な思い出を扱っているところに怖さを感じる。無数の目が体に現れたり、小さな兵隊が襲ってきたり、トラック達が突然人を襲うようになったりと、テーマとしては面白いがどこか寓話的な他の作品よりもこの作品は誰もが体験した恐怖を扱っているところが卓越している。
また最後の短編「呪われた村<ジェルサレムズ・ロット>」は長編とは設定が全く異なることに驚いた。一応長編の方も再度確認したが特にリンクはしていないようだ。ただ後者は全編手記によって構成されるという短編ゆえの意欲的な冒険がなされ、最後の一行に至るまでのサプライズに富んでおり、長編の忍び来る恐怖とはまた違った味わいがあって興味深い。

さて本書は最初に述べたようにキング初の短編集でありながら、次の『トウモロコシ畑の子供たち』と分冊して刊行された。いわば前哨戦と云ってもいいかもしれない。それでいて現在高評価されている漫画家へも影響を与えたほどの作品集。次作もキングの若さゆえのアイデアの迸りを期待したい。

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シリーズではこれが一番好きかも

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相も変わらず語られる内容は荒唐無稽のナンセンスギャグが横溢している。今回アーサーが恋に落ちる女性フェンチャーチも謎めいた女性であるが、それ以外にもいつも雨に追われているトラック運転手ロブ・マッケナに家の中が外で家の外が部屋になっている奇妙な家に住む真実を知る男ジョン・ワトソンと読者を軽く酩酊感に誘うストーリー運びは健在だが、フォード・プリーフェクトのエピソードが幕間に挟まれるものの、前3作に比べるとストーリーの起伏はむしろ穏やかで、アーサーの地球復活の謎を探るメインストーリーが主になっているために実にスムーズに進むように感じられた。これはそう感じるのは私だけでなく、解説によれば刊行当時の評価もそうだったらしい。SFを期待したファンには失望感を、批評家筋では好評だったとあり、私はやはり後者の側の人間のようだ。

これは今までが広大な宇宙を舞台に色んな星の色んな星人の奇妙な生態や習慣、そして環境がどんどん放り込まれていたのに対し、今回は地球を舞台にしていることもあるのかもしれないが、特徴的なのは他のメインキャラクターであるゼイフォードやトリシアたちが全く出てこないことだ。私は今までアダムスのストーリー展開の取り留めのなさに面食らい、煙に巻かれたような読後感にどうも相性の合わなさを覚えていたものだが、本書のようにはっきりとしたストーリー展開をされると逆に味気なさを感じる自分がいて正直驚いた。3作読むことで実はアダムスマジックにかかっていたのかもしれない。
今までのシリーズでさんざん語られたように宇宙空間では時間も一つのベクトルであり、それを遡ることが出来る。この概念を理解するとアーサーが地球に戻ってくるのも時間軸を遡っただけであり、何ら不思議ではない。
しかし全てが元通りと思われた地球において何かがやはり違っていたのだ。
それはイルカが地球上からすべていなくなっていたことだ。ここでおさらいしておくと、地球上で最も高度な知性を持つ生命体はねずみであり、地球はねずみによって創られ、その次はイルカでありそして人間と続く。つまり人間よりも優れた生命体が地球上から消え去っているのだ。
アーサーとフェンチャーチこのイルカ消失の謎を知る男ジョン・ワトソンを訪ねてカリフォルニアへと向かい、彼からある事実が語られる。

とここまでは実に明確な物語の筋道が出来ており、実に解りやすく展開するのだが、実はここから再び物語はカオス化する。
今に始まった話ではないが、なんとも人を食った話だと改めて思わされた。神の最後のメッセージが実に皮肉なユーモアであり、一度読んだときはあまりのしょうもなさに壁に投げつけようかと思ったが、二度目に読むとその深い意味合いに思わずニヤリとしてしまう。神が創った世界は完璧ではなかった。この世界が不安定であることをこの言葉が象徴していると云う風に受け取れる。実にありきたりな言葉を使いながら意味深な皮肉を感じさせるダグラスのセンスに感じ入ってしまった。

この地球が復活した本書は新たなシリーズの幕開けという位置づけとなるのではないか。『銀河ヒッチハイク・ガイド』第2章とでも云おうか(と思っていたらやはり解説にも作者が3作まででシリーズ完結と云っていたと書かれていた)。

毎度毎度先の読めないナンセンスSFギャグオデッセイ。次は図らずも作者の急逝で最終巻となった物語。決着がつくわけではないだろうが、新たな幸せを得たアーサーとフェンチャーチの2人にどんな冒険が待っているのか、正直不安である。

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コージ苑再び?

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高校生の時だったと思うが、当時書店でコージ苑なる奇妙な箱入りの漫画が気になりジャケ買いした。1ページに4コマ漫画1つという実に贅沢な作りで当時1冊1,000円ぐらいしたと思うが、高校生の私にとって非常に高価であった。しかしその内容は今まで読んだ4コマ漫画のそれとは全く違い、ナンセンスギャグの走りだったと思う。それが私と相原作品との最初の出逢いだった。
特に斬新だと思ったのは4コマ漫画でありながらストーリーが続くこと。4コマでオチをつけながら、その後も同じ登場人物のその後が描かれ、一連のストーリーとなって連続しているところに驚いた。今となっては全く珍しくもない手法だが、初めてこのような4コマ漫画に出会った当時は新しいマンガ形式だとビックリしたものだった。
その後コージ苑は3巻(正式な呼び方は3版)まで刊行され、完結したのだが、このたびコージジ苑と名を変え、新たに蘇った。
原典と違い、コージ苑ではなくコージ“ジ”苑であるのがポイント。全シリーズではまさしく辞書のとおり、単語の意味に即した4コマ漫画が付せられていたが、本書では時事にまつわる4コマ漫画が付せられている。従って政治家にまつわるエピソードが多く、現首相をとことん揶揄した作品多かった。
大人になった今では高校生の時のように無邪気にギャグにのめり込んでゲラゲラ笑うことは無くなり、作者のギャグセンスもかつてほどの勢いは感じられないものの、痛烈に社会を批判する不条理4コマ漫画としてこのまま巻を重ねることを期待したい。

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紙の本マラコット深海

2016/08/29 14:30

ドイル最後の小説

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ドイル晩年のSF冒険譚。ウィキペディアで調べる限り、これがドイル最後の小説のようだ。空想冒険小説ではチャレンジャー教授がシリーズキャラクターとして有名であるが、本書では海洋学者マラコット博士が主人公を務め、冒険の行き先は大西洋の深海だ。
潜降函なる金属の箱でカナリア諸島西にある、自身の名が付いたマラコット海淵から深海調査に乗り出したマラコット博士とオックスフォード大学の研究生サイアラス・ヘッドリーとアメリカ人の機械工ビル・スキャンランの3人が大蟹に潜好函が襲われてそのまま海底に遭難してしまうが、なんと独自の科学技術で深海で生活しているアトランティス人たちに助けられるという、ジュヴナイル小説のような作品だ。
もともとドイルは海に関する短編を数多く発表しており、新潮文庫で海洋奇談編として1冊編まれているくらいだ。そして深海の怪物に関する短編もあり、もともと未知なる世界である海底にはヴェルヌなどのSF作家と同じように興味を抱いていたようだ。
そしてそれを証明するかのようにマラコット博士一行が海底でアトランティス人たちと暮らす生活が恐らく当時の深海生物に関する資料に基づいてイマジネーション豊かに描かれている。
しかし物語のクライマックスと云える邪神バアル・シーパとの戦いは果たして必要だったのか、はなはだ疑問だ。
この戦いをクライマックスに持ってくるよりもやはり物語の中盤で描かれる、彼らの生還を詳細に書いた方がよかったのではないか。
しかし最後の作品でも子供心をくすぐる冒険小説を書いていることが率直に嬉しいではないか。読者を愉しませるためには貪欲なまでに色んなことを吸収して想像力を巡らせて嬉々としながら筆を走らせるドイルの姿が目に浮かぶようだ。翌年ドイルはその生涯を終えた。
最後の最後まで空想の翼を広げた少年のような心を持っていた作家であった。合掌。

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紙の本復讐者たち 新版

2016/08/29 00:57

終わりなき復讐の連鎖

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第二次大戦にヒトラーと云う1人の男の狂気から始まった世界的なユダヤ人大虐殺は本書によれば最終的に570万人以上もの犠牲者を生み出した。
しかし第二次大戦ナチスによって大虐殺と迫害の日々を強いられたユダヤ人は、黙って虐待に耐える民族ではなかった。彼らはその借りを返しに、屈辱を晴らすためにナチスの残党狩りを世界規模で始めたのだった。
日本人ならば第二次大戦でアメリカに原爆まで落とされ、国家を揺るがされる大打撃を受けながらも、かつての敵に復讐しようとはせず、寧ろ国の復興に精を出し、驚異的な高度経済成長によって奇跡的とも云える復興を成し得たが、ユダヤ人やムスリムは過去の遺恨をそのままにはせず、「目には目を、歯には歯を」の精神で執拗な仕返しを行うのだ。
それによって最終的に報復に成功したナチス残党の数は1000~2000人に上った。しかしそれは上に書いたユダヤ人犠牲者の数とは全く収支が合わない。やられたらやり返すの精神であるユダヤ人にしては実に少ない数だ。しかしそれこそユダヤ人社会が文化的になった証拠だと作者は述べる。そしてこれらの復讐を少なくしたのはイスラエル建国があったからだと作者は指摘する。イスラエル建国が苦難と苦闘の産物であることは同じ作者の『モサド・ファイル』やフランク・シェッツィングの『緊急速報』で語られた通りだ。この障害の多さこそがユダヤ人に復讐に没頭する機会を奪ったと作者は見ている。しかしこの建国もまた周辺諸国との戦いの日々であったことを知る今では単にターゲットがナチスから周辺のアラブ諸国になったに過ぎないと思うのは私だけだろうか。
そしてこれら俎上に挙げられた復讐譚が果たして是なのかと云えば甚だ疑問だ。それは正義や道徳心から起こる疑問ではない。それぞれの国に様々な民族がおり、彼ら彼女らのDNAに刻まれた価値観は一民族である日本人の尺度で測るのは寧ろおこがましいと云えるだろう。
私が疑問に思うのは上に書いたように過去に生きるのではなく、未来に目を向け、民族の復興と更なる繁栄を目指すべきではなかったかということだ。暴力が生むのは暴力しかなく、復讐もまた然りである。そんな人的資源の消耗戦としか思えない復讐の螺旋に固執することでこの民族の復興はかなり遅れたのではないかと思えてならない。
本書は世界で隠密裏に起きた暗殺の歴史を綴ったものであるが、大規模に行われたテロの歴史でもある。つまりこれはテロ側から自分たちの行為の正当性を語ったドキュメンタリーでもあるのだ。
ここに書かれているユダヤ人達へのナチスの陰惨な迫害は筆舌に尽くしがたい物があるのは認めよう。アドルフ・アイヒマン、ヨーゼフ・メンゲレらが行った想像を絶する、もはや悪魔の所業としか思えない数々の残虐行為は自分の家族が同じような方法で殺されたならば、私も一生拭いきれない恨みを抱く事だろう。それでも私は上に書いたように納得できない。いわれのない大量虐殺を強いられた民族の復讐心は解るが、「やられたらやり返す」では蛮族たちの理論であり、近代国家のやるべき方法ではないからだ。
今韓国や中国で反日感情を植え付ける教育が学校でなされており、今の若者に日本に対する抵抗心を持たせているが、これもドイツ人がユダヤ人に抱いた思想に重なる物を感じ、戦慄を覚えざるを得ない。
ドイツ人がユダヤ人を虐殺し、戦争終結後、今度はユダヤ人がドイツ人を追って暗殺する。そして今度はアジアでも同じことが起きようとするのかもしれない。残念ながらマイケル・バー=ゾウハーが本書を綴った60年代から世界は何も進歩していない。

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これで打ち止め

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映画化もされ、相原氏にとっては異例のヒット作になったと思いきや、あえなく3巻で打切りだった。
個人的にはゾンビと主人公の戦いに終始しないオムニバス形式の群像劇の構成がよかっただけに残念ではあった。
ゾンビが蔓延る世界で果たして人間として生きることに意味があるのか?そんなことも考えさせられるパニック漫画ではあった。
初の映画化もB級ホラーのようでまずキャストが全く認知度が低い俳優さんばかりだったので恐らく低予算で作られたのだろう。
次作からはもっと情報量を減らして不特定多数の人々が手に取れる漫画を描いてほしいものだ。

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前半傑作、後半凡作の評論集

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第47回日本推理作家協会賞の評論その他の部門賞を受賞した北上次郎氏渾身の評論集。あとがきに書かれているがミステリ・マガジン誌上で1986年2月号から1992年12月号まで足掛け約7年半かけて連載された物を纏めたのが本書だ。
しかし連載していた評論の編集版と云えども、単なる寄せ集めになっていない。内容は大きく分けて海外編と国内編に分かれている。
この海外編は実に素晴らしい。19世紀の小説から幕を開けるが、その流れは欧米の経済発展、特に産業革命後の新しい世界の幕明けと冒険活劇小説が連動して発展していく様子を実作を並べて述べており、小説が時代を映す鏡であり、またその時代に生きた人々の勢いや息吹さえも感じさせることを教えてくれる。
例えば大航海時代を経たヨーロッパの国でハガードのような秘境冒険小説が発展したこと、アメリカでは西部小説が発展し、フロンティア精神が冒険小説を発展させていったこと、産業革命が人々に科学への関心を向けさせ、ヴェルヌの小説がそれまで未開の領域だった海底や大空を当時の最新科学の知識で行けることを知らしめ、新たな世界への進出を夢見させたことなど、冒険小説が時代時代の分岐点を契機に発展し、また変化していたことを詳らかに述べる。
またバローズのターザンが実は全26作にも上る超大作であることを本書で初めて知った。また今読んでいるマクリーンについての項は非常に興味深く読んだ。当時『女王陛下のユリシーズ号』で鮮烈なデビューをし、世界的ベストセラー作家となった一冒険小説家の栄華と衰退の顛末。冒険小説家が直面した政治的原理が大きく転換した“70年代の壁”をある作家はマクリーンのように頑なに自分の作風に固執し、埋没していった者もいれば、新たな敵を発掘することで乗り越え、また作風を転換することで乗り越え、今に至る作家たちもいる。今なお新作映画が作られ、作者の死後も他の作家で新作が作られる“007”シリーズの独自性。それぞれの作家の描く“正義”の形。単に冒険小説家としてジャンル分けされている作家たちにもそれぞれの特色と苦闘の歴史があり、また工夫があったことを詳細に語ってくれる。この子細な分類は非常に参考になった。
特に作者は“70年代の壁”をどう乗り切ったかについてそれぞれの作家の実作を以て繰り返し語る。米ソの対立が緩和されたこの時代の大転換である者は自然の厳しさに敵を見出し、ある者は時代を遡り、明確な敵のいる第二次大戦に題材を掘り起こす。またある者は“現代の秘境”を題材に作風を敢えて変えないことで乗り越えた者もいれば、己の恐怖心こそ最大の敵と見出し、長きスランプを脱した作家もいる。この辺りの流れは毎日読んでいて非常に楽しかった。それを裏打ちする北上氏の膨大な読書量にも驚かされた。
この海外編を読んで意気昂揚して臨んだ国内編の落差には正直非常に失望した。
なんと全30章で構成される同編の内、27編が時代小説、時代伝奇小説の掘り下げに終始するのだ。私が非常に愉しみしていた70年代から始まる日本の冒険小説の流れは最後のたった3章で駆け足程度でしか語られない。これはあまりにひどすぎる。非常にバランスの欠いた内容となってしまっているのだ。
正直海外編を読んでいる最中は大傑作だと確信していた。しかし後半に至ってのこの失速感。後半の国内編はぜひとも改稿すべきだと思う。
舌鋒鋭い感想になってしまったが、大変惜しい評論集である。稀代の読書家であり書評家である北上氏の仕事としては竜頭蛇尾の如き作品になってしまった。

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紙の本Z~ゼット~ 2

2016/08/28 23:41

作者なりの味付けがなされたゾンビ漫画

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ゾンビ物を作者独自の解釈で描いた作品。映画“World War Z”でもそうだったが、本書に出てくるゾンビはよたよた歩くのではなく、走るのである。主軸となる物語はあるものの、恋人、家族など身近な人々がゾンビになった時の人々の反応や行為を断片的に描いているオムニバス形式の作品となっている。
作者の生々しい描写は女性の方にとってはあまり心地いいものではないのでお勧めできないが、日常にゾンビがはびこった時のシミュレーションとして読むとなかなかに興味深い。

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紙の本探偵倶楽部

2020/01/22 22:31

職人技に徹した短編集

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政財界のVIPのみを会員とする調査機関「探偵倶楽部」。眉目秀麗な男女のコンビが事件の謎を解く連作短編集。

政財界や富裕な家庭専門の探偵という事で、政略や欲望や愛憎の渦巻く泥沼劇の、ロスマクのような家庭内の悲劇を扱った作品なのかと想像したが、全くそんなものではなく、探偵倶楽部の2人も現実から浮いた戯画的なキャラクターとして創造されている。そして各編に共通してあくまで東野の筆致はライトであり、内容は基本的にオーソドックスで2時間サスペンスドラマ用のストーリーとも云える。私は特に『家政婦は見た!』シリーズのようなテイストを感じた。

通常のシリーズ物と異なる本作独特の特徴はと云えば、シリーズキャラクターである探偵倶楽部の2人は実は物語においてサブキャラクターであり、あくまで主役は依頼人だということだろうか。だから探偵倶楽部の2人はその外的特徴が語られるのみで名前さえも判らない(最後の「薔薇とナイフ」で助手の女性が手掛かりを手に入れるために立倉と名乗るが恐らく偽名だろう)。
つまりシリーズキャラとしては異常に影の薄い存在だ。そして物語は常に依頼人側の視点で語られるため、探偵倶楽部の調査方法は全く謎のままである。

更に「偽装の夜」を除く各編では、事件が起こり、警察が介入して合理的な推理が一旦事件は解決する。そこから探偵倶楽部による新たな真相というのが物語に共通するパターンであり、単純な謎解きに終始していないのがこの作者としてのプライドなのだろう。

各5編に共通するのは動機が全て恋愛沙汰や財産問題というベタな設定であること。
「偽装の夜」では社長の財産が動機であり、更に秘書と内縁の妻江里子が実は愛し合っているという関係。
「罠の中」でも金貸しの叔父に纏わる人間たちの金銭問題、そして物語の終盤では叔母と利彦の秘密の関係が明かされる。
「依頼人の娘」は事件が妻の浮気の末の駆け落ちの阻止。
「探偵の使い方」でも浮気と保険金殺人が主題。
「薔薇とナイフ」はネタバレを参照していただくとして、先にも述べたように2時間サスペンスドラマによく見られるテーマばかりである。

この頃の東野圭吾作品は『鳥人計画』以降、『殺人現場は雲の上』、『ブルータスの心臓』そして本作とノベルスで上梓されたミステリが連続して刊行されており、逆に東野氏はキオスクミステリに徹して軽めの作品を書くことを意識していたようだ。
つまり普段、本を読まない人が旅行や出張といった旅先で軽く読むために駅のキオスクで気軽に買って気軽に読め、車中で読み終えてしまうことのできるミステリである。その事について是非は私個人としてはない。

島田氏がエッセイでも云っていたが新進作家の生活は苦しく、作家活動だけで食べていけるのはほんのわずかの人間である。生活の糧を得るために広く読者を獲得する必要があり、こういうライトミステリに手を出さざるを得ないのが当時の状況であった。
したがってこの手のミステリに読書を趣味とする人間やミステリ愛好者があれこれいちゃもんを付けるというのは全く筋違いという物だろう。

が、あえてその愚を犯すならば、やはりそれでも島田氏の短編にはミステリとしての熱があり、クオリティも高かった。
それに比べると東野氏は各編にツイストを効かせているものの、登場人物の内面描写、風景描写、気の利いたセリフなどを極力排しているがために、小手先のテクニックを弄しているという感が拭えず、職人に徹しているなあと感じてしまう。それも創作作法の1つだが、もう少しミステリとしての熱が欲しかったと思う短編集だ。

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