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  3. うみひこさんのレビュー一覧

うみひこさんのレビュー一覧

投稿者:うみひこ

118 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本季語、いただきます

2012/04/11 18:13

「浮いてこい」と“デカルトの潜水夫”に言う風景

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 俳句には詳しくない。でも、家には父愛用の歳時記がころがっている。けれど、「季語」なんて、今となっては旧暦と同じで、使いづらいものなのだろうと思っていた。だから、歳時記を手にしたことはなかった。そんな奇妙にずれた季節感で詩心を縛って、何が面白いんだろうとも思っていた。
 それが、ふと、この「いただきます」という言葉につられて、本書を手に取ってみた。そして、この「浮いてこい」の章に驚き、ひたすらこの不思議な季語の世界を、読み進むことになった。
 季語の世界は摩訶不思議。物理だの宗教だのも含めてみんな季語になっているらしい。   
 実は、この「浮いてこい」は、理科の実験で今も使われるという浮き人形のことで、それが季語になったのだという。デカルトが考えついた浮力の実験が、遙か東の国で、夏の夜を楽しませる人形となり、それが詩の用語の一つとなっているなんて、何だか、世界が一つ丸くなって、てのひらの上に載せられたような気分になる。
 同じ章に、宗教用語の季語が載っていたのだが、それは、「童貞聖マリア無原罪の御孕りの祝日」。これを使った俳句などあるのだろうか?
 もちろん、こんなふうに奇妙な季語だけではなく、季節を表す言葉について語っているところも多い。そして、最初に感じたとおり、「西瓜」が秋の季語などという説明もあり、やっぱりと思う気持ちに、「西瓜割」は、夏という言葉があり、丁寧に、秋の西瓜の意味が説明されていく。
 秋千ともかくブランコが春の季語だったり「半仙戯」という、何とも魅力的な言葉になったりする「傾国のぶらんこ」の章も面白い。一見季節との矛盾を感じるところから、解き明かされる季語の面白さに、夢中になって読み進んでしまう。
 読みながら気づいたのは、著者が北海道の出身で、そのことにふれられている章が多いこと。本州の「あたりまえ」とはちょっと違う季節感で、俳句を読み込んでいるからだろうか。例えば、「まっているかんじ」の章。これについては何をまっているか語ってしまうとつまらないので控えておくが、著者と一緒に、子供心に、蝋燭を用意したあの日が甦る人も多いだろう。
 俳句を作る魅力にはまる人々は、この子供心のわくわく感を、もう一度甦らせて世界を見る楽しみを感じているのだろうなどと思いながら、本書を読み終えた。
何だか胡散臭く見ていたあの歳時記も、言葉を入れていった人々が、同じようなわくわく感を持って、言葉を選んだのかもしれないと思うと、身近に感じる気がしてきた。

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僕らはみんなグリーン家の子供たち

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 子供の頃、初めて『グリーン家殺人事件』を読んだ時の驚きから、いまだ覚めない。
気がつけばあそこから、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』への暗い道が開いていったのだ。
きっと多くの読者が私と同じように、
グリーン家の館の扉を閉めたとたん、霧に導かれて、
数々の古い館を訪ねる旅に出てしまった気がする。

そんな魅惑に満ちた推理小説の世界を築きあげた作家S.S・ヴァン・ダイン。
最初の作品『ベンスン殺人事件』のあとがきで、
この作家の名は別名で、作者は他の顔を持っていることが明かされていた。

いわく、作者は優れた批評家で、実は、推理小説を書いたのは、病気療養のために過ぎない。
また、この作家は、真の推理小説家は優れた作品は三作くらいしか書けないので、
三作しか書かないともいったという。
これを聞いて、もう読めないのだと思い内心焦った。
その後、続々と翻訳、文庫化された作品があるのに気づいたのだが、
そう言われると最初の三作よりつまらない気もしないでもなかった。

 でも、その時には、主人公の探偵ファイロ・ヴァンスに魅惑されてしまっていた。
気まぐれなディレッタントの美術収集家である富裕な男。
検事の親友という理由以外に、犯罪現場に現れる必要のない、この奇妙な探偵。
言葉の端々にはあふれんばかりの知識と教養があり、ラテン語やギリシャ語の詩の引用を好む。
長々と披露される様々な知識は、例えば『ドラゴン殺人事件』では、
龍についての民俗学や伝説に及び、中国ばかりか、日本の竜についても、とうとうと語られ、
八岐大蛇も現れるという具合。 
そして、その知識が謎を解く重要な鍵なのかと思えば、
実は、次の章では全然関係ないことが分かり、読者は翻弄されるばかり。
けれども、魅力的。
こんな探偵を作り上げ、自分についても煙に巻くような言動を繰り返した男、ヴァン・ダイン。
その謎を解き起こしたのが本書である。
 
最初のページを開いて、「キリスト教世界一の大うそつき」と評されていることに、
思わずどきりとしながら読み進むと、現れるのは、自分自身で自分を常に作り上げてきた男、
ウィラード・ハンティン・ライト。
25歳にして、ニューヨークの雑誌編集者に抜擢されてやってきたこの男は、
怖いほどの自信家で、あっという間に雑誌の方向性を変え、
就任五ヶ月目にして、ヨーロッパに優れた作品を手に入れてくるといって旅立った。
 なんて、華々しい。
けれども、この素晴らしい出発は、雑誌の方向転換を嫌った発行人と読者によって、
あっという間に挫折してしまう。
 
それにしても、彼は何者なのだ?
その若さでこれだけの野心を抱き、
雑誌に独自の方向性を与えられる彼は、どんな教育を受けたのか?

 やがて、この伝記作家によって明らかにされるのは、
探偵ファイロ・ヴァンスの富裕で高い教養に満ちたイメージとは違う一人の少年の姿だ。

彼が、どのようにして自分自身を作っていくかの手がかりはいくつかある。
例えば、オスカー・ワイルドとニーチェ。

 けれども、どうしてこんな風に、家族や妻や娘を自分の行く手をさえぎるものとして敵視し、
自分自身を破滅に向かって作っていったかはわからないままだ。

とにかくその短い人生で、彼は、次に、美術評論家として、
弟の画家スタントンと共にシンクロミズムという近代美術の運動を立ち上げる。
ニューヨークで、展覧会を開くのだが、大きな運動にはつながらず、失敗に終わる。

その後、文学者としての道を歩き始め、やがて挫折し、
最後にたどり着いたのが、推理小説なのだ。

時はまさにトーキー映画が始まる寸前。
作品はほとんど映画化され、作家ヴァン・ダインは、大きな成功と富を手にする。
ファイロ・ヴァンスそっくりの富裕な美術品収集家となり、
犬の繁殖や、熱帯魚に情熱を注ぐ、贅沢なペントハウスの住人になる。
やがて、その人生にも、作品の人気にもかげりが見えてくる。
だが、その最後の章は読者のお楽しみのために取っておこう。

読者は、作家の作り上げた主人公と作家を混同しがちだが、
オスカー・ワイルドも、このヴァン・ダインも、
自分自身を作り上げる過程で作家になったようなところがあり、
その作品の主人公のように、破滅に向かわざるを得ない運命を担っているようだ。

欲を言えば、短くも数奇に飛んだ主人公の人生を描くあまり、
この伝記は、作品論に及んでいないところがあり、残念だ。

だが、巻末に付された、「ヴァン・ダインと日米探偵小説」論が、その不満をぬぐってくれた。
日本独自のこの作家への愛着と、本格派、新本格派の道のりを知ることができて嬉しい。
巻末の邦訳リスト、映画化リストも日本版独自の作成だという。
ファンにとっては、満足のいく一冊だろう。

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『説得』のおまけつき

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この本を手に取った人は、あるデジャ・ヴュ観を抱くだろう。
それは、ありとあらゆる解説や伝記の元になっているのがこの本だからなのだが、それだけではない。
作者が、ジェィンの実の甥だからだろうか、ここにはなにか、ジェィンを髣髴とさせるユーモアや皮肉を感じさせるものがあり、そこに、深い魅力を感じさせられるからなのだ。
 作者は、ジェィンが亡くなったときに19歳。それから50年の月日を経て70歳になってからこの本を執筆した。
そのため、貴重な証言をしてくれる人々は、すでに鬼籍に入ってしまっていた。
けれども、ジェインの最後の家の近くに住み、その日常生活を見ていたこと、
そして、ジェインが親族にあてて書いた手紙をすでに読んでいたことなど、
身内ならではの特権を生かし、生き生きとジェインの日々を語っている。

 たとえば、彼の協力者のジェインの姪たち。
彼女たちは、子供のときから可愛がられ、そのうちの一人は小説家を目指し、その後何冊かの本を出したという。

彼女たちの語る重要な証言はこうだ。

「叔母さまは、とてもすてきな面白い話、おもに、おとぎの国の話をしてくれましたが、
叔母さまのお話に出てくる妖精たちは、みんなそれぞれ個性を持っていました。
それらのお話は、そのときに即興で考えたものだと思いますが、その機会があれば二、三日続けられました。」

 別の姪二人は、ジェインの最後の家、チョーットン・コテッジに滞在している時、
叔母が、色々なごっこ遊びに付き合ってくれて、あるときは、

「私たち三人が大人になったと仮定して、舞踏会の翌日の私たちの会話を真似してくれました」
と、言う。

そして、もう一人は、

「ああ!それらのお話の一つでも思い出せればいいのですが!」

と、言うのだが、本当にそう思うと残念な話だ。

だが、それでもこれらの言葉から、ジェインの想像力に富んだ生き生きとした日々や、
彼女と接した子供たちのわくわくした気持ちが伝わってくる。
 
この他、兄弟、姉、友人に当てたジェインの手紙の引用の多くに、ジェインの性格が非常によく現れてくる。
さらに、これらの手紙の中に、その頃彼女が読んだ本などについて書かれていて、
本の貸し借りやその本について語ると約束をしていたりする記述を読むと、その時代の読書習慣や、
ジェインの得た知識、記憶力などをうかがい知ることができる。

 そして作者が、手紙の文章を抜粋して合成したりして、身近なゴシップを書いている文章を消してしまっていることは、
残念でありながら、時代を感じさせるところでもある。

 ジェインの一族、その人生等に関する伝記的記述、作品に対する当時の書評や著名人の意見などが語られた後、
十二章目に現れるのが、「『説得』の破棄された章」である。
このクライマックスとも言える場面の章を読み比べることは、読者にとっては実に堪らないお楽しみだろう。
  
 ジェインの日常生活についての様々な証言、
例えば、きしむドアを直させずに、人が来たらすぐ気づいて隠せるようにしながら、
誰にも気づかれないように居間でこっそり著作に励んでいたという不思議な生活。
ピアノを弾いていたこと。手先が器用で刺繍や裁縫が得意だったこと。
それらを語る作者の言葉に、その時代によしとされた女性像を感じさせられる。
そして、同時に、それでも、現在に通じる生き生きとした人物を作り上げていった、
ジェインの魅力を改めて感じるのだ。
  
 この本は、数々の資料や証言を通して、実に見事にジェインの姿を甦らせている。
ジェインの時代ならではの語りを知るためにも、是非、手元においておきたいと思った一冊である。

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紙の本ブラッドベリ年代記

2011/07/06 16:00

わくわくしすぎて、先に進めない…

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 これくらい、読者に待たれていた伝記はなかっただろう。
私も嬉しくて、冒頭の写真を見るだけでどきどきして、先に進めなかった。
例えば、祖父母の家の前で無邪気に座っている赤ちゃんブラッドベリの後ろにあるのは…。あのステンドガラス、「二階の下宿人」のステンドガラスじゃないか!もう、そこで心は物語の中に入り込んでしまうのだ。
 そして、作者の序文を読んでいるときにも同じ気分になってしまった。ブラッドベリの熱烈な愛読者である作者が、ブラッドベリに出会い、インタビュウし、伝記を書くまでに至る経緯だけでも一つの冒険談であるし、(だって、同じ愛読者じゃないか)その気持ちが痛いほど分かるところがあって、またまたどきどきして先に進めなかった。
 そして、本文。
いきなり第1章で読者はセーレムの魔女の世界に入り込まされる。ブラッドベリの一族の歴史から始まるページの中に、魔女裁判の文字を見つけたときの驚き。この告発を受けた女性は、運よく処刑は免れたらしいが、この事実だけでも、一族の秘密の物語を受け取った気分になりはしないだろうか?
 次に、ブラッドベリが、長い幼少期を過ごしたことを読むと、ああ、やはりという思いに捉えられる。スペイン風邪で急死した兄の後で生まれた一家の末っ子は、六歳まで哺乳瓶を与えられ、十歳ごろまで、スプーンで食べさせてもらうような過保護な育ち方をした。そして、このことが、母親の不安や心配性が、逆に悪夢と説明できない漆黒の地下世界に惹かれる原因となったと、ブラッドベリは語るのだ。
 生まれた育った緑濃いイリノイ州ウォーキガンに、『たんぽぽのお酒』の舞台を見、祖父や父親が一攫千金の夢を追ってネヴァダの砂漠へ探鉱に行き夢破れて戻る物語に、『火星年代記』の舞台が見ながら読み進んでいくと、不意にカーニヴァルの奇術師との出会いと「永遠に生きよ」の言葉に出くわす。これを元に、ブラッドベリは、毎日の創作を始めたのだと語られる。
 こうやって、始まった長い長い少年期、創作とコレクションの日々。
アメリカ大不況の下でハリウッドへ移住した一家と、ローラースケートをはいてハリウッド中を駆け抜け、サインと写真を取り捲る少年の姿。今で言うおたくの元祖のような少年ブラッドベリを知ることができる。
 やがて青年時代がやってくる。
街角で新聞の売り子をしながら、図書館で独学をし、ひたすら書いていく日々。SF協会で仲間たちと出会い、パルプ雑誌に作品が多数掲載されるようになり「パルプの詩人」と呼ばれるようになる。ニューヨークの一流雑誌に思い切って送った短編が売れ、(そのうちの一つは編集助手だった、トルーマン・カポーティがお蔵入りから救ったのだった)ニューヨークの文壇に受け入れられていく。
 そしてある日、ロサンゼルスの書店で、若い店員とは恋に落ち結婚する。
 ラジオ台本、最初の短編集『闇のカーニヴァル』。『火星年代記』『刺青の男』『華氏451度』。
物語が生まれ、出版され、ブラッドベリの評価が高まっていく過程は、一種のアメリカン・ドリ-ムだ。
 やがて、ジョン・ヒューストン監督とのどうしようもない出会い、『白鯨』の脚本化の物語、『緑の影、白い鯨』で描かれた陰鬱なアイルランド滞在の日々が語られる。
 そして、テレビの時代が来る。
ヒチコックのためのテレビ脚本。そして、「トワイライト・ゾーン」。ブラッドベリのアイディアが山ほど使われていたこの番組は、の作品の権利を買ったりせず、剽窃をしたらしいことがわかってくる。
 ニューヨーク万博、ウォルト・ディズニーとの出会い、そして、ジョンソン宇宙センターでの宇宙飛行士たちとの対話。こうやって読んでいくだけで、SFというものがアメリカの歴史の物語でもある気がしてしょうがない。
 おたく、マニア、カメラ小僧、永遠の少年。
あらゆる意味で否定的に語られるもの全てでありながら、人々の先駈けであったブラッドベリの生涯と創作は、ありがたいことにまだ続いている。
だからだろうか?この伝記は、残念なことにマニアが知りたい全てのことが記載されているにもかかわらず、伝記作品として評価ができないほど、作者の言葉が聞こえてこない。例えば、ブラッドベリの結婚生活の傷、二度にわたる浮気のことについても、書かれてはいるが作者による判断や解釈がないのは不思議だ。妻のマギーとも山ほど話し合っていながら、作者は何をしているのだろう?ここら辺が、本人が生きている間に書かれた伝記の難しいところであり、ブラッドベリの愛読者たる作者が、踏み込めず自分の作品となしきれなかったところでもある。
だから、これは、まだ伝記ではなく年代記。生々しい山ほどのインタビュウの成果が満ちあふれている。そして、この年代記が、愛読者たちの好奇心と夢を満足させる作品であることは、間違いない。


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紙の本わが住む村

2011/04/06 08:28

戦時下で語られた村の生活の歴史。

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

昭和11年春、鎌倉郡村岡村、
今は、藤沢市になっているあたりに、
菊栄は、ウズラの養鶏場を移して住み始めた。
ウズラの養鶏場は、戦争の始まりと共に縮小し、
馬鈴薯などを始めている。
そんな生活の中で、
周囲の老人などに聞き書きを始めたものを、
まとめたものらしい。
柳田国男に勧められたとも書いてある。

意外に典雅な文章で、
各章に、和歌やら『更級日記』や等が引用されているのだが、
生々しい古老からの聞き書きが面白い。

いわゆる東海道の街道筋の土地柄なので、
話は、雲助のことから始まる。
夏でも冬でも褌一丁で、
きりきり紐で巻いた財布を後ろにはさみ、
急な坂道の近くでゴロゴロしていて、
足弱だったり荷物が多い人の荷を、
ひったくるように背負って坂を越える。

お駄賃を貰うとそれで飲み食いし、
酒が入ると喧嘩をし、
刺し殺されたりすると、何処にでも穴を掘って埋めた。

汽車が通るまで、
そんな雲助がぞろぞろいたという。

東京でも九段下のあたりに立ちん坊というのがいて、
荷車を押したりにを背負っていく。

菊栄は、そんなことを思い出しながら聴いている。

「立ちん坊」という言葉を聞いたのは、
杉浦日向子の江戸ものの中だった。
江戸にさえ出れば何か仕事がある。
顔を真っ黒に塗って、
相方が、
「エー、昨日山の中から出た熊でござい」
と、言って歩くだけで酔狂な人から銭が貰えた。
坂の下に立っていて、
荷車を押せば銭が貰えるというわけで、
一日坂の下に立っているから、立ちん坊…。

大正の震災の頃まで、
見かけたという。

江戸はすぐそこ。

東京は何度も、
震災や戦争で、
江戸に戻りながら、
成長し続けてきたのだな…。

村の生活を語りながら、自由に時代を行き来していた菊栄の筆も、
やがて、戦時下の村の様子に至って終わっている。

八十過ぎの老婆たちが語る辛かったけれど、
行事によって区切られた、生活の魅力。
「お日待ち」という、
働かない、唯一甘いものやご馳走のある、
祭りの日のある生活。

夜になれば、若者たちが娘の居る家にやってきて、
夜鍋仕事を手伝いながら歌って夜を過ごす習慣のある生活。

生活の現代化と共に、
非常時である戦時下の元、
そういうメリハリのある生活が失われ、祭りはなくなった。

けれど、山へ行く楽しみだけが残っているといって、
山仕事を欠かさない老婆。

瞬時も働くのをやめない彼女たちの口から語る言葉を聞くために、
共に仕事を手伝いながら、話を聞く菊栄の姿が目に浮かぶ。

宮本百合子の日記の中に、山川菊栄についての印象を見つけた。

百合子が菊栄と出会ったのは、大正11年の7月9日。

「ロシア飢饉救済会」の発起人になってくれと、
与謝野晶子から頼まれたのだが、真の主宰者は山川菊栄だった。

「午後から基金救済会の相談があって大同へ行く。
 (中略)山川さんが、疲れ切ったようにして居、自分は心配になった。
 会ってみると、書かれたものにあるような傾きすぎたところが少なく、
 落ち切り、実に心持ちよい人だ。
 女らしい見栄、すまし、がちっともなく、
 どんな智識階級に入ってもおとりが見えないとともに
 どんな女事務員のような中に入っても、
 他処ものらしく見えない。
 只、服装などではない、人間味だ、その人の。
 かなり体は弱り、もうそう長くも生きられない由。
 おしいことと思う。
 もし彼女に何事かあれば、その後をうけ、
 あれだけしっかりした足場で、とにかく、
 一部の重鎮となる女の人はいないだろう。」

誰とでも、どこででも、それなりにとけ込める雰囲気の人だったらしい。
村でよそ者としてやって来ながら、
誰でも先生として仕事のやり方を教わり、
ジャガイモの植え付けを習ったり、
そして、そのイモが雨に濡れるとどんな風に腐ってしまうかを書いていく。

外から取材した民俗学の本ではなく、
内側から土地のものとして描いていく。
そんな、手法が取れたのも、
百合子の言うような菊栄の人間味だったのだろう。

 戦時中の理不尽な供出とそれに答えられない程の百姓の貧しさ。
襁褓用のあまり布や座布団なども見たこともないほどの生活。
現代との格差に驚きながら、
政府(軍部?)が人々の生活を把握していないことにも驚かされる。

 淡々と語られる、この口調に、社会主義者山川菊栄とは別の、
生活そのものの面白さを語る一人の女性の姿が見えてくる。

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紙の本乙女の日本史 文学編

2011/03/05 16:27

豪華絢爛、饒舌な文学史と、少女漫画による文学解釈の可能性

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 久々に実に面白い、文学史を読んだ。
イラストの可愛さや、「乙女」という言葉に、
漫画で描いた解説書かと思って手に取ってみたのだが、
読み始めるとその内容の豊富さ、情報量の多さに、
かなり充実した時間を過ごすことになった。
 
 この本の意図は、上代文学から始まって昭和の近現代文学
(万葉集から川端康成)までを、
「おじさん的解釈」では捉えきれないものとして読み解こうというもの。
従来唱えられてきた、文学史上の常識に、
茶々を入れるような形で、豊富な「異説」を次々展開している。

 国語の授業や文学史の授業の面白さは、
本来そういうものだったのではないだろうか?
教科書の定説に対して、
いかに、現代の研究では違う視点ができてきたか、
という「新説」や、その論拠について教え、論議すること。
けれども、受験勉強だけで、「国語」について学ぶことを終えたり、
大学を出てしまうと、文学について知る機会は実に少なくなってしまう。
 そんな立場にいる、元文学少女たち、
並びに、「文学」について議論をした若き日を思い出すあなたに、
ぴったりなのがこの本だ。
 
 この本を読んで再認識したことなのだが、
日本の文学について、決して見落としてはいけないのが、
「漫画」の役割である。
少女漫画の著しい発展の元、海外や日本の名作文学を、
「漫画」で読んで育った人々はとても多いだろう。
翻訳や再話が一つの解釈であると同じように、
文学の漫画化は、一つの翻訳作用、
漫画家によるその作品への一つの解釈の呈示なのだ。

 本書では、さまざまな漫画作者の作品を各章ごとに呈示して、
一つの文学論として漫画を読む可能性を示している。
例えば、上代文学の章では、
『万葉集』の中大兄皇子の長歌の解釈について述べている本文の他に、
そのページの一部に、
大和和紀の『天の果て地の限り』の一シーンが掲載されていて、
その作品の中で、その長歌を漫画作者がどう解釈しているのか、
が解説されている。
このようにして、作者の説の他にも、
異説としての漫画作品を読者は知ることができるのだ。
上代だけでも、この他に、美内すずえの『アマテラス』
野村美月原作、日吉丸晃作画『文学少女と美味しい噺』
長岡良子『初月の歌』が引用されていて、
少女漫画の世界の奥深さを痛感させられるのだ。
 
 各章ごとに「週刊歴女」という、
イラストやら、当時の有名人による人生相談が載った頁があり、
当時の文学上のスキャンダルな記事を読む楽しみもある。
 
 「特別読み切り」における、
かなりエロティックな、普段はあまり読まれない作品についての解釈、
例えば『我が身にたどる姫君』への解説とか、
後白河法皇の『梁塵秘抄』の読み解きが面白い。
さらに、「歌舞伎入門」もあり、実用的だ。

 各章にはこの上、従来と違う「定家」像―ガテン系を書いたコラムや、
「江戸の女流画家」について解説したコラムなど、
豊富な知識が散りばめられ、豪華と云うしかない構成になっている。

 近代文学の文豪たちへのBL的解釈、
現代文学者の中に潜む美少女としての自己など、
違和感を覚えるむきも多いかもしれないが、
これも又、新説として面白い。

欲を言えば、近現代の女流文学者が、
樋口一葉と岡本かの子だけというのが物足りない。  
プロレタリア文学については、存在もしない様なのが残念だ。
乙女の視線でそのあたりを解釈したら、
いったい、どうなのだろうと思いにそそられる。

さあ、乙女たちよ、豪華絢爛、饒舌なこの文学史によって、
おじさんから文学を取り戻そう。
 

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紙の本デカルトの骨 死後の伝記

2011/01/25 15:10

髑髏を片手に、旅に出よう

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この本を手に取るとき、読者はまず、表紙絵にある頭蓋骨に目をやるだろう。
下顎のない、なにやら額に幾つかの文字の書かれた頭蓋骨。
これが、デカルトの、あのコギト・エルゴ・スムによって近代の知を開き、
その「二元論」により、科学への扉を開いた、大哲学者の頭脳を納めていた頭蓋骨なのだ。

 だが、冒頭「序」の章で、パリの人類博物館での風景、
著者の手にあっさりと頭蓋骨が渡される瞬間を読むと、
いいようのない違和感に満たされる。

 なぜ、頭蓋骨は博物館に置いてあるのか?
 その他の骨はどこにあるのか?
 頭蓋骨に書かれた文字とはなにか?

読者はいくつもの疑問を胸に抱くに違いない。

そんな、読者を尻目に、作者は、ゆうゆうと、
デカルトの死から骨の伝記を語り始める。

 デカルトは、遠い異国の地、ストックホルムでその死を迎えた。
彼の死体は、カソリックであるが為に、スウェーデンの教会には受け入れられず、
身寄りのない子供達の墓に埋葬される。

16年後、遺骸は掘り起こされ、銅の小さな棺に入れられ、
フランスに帰ったはずであった。
そして、待ちかまえていたデカルト主義者たちにより、
手厚い儀式の上、サント・ジュヌヴィエーヴ教会に埋葬された。

だが、革命が起きた。

そこからまた、デカルトの骨はさまよい出す。
略奪された教会から、博物館の庭の石の棺へ。
パンテオンに送られようとして、中止され、
サンジェルマン・デ・プレ教会に三度目に埋葬され、
そこで、初めて人々は気づくのだ。

頭蓋骨はどこに?


 やがて、スウェーデンで見つかった頭蓋骨がフランスに送られてくる。
フランスへの移送の際に盗まれたとされるこの頭蓋骨には、
ラテン語の詩、スウェーデン語による所有者の辞など、
さまざまな文字が書き込まれていた。
フランスのアカデミーは、何度も、真贋の鑑定を繰り返し、
一応、肖像画を元にした比較により、本物として鑑定し、
頭蓋骨は現在の人類博物館に展示されるようになる。

 実は、此処までの話は意外に知られてきた物語である。
例えば、著名なデカルト学者、所雄章著の『知られざるデカルト』の中でも、
この行程は描かれている。
そして、この頭蓋骨が本物だとされるなら、何故、その他の骨と共に葬らずに、
博物館の倉庫などに置いているのかという疑問を呈している。
 
 ネアンデルタール人の頭蓋骨等と共に、博物館に展示されていたというこの頭蓋骨。
実は博物館の中でも行方不明になったりしていて、フランス人によって、
本当に敬意を受けているとは思えない部分もある。
本物として手厚く埋葬されない理由を、もっと追求すべきではないだろうか。
例えば、DNA鑑定という手法で、胴体部分と頭蓋骨の鑑定をしてしまえば、
事は簡単なのではないだろうかと、読者は思うに違いない。
けれども、その時には、頭蓋骨か、胴体の骨、どちらかが又偽物となる可能性もある。
ここから又、別の物語が始まっていくような予感さえする…。

 作者が語るこの骨の物語の中には、記念に右手の人差し指の骨を所望した男や、
小さな骨片を円環の形に切り、指輪として友人に贈った男等も現れ、
その時代や、デカルトへの認識や憧れが、骨の欠片から見えてくるようになっている。

 骨の旅を巡るこの物語は、西洋史の中でのデカルトの思想の影響を語りながら、
現代を見つめ直すよう読者を促す。科学に於いて、医学に於いて、デカルトの新しい思想が当時の人々に与えた衝撃と希望を、デカルトの骨を巡る旅にからめて作者は描いてみせる。それは、なんと現代の日本へも繋がり、「顔学」という新しい学問の成立と同時に、
かの頭蓋骨は、はるばる日本に旅をしてきたこともあったという。
さらに、作者にとっては、最後には、現代における宗教と無宗教派の対立までをも視野に入れて、デカルトの思想の中に解決策を探るものとなっていく。
 そこまで、読み取って行くことは、なかなか難しいのだが、改めて、デカルトが作り上げた世界の様相を見つめ直す為に、哲学史と哲学書を手に取りたくなるような、そんな書物となっている。
さあ、頭蓋骨を片手に、遙かな思索の旅へと誘われてみよう。 

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紙の本海と灯台の本

2010/12/29 09:10

灯台のようであれ!

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 出会いは、東京国際子ども図書館。

「絵本の黄金時代 1920~1930年代
-子どもたちに託された伝言」

という展示で、
ガラスケースの中に開かれていた頁を見た途端、
動けなくなってしまった。

群青色の夜の海の中、三艘の大型船が、
灯台の光を目指して進んでいく。
群青の海に印された白い光の道。
光の中に浮かび上がる灯台の赤い輪郭。
背後に待つ夜の港の赤い光。
浮かび上がるクレーン。

働く港。
働く船。

頭の中に、今まで訪れた、全ての港が甦った。

神戸、横浜、小樽、函館、東京湾。

そして、その絵の下の方に記された、
ロシア語の言葉をなすことなく、見つめ続けた。
ロシア語は読めない。
でも、この文字のなんと魅力的なことだろう。

そして、解説に目をやり、驚いたのだ。

この絵本が、マヤコフスキーの作品とは…。

彼の最後の言葉、「愛の小舟…」を思い浮かべながら、
その日は、展示会場を立ち去ったのだけれど、
家に帰って、その感動をミクシイに書き散らした途端、
友人からこの翻訳がでていることを、教えてもらえたのだ。

早速、取り寄せ、ガラスケースの中で
開くことの出来なかったページを見る嬉しさに浸った。

ここにあるのは、
荒れた海で戦う船長と同じくらい力強い、
灯台守の姿。

そして、赤と青と黒の抑えた色で表現される、
ロシア・アヴァンギャルドの絵本の魅力そのものだ。

だが、なんといっても、マヤコフスキーの言葉。
この言葉に導かれて、夜の海を行く、楽しさを、
何度も何度も味わえるのだ。

解説には、
亀山郁夫著の「『灯台』としてのマヤコフスキー」
島多代著「1920年代のソビエト絵本」
松谷さやか著「訳者あとがき」
の三つが記されていて、
マヤコフスキーについて、
そして、画家ポクロフスキーのいまだ不明な経歴の状況など、
表現の自由が侵されるときの不安を胸に、
この時代について知ることができた。

2010年ももう終わりだ。
マヤコフスキーの「私の本は呼びかける。」
で、締めくくられるメッセージを胸に、
新しい年を目指そうと思う。

 「こどもたちよ
  灯台のようであれ!」

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紙の本ミッドナイト・ララバイ

2010/10/20 11:30

4年ぶりのヴィクと1966年の夏

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

物語はいきなり、従妹のペトラの行方不明で幕を開ける。

大金持ちでカンザスに住む、ヴィクとは不仲の叔父ピーターの娘。父親の友人の息子の選挙事務所を手伝うためにシカゴに来たばっかり。若くて美人で、大学を出たての従妹は、瞬く間に持ち前の明るさで、ヴィクの友人でアパートの階下に住む老人ミスタ・コントレーラスを魅了してしまい、頻繁に訪ねてきては、一族の過去を調べようと、ヴィクを引っ張り回していた。

いったい、どうして?
 
ヴィクは恋人のジャーナリストと別れて、シカゴに帰ってきたところ。ふとした縁で、病院で世話になった牧師から、人捜しを頼まれた。それは、40年も前に行方不明になったアフリカ系老女の息子を捜すこと。何故か非協力的なその母親にてこずりながら、嫌々仕事を開始したヴィク。だが、彼女はシカゴの町で、次々に奇妙な敵意に、取り囲まれていく。

やがて、物語は、40年前の夏、1966年の夏、キング牧師のいた夏に戻っていく。警官だったヴィクの父親が、殆ど家に戻れなかったほど、暴動で荒れ狂ったあの夏に…。
 
父親への疑惑、ある修道女の死。国土安全保障省の危機管理局とFBIの威圧的な捜査が彼女に迫り、ヴィクは心身とも窮地に追い込まれていく。
 
果たして、ペトラは無事なのか?あの夏の真実とは?行方不明の少年はどこに?
 
相変わらず、かなりハードな立場に追い込まれるヴィクの冒険に、思わず力みながら読み進んでいく内に、現代のアメリカの異様な実態、「愛国者法」施行後の奇妙な実態に、読者の目は向けさせられる。警察やFBIによる盗聴が無条件に許され、ジャーナリズムが検閲を受ける社会の怖さが、物語の中で、垣間見えてくるのだ。

なかなか気の重い部分もある物語なのだが、ただ一つの救いは、音楽だ。魅力的なコントラバス奏者の隣人も登場する。こう言うだけで、このシリーズを愛する読者は、ロマンスの気配を感じたり、或いは、横溝正史の某作品を思い浮かべたりするだろう。が、ここでは、作者は期待を裏切らない、とだけ言っておこう。

 4年ぶりのヴィクの物語は、作者の中にある40年前の暑い夏を、語ってきかせてくれる。このシカゴの夏こそ、パレツキーがヴィクを生み出す根源の夏だと、自伝『沈黙の時代に書くということ ポスト9・11を生きる作家の選択』にもあった。
 
ヴィクの誕生した夏に出会い、この現代社会を生きぬいていく、作者とヴィクとの熱い思いを共にしよう。
 

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ヴィクとパレツキーの自伝と、現在という恐怖の時代について

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 初めて、この書物を手にしたとき、これは、サラ・パレツキーのただの自伝だと思っていた。シカゴの名高い女探偵「V.I.ウォーショースキー」の生みの親。強く逞しく、恋人が「君は強すぎる…」と言って、去っていくような女性を描いた人は、どんな人生を送ってきたのだろうと思ってきたから…。けれども、この書物は、ただの自伝ではなかった。現在のアメリカへの告発の書なのだ。

作者は 1947年6月8日生まれ。こう書くと、この年号に深い意味を感じる。日本では、団塊の世代と呼ばれている世代。アメリカでは、反人種差別運動とウーマンリブ運動を知る人々の世代なのだ。

ある意味、「若者の時代」の作家でもある。

 この自伝を読んでいくと、彼女が作り上げた主人公が、何故、フェミニストで、自立した女性で、ハードボイルドな逞しい探偵であるかが分かってくる気がする。そして、それが、作者が、どういう時代を生きてきたからなのかも分かってくる。
 
それほど、この自伝の中では、彼女の若い頃の時代についての言及が多いのだ。そして、その時代を語ることが、アメリカの現代史を語り直すことでもあるようだ。
これは、パレツキーの自伝であるが、同時に、ヴィク誕生の物語でもある。是非、若い頃の彼女と共に、1966年8月のシカゴに降り立ち、そこで、ヴィクが生まれることになったアメリカの歴史の1頁、キング牧師との出会いを見てもらいたい。

 ところで、私は、いつも彼女と同時期にハードボイルドな女探偵を作り上げたスー・グラフトンの主人公キンジー・ミルホーンと、パレツスキーのヴィクを比べずにはいられない。二人の違いの中に、それぞれの作家が自己投影したものが見えてくるのだ。
例えば、 キンジーは貧乏で、知り合いもクライアント以外には、特に大金持ちはいない。
ヴィクには、親友のロティという医師のおかげで、富裕層の知り合いが何人かいるし、顧客も経営者が多い。
キンジーは気取らず、着るものに無頓着で、ドレスは一枚しか持っていないが、ヴィクは企業相手の仕事が多いので、絹のブラウスを着ることが多い。
キンジーは無趣味だが、ヴィクは母親がイタリア系ユダヤ人の移民で、オペラ歌手を目指していたので、自身も音楽に造詣が深い。
キンジーは食べるものに興味がないが、
(でも、ピクルスとピーナッツバターのサンドイッチは作る)
ヴィクはほんの少しは料理をするし、(やたらと、トーフの炒め物がまずそうな感じで出てくるが、 イタリア風オムレツは得意らしい)
舌が少しは肥えているようだ。
キンジーもヴィクも恋人が次々現れるのだが、 どうもヴィクの方が、「君は強すぎる」という理由でふられることが多い気がする。
キンジーは2回結婚(離婚も)している。
相手は、警官仲間の年上の男と、天使のように美しい麻薬中毒のミュージシャン。
ヴィクは、一度だけ結婚(もちろん離婚)していて、相手は、ロースクールの同級生で、弁護士。
二人とも、白人女性で、貧乏な出自となっている。二人とも両親を亡くしている。
でも、キンジーは幼い頃に事故で両親ともになくし、独身の伯母に育てられた。そして、学歴はハイスクールまでで、その後、警官になっている。
ヴィクは、移民の両親に育てられ、大学を出してもらい、弁護士になった。両親はそれぞれ、別の時期に病死している。

何故、こんなに長々と比較したかというと、この自伝で知った、パレツキーの生い立ちが、作品にどう反映されているかが分かるからだ。

パレツキーは、司書の母と教授の父を持ち、男兄弟3人のうち、下の弟二人の生活の面倒を常に任されて育った。(7歳の時から毎週土曜、彼らのためにパンを焼き続けたといっている)インテリ家庭で育った割には、家庭内では、女の子というだけでかなりの差別を受けていたらしい。進学するにおいても、父親からの援助が受けられず、苦学して、博士号を取ったことなどが、この自伝で語られている。また、大学内でも教授たちによるセクハラ的言動や差別が当たり前だった時代についても、語られている。
 作者が主人公を、一人っ子に設定し、警官の娘という低所得家庭の出自ながら愛情深く育てられ、頑張って弁護士になった、という設定を見ると、パレツキー自身の憧れていたもの、自己投影した部分などがわかって来る気がする。 
 では、そんな彼女がどういう男性と結婚したか、については、お楽しみにとっておきたいのだが、実は殆ど語られていないのが、心残りなのだ。「彼」については、1冊の本がかけるくらい興味深い人物だと言ってはいるのだが…。
 何故、現在の自分について語る部分が少ないのだろう?それは、彼女がこの自伝を通して語りたかったことが、実は、アメリカの現状と、沈黙を強いられる作家がどのように声を上げていくかということだからなのだ。
 9・11以降、アメリカで施行された「愛国者法」の問答無用な恐ろしさを彼女は語る。テロを防ぐという理由の元に、アメリカ国民は自由を失いつつある。国家安全保障局とFBIによる捜査の恐ろしさ、全ての通信が、メールが、電話が盗聴され、図書館の自由も失われてしまう時代の恐ろしさを彼女は説く。
 彼女は、若い頃、ボランティアでシカゴを訪れ、キング牧師のデモに連なり、公民権運動に対する憎悪を目の当たりにした。それが彼女の人生を変え、ヴィクを生み出した。そんな彼女だからこそ、このような時代を生きぬき、どんなに、彼女とヴィクが疲れていようとも、物語を生み出して行くにちがいない。
 
 今後、この作家が沈黙を強いられる時代に、パレツキーとヴィクがどう戦っていくのかを、物語の中で読み込んでいくことが、現代アメリカを知る契機となっていくだろう。

 4年ぶりに、新作の翻訳もでたようだ。愛読者としては、本当に様々な意味で期待に燃えるところである。

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紙の本ユイスマンスとオカルティズム

2010/08/17 10:53

オカルトの時代という歴史的視点とユイスマンス

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 私は、昔から、ユイスマンスが好きだった。『さかしま』で、館に籠もり、口中オルガンという奇妙なカクテル製造器で飲み物を作り、甲羅に象眼した生きた亀を部屋の中に歩かせて楽しむ主人公。
王侯貴族が繰り広げた豪奢とは違う、個人の夢と想像力が作り上げる贅沢と美の魅力。
この主人公デ・ゼッサントこそ、デカダンスの極致の魔王のような男、と思いきや、実は脆弱で胃が弱く、最後はふらふらになって館から担ぎ出されてしまう。そんな物語の奇妙さには、あっけにとられた。そして、美術評論の章だけが傑出していて物語からはずれてしまうように、ところどころ作者が主人公のふりをして顔を出しているのにも興味を覚えた。

 さらに、『彼方』の主人公の小説家デュルタルが、魅惑的な女性に恋を仕掛けられても奇妙に及び腰で、友人と教会の鐘楼に昇って会食して語り合うのだけが楽しみと、という設定の不思議さにも驚いた。中世の青髭とよばれたジル・ド・レー元帥を描く小説の為に、愛人に手引きを頼んで黒ミサに行ったときも、不潔で浅薄な狂気に満ちた様子にうんざりして出てきてしまい、彼女とも縁を切る。

 彼等、物語の主人公たちは、実に耽美的で、奇妙な食物にも凝り、象徴主義的な美の世界や中世の幻想に読者を誘いこむ。けれども、本人は妙に醒めて弱々しい。まるで、現代の自分たちのようで、何故か違和感がない。魔術や悪魔主義に出会っても、夢中になって入れあげたりしない。あくまで、神秘の外側にいる。そんな彼らを主人公にしたからこそ、こうやって今も共感を持って読まれている気がするのだ。
 
 そして、ユイスマンス本人が最終的にカソリックに改宗したと知ったときも、まあ、フランス人だからだろうと思い、『出発』『大伽藍』『腐乱の華』と読み進んでも、『彼方』からの主人公である小説家デユルタルの、全ての物事の外側にいる人間の視線に共感を持って、宗教を外部からうさんくさげに見る自分にだぶらして読んできた。
 
 けれども、今回のこの作品によって、ユイスマンスの生きた時代とその神秘主義とについて、深く知り、考察する事ができた。
歴史的な視点を持ってこの時代を見ること。さらにユイスマンスの内部への果敢な分析を行うこと。
作者のこの見事な手さばきにより、安易な共感では届かない、この時代とユイスマンス自身が持った、神秘への希求が顕わになっていったのだ。

 本書は、三部の構成からなっている。

 第一部では読者に、聖母マリアが出現した時代としての19世紀を語る。
出現とは、聖母マリアが現れて、神秘的な予言をして消え去るという現象で、この超自然現象とマリア崇拝を取り込むことによって、カソリックが、大革命以降の損失の立て直しを図ったのだという。
19世紀をマリア出現の時代としてみること、それは同時に、マリア異端派の出現と、オカルティズムの時代としてこの世紀を見ることになるというのだ。
 更にこの部の第三章は、ユイスマンスにとっての二つ重要なテーマ「閉鎖された空間」と「女性と食物」について、ラカンそして、クリステヴァの「おぞましさの概念」によって、かなり専門的な読み解きがおこなわれている。ユイスマンスの女性嫌い、食物、および食事等に対する奇妙な記述は、私にとって、実に魅力的であり重要な視点である為、この章は実に面白かった。より詳しい内容を、論文等で読み込んでいきたくなる。

 第二部では、『彼方』の悪魔主義についての知識を求めるため、親交を持ったとされるブーラン元神父について述べられ、その「流体」の思想が語られていく。まるでファンタジーの世界のように魔法合戦が行われ、ガイタによるオカルト結社「薔薇十字」により、呪い殺されたといわれるリヨンの元神父ブーラン、別名ジョアネス博士。彼が、ユイスマンスに与えた影響の深さは、『彼方』のためのかりそめの親交などというものではなかったことがわかっていく。

 第三部「オカルトから神秘へ」に於いて、作者は『出発』以前のテキストであり未完の原稿『至高所』(未訳)を駆使し、カトリックに回心するまでのユイスマンスの内部の暗黒について解き明かしてみせる。
神秘主義の門口に立ったユイスマンスが、ブーランの「流体」の概念が深く影響を及ぼしていた事が示される。そして、回心に至るユイスマンス独自の過程が鋭く分析されていく。
 回心後のユイスマンスについては、拒食症の聖女リドヴィナを描いた『腐乱の華』に示されたおぞましき美の寓話性、未訳の『修練士』で書かれている、修道院の移転によって潰えた最後の閉ざされた空間への夢と、それによる信仰への揺らぎの可能性等々、謎は多く、私は今後とも、この書を片手に、思考を促され続けることだろう。

 第一次世界大戦へ向かう直前のベル・エポックとして語られる前世紀末。その最後に現れたデカダンスの象徴のようなユイスマンスの文学。実はその時代が、いかにオカルティズムにとらわれていたかを描き、現代への警報として呈示してみせるこの作品で、作者は結びの言葉において、現代の持つ危険性への警告をならしている。
(安易に、パワースポットへ向かう今の風潮の裏には何があるのだろうと、思わず考えてしまう。)

 実に豊富な主要参考文献の索引は勿論、「関係略年表」「ユイスマンスの小説とその関連作品の概要」が巻末についているのも、便利で有り難く、研究者は云うに及ばず、なかなか全著作を読めない読者にも、今後作品を読み進めていくよい助けになるだろう。

 ユイスマンスの研究については勿論、さらに、19世紀という時代の特異性について知る上でも、必読の書といって間違いない書物である。

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紙の本くいいじ 食べ物連載 上巻

2010/06/13 17:19

食べ物について空想すること

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 漫画家である作者が書いた食べ物にまつわるこのエッセイは、
とてもおいしそうで、そして、人の持つ「食欲」というものへの
不思議に満ちている。
 御本人が、
「旺盛なのは食欲くらい」
と、いうだけあっって、
例えば、ひたすら出前のパスタを食べる「デリバリ」の章や、
牡蠣を食べる事に対するスリリングな気持ちに満ちた「牡蠣」の章
など読むと、信じられない程の大量の食物が描かれている。
また、「差し入れ」や「漫画家シチュー」の章は、
漫画家特有の食生活をのぞかせてくれる。
そして、この食欲は、漫画家生活が生み出す独特のものなのだろうかと、
思わず考えさせられてしまう。

これとは逆に、「おもてなし」にある、
来客の為に、急に大量の料理を、
冷蔵庫の中にあるだけのもので作り出す話などは、
主婦ならば一度は体験した事のあるスリリングな体験で、
作者と一体になって、血湧き肉躍る感じで読んでしまうだろう。
(冬瓜の水晶煮のおいしそうなこと…)

けれども、なにより、面白かったのは、
「食欲」に対する「想像力」の力を感じさせるエッセイの数々だ。

たとえば、「漫画と食事」の章の『ガラスの仮面』の大福のシーンや
『悪魔の花嫁』のケーキの場面だけが記憶に残っているというもの。
ご本人が、甘いものは苦手だというのに、食べ物場面が頭の中に残り、
とろけるような食感まで感じてしまうという不思議。

さらに、「食べたい物」の章にある、
春の山を和菓子にし、夕陽を半熟卵にして、
夜の光を銀のピックでさして口に入れるという数々の空想の、
美しくて実感がこもっているところ。
和菓子というのは、そもそも季節を表して作っているのだろうけれど、
夕陽や夜の光の味を想像する作者の食欲のたくましさと繊細さには、
心打たれる思いがするのだ。

全ての章のイラストは、もちろん作者によるものなのだが、
それ以外にも時たま章の最後に、おまけが描かれている。
「今週の気がきいたもの」と題された、
胡桃と胡桃のリキュールの絵とか、
「今週の猫にはあげない」という、
カツオブシ+醤油にバターも入れたネコマンマの絵とか、
「今週の食べたかったのよ!!!」という、
分厚いホットケーキの絵等々は、どれも、おいしそうで、
湯気が立っていて、とろりととろけだしそうで、
本文中の挿絵もそうなのだが、全て白黒の絵なのに、
なんでここまで、食欲をそそるのだろうと思うと、
これまた、食欲とは想像力の作用なのだなと、
不思議な気分になってしまうのだ。

 巻頭には、日本家屋の美しさを感じさせる安野家の台所の写真や、
美しいアンティークのガラス器などの「お気に入りの器」の写真の他、
「安野家の隠し味」と題された、
様々な調味料の写真なども掲載されていて、見逃せない。

 そして、巻末には、挿絵付きのメモのページがそれぞれの巻にあって、
まるで、レシピの載ったお料理の本のような体裁になっている。

 実際に作れる料理や、取り寄せたり、食べに行ったり出来る料理も、
幾つか載っているけれど、
それより何より、空想の中で思い切りお腹が一杯になれる、
楽しくて、そして不思議な本なのだ。

この書評は、上下巻共通の物です。

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紙の本消えた王子 上

2010/05/25 17:04

不思議な少年

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 不思議な少年が歩いている。
道行く人はふと振り返り、イギリス人ではないなあ、と、少年を見送る。
彼の名はマルコ。
身なりは貧しいが、きりっとした面立ち、
12歳にしては身長も高く、しっかりとしたすばらしい体格だ。

 彼は父ロリスタンと、軍隊上がりの召使いと三人で、
ロンドンの貧しい街角に住み着いている。
その前はロシア、フランス、ドイツと、あらゆる国をさまよってきた。
そして、父親によって教育を受け、
あらゆる国の図書館や美術館で、自分で様々なことを学んできた。
何よりも、沈黙を守ること、その国の言葉でしか喋らないこと、
そして祖国のために忠誠を誓い戦士となることを、学んできたのだ。

 それはすべて、少年たちの祖国、
ヨーロッパの小国サマヴィアのためだった。
マルコは、父親と共にサマヴィアのために尽くすために、
訓練を積んでいるのだった。
ある日、いきなりロンドンの街角で、
サマヴィアの言葉で話しかけられても、動ぜずとぼけられる程に。
そして、馬車に乗り込んだイギリス国王が、
街角で敬礼して見送るその少年を見て、
まるで若い軍人のように決まっているというように…。
彼は、すでに目に見えない軍に所属しているのだった。

 ある日、マルコは足の不自由な少年ラットが、台車に乗って、
周囲の少年たちに、サマヴィアの情勢について、
情熱的に語っているのを見かける。
彼らの仲間に入り、サマヴィアについて、
そして、その小国に伝わる「消えた王子」の伝説について、
マルコは語って聞かせる。
 
五〇〇年前、悪辣な治世をしいた王に対し、
国民たちは、善良な王子を跡継ぎにと、反乱を起こした。
だが、民衆は、王子が謎のようにどこかに消え去ったことを知る。
それきり、サマヴィアの国は、反乱を率いた貴族が王につき、
反対勢力が内乱を起こす、ということを繰り返してきた。
国は貧しくなり、周辺の強国は、
虎視眈々とサマヴィアを狙ってきたという。
だが、王子は実は誰かに襲われて怪我をしたところを羊飼いに救われ、
国境を越え、ある修道院で体を癒し、
時が来るのを待って姿を消したという。
人々は、いつか、王子が姿を現すのを待ち続けているのだ…。
 
 ラットは軍人に憧れ、体が悪いのに仲間と軍事教練ごっこをしていた。
そして、ある日、元新聞記者の父親から、
サマヴィアの秘密組織の話を聞いてくる。
そして、様々な国に散らばるサマヴィアの支持者に、
秘密の合図を伝える伝達者になるというゲームを思いついて、
仲間の少年たちに話すのだった。

 やがて、ラットの父親が急死したことから、
ラットは、マルコの家で暮らすようになり、
サマヴィアの運命に自らを巻き込んでいくことになる。

 父ロリスタンに届けられた秘密の伝言。
マルコを狙う怪しげなスパイの女性。
情勢の変化を見て、ラットは松葉杖で歩けるように、自分を鍛え出す。
そして、マルコと二人で、様々な鍛錬を始めるのだった…。

 二人は、真に、「合図の伝達者」となれるのだろうか。
そして、消えた王子は、どのように姿を現すのだろうか?
物語は思いもかけない結末へと向かっていく…。

 一九九四年に出た、『夢の狩り人』というバーネットの伝記では、
バーネットの優れた時代性と国際性が表れた作品と、
評価されていたこの物語。
確かに歴史を知る人ならば、誰でも、
あの第1次大戦頃のヨーロッパを思い浮かべるに違いない。

しかし、この作品は、今となっては、
とても奇妙に思えるところも多いだろう。
まず、少女が一人も出てこない。
そして、ゲームといいながら、
大人顔負けの軍事教練に興じる貧しい少年たちの姿や、
人智を越えたところにあるロリスタンという男性の魅力のあり方等々。

けれども、ここにリアリティを与えるのは、
足が不自由でありながらも将軍になりうる才能を持ち、
軍人として仕えることに激しく憧れを持つラット少年の存在だ。
燃えるような憧れをロリスタンに抱き、
嫉妬に身を焼くラットの激しい感情に、
物語が動かされ、生きてくる。

翻訳者中村妙子さんは、
少女時代に『漂泊の王子』という抄訳を読んでから、
長い年月、この本の続きを読みたいと思い、
機会があったら全訳したいと思い続けていたという。
その、情熱に心からの尊敬と感謝の気持ちを抱かずにはいられない。

バーネットが、亡くなった長男への愛情を
その姿に書き込んで見せたというマルコの姿。
もう一人のセドリックを見つけに、
物語のロンドンをもう一度さまよってみよう。

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二つの像

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 代々続く学者の家として名高い家に生まれ、四歳の時から内親王のお相手を務め、女子学習院でも同級生として過ごし、結婚後、姑、大姑を見送った後に、独学で学問を始め、論文を投稿し続けて、後に、大学教授となった女性。
 
 夫の死後、国会図書館に非常勤で務め、その間、非常勤職員の待遇改善運動をした女性。大学教授を辞めた後には、清泉女子大学の第二次セクハラ事件裁判を支援する研究者の会の代表として、裁判に関わり、勝訴を勝ち取った女性。

 何だか、名家に生まれたお嬢さま学者というレッテルを貼られてしまいそうな前者の見方が先行していた彼女の人生には、一種の闘士のように思える後者の女性が同時にいるのだ。
  本書を読んでこのことに驚くと共に、一人で学び続けることの力というものを、しみじみ感じさせられた。

 たとえば、戦中学びたくても学べず、勤労奉仕の日々の中で、仲間をつのって、先生のお宅で直接講義を受けていた、という話の中で、みんながお菓子を焼いてお礼に持って来たということが書かれている。家が焼かれてしまったので、私は作らなかったという言葉に、思わずはっとさせられる。家が焼夷弾で焼かれても、勉強はやめていなかったのだ、と。
 又、戦後、論文を書いても、女子学習院出では、大学に論文を発表することも出来なかったということにも、驚かされた。そんななかで、常に、審査を受けて、機関雑誌に投稿し続けてきたのだ。
 そして、心身共にくたくたになるようなセクハラ裁判の中でも、幾多の本を刊行してきた。それどころか、その仕事があったからこそ、もったようなものだった、
「勉強はいつも逃げ場です」
と、言い切るのだ。

 大正、昭和、平成を生き抜いた彼女の眼が見た、そして、宮様のお相手をしてきたからこそ見える、皇室のあり方。そして、学問の仕方。
彼女の言葉の中に、余人には決して語れない重みのある視点がある。だからこそ、この本の題名は、『岩佐美代子の眼』なのだろう。   

 今後の岩佐美代子氏の著書を読み進めるのにとても役立つ、ご本人による全著書の解題(語り)付きのこの本は、学問をすることの楽しさと力を教えてくれ、古典研究に進む人びとの肩を、力強く押してくれるだろう。
 
 私自身が彼女の著書を読むきっかけにもなった「萩の戸」の新説を生んだ彼女の眼、平安時代の世界を見事に立体構成して見せたその眼力の強さの秘密を、少し教えてもらったようで嬉しい。そんな風に、感じさせてくれる、魅力に満ちた聞き書きの書物である。

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紙の本古書の来歴

2010/03/28 12:07

古書にまつわるミステリーと、書物に関わる人々の時空を超えた物語

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 古書の保存修復の専門家の、オーストラリア人ハンナが、
ある1冊の本を調査保存するために、
ボスニアのサラエボに降り立つ。

その本は「サラエボ・ハガター」と呼ばれ、
中世のスペインでつくられた。
ユダヤ教では禁じられていた筈の
彩色された宗教画の挿絵入りのヘブライ語の書物。
国立博物館の学芸員オズレンが、
戦火の中保存した奇跡の書物。
彼と共に、国連職員や、国連平和軍の兵士、
ボスニアの警察官、銀行の警備員に囲まれて、
銀行の会議室で、ハンナは仕事を始める。

彼女に与えられた時間は1時間のみ。
その間に彼女がするのは、本をすっかり綺麗にすることではなく、
与えられた本の損傷はそのままに、
その本を研究できる程度に修復すること。

 その見事な絵で彩色された書物から見つかる様々な疑問点や、
書物が辿ってきた歴史を調査できる様々な品や謎を
ハンナは見つけ出す。 

それは、古書の最後に書き込まれたラテン語。
羊皮紙の損傷の中に現れた一粒の塩の結晶。
挿絵の中に描かれた、
ユダヤ教の祭りに参加している一人のアフリカ系女性の絵。
半透明の昆虫の羽。
綴じ糸に染みついた白い毛。
ワインの染み。
失われた銀細工の留め金。

 世界各地に散らばる研究者と出会いながら、
ハンナは様々な謎を調査していく。

と、平行して、書物に関わってきた全ての過去の人々の物語が、
語られていく。
ウィーンで、ヴェネチアで、スペインのタラゴナで、セビリアで、
エルサレムで、そして、また、このサラエボで…。

 書物が通り抜けてきた、危機、数々のユダヤ人迫害、
異端審問、ナチスによる焚書、革命。
その中で、書物を作り上げ、描き、守り続けた様々な人々が、
ハンナが見いだした謎の奥底に存在してきたのだ。
 
 ハンナ自身の物語も同じように現在の時の中で、展開していく。
超一流の脳外科医の母との関係、
語られなかった父親の謎、
そして、恋。

 やがて、この希少な古書が何度も何度も失われそうになる物語が、
再び、現在のハンナ自身の物語と絡み合っていく。
最後に、書物が救われるとき、
一つの謎を解き明かす新しい発見が、
書物の中から、美しく立ち現れてくる…。

ここにあるのは、一つの書物の中にある物語だけではなく、
その書物が辿ってきた時代を読むこと。
そんな古書への愛着を促す物語だ。
 
 書物を愛する人にはたまらない謎解きの物語であると共に、
人を愛することを知る女性たちの物語でもあり、
戦争や暴力や、開発という名の下に、
失われていく文化への警告に満ちた書でもある。

 けれども、とにかくメリハリのついた
一流のミステリーであることが、何よりもたまらない。
ページをめくる指が止められなくなる。
そして、読後、ピューリッツアー賞受賞者の
もとジャーナリストである作者の生き生きとした筆遣いに、
次回作への期待を感じずには居られなくなるだろう。

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