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みゆの父さんのレビュー一覧

投稿者:みゆの父

82 件中 16 件~ 30 件を表示

紙の本

論争の書

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

6500円という、さすがに高いハードカバー。「ジョン・ロック=社会契約論=近代思想」っていう高校の政経の知識しかないぼくには、ほとんど未知の世界といってもいい憲法思想史の専門書。なんでこんな本を買ってしまったんだろうか。でも、さすが元ロック少年の著者・愛敬さんだけあって、「はしがき」はお茶目さ爆発。

「母は、初めて活字化された私の論文の題名『ロック立憲主義思想の形成』をみて、不安そうにつぶやいた。『こんな研究していて、先生にしかられないの?』」

それは措いといて、「論争家」としてのロックに魅了された産物だけあって、この本も論争的。「ロック=近代思想家」って説も「ロック=古い思想家」って説も一刀両断にし、そのうえで「自律」と「反伝統主義」って視点からロックの近代性を再構築する。ついでに憲法学や政治思想の大家にケンカを売っとくことも忘れないのは、論争の書として立派。やっぱ高校レベルの知識だけじゃダメかぁ、と反省させられる一冊。

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紙の本

経済史研究のあるべき姿を示す

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岩波書店から刊行が始まった「世界歴史選書」は、山川出版社「歴史のフロンティア」シリーズが全共闘世代の研究の集大成だとしたら、それに続く世代の歴史研究の新しい息吹をようやくまとまったかたちで提示してくれそうで、ちょっと期待しているのだ。もちろん、ラインナップ全部じゃないけど。

その第1回配本であるこの本は、世界の(金融史というよりも)貨幣史をたどりながら、貨幣数量説を再検討し、貨幣の存立基盤を思索する。貨幣論に走るとなぜ皆ポストモダンチックになるのか、ちょっと不満だけど、経済史研究の側から経済理論に物申そうという姿勢は、経済史の研究として、おしゃれ。

ついでに、個人的には、経済理論を歴史に適用する「新しい経済史研究」に対する違和感の源が何か、ようやくわかってきた。「経済理論から歴史へ」というベクトルは応用経済学のものなのだ。「歴史から経済理論へ」という逆のベクトルに沿って歴史的な事実を経済理論に適用し、経済理論の修正を試みるのが経済史研究の存在意義ではないのだろうか。

まぁいいか。なによりもかによりも、第1章で紹介されてる、オーストリアで18世紀に作られた「マリア・テレジア銀貨」が20世紀始めの紅海沿岸で流通してたという事実には、驚愕の一言(その理由の説明はいまいちだけど)。 ほ、ほんまかいな。

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紙の本

政治の閉塞を乗り越えるために

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新年早々からこんな辛気臭い話をしたくないが、日本の政治に閉塞感が漂っている。その大きな原因は、やはり野党が閉塞しているからだろう。ぼくはとりたてて野党の支持者じゃないが、日本の政治が閉塞するのは困る。

今の野党の問題は、国政レベルで明確な対立軸や土俵が設定できていないこと、だから与党と正面から対立したり議論したりしているという印象を与えられないこと、にある。

でも個別の政策でまとまらないのは、集団だったら当たり前。大切なのは「きほんのき」にあたる対立軸なり土俵なりを設定できるかということ。そのうえで個別の政策対応がばらつくのは仕方ない。

ここで興味深いのが、イギリス労働党の経験。野党(とくに民主党)はイギリス労働党に注目してきたはずだけど、そこから何を学んだんだろうか。

イギリス労働党はサッチャー主義の時代に大打撃を受けたが、10年以上の苦闘を経て政権に戻った。では、その間、労働党は何をしてたのか。新しい顔を捜したり、個々の政策について内輪もめしたり、ということもあったが、それだけじゃない。

サッチャー主義が猛威を振るったのは、それまでの国政の対立軸や土俵を打破し、新しい対立軸や土俵を設定したからだ。だから、それに対抗するためには、かつての対立軸や土俵にしがみついたり、あるいはサッチャー主義の対立軸や土俵にのったりするわけにはいかない。自ら新しい対立軸や土俵を作り出さなければならない。イギリス労働党は、野に下った時間を、この営みにあてた。

この本からは、「新しい対立軸や土俵の作り方」をめぐる労働党の経験を学ぶことができる。もちろん政党に全てを期待するわけじゃないけど、新しい対立軸や土俵を探して政治を活性化するのは、やっぱり政党の大切なしごとだろう。

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紙の本

豪快、逆手取り

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政府の意思決定プロセスの分析に「個人の効用の極大化」仮説を導入して「政府の非効率性」を説いた公共選択学派の路線をさらに突っ走り、「政府は市場とみなせるから、市場が効率的だったら政府も効率的に決まってるじゃん、だから公共選択学派の主張は間違ってるのだ」と決め付けてくれる快著。

もちろんまっとうな政治学の研究書だし、ぼくは政治学の素人だし、本屋で偶然みつけてなぜか買ってしまったという経緯だから、この本の本当の奥深さは全然わからん。でも、好きだなあ、こういう相手の議論を逆手に取ったラディカルで豪快な荒業は。

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紙の本

力を我らの手に

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翻訳の出版から4年もたってるっていうのに、まったく古くなってない。著者のユヌスさんはマイクロクレジットっていう新しい融資のあり方を考え出し、しかも実際に銀行を作って(この本によれば)成功してきた。そのユヌスさんが半生を語ったこの本には、貧困や銀行や起業のあり方についての新しい考え方が溢れてる。まったくもって、世界は広い。人間ってすごい。

貧しい人を見たら、僕らは助けたくなる。たしかに発展途上国(地域)を旅したら、そんな場面に何度も出会うだろうし、「いい人」ほど「助けたい」と思って寄付(慈善)してしまうんじゃないだろう。でも、ユヌスさんは「それじゃダメだ」っていう。なぜだろうか。

銀行から金を借りるときは担保が必要だ。僕はこれまで、それは当たり前だって思ってきた。しかも、今は「担保価値をちゃんと見抜けないから、不良債権が増える」って理屈で貸し渋りが進んでるし。でも、ユヌスさんは「それは大間違いだ」っていう。なぜだろうか。

起業っていうと、僕らは「ベンチャー企業だから、何か新しい技術やビジネス・モデルを持ってるに違いない」って思ってしまう。そして「既存の重厚長大産業が衰退してるから、これからは起業だ」みたいなセリフが新聞や雑誌のページに踊ってる。そして、僕らもそのセリフを真似てしまう。でも、ユヌスさんは「新しい技術もビジネス・モデルも必要ない」っていう。なぜだろうか。

バングラディシュで始まったマイクロクレジットは、発展途上国(地域)の人々が自力で貧困から脱出するための手段だった。でも、その底に流れてる経済思想は、僕らにとっても、他人事じゃない。嘘だと思ったら、うえの三つの疑問に対する答えを自分で考えてみてほしい。そして、わかんなかったら、この本を読んでみてほしい。きっと「マイクロクレジットが投げかけた問題は、僕らの日常生活にもふかく関わってる」ことがわかるはずだ。

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紙の本

紙の本現代思想の遭難者たち

2002/06/28 12:44

思想即漫画

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こんな本が出てしまっていいのだろうか。史上最強の現代思想解説書。漫画だからって甘く見たら、痛い目に会うだろうけれど、これ一冊あるだけで、何を言っているのかわからない原著を読む必要もないし、これまた何を言っているのか(あまり)わからない専門書を読む必要もないし、これまた何を言っているのか(やっぱり)わからない入門書を読む必要もない。あまたの現代思想家のベールを剥いだソーカル他『知の欺瞞』(岩波書店)に続いて、今度は、あまたの現代思想解説者のベールまで剥がす本が出てしまったわけだ。

考えてみれば、それも当然だろう(多分)。現代とは近代の後、つまりポストモダンだから、現代思想とは近代の後の出現した思考方法だ。その一方で、近代の後に出現した表現方法は、普通はサブ・カルチュアと呼ばれている。その代表が漫画だ。それは、近代を代表する表現方法である本(小説、評論、研究)の〈サブ〉、つまり下に位置づけられてきたけれど、ちょっと考えれば、ポストモダンの思考方法を表現する方法として、これほど適したものはない。つまり、現代思想と漫画は一心同体、表裏一体、絶妙の組み合わせなのだ(多分)。

しかも、現代最強、切れ味抜群、おまけに知識豊富な四コマ漫画家が書いたとあっては、これはもう文句なし。ヴィトゲンシュタインとハーバーマスの一コマ漫画(一五四頁)を見ただけで、二人の思想の違いをわからせてしまうなんて、他の誰ができる芸当だろうか。ついでに、「ポストモダンとかなんとか言っているが、似たような小さなスーパーマーケットが差異化を競っているだけではないのか。フン」(一二六頁)なんて、過激だけれど結構あたっている台詞をジンメルに言わせてしまうなんて、誰が考えつくだろうか。

一刻も早く文庫化して、書を捨てずに町に出られるようにしてほしいものだ。

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紙の本

紙の本機会不平等

2001/10/15 11:57

読め。

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 この本の噂は前から聞いてた。出版されてから、もう一年近く経つし。でも、はっきりいって読みたくなかったから、ずっと敬遠して買わなかった。タイトルを見ても表紙を見ても、どう考えても楽しい気分になれそうもない本だったから。普通の感性を持ってる人間だったら、腹が立って仕方ないような内容に決まってるから。それでも、ちょっと気分を明るくしてくれた本を読んだので余勢を駆って、プラス、一週間以上も風邪が治らないので怒って体温を上げて直そうって考えて、とうとう手を付けてしまった。結果は期待以上の出来、つまり今の日本社会は僕が甘く予想してた以上に病んでるってことがわかった。可愛い娘をこんな社会に残していいものか、僕は悩んでる。

 この本は、著者の斉藤さんが、義務教育から遺伝子技術まで、様々な分野を見て歩いたルポルタージュだ。彼によると、義務教育では、ゆとり教育とか学校スリム化とか自己責任原則が叫ばれてるけど、実際は、エリートの子弟は私立学校に逃げて公私格差が広がってる。派遣労働は選択の幅や個人の自由を広げるっていうけど、実際は、派遣労働者は弱い立場に立たされてる。労働組合の幹部たちは労働者も自立して責任を分担しようって強調するけど、実際は、労働組合は労働者を守ってくれない。介護保険は介護される人の権利意識を高めるっていわれるけど、実際は、エリートに有利な方向で福祉のビジネス化が進んでる。女性の社会進出は大切だって叫ばれてるけど、そのために必要な学童保育はどんどん縮小されてる。遺伝子情報の解読が進んでて、個人の遺伝子特性に応じた薬ができるっていうメリットが強調されてるけど、これは「未来は誰にもわからない」(二四四ページ)っていう保険業の前提が崩れることを意味するから、「あなたの遺伝子特性では保険に入れません」っていわれる可能性があるっていうデメリットもあることはあまり知られてない。このように日本社会は大きく変化してるけど、斉藤さんによれば、様々な変化には共通した底流がある。そのキーワードは「新自由主義」(富を生み出すエリートを大切にしよう)、「優生学」(能力は生まれたときから決まってるから、努力しても無駄)、「社会ダーウィニズム」(エリートが偉いのは当然だ)、この三つだ。

 僕は、三つのキーワードはどれも嫌いだし、多分科学の今の水準から見ると、間違ってるか古いかのどっちかだと思ってる。第一、金持ちは無駄遣いをしないし、自分が稼いだ金は自分か自分の子孫に残したいっていうのは世間の常識だろう。エリートを大切にしても、彼らの富が庶民に届く可能性は百パーセントじゃないのだ。第二、生まれたときに全て決まってるんだったら、双子は全く同じ人生を歩くはずだけど、ほとんどの双子の運命は違うはずだ。成功した人の中には、自分の努力をすぐに忘れてしまう人もいるみたいだけど、努力は無駄じゃないのだ。第三、世界の歴史をちらっと見ればすぐにわかるように、エリートが偉いのは偶然の産物で当然じゃない。だから人生は面白いのだ。

 結果の平等がいいことかどうか、僕にはわからない。でも、斉藤さんがいうように機会の平等が攻撃されてるとすれば、日本の将来は暗い。機会の平等がなければ、社会のダイナミクスは失われてしまうのだから。それは、世襲議員が幅を利かす今の日本の国会の停滞を見れば、すぐにわかることだ。もう一つ、この本に出てくる知識人の知的な貧しさは、情けなさをこえて哀しくなるほどだ。教育より遺伝が重要だって断言する「物理」(!)学者。「うるさい。放っておいてよ、という台詞に頷き、ごちゃごちゃ言わないで、放っておこう、と言いましょう」(二三三ページ)と思考停止状態を勧める経済「学者」(!)。こういう人たちにこそ、僕らは「うるさい。放っておいてよ」というべきなのだ。

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紙の本

学校のしごと、親のしごと、社会のしごと

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 娘はまだ保育所に通う年齢(二歳)だけど、いずれ学校に行くわけだから、親としては教育の問題から目が離せない。最近は新しい学習指導要領をきっかけにして「生きる力か基礎学力か」って論争が続いてるけど、私立進学校っていう逃げ道がないまちに住んでる僕にとって、この論争は身近だし関係があるし、この先どうなるかにも関心を持ってる。こんなときにこの本を読んで、僕はまず不安になり、次いで自分なりに考え、最後に「いずれ娘が小学校に入ったら具体的に何かしよう。今はそのための準備作業をしよう」って覚悟することになった。
 この本によると、一九七〇年代までは、教育は、学力を身に付ける機会を拡大することによって社会の流動性を高め、人々の上昇志向を促し、様々な階層を作り出す機能を果たした。ところが一九八〇年代に入ると、階層間で学習時間に差がつきはじめた。出身階層によって、子供の学習意欲が異なる傾向(インセンティブ・ディバイド)が生まれたのだ。高い階層の子供は今までどおりちゃんと学習するけど、低い階層の子供は教育から「おり」、「おりる」ことによって自信を付け、それによってますます教育から「おりる」ようになった。これは大変な事態だ。文部省などは自己責任にもとづいた教育のシステムを構築しようとしてるけど(「生きる力」)、それはこの現象を強化するだけに終わるだろう。
 この本のメッセージは明快だ。第一、階層とか意欲とかってファクターを入れて繊細に分析しなければ、教育の抱える問題は解けない。第二、教育にかかわる階層間の格差は、財産の違いや文化的環境の違いから、意欲の違いにもとづくものに深化してる。だから対策もかえなきゃいけない。第三、教育や学校は万能じゃない。できることといったら、せいぜい、習熟度別学習をするなど、下に手厚い教育を導入したり、再学習する社会人向けの奨学金を設けたり大学が専門知識教育を導入するなど、試行錯誤を許容する教育システムを構築したりするくらいだろう。
 苅谷さんのメッセージに、僕は基本的に賛同する。今の教育の問題は、学校だけに負わせちゃいけない。学校と父兄と社会の各々が、出来ることをしなきゃいけないのだ。僕の考えを述べておこう。第一、苅谷さんの提言の他に、学校が出来ること。文化的な環境の差が成績に響かないようなカリキュラムを考案すること。ストック(ある時点での学力)じゃなくてフロー(ある期間に達成された学力の伸び)を評価すること。第二、父兄が出来ること。無関心を決め込んだり無力を嘆くのではなく、学校や社会に提案し、問い正し、批判すること。地に足を付けて、様々な教育論を評価すること。何たって、子供がいる僕らのほうがこの問題には詳しいはずなのだから。第三、社会が出来ること。財の不平等が機会の不平等につながらないように、相続税を利用した財の再分配システムを再検討すること。特定の文化的環境だけが偉いんじゃなくて、多様な文化的環境の価値を認め、差別しないような意識が社会的に広まるのを促すこと。教育から「おり」てもいいから社会からは「おり」ないように、生活する意欲を与える方法を考えること。これらはどれも、大変だけど必要な作業だ。僕もそろそろ(何をすればいいかわからないけど、とにかく)準備作業を始めなきゃいけないって覚悟だけは決めた。
 ところで、この本について知人の精神科医と話してたら、遺伝子科学の世界では「好奇心と攻撃性とリスク選好性は、生まれつき遺伝子の次元で決まってる」って理論があることを知らされた。もしも学習意欲が生まれつき決まってるとすれば、宿命論に陥るしかないんだろうか。僕はそうじゃないと思う。遺伝子の差を和らげられるような社会を作ればいいだけなのだ。もちろん作業はさらに大変になるに違いないけど。

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紙の本

ブランドは、やっぱりほしい

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 自慢じゃないけど、うちの娘(二歳)はもうブランドで身を固めてる。帽子はミキハウス、靴はコンバース、服はELLEから始まってコムサ・デュ・モード、アニエスb。別にうちが金持ちなわけじゃなくて、一人っ子なので皆からお祝いが来るのだ。それにしても乳幼児が巨大ブランドのターゲットになってるなんて、子供を持つまで知らなかった。
 でも、この本の著者のクラインさんによると、コカコーラからナイキ、ディズニー、マイクロソフト、スターハバックス・コーヒー、ギャップまで、最近の巨大ブランドは、「商品ではなく、ブランドだ」を合言葉に、学校や文化や政治といった公共の空間を侵食したり、事実上の検閲をしたりして、言論の自由を奪ってる。小さなブランドを押しつぶして、選択の可能性を奪ってる。発展途上国に工場を移して低賃金を利用し、貧富の格差を拡大し、労働条件を不安定なものにしてる。僕らがブランド品を買うのは巨大ブランドの悪事のお先棒を担ぐようなものなんだ。クラインさんは、巨大ブランドに対して立ち上がった政治的な行動を紹介し、それに参加しようって主張する。
 この本を読むと、僕らにも馴染み深い巨大ブランドが何をしてるか、そしてなぜそう行動するかがよくわかる。それは、安く作り、マーケティングを使ってブランドという付加価値を付け、高く売るっていう経済原則の産物なんだ。この原則からすると、発展途上国の労働力を買いたたくのも、自分に都合の悪い情報を検閲するのも、学校をマーケットにするのも、他のブランドをつぶしにかかるのも、全て当然の行為になる。
 それじゃ僕らはどうすればいいんだろうか。クラインさんは三つの方法を示唆する。第一、買わないこと。でも、どっちにしろ、たとえば服は必要だから、ギャップで買わなきゃ、大抵は別の巨大ブランドに頼るわけだ。僕らはブランドそのものから逃げることはできない。この本の表紙には〈ノー・ロゴ〉ってロゴの服を着た子供の写真が載ってるけど、〈ノー・ロゴ〉だって、ちょうど無印良品が巨大ブランドになったみたいに、立派な巨大ブランドになるだろう。第二、巨大ブランド企業は政治権力だから、政治的な行動をおこすこと。でも、普通の人には政治的な行動のハードルは高いだろうし、発展途上国の労働者の待遇改善には役立つかもしれないけど、ブランドはライフスタイルで価値観で考え方だっていう巨大ブランドのメッセージそのものを批判するのは難しそうだ。第三、ライフスタイルや価値観や考え方を変えること。ちょっと前まで北米の黒人青年にとってナイキはクールだったけど、今では格好悪いそうだ。でも、ライフスタイルなどを変えるのって大変だ。いまさら自然に帰るわけにもいかないし。いずれにせよ、これだっていう決定的な方法はなさそうだ。問題があったら一つ一つ追求し、具体的に改善を求めてくしかないんだろう。僕も娘にブランド品を着せて喜んでる場合じゃないかもしれない。
 そんな色々なことを考えさせてくれる本だけど、一つ足りない点がある。クラインさんによると、消費者が巨大ブランドものを求めるのは企業のマーケティング戦略にのせられてるからだ。これは、半分当たってるけど、半分足りない。つまり消費者の主体的な意志を無視してるんだ。僕も含めて消費者が巨大ブランドものを欲しがるのは、何よりも、他の人とは違うぞっていう差異化の欲求を(幻想かもしれないけど)充たしてくれるからだ。クラインさんは、消費者の心理を十分に分析しないまま、ただただ巨大ブランドは悪いって主張する。それもそうだけど、消費者の側にも問題はないんだろうか。差異化欲求をはじめとするこの問題について、もう少し論じてほしかった。そうしたら、僕も自信を持って娘に巨大ブランドはダメだよって言えるんだけど。

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紙の本

庶民を悩ます必読の書

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 この本を読んで、僕は困った。何しろうちの娘はまだ二歳前なのに、ファストフードが嫌いじゃないのだ。週に一度の音楽教室(英才教育!じゃなくて、単に音楽に合わせて体を動かすのが好きなだけなんだけど)の帰りには、必ずかみさんとファストフード店に寄って、にこにこしながらフライドポテトをほおばるらしい。せっかく自宅や保育所では低農薬の材料を使った食事を食べてるのに、何なんだ、この有り様は。しかも、この本によると、米マクドナルド社をはじめとするファストフード業界は色々な問題を抱えてて、購買拒否運動したっていい位なのだそうじゃないか。

 この本は、米マクドナルド社を中心にして、ファストフード企業の歴史と現状を追求したルポルタージュだ。著者でジャーナリストのシュローサーさんは、牧場から牛肉加工工場まで足で問題を追及してて、その記者魂には脱帽。ついでにいえば、この本に出てくるファストフード企業のやりかたにも脱帽。たとえば分業によって誰でもできるようにするテーラーシステムを調理に導入して、従業員の給料を下げたこと。規模を大きくすることによって畜産業などの原料供給業界を支配したこと。子供さえ味方にすれば、子供に抵抗できない大人はあとからついてくるってマーケティング戦略を立てて、学校給食を請け負ったり、プレイランドを併設したこと。こういった努力って、見ようによってプラスにもマイナスにも評価できるから、一概に否定はできないだろう。

 ただし、何か問題が起こったときの米マクドナルド社の対応には幻滅。一方では自由競争を叫びながら、他方では議員を抱き込んで自分に都合の良い補助金をせしめること。食中毒が起こっても、どうにかもみ消そうとすること。これって情報公開と自己責任の原則に逆らってるし、こんなことを続けてるといずれしっぺ返しにあうような気がする。

 ちなみに、日本マクドナルド社については、シュローサーさんは「人の体は食べ物しだいという考えを、何年も前から熱心に宣伝しているのが、三〇年前に日本にマクドナルドを進出させた藤田田というエキセントリックな億万長者だ。藤田はかつて日本人たちに約束した。マクドナルドのハンバーガーとポテトを一〇〇〇年間食べつづければ、日本人も背が伸び、色が白くなって、髪もブロンドになるだろう」(三二二ページ)ってことだけ触れてる。でも、これって本当の話なんだろうか。本当だったら、今の身長で十分だし、皮膚癌が怖いから色白にならなくてもいいし、いずれ禿げる家系なので今は緑なす黒髪で満足してるから、僕にとってはマクドナルドに行かないほうが身のためだ。

 そうすると、娘にはフライドポテト以外の好物を探してやらなきゃいけない。いまのところ第一候補はアイスクリームだ。でも、これってカロリーが高いって問題があるし、ハンバーガー六五円っていうのはやっぱり安いし、困った。でもでも、ちゃんとしたものを食べさせろってファストフード業界に要求しないと、自分たちの健康も損するし、シュローサーさんがいうようにファストフード業界の中や周りで苦しむ人たちのためにもならないんだろうし、困った困った。こういう本を読むと、庶民は悩むのだ。悩まないよりはいいけど。

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紙の本

思考停止状態を超えるには

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評論家兼小説家の大塚英志が、自分の飯の種である評論や小説の書き方を教えちゃう本を次々に出してるのはなぜか。「ブルセラ」をはじめとするサブカル評論家だったはずの宮台真司が、それこそ大文字文化の中心にある「天皇」を論じるようになったのはなぜか。保守主義者を自称する福田和也が「ぷちナショナリズム」にいらだってるのはなぜか。ポモ研究から入った東浩紀が小難しい言葉を捨て、どうみても「まっとう」な言説を繰り出すようになったのはなぜか。

「宮台真司の『自己決定』、福田和也の『ナショナリズム』、ぼくの『戦後民主主義』は『天皇制』の乗り越えによってしかなされない」(p.273)

彼らが一様にいらだってるのは現代日本社会の思考停止状態であり、「天皇制」はその象徴としてある。では、思考停止状態を超える途はどこにあるのか。おそらく、それは、なんらかの「思想」のなかにではなく、「いま、ここ」つまり「現場」にあるんだろう。

なーんてことを考えさせてくれる貴重な本。ただし、どうして大塚さんの文章は、いつもちょっと読みにくいんだろうか? 読点の付け方に問題があるような気がするんだけど。その分だけ減点。

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紙の本

事実は小説よりも奇なり

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なかなかめっけもんだった、という感じの一冊。「ヴァルド派」なんて知らなかったし、キリスト教の異端の一派だったって言われても、敬虔な(?)仏教徒のぼくにはよくわからないんだけど、しかし、だ。

フランスとイギリスの国境付近の谷にすみつき、頑固にそこを離れずに一つの文化的な小宇宙を作っていた人々。そのくせ、ヨーロッパ各地のプロテスタント諸国と密接な連絡を保ち、様々な援助を受けていた人々。そんな人々が今でも存在するなんて、うーむ、ほとんど異界探訪の気分。

リサーチもしっかりしている(ようだ)し、ストーリーも面白い。それよりも何よりも「事実は小説よりも奇なり」を地で行ってるヴァルド派の歴史に唸ってしまう。もちろん、なんで頑固に「谷」を離れなかったのか、とか、なんでヨーロッパのプロテスタント諸国が彼らを援助しつづけたのかとか、いくつか疑問は残るけど。

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紙の本

紙の本大失敗からのビジネス学

2002/08/28 08:36

終わりは脱兎の如く

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「勝ち組」、「オンリーワン」、「スピード・先制・集中」などなど。第1章「勝ち組になるためのキーワード」に出てくる言葉は、誰でもどこかで読んだり聞いたりしたことがあるような陳腐なもので、まったく面白くも新しくもない。こんなことだったら、現場を知らない経営学者だって書けるだろう。ヤオハン・グループの総帥として大成功と大失敗を経験した和田さんが何を言っているんだろうって期待しながらページを開くと、最初はちょっとがっかりするかもしれない。

でも、我慢して読み進めてみよう。だんだん面白さが増してくることがわかるはずだ。大企業をつぶし、全財産を失い、生まれ故郷だった熱海(静岡県)から飯塚(福岡県)に移住しても、なぜ和田さんは意気軒昂なのか。筑豊炭田なきあと沈滞している飯塚で、和田さんは一体何をしようとしているのか。なぜ、和田さんの周りに人が集まってくるのか。そんな疑問が湧いてくる。そして、それに対する答えが、「失敗」をキーワードにしながら説かれてゆく。

失敗は財産であり、成功の元だ。「何をするか」は「何をしたいか」に付いてくる。そんな、僕らを励ましてくれるようなメッセージが、普通だったら「励まされたい」と思うような経験をした人の口から出てくるのを聞く(読み取る)こと。それは、めったにない経験だろう。そして、読み終えたあとに、背筋がしゃんとなる。この時代に、僕らに出来ることは、まだまだ沢山あるはずなのだ。

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紙の本

数学の魅力の伝道書に、もう一息

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タイトルと副題で座布団二枚、企画の斬新さで座布団もう二枚、内容については「特段に明記するべきことなし」。それでは座布団は合計で何枚でしょうか。

僕にも「数学にときめく」(タイトル)時代があった。僕は大学の文科系学部出身だけれど、一応入試には数学が必修だったので、高校二年までは真面目に数学を勉強したし、嫌いじゃなかった。そういえば、大学入試勉強のときに、血迷って超難問集を買ってしまったことがある。ほとんど解けなかったけれど、何問か(だけ)解けたときは、回答のエレガントさに感動したものだった(これは自画自賛だな)。そんなことを思い出すと、まさに「あの日の授業に戻れたら」(副題)というノスタルジーに駆られそうになる。

あれから数十年、僕は、加減乗除だけわかればとりあえず暮らしていけるような、数学とは縁遠い世界に住んでいる。つまり、中学校の数学すら忘れているわけだ。人間の機能は、使わないと退化するらしい。まだ二歳の娘が小学校に入り、算数を教えてほしいと頼まれるまでは、こんな状態が続きそうだ。

そんな気持ちの人は、きっと世の中に沢山いるんだろう。この本はインターネットのサイト「算数教室:乙女の花園」から生まれた。著者で数学者の新井さんが問題を出し、主に女性の参加者が自分なりの解法を答える。この企画自体も面白いし、それを本にしてしまったという企画もまた面白い。社会人に向けて数学の魅力を伝える、こういった伝道書が増えてくると、何故か根強く残っている数学アレルギーも消えてゆくかもしれない。

ただし、この本の全体的な構成(つまりストーリー)は、新井さんも「カリキュラムもなければ、公式集もでてきません」(七頁)と認めているように、よく考えられたものだとはあまり思えない。すでに数学にときめいている人だったら、これで十分かもしれない。でも、これからときめきたい人にとっては、ちょっと不案内だろう。そこが残念だし、そのせいで、数学の魅力の伝道書としてはもう一息という印象が残ってしまう。

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紙の本

ちょいとぬるめ

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正真正銘の経済学者が、なぜかロックンロールの殿堂ロッキング・オン社と組んで続けた連続対談をまとめた本。対談相手も、菅直人(民主党党首)、宮台真司(社会学者)、塩崎恭久(自民党国会議員)その他と、バラエティに富んでるし、相手にとって不足なし。というわけで、期待して読みはじめたわけだ。

対談とか座談会って、本当に難しいと思う。同じような意見の持ち主同士だったらつまらないし、全然違う意見の持ち主同士だったらすれ違うし、どっちにしろ面白くない。一番スリルがあるのは正面から対立する意見の持ち主同士の場合だけど、それじゃこの本はどうか。

伊藤元重さんとの対談は、なぜか互いに遠慮しあってるうちに終わってしまう。歯がゆい。吉田和男さん(経済学者)との対談は、ぼくの見るところ小野さんが次々に論破して終わり。これまた(別の意味で)歯がゆい。

小野さんが悪いわけじゃないけど、この本の読後感は、ちょいとぬるめ。

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