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cuba-lさんのレビュー一覧

投稿者:cuba-l

51 件中 1 件~ 15 件を表示

改革と規制緩和の皮をかぶった狼の正体

20人中、20人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

90年代の前半頃まではうちの近所にも小さな店が肩をを寄せ合った商店街があって、毎日子供連れの買い物客が行きかい、お盆や歳末にはに店の間には万国旗が張られて福引もある大売出しの期間のにぎやかさは穏やかな日本の風景そのものだった。

だが今はどの店にもシャッターが降り、後からやってきた大手資本のコンビニが営業をつづけているものの、通りに子連れの家族の姿はなく、埃と騒音を巻き上げる車がスピードを落とさずに走り抜けていくだけだ。

圧倒的に支持に基づいて改革を押し進めた未来とはこんなものだったのだろうか。

最も直接的な原因は、市場原理主義に基づく「規制緩和」が既得権益にすがりつく悪い悪人や商慣行ばかりか、実際には社会が営々と積み上げてきた公正なルールも破壊することになってしまったためだともいえる。
本書では、そんな野放図な市場原理主義と虚業のマネーが実体経済を破壊し、人々の暮らしを荒廃させていく過程を、各国の事例に基づいて検証し、「ネオリベラリズム政策によって生じる循環」(悪夢のサイクル)であると結論づけている。

さらに、人は潰れても市場経済は元気なシステムのもと、一部企業と資本だけの好景気を受けて、さらに経済効率化を進めようとする日本はこれから二度目の経済破局に向うとも予言する。その向こうに待っているのは更なる格差と社会不安だろう。
身近に現在実感できる社会事例で読んでいて気の重くなる面もあるが、いずれにせよ社会の制度は人が作って動かす。私たち一人ひとりが、経済の効率化と金儲けが究極の目的なのではないと認識すること、人々の幸福・公正こそ社会の目指すべき目的だと自覚して振舞うことが第一歩だと気づかせてくれる本書は良書である。

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紙の本人生の短さについて 他二篇

2007/09/08 00:08

短い人生を生き生きと生きるために

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

セネカは古代ローマ時代、皇帝ネロの命令により自殺に追いやられるまで、数々の著作を残している政治家・劇作家にして哲学者であるが、この著作などは二千年近い時代を経ても色あせず、現代の私たちが抱える問題の核心を痛いほど突いてくる。
 
たとえばセネカは、幾度も公務や世俗の雑事から足を洗って自分の魂のために生活することの重要性を説く。
社会的な都合に奪われた時間を取り戻せ、自分の時間をかき集め、守り有意義に費やせば人生は十分に長い、と。
 
セネカはこうも言う。「年寄りだからといっても、自分のために生きたのでなければそれは長く生きたのではなく、単に長くあったにすぎない。」
 
社会は、特に現代の産業社会は、組織の利潤目的のために個人の意志の発露など踏みにじっても、人々を十把一絡げに束ねて同じ方向に走っていくものだから、大多数の人は仕事に全人格的な納得を得ることができないことを前提に社会が成り立っている。 だから無自覚に仕事や社会に追い立てられては、自分に何がもっとも大切かを見定めることもなく、困苦と苛立ちのうちに人生は過ぎ去っていくものだ。

そして心から意義を感じることに時間を費やしている場面というのはごく少ない私たちの日常において、人生において確実な何かがあるとすればそれはただひとつ、私たちは遠からず死ぬということだけである。
  
さらに死というものは人生の終着点において突然現れるものではない。生まれてこの方、今この瞬間にも死へ向かった歩みは止まらず続いていることに意義を唱える者はいないだろう。つまり私たちの一挙一動はすべて私たちの生命を費やしてあがなわれている一方、死はその完成に向かって日に日に積み上げられているものだ。だから人生の終焉としての死亡宣告は、一杯になった死棺の蓋をする最後の手続きに過ぎない。確かに私たちは日々死んでいるのだろう。

それなのにまだ、退職したら、老後に至ったら、一区切りがついたら、あるいはいつかその時が来たら、自分の思うとおりに生きようと、不確かな将来に生きることを夢見て今を失っていることもまた多いのだが、死が十分に強大に育った死ぬ間際に至って生きることを始めても、それは手遅れの色が濃い。
 
だから私たちは「今直ちに生きねばならない」と、セネカは説くのだが、本書はまるで仕事に追い立てられ、情報に流され、社会や欲望に翻弄される現代の私たちに向けて当初から書かれたような錯覚を起こす。まさに本物の古典とは時代を経ても色褪せない。
善く生きるとは、徳のために、なにより自分のために生きるとはいかなる事か、その答えを示唆するヒントが全編いたるところにあふれている。
 
生き生きとしたセネカの表現もそのままに訳文も簡潔で読みやすく、普段何気なく手にとってみるように扱うにも良いし、セネカの思想に触れる入門書としてもお勧めである。


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紙の本何もかも憂鬱な夜に

2012/12/21 23:48

憂鬱の壁の向こうへ

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

親に捨てられ施設で育った主人公は刑務官として働いている。社会や自己の矛盾が破たんした結果犯罪に至ったような様々な受刑者と向き合う毎日は、自分を含めた人間という得体のしれない存在のとりとめもなさや陥穽を目の当たりにする毎日だ。多少なりとも感受性のある人間ならば過敏にならざるを得ない。そんな主人公は、死刑判決に対し控訴しようとしない若い殺人犯を担当することになる・・・。
  
私はこの物語を、多かれ少なかれ誰もが若いころに経験する不安と焦燥に向き合った作品として読んだが、それはたぶん、私の若い頃に漠然と自己の毎日を包んでいた何とも言えない陰鬱な気分を多少なりとも思い出すことになったからだ。
漠然と包んではいたものの、若いころの様々な気分のうちもっとも支配的な気分だったかもしれない。 
  
このまま自分は、どうにも何ともならないのではないかという不安。今の自分でない何者かになってしまえばきっと楽になってうまくやっていけるのにという根拠も実現のあてもない願望のむなしさ。でも、今まで引きずってきた自分から自分でない何者かになってしまうことへのおびえ。そんなやり場のない今とこれから先への混沌とした不安に絡み取られて、ひりひりする痛みの中で過ごす毎日。
 
そんな不安と焦燥は若いころに通過するちょっとした疾病というだけではなく、年を経ても痛みに慣れはすれ完治することなく、今も時折そんな記憶が身を苛むことがあるようだ。たぶんそれは治ることはない。
 
ただ、この小説は何もかも憂鬱な陰の部分を描いてはいるが一筋の光として芸術との出会も述べている。
確かに「世界にはすばらしいものがある」ことを知るのは憂鬱な壁の中の気分を一時楽にしてくれるものだし、芸術が「お前の狭い了見を広げてくれる」としたらそれは世界を囲む息苦しい壁を押し広げてくれることに他ならない。
 
また終盤近く、主人公は親しい女友達に対し二人で新しく自分たちだけの生活を少しずつ作っていこうと提案をしている。確かに他人のコピーでない、自分だけの生活こそはオリジナルなアートでもある。アートでなくとも、ささやかでも丁寧に自分なりの生活を紡いでいくことこそ憂鬱の壁の外へとつながっていく手堅く現実的な手段の糸口であることを示唆しているようにも読める。
もっともこれは幾多の憂鬱の壁を見てきたもう若くもない私のただの個人的な思い込みに過ぎないかもしれないが。
  
結局今に至るその後の私はひょとして強い何者かになったのかもしれないが、ちゃんとした解を出せるような何者にもなりはせずわが身を痛みに鈍く作り変えてきただけなのかもしれない。ただ、何者にもならなかったかもしれないけれど、今も毎日をやり過ごし何とか生きている。
 
この本は身近で果てのないような憂鬱に生きる息苦しさに圧倒される作品だが、本来それぞれに個人的な感覚であるあの憂鬱な気分を、小説という手段で表現することで、みんなで共有して客観的に眺めることを可能にしてくれた。これは作品の大きな魅力であり功績だ。

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紙の本食文化あきた考

2007/08/27 10:26

食を巡る知の冒険 ~ ババヘラの謎からスローフード、食育政策異聞などなど

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

よくあるご当地の名産品紹介だの地場産業の振興ヨイショ本かと思って全く期待せず手に取ったのだが、違った。 秋田といえば有名な、きりたんぽ、あきたこまち、ショッツル、はたはた、比内鶏などの名産品もこの本で登場はするが、この本は単なるご当地食材の自慢と紹介の本ではない。
 
秋田の食文化を足がかりにはしているが、日本の食とその周辺の文化を全国・全時代を股に掛けて再考する、知的な快楽に溢れた本である。
 
たとえば、秋田の路上販売のひとつに「ババヘラアイス」と言うものがある。婆さんが何もない国道沿いの路肩などにビーチパラソルと大きなブリキ缶だけの店を出して、客が来ればブリキ缶を開けヘラでアイスをすくってカップに盛りつけてくれるのだが、ババがヘラで売るアイスだから人呼んでババヘラ。
私も初めて秋田を訪れたときは意外なところに出現する店とその当意即妙のネーミングに意表をつかれるとともに、いったい誰がこんな販売システムを確立したのか大いに訝しく思ったものである。
この本ではしっかりそんな疑問にも応えてくれて、様々な見聞をもとに丹念にババヘラの出生の謎を読み解いていくのだが、沖縄のアイスクリンが・・、米軍が・・、道交法の改正が・・、はたまた高知のアイスが・・・知のルーツは各所を飛び回り、次々と知ることの楽しさと興奮がもたらされる。
 
もちろん、本書で扱われる話題はこんな大衆食だけでなく、高級食材から酒、日常の食卓や殿様の食卓から縄文時代の食と、カテゴリーも時代もと超えて飛び回る。そして話題がどんなに広がっても、常に視点は現代社会の私たちを見つめる目で一貫しており決して揺らぐことがない。
 
また、どの話題もほぼ見開きの二ページにまとめられ大変読みやすいのだが、内容は濃厚でよくぞこれを二ページの話題にまとめてあると感心するとともに、しっかりと食材の魅力も盛り込まれていて、読みながらにしてヨダレが湧いて湧いて、しばしば読書を中断しては次の食事の事を考えることにもなってしまった。
 
まさに知力と食欲の両面を刺激して、人間本来の力を揺さぶってくれることが実感できる一冊である。

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紙の本新・環境倫理学のすすめ

2006/12/29 23:53

民主主義と市場経済では私たちの明日に足りないものを考える

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

私たちの社会の「幸福の尺度」という意味に限りなく近い「経済の成長」とはいずれ枯渇する天然資源を奪っては食い潰しつつ、処分の限界を超えた廃棄物を生み出すことでようやく可能になるものである。
言うまでもなく地球の環境は有限であるから、もはや私たちには経済成長社会か、持続可能性のある社会かの選択肢はない。持続可能性のある社会へ社会構造を転換するかしないか、転換するのならいつ行うのかという選択肢があるだけだ。

ところが一方でアメリカの生態学者が1974年に発表した「救命艇の論理」(途上国の保護をすれば地球と言う救命艇は人口過剰で沈没するだろう、というアメリカ優位主義を正当化するもの)の信奉者がアメリカ政府に影響力を持つシンクタンクの中で増えているという不気味な話があるという。
実際アメリカは世界規模の持続可能社会への出発点と思われた京都議定書の批准を拒否している。

こんな程度の論理の元では、地球規模での環境対策など永遠にとれるはずもないだろう。

確かに成長志向社会の転換と貧困の克服とは相矛盾する困難な課題だが、著者はこうした救命艇の論理に対して、 「途上国(の貧困)をともに救うのでなければ、地球を救うことができないという『倫理』を先進国が実行することが、地球の環境問題への途上国の参加のために必要である」と反論している。

私たちもまた、アメリカの推し進めるグローバリズムが基本的な理念に据える「民主主義」と「自由市場経済」と「基本的人権」で行き着く先はこの程度の「救命艇の論理」である現実を見据えねばならないだろう。 そしてこの「民主主義」と「自由市場経済」と「基本的人権」では、地球と人類の持続のために何が足らないのか、何が必要なのかを考察するのが環境倫理学であるともいえる。

本書では哲学・倫理学はもちろん政治・経済・科学その他様々な情報を引用して現状の把握分析が試みられており、事例の新鮮さと豊富さで読んでいて飽きない一方、これが環境問題の本なのだろうか、倫理学の本なのだろうか、と驚く点も多く簡単には読み解けない。
だがこれは即ち、単眼的な論理や特定分野の専門的な分析だけでは現在の世界を取り巻く環境問題とは読み解けないということでもある。

この本は、今の環境問題解決のために、人間の存在形態を問う総合的な視点から多種多様な情報・知識統合の実践を例示してくれる、優れた環境倫理学の入門書である。

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紙の本秘密と噓と民主主義

2006/11/18 11:25

欺瞞と不安に満ちた現代社会に立ち向かう希望の求め方

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

大きな権力は人々の民主的な制約を嫌い、大衆が意志決定に加わるのを望まない。
その結果こんな現代における自由とは、大企業の専制に都合の良いこととなる。民主主義は企業の無制限の利潤追求を妨げないことに堕して、もはや政治は「企業が社会に落とした影」(デューイ)となる。
本書で次々と暴露されるアメリカの堕落。産業資本のための民主主義と政府。ファシズム機関としての企業。痛々しくも悲惨な現実であるはずなのに、あまりの露骨さゆえに小気味よくも感じてしまうほどである。

格差や将来への希望の衰弱、不安と不信で八方ふさがりのような現代世界であるが、チョムスキーは世の中は変わる、変えられると説く。
「解決策はきっと見つかる。啓蒙と粘り強い活動が世の中を変える。」
現実には、時代の渦中にいて流れに翻弄される人間というのは、時代がどちらに向っているのか、何が良くて悪いのか把握するのは難しいのかもしれない。
それでも人々が個々の問題を注意深く考え、実際に社会で何がおきているのかを見極めることの大切さを粘り強く説く本書は、不安の不信の時代を生きる私たちを大変勇気づけてくれる。

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紙の本ムーミン谷の十一月

2008/08/31 08:04

秋に読みたい現代人のための童話

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

これはムーミン一家の出てこないムーミン谷の物語なのだが、ムーミン一家に様々な思いや期待を抱いてやってくる悩み多き様々な登場人物たちが、まるでそれぞれが私たちの断片であるようだ。
 
孤独になりたいのに本当はどこか誰かとつながっていたかったり、何か自分の意思でやりたいのにいったい何をしていいのかわからなかったり、自分で決めた日常の決め事に反対に自分が縛られて行き詰っていたり、私たちがごく日常突き当たるありふれた戸惑いが個性的な登場人物に託され生き生きとたくみに描かれている。
  
なぜ、彼らがムーミン一家を訪ねて悩みが解決すると思ったのかは、悩みと向き合う彼らの行動により明らかにされるのだが、それはムーミンたちの存在を間接的に描写することによって、いっそうムーミンたちのキャラクターを鮮やかに浮き上がらせているようだ。

たとえばスナフキンはこんな自問自答をしている。
  「・・・ムーミンたちだってうるさいことはうるさいんです。おしゃべりだってしたがります。どこへ行っても顔が合います。 でも、ムーミンたちと一緒の時は、自分ひとりになれるんです。いったい、ムーミンたちはどういうふうにふるまうんだろう、と、スナフキンはふしぎに思いました。」

ともあれそれぞれに悩みを抱えてムーミンの家にやってきた彼らは、ムーミン一家のいないこと(舟で島に出かけている)に当惑しつつ奇妙な共同生活を始めるのだけれど、年も志向も性格も違いすぎる彼らの生活はギクシャクとしたものだ。
 
それでもぎこちない共同生活の中で自分と向き合い、結局彼らは自分で解決の糸口を見出してまたそれぞれの場所に帰っていくのだが、この過程はほっとした穏やかな幸福感に包まれる。
 
結局、様々なキャラクターが躍動し悩み衝突を繰り返す物語で描かれているものは、現代に生きる上で私たちが避けられない不安や焦燥の対極にあるユートピアとしてのムーミン一家であると同時に、たとえムーミン一家が現実世界にはいなくとも私たちは私たちの不安や悩みを解決する手段をもっていることを示唆しているのだということである。
  
そしてその手段とは、作者がこの物語のタイトルでもある11月の季節をこんな風に描いているところにもヒントは見て取れるようだ。
  「冬もまぢかな、ひっそりとした秋のひとときは、寒々として、いやなときだと思ったら大まちがいです。 せっせとせいいっぱい冬じたくのたくわえをして、安心なところにしまいこむときなのですからね。自分の持ちものをできるだけ近くに引きよせるのはなんとたのしいことでしょう。自分のぬくもりや、自分の考えをまとめて、心のおく深くほりさげたあなにたくわえるのです。その安心のあなに、たいせつなものや、とおといものや、自分自身までを、そっとしまっておくのです。」
 
木や草も外への繁茂がやみ内へとエネルギーが向かうように、冬に移り行く秋は人にとっても内省的な季節だ。
そんな時期の代表である11月を舞台とすることで、作者のトーベ・ヤンソンは現代人のいつも外に向いて忙しい自分の意識を、時にはじっくりと自分の内に向けることの大切さを描いたのだろう。
  
秋に大人こそ読みたい童話である。
 
 

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不安と混迷を生きる私たちに希望と感動を与えてくれる写真という手段

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ある人は人間に必要なことは三つあって、それは毎日笑うこと、考えること、強い感動を覚えることだと述べたが、最も難しいのは強い感動を得ることだろう。私たちはともすると変化の乏しい日常にあって、心をこわばらせては、つまらない憤懣に突き動かされる毎日を流されていることがある。素直な感動をつかめない毎日は不満とストレスで一杯だが、一方で遠い世界、極限状態のような世界でも人々が同じようにささやかな幸福を願いひたむきに生きていくことを知ることは、幸福を求め実感することの追体験であり感動する力を再生するこころみとなる。
この本の写真にはそんな力が確かにある。
 
本書は、主に戦場や辺境にある人々の今を伝えるフォトジャーナリストとして有名な長倉洋海氏が、その20年以上にわたる活動を振り返り簡潔に総括したものだ。
 
長倉氏がフォトジャーナリストを志す人にともいっているように、自身の活動と写真、心境と写真に向き合う姿勢の変化などを半分自伝的に時系列に綴っているが、やはり目を引くのは一枚一枚の写真とその被写体・場面と自身の関わりについての文章の鮮烈さだ。
 
内線続くエル・サルバドルの女の子、迫害の中何もなくても家族がいれば生きていけると話すコソボの一家、屈託ない笑顔を見せるアフガンの若い戦士たち。

私たちは、戦地や辺境の出来事を伝える報道に、知らず知らずステレオタイプな印象をもってしまっていることがあって、対立する人々には憎悪だけがあり、戦地には機械的な暴力と殺人、貧しい国には悲嘆と混乱が、と反射的に印象を固定してしまいがちだ。
ただ、どんな世界、どんな状況でも人々は自由を求め、家族を愛し、毎日の生活をいとおしみ、小さな幸せを願う、その心は共通しているはずだ。

これを戦地でも辺境でもひとりひとりには同じ心がある、と書いてしまえばありきたりのことだが、本書の写真と文は特異な状況と同じ心を同時に提供して見せてくれることで、そのありきたりのことを再度驚きと強い感動をもって教えてくれるのである。



なお、長倉洋海氏の著作や写真集は多いが、過去にもフォトジャーナリストとしての活動を自身で紹介した本には「フォトジャーナリストの眼」(1992年岩波新書)があって、やはり本書で取り上げた人々が登場するので、本書と合わせて読むことで20年近い歳月を経た時代と人間の経過を実感するとともに、彼ら彼女らに感情移入してより感慨を深めることができることだろう。

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紙の本四十八歳の抵抗 改版

2009/08/15 08:15

西村次長における中年の危機

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

西村耕太郎48歳、大手保険会社の次長で当時55歳定年まであと7年。いまさら立身出世の望みもないが、妻と成人した長女の3人暮らしで平凡だが幸せな人生である。本人もこれを否定はしないが、老いの初頭にふと立ち止まって眺めやるこれからの平凡な太平無事の下り坂の人生を受け入れるのにはまだ納得していないし、ちょっと冒険すれば若い愛人にも手がとどきそうなところに心が揺れ動いている。
 
ところがそこに娘の恋人発覚・妊娠という事件が絡み、自らの慾望の始末と若い男女へのけじめについて迫られるそれぞれの対応はこれからの後半生をいかに生きるのかという悩みともなっていく・・・。

誰しも若いときは勢いや体力であるいは怠惰と先送りで何とかなってきた問題も、あるいはまた未成熟で発現には至らなかっただけの問題も、ある時期になるといよいよ後がない現実として鋭く解決や方針の転換を迫られることになる。
それは健康の問題もあれば、老いた親や子供の独立などの家族問題、会社や仕事の問題もあるだろうし、そこに残された時間への焦りや諦め、あるいは諦めのつかない慾求が絡み、もつれた難題として対応が迫られる。
これは誰にもやってくる。
 
こうした誰しも迎える悩み深い時期を思秋期だの中年の危機だのと言って、現代ではこの方面の研究はだいぶ進んでいるようだが、世間一般の認識はまだ十分とは言えないし、危機の内容は個人ごとに事情が複雑で、対応の仕方もさまざまだから扱いの非常に難しい問題である。

人によって中年の危機は40前にやってくることもあれば50過ぎでやってくることもあるだろう。中身も長年先送りした様々な問題がどうにもならなくなるようなものだからその解決も一朝一夕には行かないことが多いし、結局何年かかっても解決できずに中年の危機に潰されてしまう人もまた多いのが現実だ。最近では先日亡くなったマイケル・ジャクソンのケースなども解決失敗例として語られることもある。
 
この小説が書かれたのは昭和30年から31年という昔のことだが、今も昔も人生の基本構造は変わらない。生まれてから死ぬまでのたかだか数十年の上に多くの苦衷ともどかしさ、多少のときめきと納得を盛りつけるだけだ。しかも人生の後半は前半の単純な延長ではなくて、人生の基本構造の峠で何を捨てて何をとるのか自ら納得して選び取っていくものだということも変らない。だから主人公西村耕太郎の心の辿るもどかしさは現代においても大いに共通するところがある。
 
それゆえこの小説は価値観も社会通念も異なる時代に描かれた軽妙なドラマの形を取ってはいるけれど、中年の危機を経験済か否かにかかわらず、今なお「大人の男性」にとって一読の価値があることだろう。

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紙の本俳句と地球物理

2007/01/22 22:19

牛頓(にゅーとん)先生と休日の散歩

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

牛頓とは寺田寅彦の俳号である。
寺田寅彦は物理学者にして俳句に関しては夏目漱石に師事し、また漱石の紹介で正岡子規とも親交があったことはよく知られているが、本書はそんな氏の多数の著作の中から「俳句と地球物理」というテーマで編纂されたアンソロジーである。

本書には氏の俳句作品とともに俳句への理系的見地からのアプローチとでも言える随筆が多数含まれているが、それは単にものめずらしいとか奇をてらったというわけではなく、一部の俳句愛好家や専門家の中だけの了解事項として一般には分かりずらい事柄を、光の宛て具合を変えて平易に読み解いてもらったような趣がある。

ちょうどこの本の中にも「電車の中で老子に会った話」という短い随筆があって、これは寺田寅彦が漢文と古めいた解説ゆえに取り付きにくいと思っていた老子道徳教をドイツ語訳で読んだところ、平易な文面がすらすらと頭に入ってきたという話である。
それはあたかも、古代中国の古めかしい身なりをしてこむずかしい御託を述べる年寄りが、洋服を着て電車で移動する気さくな現代紳士になったようだと寺田寅彦は感想を述べている。
まさに寺田氏の俳句論議は、この電車の中の老子同様、蓑笠に手甲脚絆の芭蕉翁を現代服の軽装に着替えさせて、「風流」「さび」「不易流行」云々、青空を見上げながら日曜日のテラスで話を聞くような趣がある。
俳句にも物理学にも詳しくはなくとも、観察すること思考する事の楽しさに溢れた本書は、柔軟な思考というものを例示してくれる、ちょっと知的な休日の本であるのかもしれない。

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紙の本独楽吟 春夏秋冬

2007/01/14 17:04

時代を超えた幸せの見つけ方

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 すべての歌が「たのしみは」で始まる歌集である。
一例を挙げると次のような歌がある。

  たのしみは まれに魚煮て 児等(こら)が皆
     うましうましと いひて食うとき
橘曙覧は江戸時代、越前の国の貧乏歌人だったが、藩主からの出仕の誘いも断って文学の道で精進していた。貧乏暮らしの厳しい中、家族仲良く無心に食べることのうれしさ・楽しさというのはこの上ない楽しみだったのだろう。その喜びは、衣食住におわれるという意味の貧しさとは無縁な現代の私たちにもとてもよくわかる。

社会的・物質的環境が如何に変わっていようと、人の心のありようとは変わらないものなのかもしれない。だから、こんな昔の歌にも私たちは共感し、感動することができるのだ。
時代が変わっても人の心とは変わらないなら、今の時代においても幸せのヒントもまた変わらずここにあると思えるこの歌集は、時代を超えたシンプルで肩の凝らない幸せの見つけ方の本でもある。

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これは1989年のいちご白書なのかも

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

1984年からベルリンの壁が崩壊する1989年まで、16歳から大人になろうとする若い女性が日記に語りかける形式で記された、旧東ドイツでの日常描写を柱とする小説である。

内容は比較的ホップな、ヤングアダルト向け小説ではあるのだが、今の日本人一般にとっては東西ドイツ統合自体、すでに無機質な外国の「歴史」に組み込まれつつある微妙な時代・場面設定だけに、日本での出版には商業的に難しさが伴ったのではないかとも想像される。その意味でも少々値の張る設定でも、扱いが当初のヤングアダルト向け小説というカテゴリとは違ってしまっているようでも、こんな興味深い書籍の刊行されたことは貴重なことだ。

本書は、主人公の少女がそうであるように、どうやら中高生くらいの層を想定読者としているようだが、あの壁の崩壊を知らない世代に向けて当時のリアルな東側の生活を伝えようとした試みであり、同時に恋愛を初めとする様々な体験を通して少女が自己を確立していく物語でもある。

主人公の少女は、ふとしたきっかけで体制の敵(資本主義、または資本主義的なもの。この場合は旧西側の男性)と恋に落ちたり、進学に悩んだり、デモに参加したり、日常社会の大変動を体験しつつ成長していくのであるが、この物語と試みは、大人へと成長する多感な若者たちの欲求や感覚というものがどんなに経済制度や教育や社会体制が違おうとも変わらず、また時代を経てもなお共通するものがある、ということを描き出すのに確かに成功している。

どこの誰だって十代のころの体験は冷や汗ものだ。
たとえば恋愛への無条件な期待や、社会規制に縛られる大人への嫌悪、家族の葛藤、見えない将来への焦り、入り混じる楽観と悲観・・・。
どれもどこにでも誰にでもあるただの日常の風景だが、本書ではありふれた日々の出来事が歴史的大転換期の事件と同時進行するとき、話はスリリングな少女の成長物語として普遍的な共感を呼び起こすのである。

かつて長い冷戦の後、あれよあれよという間に壁は崩れ東側の体制はなくなってしまって、「ベルリンの壁」も(ついでに若々しい恋愛にときめく感覚も)自分には縁遠い歴史の中に去ってしまったことに日月星辰の感慨を覚えるオヤジやオバサンに読者はきっと多いことだろう。
そんなオジサン・オバサンが読むだけではもったいない。ぜひ多くの若い人にこそ、本書を手にとってもらいたい。

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「なんか、きっと大丈夫かも」__不安の時代を過ごす年配の方にも若い方にも

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 先日の朝日新聞読書ページで歌手の一青窈が、良い本は見た目に内容が現れると思うが自分はこれを信じる、というようなことを書いていた。私もまた経験的に本に限らず機械や道具についてもその機能性能はデザインに現れると漠然と思っているところがある。そこでこの本であるが、書店で手に取ってすぐにこれはいい本だなと感じるものがあった。

このムック本をたとえるなら、凄みのある絶世の美女ではないかも知れないが、黄色い親しみやすい表紙が安心感をともなってそっと寄り添ってくれる器量良しの看護婦さんのような印象がある。

そして実際に中身は外見の印象を裏切らず、知っておくべきあれやこれやの情報が一冊にコンパクトにまとまって、とても読みやすく構成されているのである。この手の本は知りたい情報が、読みやすく、お手ごろ価格で提供されていると云う点で、すでに成功だろう。 

 本書では限られたページ分量ながら、きっと誰しも抱える退職後の生活でのそれぞれの不安に対する情報がやさしく述べられているのである。 お金のこと、健康のこと、世の中との付き合いのこと、詐欺のことなど、一つ一つは控えめな情報量ながら的確にポイントは抑えられてある。

 実際のところ私が年金受給年齢に達する頃には日本国はまだあるのか、あるいは人類が生存しているのか、それより何より年金制度が果たして存続しているのかは非常に心もとないのではあるが、誰にでも老後は確実にやってくる。

そして今の時代に満ちる不安の最たる要素は将来の展望のなさであり、畢竟行き着く先はまさに老後の心配である。もしも将来の見えない不安のために今すくんでしまっている面があるとしたら、誰しも、物心の両面で老熟した先の境地のことは早くから考えておくべきだろう。そしてこの本は年齢に関らず現代の大人全般に、現実的な生活取組の豊かなヒントを与えてくれることで、不安を少なからず安心に変えてくれる。

値段も手頃で読みやすいので、年配の人には具体的なアドバイスとして、まだ若い人には未来の社会見学として一読の価値はある。

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紙の本キャンティとコカコーラ

2008/05/24 11:33

これこそユーモアミステリー

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ロメオとジュリエットの舞台となったイタリアはヴェローナの街の警部である主人公のロメオ・タルキーニは、ずんぐりむっくり体型にカイゼルひげ、愛情豊かな大家族に囲まれて暮らす、過剰な感情表現と想像力の持ち主である。彼はヴェローナで生まれたことを何よりの喜びとし、家族は互いにいたわりながらヴェローナで暮らしてこそ幸福であるという信念を持っている。ところがなんとしたことかアメリカ人と結婚してしまった娘の元を訪ねて、婿の実家であるボストンの上流社会へ乗り込んでいくのだが、この本はそんな彼のいく先々で生じる事件と騒動を巡るユーモアたっぷりのミステリーだ。 

厳格な清教徒一家や金と権力を信奉して疑わないボストンの冷酷な社会に対する、正義感と愛情表現たっぷりのデフォルメされたイタリア人ロメオ・タルキーニの衝突から生まれるドタバタは文句なしに面白い。
 
ロメオ警部は金で正義もねじ曲げようとするボストンの名士に向かってこう言う。
「わたしたちイタリア人はあなたがたアメリカ人と違って貧しい。わたしたちは貧乏になれている。だから金を持たないことはわたしたちにはなんでもない。わたしたちは他のものに意味を求める。愛に、友情に、自分が立派な男だと、あるいは立派な女だと言えることに・・・・あなたの目には子供じみて見えるかもしれないが、そのような喜びが私たちには、あなたが金で手に入れている贅沢や権利にも匹敵するのだ・・・・考えてもみなさい、私たちはあなたよりもゆたかだといえる・・・・。」
 
いかなる場面でもロメオ警部は一貫して愛の意味を説き、その結果厳格な清教徒一家に人間味を取り戻し、卑劣な行為をたしなめ、虐げられた者の名誉を回復して、事件を解決していくこの過程は痛快だ。
 
著者のシャルル・エクスブラヤによるロメロ警部のシリーズは現在はすべて廃刊となっているようだが、いまだもって人気は高く、ぜひ復刊を望みたいものだ。
  

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紙の本タイタンの妖女

2007/09/01 10:00

空疎な大衆的熱狂への距離と優しさ

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全宇宙と時間に遍在するラムファードは59日に一度地球の邸宅で人の体として実体化して出現し、人類救済や崇高な目的のため、神のごとく予言をたれる。そんな予言を受けた若き大富豪コンスタントは、ある目的のため転落と流転の運命に巻き込まれていくのだが、この過程で様々なジンルイの偉業、高尚なスローガン、群衆的熱狂、宗教の愚劣さ、火星人の地球侵攻と滅亡、といった人間への冷徹な観察眼と皮肉に満ちた卑属なプロットが作品には溢れかえる。そして読者は次々に現れる高尚にして俗悪な人間の営みの描写にブンブンと振り回される。(これだけでも十分おもしろい)

やがて物語の舞台は遠く土星の衛星タイタンの上に移り、ついには人類の歴史と人間の活動の意味が明らかにされるのだが、時空を超えたドタバタの挙げ句に現れた人類の目的は、なんと宇宙人のある活動のために操られ利用された「屁」のようなものだった。

高尚な政治・宗教・経済といった偉大な全人類史との落差を際だたせて、あっけにとられる読者を放り出す作者の仕掛けはたいした物だ。

ただ、ここまでなら、俗っぽい皮肉に満ちたペーパーバックコメディーで終わるところだが、この作品の本当のテーマは最後にその提示の場が用意されている。大げさなテーマを持ち出して読者を振り回した果てのラストの一連の描写は、それまでのドタバタと一転して、美しい衛星タイタンや日々の静けさとともに深くしみわたる。この過剰な対比こそがこの作品の真骨頂であり読み手の快楽であるといってもいい。

ニヒリストの作者が繰り返し意地悪く描くように、世の中の偉大な義務や高邁な社会的・経済的目的、あるいはイベントや流行に見る作られた群衆的熱狂は決して人間個人を幸せにするものではないのだろう。それではいったい何が人にとって意味あることなのか?
物語のラストを覆う充実感と、作者の優しさとに包まれて、ぜひその答えと幸福感に浸って欲しい。

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