サイト内検索

詳細検索

ヘルプ

セーフサーチについて

性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示を調整できる機能です。
ご利用当初は「セーフサーチ」が「ON」に設定されており、性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示が制限されています。
全ての作品を表示するためには「OFF」にしてご覧ください。
※セーフサーチを「OFF」にすると、アダルト認証ページで「はい」を選択した状態になります。
※セーフサーチを「OFF」から「ON」に戻すと、次ページの表示もしくはページ更新後に認証が入ります。

  1. hontoトップ
  2. レビュー
  3. cuba-lさんのレビュー一覧

cuba-lさんのレビュー一覧

投稿者:cuba-l

51 件中 16 件~ 30 件を表示

無意味に見える世界に意味を与えるのは

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

大学卒業後1年半、会社勤めの将来に展望がもてず身をすり減らすような毎日から逃げ出すようにOLを辞めてしまった芽衣子。その恋人でミュージシャン活動への未練が絶てず、なんとなくフリーターをしながら中途半端な毎日を過ごす種田。その種田が達観したようにつぶやくシーンがある。
「俺は・・・夢のためならどんな困難でも立ち向かうべきなんだと思っていた。でもこの頃は、俺はミュージシャンになりたいんじゃ無くって、バンドがやりたかっただけなんじゃん?ってさ。・・・」

好きなことを仕事にして生きていける人は幸運だろう。同時に企業論理の支配する現代においては、好きなことと食うための仕事の一致を見ることはまれでもあるだろう。多くの人間は経済的な動機からいやでも働かざるを得ないが、会社や仕事の与えるニンジンである経済的利得と出世栄達だけで自分の心にふたをすることには常に疑問があり、そこに「迷い」と「苦」が生じる。

だが、好きなことと仕事をすることの不一致に誰もがどこかで折り合いをつけては生きていく。 それでも生きていくのは大変だ。

人生は思うようにならないうえに、いつまでも目的も定かでなければ、目的に向って突進する覚悟も無い自分にいつまでも苛立ちはなくならない。

そこであなたは、自分には何の能力も確たる意思もないと嘆息するだろうか。自分は誰にも認められず取るに足らない人間だったと卑下するのだろうか。
本書はそんな煮え切らない毎日と不条理なめぐり合わせの中をもがく平凡な若者たちの日常を、静かな、でも圧倒的な共感をもって描いた好著である。

自分という立場で、自分のおかれた環境という重荷を抱えて、自分自身という悩みを噛みしめて生きていくのは自分自身をおいて他になく、その生を日々完成することがそんなにつまらないことなのだろうか。自分を生きるというのはただそれだけで唯一無二の作品ではないのだろうか。


「・・・みんながいて芽衣子がいて、きっとホントはそれだけでいんだ・・・」
決して切れも良くなければ格好良く決まった話でもないが、きっとその煮え切らなさゆえに不恰好に生きるすべての読み手の共感を得らることだろう。そして不恰好でもまた毎日は続いていくのだが、なんでもないつまらない、でもかけがえのない毎日を、日々かみしめることができたらその時きっと無意味に見えた世界はモノクロの景色がカラーに変わるように豁然と意味を帯びるのではないか、そんな感慨をもたらしてくれた良作だった。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本ブルーカラー・ブルース

2010/09/06 21:32

働くことに悩む人に

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

これは建設現場の新米マネージャー経験を通じて働くことに悩んだ主人公の、全人格的な苦難からの脱出と再生の物語である。

体験者らしく業界の内部の事情や非人間的な職場の様子もリアルに描写されてストーリーに迫力をもたらしているが、なにも働くことに伴う困難は建設業界やブルーカラー労働に限った話ではない。

知っての通り、この社会における就業の難しさは、厳しい求人倍率や雇用のミスマッチも当然のことながら、当世の個人が自分らしさや自己実現を脅迫的に求められる一方で、ますます効率的な利潤追求を尖鋭化した企業の目的が、個人の動機と一致することはなかなか難しくなっていることにもある。
 
多様な個性を単純な企業論理がみな網羅できるはずはないのだから、この企業社会は、多くの人が働くことに全人格的な納得を得られないことを前提としてなんとか成り立っているとも言える。
それでもたいていの人間はどこかで折り合いを付けて働くのだが、なかなか企業の用意できる給与と昇格というニンジンだけで自己の矛盾は覆えない。そこに働く者の迷いと苦が生じる。

物語の主人公も、過酷な労働や受け入れがたい会社の要求にぼろぼろになるまで駆け回り、なんとか会社を辞めたはいいものの、今度は再就職先にめぐり合えずに心身に大きな変調をきたすほど落込む体験に見舞われる。この過程で主人公は、悩みぬいた末に自己実現だの自分らしさの探求だのという口当たりのいい「言葉で作られた自己」に気付いてこれを克服し、ついには自己の恨めしく厳しい境遇に「感謝」できる境地にまで至るのだが、この一連の描写は光を放つ。
 
本書は単なる作者の体験漫画にとどまらず、七転八倒の困苦のなかで悩み抜き考え抜いて、ついには自分の力で光射す所へと這い出でるまでの自己救済の物語である。
 
就業を控えた若い人には一度ぜひ読んでもらいたい物語であるが、働くことに悩み、生きることに苦悶する多くの人がきっと勇気と共感を得ることが出来ることだろう。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本ふたごのき

2007/10/20 11:57

定点観察者

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

丘の上に寄り添って立つ二本の楡の木を同じ構図から四季を通じて定点撮影した美しい写真絵本です。

絵本には二本の楡の木を姉弟に見立てた文が添えられていますが、人の一生をも超えて長くゆっくりした時を刻む樹木が、人間の営みを見守るような会話が綴られています。
 
この絵本は人間もまた自然のリズムの一節であることを思い出させてくれるとともに、動かぬ樹木の方こそ、移ろい行く世界の優れた定点観察者だったのだと気づかせてくれるようでした。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本ジャズ・カントリー ベスト版

2006/12/16 23:41

社会の枠組みの中で自分の心のままに生きることの困難さ

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ジャズを愛してやまない少年が、大学進学かジャズ演奏家かで悩む中での、様々な人の出会いと心の軌跡をナイーブに描く青春小説だが、この主人公の少年の苦悩は、国と時代を超えて普遍性をもって読み手の共感を呼ぶ。

強烈に好きなことがあっても、その進むべき道が正解かどうかなんていつの時代にだって誰にもわからないものだ。
また、現代日本の私たちにしても、企業で働く労働者に限らず、労働を通じて自由な自分を獲得している面もあれば、日々糊口をしのぐために自由を切り売りしている面だってあって、まさに経済的自由のためには個人的不自由が伴う。

主人公の友人は言う、
「ここじゃ、生活にも時間にもいっぱい穴があいている。僕は疲れる。とても疲れるんだ。働き過ぎのためにじゃなくて、自分をしゃんと歩ませようという余計な努力をしなきゃならないためにだ。」

社会的に身を立てることと、そのために蓋をした心の声に耳を傾けることの狭間で生じる悩みは、いつの時代にも変わらない。 しかし、出口もわからず進む方向にも自信が持てず途方にくれそうになる時でも、強烈に好きなことがあればそれはどんなにその人の力になることか。

この本を社会に出る前の十代の頃に読める人は幸いだろう。でも、自分の立つ位置と進むべき方向を自問する局面は人生に何度でもあるはずで、この本は単なるミュージシャンか進学かを悩む少年の青春物語でなく、時代も年齢も超えて普遍的な自由の実現を求めて悩む人の物語である。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

私たちの中にもある「絶望と転落への片道切符」

25人中、25人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ウシジマ君は違法な金融会社(闇金)の社長である。この漫画では闇金をめぐる人々の転落と絶望・犯罪と暴力の構図という、極めて不快で時に陰惨な直視したくないような話が続く。もちろん、私を含めたいていの読者はウシジマ君に描かれる人々とは、直接には無縁の世界にいることだろう。
それでもひとたび読み始めるやこの漫画の魅力にひきつけられ、目が離せなくなったばかりか、いつまでも印象がまとわりついてしまった。
  
この作品についてはネットの上にも様々な書評や分析が打ち並んでいる。
「ダメ人間列伝」、「現代の貧困の構図」、「貧困と絶望のスパイラル」などなど、社会分析に掛けた書評も多いが、どれもが正しい。だがそれでも、この漫画で描かれる貧乏や暴力・犯罪と転落の模様はヘドが出そうなほどだ。本当に反吐が出そうなほど面白い。
   
それはもちろん怖いもの見たさということもあるだろうが、ウシジマ君の世界が直接的には無縁でも、同じ時代・同じ社会の隣接する現場として極めて高いリアリティを持っているからだ。そしてこんな反吐が出そうな話に高いリアリティを感じるというのは、闇金に群がる彼らの要素は私たちの中にも決して低くない割合で存在するからでもある。
  
大企業に勤めるOLが会社のグループ内での付き合いのために見栄を張って、背伸びした生活を続けて闇金に手を出して、結局苛烈な取立てにボロボロになるまで搾り取られる話がある。
次々に世の中に流れ出す、より付加価値の高い商品やサービスを無批判に追いかけていれば、当然社会生活に必要なコストは止め処もなく上昇していくが、所得が同じペースで伸びるわけはないのだから、たいていの人間は闇金に手を出す前に歯止めがかかる。周りがどうであれ、自分の生活のペースというものを自覚せざるを得ないことになるはずだ。
ウシジマ君は言う。「見栄っ張りは、アホ女の基本だ」
  
また、自分には夢と才能があると信じ、すべての他人を見下して尊大に構える若者の話がある。
この男は「自分以外はみんな馬鹿」とばかりに学校も辞め、その一方で自らは前向きなことは何も為さないのだが、実はこれは行動を起こして社会の評価にさらされるのが怖いことの裏返しで、30になるまで半端なフリータとパチスロ暮らしをした挙句、闇金に手を出して追い詰められていく。
当たり前すぎてひどく地味な事実だが、社会で情け容赦ない評価にさらされて「身の程」を知り、反省を踏まえて次の策を打つことはどんなに大事なことか。社会の中での自分の身の丈を知って現実に適応しなかったツケはいずれ苛烈に巡ってくるものだ。
       
こんな闇金をめぐる登場人物はどれも吐き気がするほど最低なやつらだが、同時に彼らの要素はどれも私たちにも決してないとはいえないところがある。みんな普段はコントロールが働いているものの、ひとつ間違えば彼ら同様、負のスパイラルに陥ってしまうことを、ほかならぬ私たち自身がよくわかっているのである。
  
見栄っ張りや怠惰・自堕落、快楽に流される破滅への誘惑はどれも甘美だ。だから、その恐怖の代償を赤裸々に描くウシジマ君の世界から私たちは目が離せないのだろうか。

もちろんこの漫画はフィクションではあるが、そこにリアルを感じる私たちの心は紛れもない現実であり、リアルと感じるがゆえに実は私たちの心が危ういバランスの上に成り立っていることを、この漫画は自覚させてくれる。それがこの漫画の魅力でもある。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本ウミウシ

2007/09/19 23:46

この不思議なほど美しい、海辺の癒し系

12人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ウミウシはいわば貝殻のない巻貝の仲間で、日本には1200種以上が生息しているといわれています。

内陸の淡水育ちでウミウシとナマコの区別もろくに意識したことがない私としては、水辺の軟体生物などというと、ぐにゃぐにゃした気持ちの悪いものという意識がどこかにあったのですが、そんな無知ゆえの偏見を吹き飛ばして有り余るほどウミウシは美しく、時に愛くるしく、時に精妙にして幽玄、時には荘厳ですらあります。

形状といい模様といいその配色といい、あまりに多種多様な上に、どれもがいったい何の必要があってかといぶかしく思うほど美しく、ぼんやりとページをめくるだけでも写真のウミウシに引き込まれて飽きません。

また写真の途中に著者の夢を追う過程とウミウシとの縁について短いエピソードが添えられていて、ウミウシの撮影をめぐる不思議な縁が綴らています。
ウミウシを追いかけ写真を撮って旅するうちに奄美大島にたどり着き定住を決意したものの、旅の途中の不摂生がたたり、仕事もないまま通風を発病した著者がいかにして南の島の日常を手に入れるに至ったか。---これがこの本を単なる図鑑的な写真集だけでない、親しみあるものにして、ウミウシの写真と共に楽しめます。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

世の中の多数派に違和感を持つ人のための幸福論

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

中島氏一流の毒をまきちらしつつ、会社や世の中の多数派にあわせて生きることに違和感を感じる人に向けて書かれた、社会に着かず離れず半隠棲してしっかり自分の居場所を確保して生きる人生の指南書である。

たとえば会社や産業社会とは、個々の感受性はどうあれみんな同じ方向を向いていっせいに走ることで効率化を図り利潤をあげようとするものだから、
社会的な動機とすべての人の個人的動機が一致するわけではない。というよりも一致する人はまれである。ところが会社も会社以外の組織だって大きくなれば多数派を構成して組織運営をしようとするのはみな同じである。
  
それでも多くの人は自分の心にふたをして多数派の構成員をしているのだが、著者はこの多数派の論理と価値観に盲従するのをやめ、人生を半分降りる生き方を提言している。
 
人生を半分降りるとは、簡単に言えば会社や社会のために使われたりそのために働く時間を極力排除して、個人的な時間を確保し自由に生きようというようなことであるが、それ自体は特に目新しい論旨ではない。方丈記だの徒然草だのもそうだといえば言えないこともない。
 
ただこれまでも数々書かれている半隠遁の薦めと違っているのは、会社や組織での出世や世間的な栄達をあきらめる代わり、自分自身のための自由な時間を確保する生き方を、これまでの本が「足るを知る」と前向きに幸福ととららえているのに対して、中島氏はこれを「社会的には不幸になることであり、不幸を自覚して生きねばならない」と言っていることである。
 
しかしながら不幸を自覚しなければならないのは、世間の価値基準から外れた生き方だからだとしたら、これは社会的価値基準に背を向けながらまたその基準で自分の幸せ度を計っているようなもので、なんともあきらめの悪いことこの上ない。

そのあきらめの悪さこそが「半分人生を降りる」生き方ではあるのだが、人生を半分降りた著者が表向き不幸だという顔をして、その実自分だけの幸福の蜜を集めていることは言うまでもない。
  

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本魔王と呼ばれた男北一輝

2007/10/07 07:25

神秘主義者と革命家

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

北一輝について、その神秘主義的行動から解析を試みた異色の評伝である。
戦争への不安と社会不安が渦巻く昭和初期における北は、天才思想家、社会主義者、国家主義者、革命家、恐喝屋、事件屋、等々相矛盾するような様々な顔をもち、国家を揺さぶる様々な事件に暗躍した巨大な影としても知られるが、理想を追求する求道者のような謹厳さと、豪奢な生活と夜ごと遊興を繰り返す卑俗さを合わせ持ち、二・二六事件後に銃殺された後今なお混迷の時代にあって妖しい光を失わない存在である。だから北一輝は研究の対象としても世俗的な興味の対象としても様々なイマジネーションをかき立てる人物だ。 
  
この本ではそんな北一輝を、神憑りの神秘主義者としての面から足跡を追っている。北一輝には長く執拗に綴った「霊告日記」などの著作もあるが、これまではこうした活動を真正面から取上げた評伝や研究は少なかったようだ。むしろ、政治犯としての当局の追及を逃れるためにカモフラージュとして宗教がかった言動をしていたと簡単に片付けるものすらある。
 
しかし、幽霊を恐れ自らを法華経の行者であると認識している北一輝にとって、「心霊との交流は間違いなくリアルな現実そのもの」であったようだ。
 
卓抜した頭脳を持つことの自負。病弱な体と若くしての失明。徴兵検査も通らず進学もままならないことに加えて失恋に実家の没落。結局は通常の社会に居場所がなく、猛烈な自負と劣等感を抱えた自我を扱う場所としては、北一輝と言う存在にしかなかった。
そんな北が、実力があるのに世俗的な後ろ盾や権威もなく、各界に大物振りをアピールし影響力を維持していく存在でありつづけるための支えとしては、誰よりも明晰な頭脳と自負と虚勢だけでは足りなかったのかもしれない。
 
北は日本改造法案や国家改革のプログラムを生み出し、やがて激動の時代の中で策動の求心力として本人の好むと好まざるとに関らず巨大な座に至ってしまった。国家改革者として期待に応え続けねばならない重圧や負担も並大抵のものではなかったはずである。コンプレックスをバネにしたパワーだけではそんな自分をまかないきれないとき、一方では理性を超えた霊的な気づきこそが発想の源泉という意識もあっただろう。
   
そうした様々な要素があって最終的には霊的な支えこそが巨大な影響主としての北一輝を北一輝であり続けさせたという解釈もまた可能なのかもしれない。 
 

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

いまさらムーミンなんて読めないと思っている大人の方へ

9人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「コーヒーは、年老いてふるえがきてから、飲むものです。」
(ヘムレンおばさんの言葉)

コーヒーについて、ことの是非はともかく、何事をするにもその事にぴったりのタイミングやふさわしい年齢というものがある。トーベヤンソンのムーミンシリーズにだって、アニメやコミックで触れた人は多いのだろうが、物語の方を大人になってわざわざ読もうと思う人は多くはないし、いざ読んでみようと思っても子供向けの文学ということもあって大人が読むにはまどろっこしくてとても読み切れなかったりするものだ。

そんな大人、つまり、ムーミンにはいろいろと良い思い出や印象を持っていながらも、いまさら児童文学などを読むという抵抗があったり、大人向けの書物に慣れてしまったゆえに児童文学のリズムにあわせて読むのが耐えられないような大人には、本書はぴったりのアンソロジーである。

ムーミンの物語は理想郷のような世界に見えて、実は人間社会への深い洞察に支えられた人物や出来事が展開するためか、時に現代の神話とも呼ばれる事があるが、そんな物語からなにがしかの示唆を含んだような言葉を抜き出してまるでムーミン谷哲学のエッセンスを抽出したような本が本書である。
ただし、トーベの編んだ言葉はどれも魅力に富むのだが、同時にどうとらえようとそれは読者の自由と裁量次第という突き放した雰囲気も同居しているようだ。

「誰かを崇拝しすぎると、本当の自由は得られないんだよ。」
(スナフキンの言葉)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

組織論理と私たちの内なる義経

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

腕に覚えの自信家で、人が尻込みする難プロジェクトを、己の腕を頼りに切り抜ける、その事自体に快感を覚えるが、目的のためなら手段を選ばず、上司の意向など二の次三の次。社内の根回しや上司の顔を立てるなんてことに労力を使うのは大の苦手。
内外の部下には絶対服従の信奉者も多いが、無能な上司は無能とはっきり言うようなヤツが社内でかわいがられるはずがない。外目には行け行けドンドンのやり手にして、内部では社内営業音痴のかわいくないヤツ。
−−−こんな義経タイプは、実際にいずれ社内でも干される可能性が高い。

義経は、組織の目的よりも難敵を打破するプロセスに快感を覚えるタイプで、組織の意志をくみ取って行動する内的な気配りに欠けた。どんな功績を挙げても人事評価するのは他人。自分の評価は他人が下す。
業績を上げること以上に組織の評価基準を理解し遵守することは重要なのである。

こんな評価基準をわかっていることをアピールするのは、ホウレンソウと呼ばれる、上司へのこまめな報告・連絡・そして相談。あなたの意図を確認してますよ、あなたの意志を反映してますよ、あなたのために働いてますよ、とかいがいしくアピールするヤツこそ評価を下す上司にとってカワイイヤツなのであるのは、800年の昔も今も変わらない。
もし、源義経にケータイがあったら・・・、頼朝に疑念を抱かせるような局面局面でこまめな連絡が取れていたら・・・。
これは義経失脚の経緯から現代企業の組織人事の論理を読み解く本ではあるが、内なる義経を抱える社内営業下手へのメッセージでもある。その意味で実は私にはとても痛い本だったが、義経には共感を覚えることができた。
また、一方で組織的栄達の極にあって世間的には成功者の頼朝が、組織目的の遂行に徹したために、個人的にはとても不幸な生涯を送った面も明らかにされており、組織人間にも、はぐれ組織人間にもなにがしか示唆するところのある好著である。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本死ねばいいのに

2010/06/06 11:00

おまえら、愚痴ってばかりで迷惑かけて、どうせ死ねないから生きているだけならもう少しまじめにやれ

7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

なんて非道い本のタイトルだろう、
売れれば何でもいいのか、と思って手に取りましたが、
読めばはっとする各説話、
俗っぽい設定ながらも一々わが身に刺さる事例と会話の数々に、
目から鱗、もやも晴れ、痛みも忘れて、腫れも引きました。
やはりこれを読んだ寝たきりのおじいさんは
起き上がって一人で歩けるようになりました。。。
 
生きづらい世の中ですが、生きづらいのは
私たちがわが身の不運を愚痴る前に、
自分の持っているもの、運や、周りとの関係のありがたさを
素直に受け止めることが出来なくなっているからかもしれません・・・。

・・・・・・・・

・・・そんな誰かの感想はさておいて、
物語では一人暮らしの若い女アサミが殺され、その女の「知り合い」だったケンヤが彼女の生前の「関係者」を訪ね歩く。ケンヤはほとんど社会からの落ちこぼれで、このケンヤと事件の関係者たちの会話がストーリーを引っ張っていくのだが、この過程では死んだ被害者のことよりもよりも、その関係者たちの「生きづらさ」ばかりが露骨に炙り出されていく。

誰にも相手にされない中間管理職、派遣切り、チンピラヤクザ、男運の悪さを呪う女。関係者たちの苦衷はやや誇張された現代の生きづらさだが、誰しも抱える生きることの苦のカリカチュアとして、自分の境遇の断片を思い重ねる読者も少なくないことだろう。
 
軽く卑俗な文章の作りながら、プー太郎のケンヤの会話には、古代ギリシャ哲学のストア派の信条を連想させるようなドキリとするせりふが出てくる。
「厭なら辞めりゃいいじゃん。辞めたくねーなら変えりゃいいじゃん、変わらねーなら妥協しろよ。妥協したくねーなら、戦えよ。何もしたくねーなら引き籠もっていたっていいじゃん」
 
現代の不幸せの見本市のような展開と、愚痴と愚痴をなじるような会話の応酬には、露悪的な共感をなぞるような、同病相憐れむのに近い読後感も得られるかもしれない。その意味で、人の不遇と殺人とを巡る重苦しいストーリながら、不快感よりもむしろ、今を生きることへの著者のキツイ督励を感じる。
  
本当に死にたい人以外には、お勧めの本である。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本荷風さんの戦後

2006/10/08 10:07

『断腸亭日乗』の粋

7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

大正6年から昭和34年まで書き続けられた荷風の日記『断腸亭日乗』で面白いのは戦後の部分である、とずっと思っていた。その『断腸亭日乗』の面白い部分を、あの「昭和史」の著者である半藤利一氏が自らの時代体験を重ねつつ、肩の凝らない軽妙な語り口で読み解いていくのだからこれがつまらないわけはない。

・・・終戦直後・・・戦前は洋行帰りの颯爽とした都会型のダンディーだった荷風先生も、相次ぐ戦災に息も絶え絶えで、死ねないからただ生きているだけ、と消沈したしょぼくれ老人のような有様からスタートする。

だが、老け込んだと思う間もなく、出版社からの原稿の引き合いが相次ぎ、金回りもよくなって、金への執着も変人ぶりも復活。

転々の挙句、蟄居したはずの市川はお気に入りの地となり、友人に提供された船橋海神の仕事場で様々な名文を送り出し、果ては文化勲章を受章し国家的名士となった・・はずなのだが、荷風先生の日常はまったく変わらない。

たとえば、荷風先生は国から勲章をもらおうとも、天皇に拝謁した翌晩には浅草の踊り子たちに囲まれてどんちゃん祝賀会などをしているのだが、こうした世の中が如何に騒ごうともわが道を通す文豪の、反骨・偏屈・変人ぶりが日記文学として長く読み継がれる理由なのだろう。

半藤氏の解説により、周囲の人の日記とあわせ読むことでさらによく浮かび上がる荷風先生のドタバタ日常は、どこか取り澄ました文士然とした戦前の日記よりも格段に面白い。
荷風先生の世の中の敵が軍国主義からアメリカ迎合社会に変わろうとも、世間のマジョリティの醸す風潮への反骨はまったく衰えない。その硬骨漢ぶり(?)は、グローバリズムと言う名の価値観の単一化に流されがちな現代においてこそ、魅力が再認識されるべきと実感させられた本だった。

『断腸亭日乗』を読んだ人も読んでない人にも一読をお勧めできる本であるが、ちらかといえば読んでない人にお勧めする。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本写真俳句のすすめ

2008/09/20 08:39

時代とともに広がるやさしい表現の方法

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

時代とともに新しい創作や表現手段が生まれてくるのは当然だが、どうやら写真と俳句は相性がいいようだというのは誰しも感じるところではないだろうか。光景を切り取る写真と、わずかな文字で世界を表わす俳句は似通ったところがある。

写真は引き算と言われ、絵の具を塗り重ねていくような絵画とは違い、すでにある被写体の映像から写真家の感性で不要なものを画面から排除して最終的な映像を残して写し込む。一方の俳句はわずか十七文字の中に作者の生きている光景を切り取り、世界を凝縮する。
こんな写真と俳句が結びつくことで、主観性の強い俳句に客観的な記録性を補うとともに写真には作者独自の観点の説明が可能になって、記録表現として相乗効果が発揮されることだろう。

そもそも写真も俳句もそれ自体は伝統的な手段だが、デジカメ全盛の写真も五七五で言葉を並べる俳句も、とりあえず誰でも手軽に手がとどく。表現しようという欲求はプロの芸術家だけでなく誰にでもあるものだから、もこうした敷居の低い創作ジャンルが生まれて発展していることは大変喜ばしいことだ。

もちろん表現する以上は、できるだけ良いものを目指す事になるが、この本では著者の作例のほか、簡単だが的をえた上達の秘訣も述べられている。句会にには出るな、批判するより作品を作れ、名句を読め、平凡な場面が面白い画材になる、などなど、写真俳句に手をだしてみようという人には大変参考になることだろう。

俳句は極めて少ない語句による表現だけに、作者の主観性が強く表れ同時に解釈の範囲も広い。 たとえプロの講師によるものであろうとも偏狭で安易な批評にさらされては学ぶ技術や知識より、失う感性や意欲の方が大きかったりしたら大問題だ。 実際、常に創作は大変だが、批評は簡単で無責任なものだ。
本書は一部の専門家や特殊な愛好家にではなく、ごく一般の庶民の日常から手の届く表現の入り口をやさしく説いた本である。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本瞳子

2008/09/13 11:26

世の中への違和感を抱えて生きる

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

自伝的と著者も言っているように、1980年代に学生時代を過ごした著者の回想的作品のようだ。
テーマは世の中の大勢派への違和感を持って生きること、とでもいえようか、ニートの起源でも見たような気分になった。

大学卒業後就職もせず親の家でぶらぶら過ごす主人公の瞳子は、対人接触上の障害があるわけでもなければ、実態のない自分探しにかまけているわけでもない。ただ、自分は何者かを探すというよりも、「自分が何者でないか」をよく見据えている。

’80年代という世の中がこぞってバブルへ向かおうとしているくらいの時代に、特に大きな障害もなく順調そうに大学までを過ごした人間が世の中の大勢側と同調しない行動をとるのはさぞ過ごしにくかったのではないのだろうか、とも想像する。(あくまで私の想像だが)

物語の中で、言い寄った金持ちのハンサムを受け入れられなかった瞳子は次のように友人たちに述解している。
「好きなことが一緒なことより、嫌いなことがいっしょの方が大事な気がする」

・・・今はなんでもポジティブにとらえないことは悪であるような風潮が世の中を支配していて、パートナーとの関係も明るくひたすら前向きに、ネガティブな面をともかく排除して努力して作っていくものだというある種の脅迫めいた勘違いが横行しているが、瞳子の言葉は、意図して作られた協調だけでなく、情けなさや負の面を互いにさらけ出して共有できる間を持てる関係がパートナーなのだ、ということを突いている。 
 
人間は努力して負の面・陰の面を排除して完全な人間になるわけではない。光と影、正と負との混合体であること全部を肯定することが自分として生きる唯一の道だ。

現在はいよいよもって経済的価値だけが唯一の価値基準のような有様が進展して、意識無意識のうちにも、社会的世間的価値への迎合圧力に違和感を覚える人は多いだろう。
この作品はやはりそんな違和感があったことの、’80年代における風景である。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

現代を生きる不安と憂鬱

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

改めて説明するまでもないが、映画ブレードランナー(原題はアンドロイドは電気羊の夢を見るか)やトータルリコール(原題は追憶売ります)の原作で名高い作者の初期に書かれた短編集だが、本書でも印象的なのは荒廃した未来のイメージだ。
それはこの作品が書かれた頃の、東西対立や核戦争の不安と隣り合わせだった時代の空気を反映しているのだともいえるだろう。 
 
すべての話がすさんだ未来の場面や退行の予感を描いているわけではないが、どの作品にも人間の進歩や前向きな努力の裏に潜む挫折、衰弱、失意、焦燥、虚脱といった負のイメージがまとわりつく。

とはいっても暗い話ばかりが並んでいるわけではない。皮肉と時にユーモアをたたえた単純に面白いファンタジー系の読み物として秀逸であり、それが没後も人気作家として支持を得ている理由でもある。
 
本著の「森の中の笛吹き」などは絶えざる競争と努力を積み重ねてきた「まっとうな」人間たちが、あるとき自分は植物になったと信じて社会的な義務を放棄して静穏に暮らすようになる話だが、常にアドレナリンを放出して目標を掲げては前向きな努力と前進することを唯一の善とするような現代社会においても、十分なアイロニーと魅力を放つ。
 
だから、この短編集はかつての東西対立や核戦争不安のあった時代雰囲気を色濃く反映させながらも、諸作品にまたがる通奏低音のようなイメージの連鎖が、現代を生きる私たちを覆う不安と憂鬱をも貫いて響いてくるようだ。
  
ディックの描く荒廃した都市や日常の光景に私たちが見るものは、現代社会に疲弊した私たちの不安と減速願望の写し絵なのかも知れない。
 
疾走する現代社会に疑問を持った人や疲れた人にもぜひ一読を勧めたい。 

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

51 件中 16 件~ 30 件を表示
×

hontoからおトクな情報をお届けします!

割引きクーポンや人気の特集ページ、ほしい本の値下げ情報などをプッシュ通知でいち早くお届けします。