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  3. ひこ・田中さんのレビュー一覧

ひこ・田中さんのレビュー一覧

投稿者:ひこ・田中

34 件中 16 件~ 30 件を表示

紙の本

イスラエルで寄宿舎学校のアラブ少女の日々を描いた本書は、「民族」を考えるに絶好。

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 今世界中で民族紛争が起こっています。
 この物語の主人公は、イスラエルに住む一四歳のアラブ人少女ナディア。
 彼女は医者になって村の医療に尽くしたいという夢があり、そのためにはユダヤ人の寄宿舎学校に入り、大学を受験するのがベスト。家が裕福なこともあり、これは実現します。ですが、そこでまず直面するのは、友人となったイスラエル人に自分がアラブ人であることを告げるべきかどうか。
 ナディアはこんな風に悩みます。
「どうしようと、なんども思った。もしいえば、自分がアラブ人であることに劣等感を持っているように聞こえる。だって、だれもそんなこと聞いてないもの。だったら、なぜいうの? もしいわなければ、やっぱり、アラブ人だってことにコンプレックスを持ってて、かくしてると思われる」。
 これが、複雑な問題であることが、とてもよく伝わる言葉です。
 イスラエル人との文化ギャップに悩むナディアの姿を、物語は丹念に描いて行きます。
 友人だと思っていたコが、ナディアをではなくアラブ人を知ろうとしていただけなんていう民族と個の問題も出てくる。ようやく慣れてくるナディアだけれど、村に帰ったら今度は、村での友人がアラブ化したとナディアをなじる。
 それでもナディアはナディアであろうとするけれど、アラブ人となるときがくる。寄宿舎に居るとき、アラブ人によるテロ事件が起きたのです。学校中にアラブ人への非難が沸き起こる。親友もナディアの敵になる。彼女がアラブ人だから・・・。
 
この物語は、イスラエルとアラブの話だけれど、子ども同士の複雑微妙な関係は日本の子どもたちにも通じる。
 読めばきっと共感するでしょうね。

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紙の本

紙の本少女ポリアンナ

2002/03/08 16:47

良くも悪くも児童書の典型があり、一度は読んでおいていいものです。

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 1913年のこの作品は『赤毛のアン』と共に、孤児物語としてよく知られています。『少女パレアナ』というタイトルの方がおなじみの人もいるでしょう。1986年にアニメ化されたとき『愛少女・ポリアンナ物語』というタイトルとなり、「ポリアンナ」の方が今は流通しています。どちらにせよ、この名前はポーターの創作。ポリアンナの母親が、自分の姉であるポリー(パレー)とアンナにちなんで付けたことになっています。彼女は姉ポリーの反対を押し切って貧しい牧師と結婚し、ポリアンナを産んだのです。
 孤児となったポリアンナはポリーとアンナ姉妹の家で育てられることとなる。彼女はお父さんが大好きで、彼から教わった「喜びのゲーム」(アニメでは「よかったさがし」。being glad game)をポリーにも教えたいけれど、妹を奪われたと思っているポリーは父親の話をいっさい聞きたくないとポリアンナに告げる。仕方がないので、彼女は町の人たちにそのゲームを広めていく。どんな事態でもそこになにかの喜びを見出していくそのゲームは、やがて多くの人々に共感され、広まっていく。知らぬはポリーばかりなり。
 医者のチルトン先生も、ポリアンナの明るさに魅せられた一人。彼とポリーは何故か犬猿の仲。
 ある日、交通事故に会うポリアンナ。寝たきりになってしまった彼女を救うためにはチルトン先生の診察が必要なのだけど・・・。
 「Pollyannaism」(楽天主義?)という言葉が産まれたほど一世を風靡したポリアンナのまっすぐさは、今読むと、引いてしまうかもしれません。けれど、案外今では新鮮でもあるのです。
 いずれにせよ、ここには良くも悪くも児童書の典型があり、一度は読んでおいていいものです。

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紙の本

紙の本カラフル

2002/03/08 16:29

私はこの物語に出会えたことが、嬉しい。

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 大きな過ちを犯したため、輪廻のサイクルから外されるはずのぼく。ところがぼくの魂に「おめでとうございます。抽選にあたりました!」と天使がいう。
 なにそれ?
 悪い冗談? 
 ではなく、本当に、輪廻のサイクルにもう一度戻れるチャンスを与えてくれるらしい。そのためには、自殺を計り死にかけている中学3年生小林真の魂と入れ替わり、彼の家族とちゃんとやっていくこと。そうすれば、過去の記憶もよみがえって来て、犯した罪を許されるという。
 そこで当然ぼくは、小林真の体を借り、彼の家に魂のホームステイをすることとなる。
 なんだかふざけた設定みたいですが、そうではありません。
 天使のプラプラから与えられた情報では、真のところは平凡な愛情溢れる家庭のようにみえて、実はろでもない人々の寄り集まりの仮面家族らしい。
 真になってしまったぼくは、いやでもその裏の姿を見ることとなる。
 母親の不倫。自分のことしか考えていない父親。思いやりのない兄・・・。
 でも、この設定は、ロールプレイですから、家族や友人の裏と表を知ってもぼくは耐えられるようになっています。だって、ぼくは小林真じゃないから。
 こうして物語はある種の自由を得て、現代の「父親」や「母親」や「兄弟」、つまりは「家族」のカラフルさを描き出していく。
 果たしてこのロールプレイはゲームのようにリセットできるのか?
 そして、肝心のぼく自身は誰なのか?
 九〇年代、様々な家族の物語が書かれてきましたが、これがその中での代表的な作品になることは間違いありません。

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紙の本

こんなに凝った絵本は診たことがない。それだけでもう、感動です。

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 汽車に乗って、見知らぬ町を訪れる。
 この絵本、たったこれだけの設定です。
 なーんだ、と思われる前にぜひ、その絵を見てください。描いた物でなく、一見精巧なミニチュアを作って撮影したものなのですが、どこ、か何かが妙なんですね。とても似ているけれど別世界にいる感じかな。
 で、よーく見ると、汽車も、駅も公園もサーカス小屋も、レストランからホテルにいたるまで、ミニチュアじゃないんです。そうではなく、身の回りにある、様々な小道具やお菓子などを使っているんですね。例えば、ちょっと見には何の違和感もないホテルのロビーなんだけど、よくよく見るとソファーが赤い手袋で、イスの背もたれはがま口のサイフ、観葉植物はエンドウ豆のさやだし、テーブルのランプは小さな香水のビンで、エレベーターのトビラの上にはチーズおろしが! 汽車も、車輪はプルトップの缶にビールの王冠。煙を噴出しているのは糸巻きだし、シャーシにはおもちゃのピストルハサーモニカ。給水塔は逆さにした泡だて器の上にコーヒーカップ。
 一度探し始めるともう、大変。次から次へと、見えてきます。そして、見えてくるともっと探したくなって止まらない!
 一ページを、こんなに長い時間見続けてあきない絵本って、初めてです。ページを繰ろうかなと思ったとたん、見逃していたものが見つかったりね。
 いやー、楽しい、楽しい。
 いくら説明しても、そのすごさは伝わらないと思う。
 見て、見て!

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紙の本

紙の本目のひみつたんけん

2001/11/30 15:35

これ、はっきり言って、今ではダサい本。だけどね、

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 おさむはお父さんに連れられて、ある博物館にやってくる。空中に浮いているその不思議な建物に入ると、そこは目の錯覚を利用した絵や部屋がある。
 という設定でこの科学絵物語は、人間の目の仕組みを解説していく。今のように簡単にCGが描ける時代に出た本じゃないので(1980年初版)、見た目ははっきり言って、もはやダサい。手描きの絵は貧乏臭い。
 でも、視覚の不思議さを絵ではなかなか説明できない時代だからこそ、この本は言葉で説明することに全力を傾けている。
 もし、優れたCGがあれば、説明はそんなにいらなくなるでしょう。でも、その場合、人間の目が何をどう錯覚して見てしまうかという、大事な点がすっぽり抜け落ちてしまう。
 つまり、人間の目が、今目の前にある物を見ながら、実はそれをそのまま見ているのではなく、自分のこれまでの体験や経験が勝手に解釈していることを。
 これは、もちろん、目だけの話ではなく、人間がいかに、物事を自分の都合で解釈してしまっているかまでを、思い起こさせるのですね。
 たまにはこんなロートルの本を手にとってみるのも、必要だと思うよ。

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紙の本

紙の本カッパのぬけがら

2001/09/27 20:18

誰だって、カッパのぬけがらを着たい!

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 夏の日、ナマズの大王を釣ろうとしていたゲンタはカッパの網に捕まってしまう。やっと解放されたと思ったら、当のカッパは殿様と家来の一人芝居を始める。何故かというと、この川にはもうこのカッパしかいないわけ。
 それで、カッパはゲンタにカッパになれという。なれと言われても・・・。
 ところがカッパ、百年に一度脱皮するのだが、今年がちょうどその年で、ぬけがらがあると言う。それを着ればカッパになれる。
 さっそくカッパになったゲンタは夏休みをカッパとして楽しく過ごす。でも家に帰りたくなって、ぬけがらをお土産に家に帰る。また来年の夏、それを着て遊ぼうな。
 目覚めたゲンタに家の人が語るには、ゲンタはおぼれているところを助けてもらったとのこと。なんでも助けてくれた人は、小さい体に頭がハゲていたらしい。
 そして次の夏、再びぬけがらを持って・・・。
 小さな絵本ですが、カッパのキャラがちゃんと立っているのはさすが。いまどきカッパが出てくる意外性から、そのぬけがらまで発想を広げるのはすごいなー。
 笑って読み終えればいいのだけれど、子ども読者には、大きくなっていくということの意味がすっとわかると思うよ。
 そこがいい。

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紙の本

紙の本リラのおどり場

2001/09/07 17:04

おどり場に解放空間を発見したリラに乾杯!

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 おどり場はリラのごっこ遊びの舞台。昨日は海の上のヨットで、今日は図書館。机を出して、本を置いて、付箋の紙たばも、貸し出し中の箱もおいてある。あと、壁にお知らせを貼らなくちゃ。結構力が入ってます。でも、
 リラのごっこは一人遊び。何故かというと、アランが遊び仲間に入れてくれないからです。今も、エイミイ、ジョンと三人で、ローラースケートをしているのが、窓から見えます。
 何故、アランが仲間外れにするのか、リラにはわからない。不器用だからだというのだけれど。

 孤独な心を想像力で埋めることは、小公女セーラや赤毛のアンでもおなじみですが、リラの場合はそれがアパートのおどり場でのごっこ遊びなのです。
「どうしてなのかな。おどり場にいるとほっとする」「きっと、ここは、あっというまに、わたしのすきな場所に早がわりしてくれるからだわ」。
 そこにジョンがやってくる。そして、リラの遊びに興味を示し、一緒にやりたいと言い出す。リラが自分で物語を作っていることにも感心する。エイミイもやってきて、リラの物語を聞きたがる。なのに、そこにアランがやってきて、ジョンとエイミイに外で遊ぼうと誘う。
「物語の時間だって! つまんねえっ!」。
 いじめられているリラの悲しさと、それでもおどり場で想像世界を広げようとする強い意思が、伝わってくる。やがてそれは、ジョンとエイミイを引きつけ、そして、アランをも・・・。
 いじめられる気持ちと、いじめる気持ち、どちらもが浮かび上がっている。

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紙の本

紙の本アリスの見習い物語

2001/02/16 13:52

中世が舞台で、テーマは、「今」。読みがいあり!

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 十四世紀のイギリスの小さな村が舞台。邦題にある「見習い」が何かは、原題が教えてくれます。『産婆見習い』(The Midwife's Apprentice. )。博物館学の専門家でもある作者は、中世における産婆の姿をここで詳しく描いていて、そこだけでも読みがいがあります。「作者おぼえがき」にも産婆の歴史が簡単に、けれど的確に紹介されているのも嬉しい。
 
 孤児である主人公の女の子は名前すらなく、ブラット(ガキ)と呼ばれているだけ。村から村へと放浪の日々。寒い夜、暖かい堆肥に潜って眠るような生活です。それで今度はクソムシとも呼ばれてしまう。ある日、物乞いしたのをきっかけにジェーンという産婆の見習いとなる。ブラット、クソムシ、産婆見習い。女の子の呼び名はこうして変わっていきます。そして最後の名前はアリス。産婆見習いがこれを手に入れるエピソードは素敵です。
 産婆に頼まれて町に買い物にでかけた彼女は、見知らぬ男にアリスという名の女の子と間違えられる。彼女に似た、アリスは読み書きができる。だからこの男、届いた手紙を読んでもらおうとしたのでした。
 そこで、産婆見習いは思う。
 「アリスという名前の女の子なら、みんなに好かれるかもしれない」。「じゃあ、あたし、アリスになろう」と。
 それから彼女は周りに人に、自分をアリスと呼ばせるようになるのです。
 
 普通名前は、授かるものですが、アリスは自分の名前を自分で決める。そこがおもしろい。そしてこれは名前だけではなく、どんなことでも自分で選び取っていかないと、本当の自分にはなれないことを伝えてくれてもいます。
 師匠のジェーンから教わるのは、「産婆にはまじないや魔法だけでなく、体力としっかりした判断力とヒレハリソウの薬が必要だということ」。
 
 時代設定は昔ですが、テーマは真っ向から、「今」です。

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紙の本

紙の本両手のなかの海

2001/02/09 13:18

ゲイの父親は、名門高校に入った息子に何を伝えるのか?

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 マイホームを買ったばかりのときに失業した父親が、そのまま蒸発したのは、一海が志望私立中学入試を間近にした小学六年生のときのこと。結局受験に失敗し、父親のようにはなりたくないと思う。四年が過ぎ、今はその私立中学からでも合格するのは難しい名門の高校に通っている。
 ところが、母親が北海道に転勤することになる。単身で行くか、一緒に来るか? しかし、せっかく合格した高校を転向なんかしたくない一海。とりあえず、母親から四週間の猶予期間を与えられる。その間にどうするか決めるのだ。
 一海は自分が通っていたレベルの低い中学がとてもいやだったし、そういう考え方をする自分が嫌な奴なのも知っている。受験校である高校では、みんながみんな勉強をしていないフリをしているし、本当はそうではないのをお互いが知っている。
 だから、もう、うんざりしてるってわけ。
 そこに与えられた自由な四週間の一人暮らし!
 が、帰宅すると見知らぬ中年女性がいる。いや、女の格好をした中年のオヤジが。彼(彼女)は言う「お前の父さんだよ」と。
 この、「男」を降りた父親と登場させることで、物語は、一海や、彼に代表される現代の子どもたちの硬直した心を解きほぐしてくれる。
「笑いたいやつには笑らわせとけばいいじゃない。あたしはあたしなんだから」。「間違いも正しいもないんだと思うよ。いまある自分を受け入れて、そこから始めるしかないんだって」といった言葉を息子に向かってリアルに吐ける父親が、どれほどいるだろうか?
 その意味で、父親の意味を改めて問い直すための物語としてもつかえる一品。

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紙の本

紙の本もちろん返事をまってます

2000/11/24 15:50

真っ直ぐに心と心をぶつけ合う、往復書簡。

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 これは五年生のノアって女の子と、脳性マヒの男の子ドゥディの往復書簡。
 障害者を登場させる物語は決して少なくないけれど、眺める視点か、障害者側からの視点といったものがほとんど。でも、『もちろん返事をまってます』は、往復書簡という形式にすることで、両者の視点から描けている。それと、肉声ではなく手紙だから、面と向かっては言いにくいことも書けている。
 ノアは近所の住む知恵遅れとみられる(彼女が思う)五、六歳男の子ペニーが、家にこもりっきりなので、「ボランティア」で散歩に連れていこうとし、ペニーの姉からその欺瞞性を指摘されたと書く。一方ドゥディは、「ぼくは写真を撮られるのが大きらい(略)、自分のかっこうが気にいらない」と書く。
 こんな手紙もある。
「ある日、とつぜん、歩けるようになったとする。君には、歩けるようになる可能性はない。そういうとき、友だちの手術の成功を、自分のことみたいに、素直に喜べるかい?」。
 二人が互いを深く知るようになると、ノアは会いたいと手紙を出す。でもドゥディは会いたくない。それでもノアは「会いたい、会ってあなたを見ても私は驚かない」と書く。それに怒るドゥディ。ノアの返事。「オーケー。もう、いいません。だけど、それでどうなるかしら?(略)わたしの手紙は、わざとらしくなるはずです。ひとこと書くたびに、ドゥディを傷つけやしないかおこらせやしないかって、十回も迷うから。(略)そうしてほしいの? 本心のこもらない手紙でもいいの?」
 こんなに真っ直ぐに描かれた物語もちょっとない。
 障害を持っている子もいない子も、互いの本音の一端には触れることができると思うよ。

(ひこ・田中/児童文学作家)

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紙の本

紙の本ほんとうの家族のように

2000/11/24 15:48

老人ホームで心を閉ざしたおじいさん。ジューンはどうしていいかわからないけれど・・・。

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 先生のアイデアで、クラスのみんなは毎週、老人ホームに出かけることとなる。一人一人が、それぞれお年よりとペアとなって過ごすのです。ジューンがペアとなったのはフランクリン・クーパー。他のひとはみんな同性なのに、人数の関係でおじいさんになってしまう。しかもこのクーパーさん、ジューンに冷たいことこの上なし。挨拶しても答えてくれないので耳が遠いと思って大声をだしたら、
「耳は達者だ! 頼むから大声を出すのはやめてくれ!」。
「ここには長いんですか? ご家族は?」には、
「そんなこと、おまえさんの知ったことか! 生意気なガキだ。ばかげた質問ばかりしおって!」。
 やれやれ。
 子どももなく、連れ合いがなくなってからずっと一人で暮らしてきた彼は、コミュニケーション不全なんです。どんな呼びかけも受け付けてくれない。でも、どこかに接触回路はあるはず。それがなかなか見つからない間の、ジューンの悲しみと苦しみは大きい。
 クリスマスのプレゼント交換会に彼女、母親から習って、毛糸のマフラーを編み上げるけど、やっぱり、マフラーはもう持っている、なんてひどい言葉を吐くクーパーさん。しかも、クラスのみんなはペアのお年よりからプレゼントをもらうけど、ジューンは、なし。
 よく耐えるなー、とジューンに感心するのですが、それは彼女が、クーパーさんが本当に拒否しているのでなはく、どう反応していいかわからないからだと思っているからです。もちろん、家に帰って泣いたりもするけれど。
 ジューンの母親が巧いことを言う。同じように茹でても、卵は固くなるし、ジャガイモは柔らかくなる。ジューン、あなたはどっちになる? と。ジャガイモになると決意したジューンなら、もう大丈夫。来週もクーパーさんの所にでかけます。
 閉ざされた心が開いていく様を読んでみてください。

(ひこ・田中/児童文学家)

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紙の本

心が柔らかくなった。

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 タイトルを見たら、教育絵本かなと思う人が多いでしょう。で、確かにそうなんですが、ちょっと違う。このちょっと違うところがツボです。
 
 まずは作り手の言葉を、お読み下さい。
 「わたしは、自分で探検し発見することが、子どもたちにとっていちばん有効な学習方法だと思っているので、この本でも、たくさんの質問をなげかけています。でも、ほとんどの質問には答えをだしていませんし、答えがふたつ以上ある場合もあります。」
 
 全く同感です。でもそれをどう絵本として仕上げていくかが難しい。
 この絵本の勝利は、名画鑑賞・解釈って角度ではなく、また作家別や、歴史の時系列に沿って教えるやり方ではなく、古代の壁画から絵画、オブジェまで様々な作品を「動物が出てくる」というカテゴリーを作って、括っていること。つまり、これまでの「正しい」分け方でなく、子どもが発見の楽しさを知ることができるように、工夫している。
 勉強も遊びの一つでいいんだってことが、よく伝わってくる。芸術品への距離がぐっと近くなる。
 この人、小学校の美術の先生なんだけど、こーゆー先生に教えられたら、美術だけでなく、生きている世界が楽しくなると思う。だって、「物の見方」の自由さを教えてくれるのだから。
 生徒ではない、ただの読者である私も、心が柔らかくなった。

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紙の本

紙の本イスカンダルと伝説の庭園

2000/10/26 14:28

読書の喜びを教えてくれる一冊。一気に読んでしまいます。

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 昔、アラブに、イスカンダルという天才庭園作家がいた。彼の名はあまねく世界に知れ渡っている。自分の名を後世まで残したいと考えていたアラブの王の一人は、そのために世界一の庭を造ることを思い立つ。そこで王は世界中に使者を送り、ついに伝説の庭園作家イスカンダルを探し出す。
 何年掛かっても、どれだけの財を費やしてもよい。完成すればお前が一生楽しく暮らせることを保証する。王はそう告げる。
 イスカンダルは引き受ける。喜ぶ王だが一つだけ悩みがあった。それは、庭園を完成させたイスカンダルが、その後別の王のためにもっと素晴らしい庭を造ってしまうことだ。
 王は、イスカンダルとの約束をたがえず、しかし、二度と新しい庭を造ることができない方法を思いつく・・・。
 果たしてイスカンダルの運命は!
 預言者や詩人も登場して、伝説と庭のメタファが絡まり、最初から最後まで、面白さ充満で、最後まであきさせません。
 
 ストーリー・テラー、ジズベルトの腕は確か。いい職人芸を見せてくれています。
 だから、へたな説明はなし。そのままでご賞味くださいませ。
 読み終えた後、人間の知恵と愚かさが、心に残ります。

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紙の本

紙の本イチジクの木の下で

2000/10/02 15:56

忘れる物語。1999年度、私のナンバー1。

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 三部作です。『森のサクランボつみ大会』と、『イチジクの木の下で』と、『キンモクセイをさがしに』。この三作で作者はこれまでになかった、全く新しい世界を作り上げました。それは覚えるのでなく忘れることで進行する物語です。普通、物語は覚えることで成立しています。登場人物たちは様々な出来事を覚え(学習・経験・体験)て物語の中で成長していきますし、読者もまた今まで読んでいたことを覚えているから読み進むめる。
 なのにこのハリネズミたちときたら!
 プルプルの家に友達のフルフルがやってくる。今日は森のサクランボつみ大会に出かける約束をしていたのだ。もちろんプルプルはすっかり忘れている。一方のフルフルが覚えていたのは、手の甲に書いていたからです。で、なんで書くようになったかといえば、自分の誕生日に、みんながパーティーをしてくれるのをすっかり忘れて遊びに行ってしまったことがあるからです。もっとも集まった連中も、なんで集まったかを忘れてしまってフルフル抜きでご馳走をたいらげてしまった・・・。
 さて、プルプルは、それじゃあ、シャワーを浴びてから行くといって、フルフルを待たせたまま、またそのことを忘れてしまう。
 二人は無事にサクランボ大会に行けるのでしょうか?
 『キンモクセイをさがしに』では、ハリネズミの授業風景が描かれます。先生がキンモクセイを教えようと現物を持って現れる。これを見たことがある人! みんなない。よしよし、これから教えるぞ。ところが、そのあと、どこかで見たことがあるといいだす。実は今さっき見ただけなのですが、今さっき見たことを忘れているのです。おかしいなー、知らないはずなのに。と不思議な先生。で、みんなで前に見たというキンモクセイを探しに出かけるのですが・・・。
 といった具合です。
 このとてつもない、三部作。1999年度、私のナンバー1!

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紙の本

紙の本キンモクセイをさがしに

2000/10/02 15:54

忘れる物語。1999年度、私のナンバー1。

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 三部作です。『森のサクランボつみ大会』と、『イチジクの木の下で』と、『キンモクセイをさがしに』。この三作で作者はこれまでになかった、全く新しい世界を作り上げました。それは覚えるのでなく忘れることで進行する物語です。普通、物語は覚えることで成立しています。登場人物たちは様々な出来事を覚え(学習・経験・体験)て物語の中で成長していきますし、読者もまた今まで読んでいたことを覚えているから読み進むめる。
 なのにこのハリネズミたちときたら!
 プルプルの家に友達のフルフルがやってくる。今日は森のサクランボつみ大会に出かける約束をしていたのだ。もちろんプルプルはすっかり忘れている。一方のフルフルが覚えていたのは、手の甲に書いていたからです。で、なんで書くようになったかといえば、自分の誕生日に、みんながパーティーをしてくれるのをすっかり忘れて遊びに行ってしまったことがあるからです。もっとも集まった連中も、なんで集まったかを忘れてしまってフルフル抜きでご馳走をたいらげてしまった・・・。
 さて、プルプルは、それじゃあ、シャワーを浴びてから行くといって、フルフルを待たせたまま、またそのことを忘れてしまう。
 二人は無事にサクランボ大会に行けるのでしょうか?
 『キンモクセイをさがしに』では、ハリネズミの授業風景が描かれます。先生がキンモクセイを教えようと現物を持って現れる。これを見たことがある人! みんなない。よしよし、これから教えるぞ。ところが、そのあと、どこかで見たことがあるといいだす。実は今さっき見ただけなのですが、今さっき見たことを忘れているのです。おかしいなー、知らないはずなのに。と不思議な先生。で、みんなで前に見たというキンモクセイを探しに出かけるのですが・・・。
 といった具合です。
 このとてつもない、三部作。1999年度、私のナンバー1!

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