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T.コージさんのレビュー一覧

投稿者:T.コージ

37 件中 16 件~ 30 件を表示

紙の本生き延びるためのラカン

2009/04/09 16:25

『ヨシモトで読むラカン』という本が一冊書けそうな…

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ラカンに転移してしまった著者が「日本一わかりやすいラカン入門」を目指して6年の月日をかけ、中学生にも読めるように書いたのが本書。
 
 サブカル論議や精神分析、心理学フェチなら当然知っているレベルの用語だけで見事にラカンが解説されている。難解な専門用語が排除されているわけで、そこに<父の排除>を察する読者からは反発もあるけど、それこそこの本が成功してる証だとすればOK。
 
 吉本に転移している自分からすると、本書はフロイトへの深い理解のためかより一層吉本理論との近似が気になる。吉本や著者への自分の転移は当然として、他者からはどう読めるのだろうか?という新たな知への欲望がさらに喚起され、もちろん必読の一冊として触れ回りたくなる欲望はこの書評を書く衝動を喚起し。。。。
 
 タレントでも著者でも、その人を気に入ったらその人の作品を複数手に入れるのは当たり前。好きな役者の出演するTVや映画はいくつも見るし、著者なら何冊も読むでしょ。好きなミュージシャンのCDやアナログレコードだってたくさん持ってたりするもの。
 そんな訳で、斎藤環や吉本隆明の本はたくさん持っている。そのなかでも専門用語を並べた専門書より解りやすく深くて、読んでいて面白い、この『生き延びるためのラカン』はランキングが高い。
 
 漢字は<表象・表音・表意>の三位一体になっていて複雑。記号論で対象になる言語の文字としての<表象・意味>や言葉としての<表音・意味>とは複雑さのレベルが違う。
 漢字という書文字はそれだけで絵と記号の両方の機能をもっている。そのために「シニフィアン」「シニフィエ」みたいな意味ありげな用語をいくつ並べても漢字が人間にどう享受されるかは説明できない。同じようなことをラカンの限界として指摘したのが斎藤環の『文脈病』で本書でも同書を参照するよう勧められている。
 
 入門書にしてはラカンの重要概念の由来まで説明されているのもGOOD。<対象a>がマルクスの<剰余価値>をヒントにしているなど、マルクスやヘーゲルからラカンがどのような影響を受けているかという説明は参考になるでしょ。それだけでも西洋思想という文脈の中でのラカンの確かな位置づけが可能。ヘーゲルやマルクスを除外しては現代思想の文脈が成り立たない事実を再認識しないと、日本の論者のこれ以上のフラット化、動物化が避けられないもんね。
 
 『ヨシモトで読むラカン』という本が一冊書けそうなほど、いろいろなヒントやネタが散りばめられた一冊だった。

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紙の本世界経済危機日本の罪と罰

2009/02/10 19:35

あり余るお金を使わない日本こそ、世界危機の原因だ!

9人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 膨大な資料を駆使して状況を読み取り、その原因を探り、瞬く間にレポートと分析を仕上げる…。
 データはどんどん入手するだけで整理しない。あふれるデータを整理している暇などないし、そんな事をしてる間に状況も変わってしまう。気になったことをどんどん検索にかけて抽出を繰り返す。縮減されていくデータのクラスターに事象の因果や輪郭が浮かび上がってくる…。何度もチェックするデータはスタックしていつも目の前にせり出ている…。
 データの全文検索とスタック情報のフロート化、そしてアプリとデータベースは持たずに身軽に動き回る。このパワーサーチとデータのフロート化、これが93年に『「超」整理法』として紹介された著者の仕事の仕方だ。最近はクラウドコンピューティング化してさらに仕事のスタイルは身軽らしい。データに裏打ちされた揺るぎない認識とリアルタイムの現状へのアプローチで次々と量産とは思えない分析レポートが繰り出される。
 
 まず大蔵省をはじめとした資料庫から生まれたのが『1940年体制―さらば戦時経済』だった。この『1940年体制』で現在の日本が戦前の統制3法(ファシズム法)に支配されていることを解き明かしたり、『日本経済改造論―いかにして未来を切り開くか 』でサラリーマン世帯の妻への年金など法的な根拠のない手厚い手当を解消すべきだと主張してもきた。常に全体の構造を見渡し、法的な根拠を問い、豊富な資料から解き明かしていく言説は説得力がある。こういった前提の上に出たのが本書。
 
 今回は100年に一度という現在進行形の世界経済のブザマな状態がターゲットだ。
 結論をセンセーショナルにいえば以下のとおり。
 
 この危機はマネーゲームが原因ではない!
 この危機はアメリカ発だけではない!
 この危機は日本の危機である。
 なぜなら日本発だからだ!
 
 それは本当の構造改革が行われていないからだ…
 
 構造改革で<統制3法>に象徴されるような法制上の根拠は消えたが、元来<1940年体制>が護持してきた官僚やそれに忠実な企業の既得権益保護と自己保身の姿勢は変わっていない。あるいはこういう経済状況だからこそむしろ既得権益に固執しているとも考えられる。
 大企業16社で社内留保金が33兆円もダブついている。半端な民営化の郵政では郵貯資金340兆円が公表されずに国債や公共ナントカに財政投融資されつづけている。根本的な日本の経済問題は、これらの膨大な資金が公正に正常に投資される環境がないということなのだ。選択消費が半分以上を占める先進国では投資は他の産業に代わる大きな事業として成長しつつあった。3次産業以上の高次の産業では歴史的な発展上も情報と金融は主たる産業だ。これからの日本では技術立国という発想は幻想になる可能性が大きく、BRICSをはじめとして成長途上の国家が回復すればすぐに低賃金ゆえのコスト競争力に日本は圧倒されてしまう。ポイントは情報と金融なのだ。

 今回の危機の背景にアメリカの住宅バブルと金融バブルを支えたのが日本から還流する資金であることが示されている。日本が対アメリカ貿易で得た資金はアメリカ国債とアメリカへの投資に支払われていったからだ。アメリカは日本からジャブジャブやってくるお金で好きなことをした、ということだろう。しかし、それでも市場に厳しいチェック機能があれば住宅の普及もウオール街のマネーの運用も適切なものとして展開できたはずだ。金融のホントの怖さは、これらのイレギュラーさえレバレッジで拡大されてしまうことだろう。
 
  今回の危機は、
  ファイナンス理論が使われたために起こったことではなく、
  使われなかったために起こったことだからだ…  (P245)
 
 
 著者の専門がファイナンスや公共経済であるためか、雇用や賃金からの視点がない。2002年からの日本の景気回復の要因は対米輸出の増大と極端な円安の2つとされている。確かにそうだがそこには同時に<賃上げナシ>と<派遣の自由化>があり、<景気回復分>に占める人件費などの割合が重要だと考えられる。90年代初頭にバブル崩壊を経験した日本がとった処置は<雇用の自由>を安全弁として使うことだった。雇用調整で企業を守ろうとするその卑小な自己保身がとんでもない結果を生みつつあるのが現在だ。
 GDPの3、4年間分のお金がダブついている国などどこにもないだろう。国はそれを保険にしてしまって何もしない。企業も莫大な留保金を保持するだけで何もしない。こういった官僚や企業の自己保身の構造が、派遣解雇だけで済むことではない事態を本書はえぐりだしている。日本の企業へ投資した外資は<ハゲタカ>とかいわれたが、企業に含み資産や社内留保金の用途を問いただしたのは外資や村上ファンドだけだった。本書はそういった外資の圧力にも期待を表明している。自己改革ができなければ外資を頼らざるを得ないのだから。

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紙の本ツアー1989

2006/12/04 12:36

忘れてはいけないものを教えてくれる、そして男の子がわかる、かも

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

●あなたは迷子かも?

 「迷子を見かけたら、帰り方を教えてあげること」

 いるんだかいないんだかわからない影の薄いボンヤリボーヤが、ラストにはなつ救済の言葉。シーシュポスだけが知っているような、あるいは全知全能の神に見つめられていることに気がついたような気持ちにさせ(てくれ)る言葉。

 みんなが忘れたものは何だったか?
 ビンボーでも浮かれることが出来たバブルの時代。
 みんなは、そこに何かを忘れてきたんじゃないか?
 いやいや、今のシアワセなあなた。
 残念ながらちょっと失敗しちゃって、後始末に忙しいアナタも。

 思い出してみてよ、忘れたものを。
 でなけりゃ、忘れそうなものを。

 当時は忘れられがちで、今は誤解されつつる主人公。
 みんなのテキトーな思いと記憶に抗しながら、それでも主人公は言う。
 迷子を見かけたら、助けてあげるんだと。

 ホントはあなただって、迷子だったんじゃないのかな?

●帰り方を教えてくれる男の子?

 登場人物は男も女もリアルで、ちょっと魅力的かもしれない。人間とそのキャラに対する著者の審美眼?が確かなことがわかる。たいていの小説は登場人物にクセがあり、良くも悪くも偏ったキャラだったりデフォルメされた人格でどうにかこうにか作品の世界を構成するのに貢献している。でも、この小説には自然な人物しか登場しない。フツーの人物と、バブル時代のエートスと、どこにでもある小さなシアワセや、ちょっとした不安や、疑いや期待を、フツーに描いて、組み立てて、これだけの魅力ある小説を書いてしまう。

 この作品のどんな紹介文とも、あるいは書評の類とも、自分の感想は違った。全然違う。そして、何と言っても、この作品は素晴らしいよ。
 人によっては劇中劇に見立てたり、春樹ワールドばりの現実と幻想が交錯する世界を見出したりするだろうが、本書をちゃんと読むと、ちゃんとリアルなのがわかるハズ。

 ボンヤリボーヤはどこにでもいるし、彼を探そうとするケイスケも実際にいそうなキャラだ。でも、この魅力は何だろう。隼主人公の、今は主婦である「凪子さん」。その夫の「てるぽん」。作品のガイドでもある「ケイスケ」。ちょっとカッコよくてどこかゲイみたいなところもありそうな「広報男」。登場人物はけっこう多い。そしてみんなどこか魅力的。

 勝手なことを言うと、特に、女性や女の子にオススメかもしれないと思った。女性は是非読んでほしい。理由はカンタンで、ここに描かれている男や男の子たちは、リアルだ。で、カッコいい。単なるカッコイイならメディアを眺めてればいるだろうが。ここに登場する男たちはリアル、なので、自分的には、どれもこれもどこかで会ったような気がするぐらいだった。男(の子)をリアルに知ることが出来る、そんな作品でもあるかもしれない。

 それから、これだけ文章がしっかりしているのに、ビジュアルを喚起する効果も抜群で、それも魅力的だと思う。登場人物や所作の視覚的イメージが的確で、シーンも景観描写そのものが目的みたいに季節の温度や風の音が聴こえそうに感じられる。

 ある種オソロシイ作家なんじゃないかと思った。そうじゃないのは知ってるけどさ。w

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「AKIRA」や「攻殻機動隊」と同じように書かれた「革命」の本!

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 もっともわかりやすい失敗例は、インターネットとテレビの融合である…通信やデジタルの政府系委員会に参加する著者の指摘はそれだけでも刺激的。本書は10年かけて書かれているが資料や諸説の検討に月日をかけたのではない。過去の集積=データベース的なものは著者には無縁で、「AKIRA」や「攻殻機動隊」のようにある未来から今日を振り返って書かれている。日本でインターネットの商用利用がスタートした当時デジタル・クリエーターの一人だった著者が注目されたのは著書『デジタル日本人』(1997年)のインパクトだった。デジタルやサイバーで形容されるものが技術用語やポスモダ用語ではなく豊富な具体例とオヤジやコギャルにわかる普通の言葉で説明されていた。本書は続編。
 「テレビを数年前にやめた」著者だが、メディアの仕事をし現場を知っている者ならではの説得力と鋭さがある。インターネットから本物のスターが誕生していない、ゲームが流行らなくなったのは街の構造がゲーム化したから、彼氏からのメールが最重要コンテンツ、日本のアニメが海外で評価が高いのは仕入原価が低いから…あくまでクール、オタクではないし思い入れタップリのサブカル論議とも無縁。技術論でも哲学的な理想論でもなくリアルな現場からのソリッドで当たり前の指摘が続き、「世界を見渡すと、国家がなくても文化が生き残っているのは実証済みだ」という認識も踏まえて、いかに文化から国家を再構築するかという問題と結論までイッてしまうスピードとドライブ感あふれる読み物になっている。
 債務残高=114位、財政赤字=113位という世界における日本のヘタレな順位を指摘しながら、ブレア首相が略ったイギリス国家の戦略的なブランド化を、それを一挙に解決できる方法として示してみせる。世界の情報化とグローバル化で直接知らない相手との取引や交流が増えるといちばん大切になるのは信用やイメージつまりブランドだ…とイギリスの戦略を参考に説明される。そして国家のブランド化とグローバル化は表裏一体であり、だからこそ重要なのはIT=技術ではなく物事の国際化だという結論に、サヨ・ウヨが大合唱する反グローバリズムも所詮は矮小な自己防衛でしかないことがわかるかもしれない。
 デジタルとグローバル化にともなう大きな問題である著作権についても、コピーは問題ではないと指摘し「自分で自分の作ったものを自由にできない」日本の著作権法と著作権管理システムの行き過ぎに著者は憤慨する。批判されるのは定価の10〜20%しかクリエイターの収入にならず、残り80〜90%が流通コストとなってしまう異常さだ。かつて音楽界でこの問題を解決しようと業界のシステムに挑戦したのが小室哲哉だった。
 ところで地方の時代が本格化しそうだが、成功しそうな地方(主体の事業)はどれだけあるのだろう。著者は自ら総合プロデュースした国内最大のコンテンツ・プロジェクト(政府と県による)「wonder沖縄」の成功を踏まえて「プロジェクト・リーダーがよそ者であること」「これができない地域は、まず成功することが難しい」という。
 しばらく前に長野県でも神奈川県でも知事はよそ者だと批判されたことがあったが、本書が指摘するさまざまな問題の根底には現代の日本を象徴するバカな事態が目立つ。間違いなく著者は現代日本の痛いところを突いているのだ。本書は「近未来考古学」であり「ハイブリッド・スタイルのススメ」だそうだが、個人的にはラジカルな革命本に読めてしまった。帯には「NIPPON改造講座」とコピーされているが、「改造」は革命並に厳しくイかないとイケない気がする。

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紙の本カール・マルクス

2006/06/14 13:46

すべてのマルクス本を捨てて読む価値があるかも?

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 マルクス主義のガイドやマルクスの人物伝は少なくない。しかし書き手に思い入れがあるせいかヤケに熱かったり冷笑気味だったり左右両派?のポジションの滑稽さをそのまま表明したようなものが多く、ましてや理論的な真偽や価値となれば失望さえする。
 マルクス思想の研究では構造主義以降の見解でマルクスの初期と後期では認識論的切断があるという立場が目立つ。ニューアカから全共闘のノスタルジーが漂うものまでそれは共通するようだ。構造主義は弁証法を超えた、物象化論は疎外論を超えた、関係論は存在論を超えた、経済システム分析は素朴なヒューマニズムに優先する....。
 本書では『経済哲学草稿』に代表される初期マルクスと後期の『資本論』がまったく同じテーマを同じ方法で追究していることが解き明かされていく。これほど簡明でしかも根源的なマルクス論は他にないかもしれない。おそらく稀有な一冊だろう。
 それどころか共同幻想や純粋疎外などのタームに象徴される著者の思想や理論的なスタンスがまるでマルクスのように一貫したものであることもわかる。だがアインシュタインが10代で相対性理論を発見しながら、それが表現できるようになるまでに長い月日を必要とした(に過ぎない)ことを考えてみるとそれも不思議ではない。優れた哲学者はたった一つのテーマを持つという某有名哲学者の言葉はきっと真理なのだ。
 疎外がどのように再帰し、その展開がどのように共同化するのか。本書は簡単に巨大なマルクスの思想を根源から理解できる珍しいマルクス本だといえる。いまだに諸説乱れる国家論や経済学の根本、大衆論や宗教の起源までもが驚くほど簡明に解き明かされていく一冊は読者を限定することなく必読だろうと思わせるものがある。

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紙の本ハイ・イメージ論 1

2006/05/15 13:06

欧米の思想とガチンコできた唯一人の思索者?

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 このイメージ論(マス&ハイ・イメージ論)で有名?になったタームが「世界視線」。吉本さんの思想で「共同幻想」「対幻想」につぐヒツト?となった言葉でしょう。でも内容的には、このイメージ論以降、激しく反発され否定されたようです。おそらく、その理由はカンタンで、視覚情報をメインとした現代のカルチャー論議の中で、自分たちのフィールドを侵犯されると怯えた評論家やインテリさんたちの必死な反発があったということでしょうか。
 問題なのは「世界視線」の定義も理解もできないレベルの批判がほとんどだったこと。吉本さんの全思想の大前提になっている心的現象論の基本概念である「原生的疎外」や「純粋疎外」への理解がほとんどないのと同じで、この「世界視線」への理解もヒドイものでした。理論的にいえば「純粋疎外」の延長線上に「世界視線」は成立するものですが、本書ではそれが臨床的な事実に即してわかりやすく解説されています。
 臨死という生命の弱化は、簡単に説明すれば心身の統合されたシステム維持能力の低下です。この心身の統合が低下し、システムのバランスが崩れるというのは、肯定的に表現すれば心身の各能力の変成であって、そこには通常では考えられない認識や受容性が生じます。そこで仮構された認識のある位相を「純粋疎外」と借定するわけですが、「世界視線」は比較的に日常でも遭遇しやすい「認識」として説明されています。
 さらには、その「日常」のレベルこそ超高度資本主義の成果であるとして、ハイ・イメージ論は驚異的な広がりと射程をもつ論考として展開されていきます。「世界視線」を可能にする変成は統合失調症そのものであり、基盤となる日常のレベルというものは経済状況と個人の観念の弁証法的な統一である特定の「階程」であり、あらゆる文芸は「世界視線」の表出という意義を持っている....。コム・デ・ギャルソンにJ・ケージ、精神病から高橋源一郎、村上龍、ブレード・ランナーやランドサット....縦横無尽の探究の中、コアとなる部分でヘーゲル、マルクスがシビアに検討されていきます。本質的に、欧米の思想とガチンコできた唯一人の思索者かもしれないと思わせる迫力が、そこにはあります。

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紙の本構造と力 記号論を超えて

2004/11/29 10:32

ラカンと読者の限界まで示すイジワルな本

8人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書はラカンの解説本であり同時にその限界を示しつつ、それを超えるものとしてニーチェ・マルクス・フロイトの「力の思想」を示している。つまり今後の展開を読者に委ねた内容になっている。
 もうひとつ結果としてだが読者に委ねているものがある。それは読解力についてだ。2次元の位相の単一性を証明するメビウスの輪を示しながら、それを3次元の位相の単一性の証明であるクラインの壺に置き換えて商品と貨幣の無限連鎖を説明するところなどが圧巻。ただし「3次元の位相の単一性」は紙上(2次元)や物(3次元)で表記、表現できないので、想像力のない人には理解できないというところはご愛嬌。本書は読者の理解力の限界?まで試しているのかもしれない。

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紙の本吉本隆明1968

2009/06/12 10:04

ビッグブラザー(『1984年』)とリトルピープル(『1Q84』)を通底する認識が身につくかも…

6人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

●〈最終兵器、吉本隆明!〉的な人たち
 糸井重里氏の「吉本隆明リナックス化計画」や渋谷陽一氏の「SIGHT」の連載、小飼弾氏の「私の Love to hate の対象」として吉本隆明を評価する新しい?スタンスなど現在進行形の吉本ingによる新たな吉本読者も少なくないはずで、その広がりと展開にプラスになるものが、もっと出てきていいのではないか…と個人的な期待と願望は大きい。小飼弾リスペクトの吉本リナックスというのは出来過ぎた話でもないし、むしろ吉本らしい展開のハズだ。もちろん思想的理論的にヤワな論者を突き放した『ハイ・イメージ論』『アフリカ的段階について』やレア?な『ひきこもれ』といった旧来の読者のオーダーをある意味で超えた位相の提示は、今こそもっと注目されるべきものだと思うが、本書はあっけなくそういった吉本理論の根幹にさえも言及している。一見世代論的あるいは私的随想にさえみえる本書は、その前提に吉本理論への根源的な理解があってこそ可能な一冊であることがわかる。
 
 本書の帯「永遠の吉本主義者」というコピーで思い出すのは橋爪大三郎氏の『永遠の吉本隆明』だ。2人とも「永遠」とまでいってしまっているが…ファン丸出しで、カッコ悪くないか? まるで信者じゃないか!などというクールなフリのスタンスはここでは通用しない。鹿島茂氏は「吉本主義者」とまで自称してしまっている。でも、そこまで入れこめる?両名は幸せな人たちではないか。きっと〈最終兵器、吉本隆明!〉的な人たちなのだろう。しかし本書の凄さ恐ろしさはそんなレベルではない。前述したように吉本理論への徹底的な理解の上に著者が共感する倫理が提示され、それへの帰依が表明されているからだ。たぶん思想家としてパーフェクトであるということはこういうことなのだ。そして本来的な意味でのエッセイストというものもこうあるべきではないのだろうか。
 
●〈ひきこもり〉な人たちまで
 著者は「吉本隆明の偉さというのは」「1960年から1970年までの十年間に青春を送った世代でないと実感できない」という。著作であれば『吉本隆明全著作集』以前の論文集と詩集が「吉本世代の心の支え」らしい。
 
 多感な青春の十年間に触れたものが〈実感〉を形成し、その後もリアルな原体験として残るのは誰もが経験する。しかもこの吉本-読者の場合は、書き手の吉本自身が大きな挫折=敗北を体験(確認)をした(ただし2度目)のが、おそらくこの十年間なのだ。著者はその体験の中で〈裏切らない吉本隆明〉の「倫理的な信頼感」こそに皆が惹かれたことを書いている。吉本への「共感」だ。
 一方著者より若い世代が吉本に惹かれた理由は〈敗北(の受け止め方)〉の見事さであり、〈撤退の潔さ〉であり、〈運動とは身体を動かすこと〉というシンプルな認識であり、なにより言説のスルドサというスタイルだ。この認識の違いは、やがて月日が経つにつれて拡大し質的にも決定的な差異となっていく。現在もっとも若い吉本読者やファン?が感じているのは〈ひきこもり〉や〈孤独〉を積極的に肯定してくれる吉本への共感であり、それを理論化できる言説への信頼と期待なのだ。
 問題は、敗北して、どこへ向かって撤退するのか、そこにはどんな生きていく理由があるのか?ということであり、あるいはどこにも向かわず何にもならずということについてでもある。〈内向の世代〉と呼ばれた文学のトレンドから村上春樹の登場まで、撤退先とその安寧を求めたさ迷いは、おそらくは途切れることはなくオタク的な段階までレイドバックしたのであり、そのトレンドのある典型的な形態として〈ひきこもり〉や〈島宇宙〉といった認識がある。そして吉本には脱社会的存在を承認する全面肯定の思想さえ見出すことができる。
 
●〈純粋ごっこ〉な人たちをcomplete!
 著者世代=団塊の世代と新人類やアラフォー以下の世代のギャップは大きく耐えがたいほど異質であることは歴然としている。だが、いかに質的な差異、世代をめぐる状況の違いがあっても、吉本を媒介にしたときにその連続性が意外に分かりやすいことに気がつく。二つ(以上)の世代とそのグラデーションの変化を追うとその差異と同定すべき点が明白になってくる。それは世代を超えた理解を根本的に提供してくれる。それは『ドイツ・イデオロギー』で示されるような普遍的な社会の認識方法がそのまま本書の視点になっているからだ。本書には吉本隆明による『カール・マルクス』の併読がお勧めだ。
 
 原生的疎外に対する純粋疎外を大衆に対する知識人というアナロジーで説明した柄谷行人氏の批評は有名だが、それは本質ではない。吉本隆明への再帰と別離を独り楽しむエッセイストによる独白である本書は、そのために文学としての自己表出的な価値と思想的な水準という指示表出的な、つまりは公的(交換的)な価値をもった稀有な一冊となっている。必読なのはいうまでもないだろう。そして超えるべき本なのに違いない。
 「吉本の偉さ」は自分たちの世代にしかわからない…というのが著者の主張(タテマエとしての?)だが、それは同時にレトリックに過ぎないだろう。
 
 吉本は青春時代の友情を<純粋ごっこ>だという太宰治の言葉を援用する。その意味がわかったときに本書は読了となるのかもしれない。大衆が大衆から離脱する、その悲しみに耐えなければいけない…吉本隆明は結局別れについて語ってきたといえる。
 戦争が生み出した極限の状況を描いた『火垂るの墓』の宣伝コピーで糸井は「4歳と14歳で生きようと思った。」と生きていこうとするけな気を美しく示して究極だが、吉本はさらに「一人で、生きよ」と主張し続けてきたのだ。そこには〈希望は戦争〉のような甘さはない。吉本は常にクールにマテリアルとテクノロジーが社会を決定し進展させて来たことを前提としているからだ。
 
  情念によって作りだされた反動や意味づけは、
  倫理によって作りだされた絶えまない説教とおなじように、
  社会像の転換にはなにも寄与しない。
   (『ハイ・イメージ論』収録「映像の終わりについて」から)
 
 本書を読了できれば『1984年』の「ビッグブラザー」と『1Q84』の「リトルピープル」を通底するただ一つの認識方法であるだろう吉本理論(幻想論)への端緒にたどりついたことになるかもしれない。

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100年に1度の危機とその解決の困難がよく解る!

10人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

●シンプルに示される鋭く深い知見!
 個別科学では得られないような視点からスルドク考察する池田氏。さまざまな問題をディテールまで具体的に追究する池尾氏。両者のやり取りをとおして現在間違いなく全世界が当事者である100年に一度といわれる問題が分析、考察され、解き明かされていく。
 
 直近のテーマはもちろん現在の世界的な経済危機なのだが、二人による探究の鋭利さゆえか、それとも危機が全般にわたっているせいか、結果として経済をめぐる問題のほとんどに関して言及され知見が示されている。レアな問題としても経済(学)あるいは社会科学の基本としてもフォローされる領域はひろく深いといえる。
 
 現在の経済危機の原因とそれを増長させた要因が明らかにされている。意外にシンプルな説明なのだが、それは事態がシンプルだからだ。統計や数値やナントカ式を列挙して悦に入っているプロ?というのは、そのことによって自らのアイデンティティとしてることが少なくないが、もちろんそれは真理の究明や事象の解析には何ら役に立っていない。本書はその真逆にある。
 
 国内経済の認識では『世界経済危機 日本の罪と罰』(野口悠紀雄)とほぼオーバーラップしそれを補完する内容で、解決策として産業構造の改革と内需の拡大が提示されている。VC起業が力説されているのは著者(池田)らしいが、冷静にアメリカの経験を検証してみればそれが正しいのは明らかだ。
 
●日本の危機は世界よりヒドイ!
 日本のバブルが銀行による融資と不動産によるプライムの膨張(のルーチン)というシンプルなものだったのに対して、今回のアメリカの危機が全く違うものであることが説明されている。つまり日本(のバブルの経験)は危機打開の参考にならないし、日本は今回のタイプの危機に対してまったく免疫をもっていないことが明らかにされている。
 
 それは、サブプライム(破綻)のファクターは債務を証券化したことだからだ。資産(評価)を膨らませたのではなく、債務(負の資産)を(担保の)資産価値は上がり続けるというありえない幻想のもとに証券化してしまった。負債が元本になっている金融商品なのだ。そのうえ保険会社は準備金(保険料)を収入(利益)として計上し時価を膨らませたという詐欺的な側面がとてつもなく大きいことが示されている。
 
 しかし冷静に考えるとこの保険会社のオメデタイ思考は日本でもそのままあてはまってしまう。顧客が積み立てている保険料をまるで収入(売り上げ)のように扱い、しかも圧倒的に多くの不払いをやってのけていたからだ。今後も保険よりもかんぽ、預金よりも投資という選択肢が安心して確保される政策が必要だろう。『お金は銀行に預けるな 金融リテラシーの基本と実践』(勝間 和代)は正しいし、日米のGDPの差より東京証券市場とニューヨーク証券市場の差の方が異様に大きいのが異常なのだ。(もちろん東京証券市場の取引量の異常な低さこそ日本経済の異常さを正しく反映してるというのが本書や『世界経済危機 日本の罪と罰』から得られる視点でもあるが…)
 
●「コーディネーションの失敗」とは?
 今回の危機を解くキーポイントととして「コーディネーションの失敗」というものが指摘されている。合理的な行動が不合理な結果を生むことだ。たとえば、銀行の取り付け騒ぎでいうと預金の安全に不安を感じた顧客が預金を降ろすのは個人にとって合理的な行動だ。しかし、ある一定以上の人数の顧客がそうするとその結果として銀行は破綻してしまう。残存預金高では残った預金者の預金合計に足りなくなるからだ。残りの人は預金を降ろせなくなってしまう。また銀行も規定の自己資本率を割り込み法規上業務が出来なくなる。
 
 コーディネーションが失敗してしまう理由は論理(学)的にはクラスの混同なのだが、現実に破綻や恐慌が起こりトラブルのであって、論理がどうのこうのだといっても意味はあっても価値がない。究極的にはコーディネーションの失敗をはじめとするトラブルは個人のエゴにつきあたる。結局は心(理)の問題としてクローズアップされるほかはないのだろう。道徳や倫理はなにやら立派そうだがTPOで異なるものなので一定以上の意味はないし価値もない。問題は心理なのだ。
 個人のオーダー、公的なオーダー、あるいは家族や恋人とのオーダー。これらはそれぞれ異なる心理的な局面を示す。たとえば戦争で敵を殺すのは英雄かもしれないが個人的にやったらただの人殺しだ。この価値観や判断基準の違いの由来がわからないと永遠に「コーディネーションの失敗」は解決しない。とうとう経済(学)はそういうところまで突っ込んだワケだが、解決となるとトホホなのが日本の実情らしい。
 
 
 いずれにせよ現在そしてこれからの相当長い期間にわたって日本の経済がダウンするのは水準の是正にすぎないという指摘がことの重大さを示している。高齢者社会などの観点からの考察はないが、中長期的にいいことがないのは確かということがよく解る…。

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グローバルなランキングから「下流」を説明する!

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日本の相対的貧困率は主要先進国中2位で、さらに2007年の国際競争力のランキングは10年で20位も転落して24位というザマ。この国家や政府が立派なワケがないが、そういう不都合な事実を連ねているのが本書の特徴。著者は以前から日本のオカシサ、政策の誤り、政府の無能、社会の異常を指摘し続けてきている。イデオロギーやましてや脆弱な自己の感覚だけでものをいうウヨ的な主張ではなく、1年に200日以上を海外で過ごしている著者の、仕事や外国の現場からの情報と観察は説得力がある。
 バブル崩壊以降赤字国債の乱発で国民の財産を勝手に担保にしている政府の動きをみて、少数の真っ当な論者だけが預金発動(政府による貯金の差し押え)の可能性を指摘しているが、本書も具体的な事例と現象にもとづいて、国民の預金が差し押さえられる可能性を指摘している。実際に終戦後に一度行なわれたのであって、不思議ではないし、ペイオフが預金発動の予備政策であることを指摘する人は少なくないだろう。
 
 <オタクの問題は東京の問題だ>というサブカル論者がいるが、よく考えてみればそれは当然のような気がする。アキバやブロードウエイが東京ローカル(発)だからというだけではなく、ラディカルにはその<東京>を求めてしまう志向性が(東京にも地方にも)ある限り東京はユー/トピア(無い/所)という幻想の具現化した場所だからだ。
 Uターンする人がいる一方で、やはり上京する人は多く(余談だが平成の年号以降天皇の在東京は正式ものとなり、明治以来続いた行幸ではなくなった。名実ともに京都と御所は地方になったワケだ)、すべては東京の問題つまり都市化=進歩という問題だ、という公式?が成り立つ。通時的にみた資本主義の進行は空間的には都市化であり、東京は世界最大のその具体例だろう。ネットは全世界を結ぶがそれは情報上のことであって、場所的な意味合いはヴァーチャルで代理することはできない。「はてな」がどうして東京に移転し(てしまっ)たのか?という疑問はカンタンに答えられるものではないかもしれない。
 しかし、著者は「東京を捨てろ!」とカンタンに言い放ってしまう。なぜなら、その先にグローバル(化)があるからだ。血縁や地縁などを断って<無縁な関係>を目指していくのが進歩であり近代化だと阿部勤也は主張していたが、著者はそういった意味を身をもって理解しているようだ。自由で差別の無い、つまり出身や居住地域、言語や民族、文化による区別も差別も無い自由な<関係>は<市場>なのだが、おそらく著者もそう認識してると思われる。それこそがグローバリズムだからだ。グロバーリズムとは前書『ヤバいぜっ!デジタル日本』でも強調されていたように信用の場であり、そこで信用を象徴するのはブランドだ。そのために繰り返し国家のブランディングが主張されている。
 
 本書の実態は専門用語や数値とは無縁の経済(学)書? 日々の生活や文化にもとづいて書かれ、近い将来への展望が示されている07年上半期オススメの一冊だろう。貨幣やグローバルというものの原理が数行で解説されてしまっている読みやすさが魅力だ。
 なんと第七章のタイトルは「為替相場と商品先物取引相場」。そこでは「あらゆるクリエイティビティは金融商品」であり「このことをわかっていない門外漢ほどマネーゲームと罵倒する」と一喝している。国家の信頼性を象徴するのはその国の通貨であり、著者が感心したイギリスの国家ブランディングもそれを体現している。貨幣という究極の金融商品が象徴するのは信頼性そのもの。あらゆる商品はそこへ収斂する。信頼できる商品、信頼できる国家、なによりも信頼できる<自分>になることを著者は主張している。究極の自分探しでもあるかのように世界を俯瞰し、グローバルが語られる必読の一冊だ。

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<家族>をめぐる対幻想論との緊張が読める、かも

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 06年に刊行された著者の本の中でいちばんいいかもしれない。まず読みやすい。そしてラカン派の臨床医である著者の基本的なスタンスがわかりやすく示されている。クールな著者が自らについて語っているのも見逃せないだろう。
 ところで、本書は、明らかにその基本的な部分で吉本理論が意識されているようだ。
 「家族制度を支えている幻想とは、「対幻想」ではなく、「エディプス三角」なのではないか」(P105)。酒井順子の『負け犬の遠吠え』を援用しつつ唐突に主張されるこの一言は、それだけに印象に残る。
 実をいうと「対幻想」を否定するために「エディプス三角」が主張されたこの構図は『構造と力』の再現でもあり(浅田らは団塊や全共闘世代と決別するために彼らの教科書であった吉本・対幻想を否定する必要があった。よくある世代間闘争だ)、大澤眞幸の〝吉本隆明は踏絵だった〟という指摘を待つまでもないかもしれない。
 社会の構成要素を、それは<対>(2名の関係)なのか<三角>(3名の関係)なのか....というのはフロイト以来の論議なのだろうが、この論議を現代の日本に当てはめると、それが世代間の論争になってしまう。フロイト=対=対幻想論(吉本)という団塊や全共闘世代がフォローする認識があり、ラカン=エディプス△=『構造と力』など(浅田、斎藤、etc)ニューアカ以降に支持されるドゥルーズ・ガタリ的な潮流がある(あった?)ということだ。その他に〝2名以上いれば権力が生じる〟とした宮台真司の権力論(『権力の予期理論』ほか)があり、社会システムの生成と稼働の根源に対の関係を見いだし、2名の関係で一方の人間の他方の人間への認識が一方の人間を自縛するように作用する過程を説明している。相手に対してどう対応するか
を選択する時、その選択の自由によってその選択肢の構造に自縛されていく訳だ。
 
 P173には本書の理論的な成果が要約されている....
 「二者関係の空間こそがプレ・エディパル(前エディプス期)の空間なのである」
 「さまざまな自明性」は「プレ・エディパルな二者関係において形成される」
 「二者関係は幼児期だけのものではない」「成人して以降も、常に個人の自明性を支える空間として機能し続ける」「しばしば反復する」
 「「家族」こそは、この種の反復における、もっともありふれた器のひとつなので
ある」
 ....プレ・エディパル(前エディプス期)な二者関係による自明性は生涯反復され、家族はその器なのだ....という説明だ。ある種の読者はここでデジャブを感じぜざるを得ないだろう。なぜならこれこそが28年前に吉本隆明がフロイトを徹底的に読解しつつ独創した<対幻想>概念そのものだからだ。
 人間は「エディプス三角」を通過することで「社会化」されるが、「自明性」はそれ以前に二者関係において形成される、という説明は、そのまま対幻想論であるし、そして自明性の揺らぎこそが典型的な精神の病ではなかったか?
 ことさら吉本隆明を贔屓するつもりはないが、本書の結論は対幻想論と同じであり、それはフロイトを丹念に読んできたものなら当然にたどりつくものだ、ということにつきるのだろうか。
 著者のオリジナルな見解を読む機会は多々あり、精神分析とシステム論の融合を略るなど期待したくなる試みは少なくなく、今後も注目していきたいが、個人的には吉本理論との関係が気になった。

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オモシロイけど、正読には併読がオススメかな

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 本書の内容は05年に大いに話題になった三浦展の『下流社会』に対する批判がメインだといっても差し支えがないかもしれない。だが少なくともその過程でスルドイ現状認識が披露されていて、団塊世代に対する批判、団塊ジュニアに対する認識は明瞭でわかりやすい。ただし『下流社会』に対する批判そのものが正当化どうかは別だ。
 最初に「新しい階級を決める5つのコミュニティ」として5つのコミュニティのモデルが示されており、東大社会学あるいは宮台真司の実社会に対する最初の大きな成果だった『戦後若者世代の光芒』(『サブカルチャー神話解体』の正式姉妹書)で示された若者のタイプ別類型化モデルを思い出させるような趣きがある。
 本書のモデルはコミュニティへの帰属とスタンスで区別されている。その説明が本文中に散逸気味のためにちょっと解りにくいかもしれない。類型化の正否は別として、コミュニティごとに文章を分け、もっと読みやすく分かりやすい構成にすべきだったと思う。
 著者の鋭さが発揮されるのは団塊世代への批判と、団塊ジュニアを見据えるときの分析だ。下流・格差ブーム?の主役であり犠牲者?でもある団塊ジュニアに対する理解が深い。
 ....学生運動にはじまる反権力・反管理からバブル時代には無節操な拝金主義へと豹変し、今は既得利権を死守する....という団塊世代への激しい批判。そして親としての団塊世代の姿が団塊ジュニアに鏡のように反映し、社会に対する虚無や軋轢を生んでいる、という指摘。簡明で的を得たこの批判に当事者の団塊世代はどんな反論をするのだろうか?
 また団塊ジュニアを、20代30代になっても親たちがつくった社会への反抗が続いている…抵抗なくコミットできるコミュニティに帰属して生きる…モチベーションの中心が快をもとめ不快を避けること…と分析していて、これも説得力がある。
 本書は5つの各章に「鈴木謙介の話」としてテキストが5本掲載され、社会学者の理論で本文を補強するカタチになっている。鈴木のテキストはゴシック体なのですぐわかる。興味深いのは著者は鈴木を高く評価しているが、コラボ?しているワリには2人の意見は一致していない。鈴木と著者では基本的な認識が違っている。鈴木はこれまでの著作をみても若者をめぐる問題の大前提に所得や就職といった経済問題を見出してる。だが著者は....「コミュニティの」「帰属は所得ではなく、環境の文化」で決まり、それは「階層化より遥かに強固」....だという。「所得の差が拡大していることから「格差」「上流・下流」「階層」などという言葉が流行しているが、問題はそんなに単純なものではない」と断じている。
 ところで、団塊ジュニア世代の親は団塊世代だといっても、人口構成で最大値を占めるだけに親それぞれの属性は多彩なはずで、また両親ともに団塊世代とは限らないという事実がある。実際に父親が戦争を知っている世代と、両親ともに戦争を知らない世代があり、いわゆる戦前派の親と戦後派の親がいるわけだ。それらの家庭の価値観の相異は大きく、それこそ「単純なものではない」はずだ。この点を人口動態統計から指摘したのが三浦展であり、それは基本的な認識を是正するものとして高く評価されている(『ジェネレーションY』(日本経済新聞社)より)。日経新聞では両親ともに戦後派である子供を<ジェネレーションY>と呼んで団塊ジュニアと区別し、そこに将来への夢や可能性を見出している。『下流社会』への表面的な読解や、それへの単なる反発では事実を見誤る可能性が大きい。本書には関連書籍の併読がオススメだ。

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指導者のエゴが激突した世界最大の悲惨

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 「ロシアを頭で理解することはできない」というロシアの詩人の言葉の引用からはじまる本書は、世界の歴史に残る最も悲惨な戦闘のドキュメントだ。著者はイギリス軍の出身であり、戦争への分析と理解は精緻で狂いが無い。兵站など基本的な戦争遂行能力への評価と、戦略や作戦立案といった参謀レベルの思索への検討、前線の一兵卒の心理などあらゆるファクターが事実として記録され描写されている。事実認定にあたって膨大な命令書や通信文、手紙などから実際の言葉と声が引用されているのだ。
 <頭で理解できないロシア>を理解したフリをする言説は多い。実際にスターリン主義という過酷な全体主義もソビエト社会主義連邦共和国の崩壊も、理解したフリの言説ばかりだ。<現実>を見るのではなく<頭>だけで妄想され膨張された認識は容易にアウシュビッツは無かった…という妄想=見解にまで行き着く。しかし人間が暗闇に入ると30分で妄想や幻覚が始まるという心理テストが示すように、これは別に不思議なことではない。ただし人間がどう認識しようが、事実というものは変わらない。本書の基本は、その膨大な事実の列挙なのだ。
 (アウシュビッツは無かった…というネット上の玉石混交の砂利ほどにもならない、全人類を冒涜するデマが実しとやかに巨大掲示版に書き込まれたりするが、本書のようなドキュメントの前に、それらの言説が示しているのは他者からの認知を求めながらもその正常な方法を身につけられなかった精神的な弱者の発露でしかないことは明白だろう。)
 ドイツ側の食糧庫を占領した赤軍(ソ連軍)が、そこにあった食糧を食べて150名もの死者を出した事件がある。原因は食べ過ぎ。それほどソ連側は飢えていたのだ。ドイツ側でも手に入れたバターの固まりを食べて死に、雪を食べて死にという現象があいつぐ。飢え過ぎで、ひとかけらの油や水でさえ身体は耐えられなくなっていたのだ。まともな治療も受けられないうちに傷口にキノコが生え、包帯を取るといっしょに指がもげる…ある意味で現在のいかなる紛争地の現状よりも過酷な状況が、両軍100万人前後の規模で起っていた。それがスターリングラードの戦いの実相だ。
 ソ連側の死者は110万人を超えるが、そのうち1万3500人は味方による処刑である。これがスターリン主義の実態のひとつなのだろう。主に敵前逃亡などの罪による処罰で、ノモンハン事件でジューコフが率先して実行して以来、赤軍の伝統行事のようになっていたようだ。以来兵器の性能や装備で劣るにもかかわらず赤軍は無敵の強さを発揮するようになっていく。
 ナチスから見れば劣等民族であるスラブ人が背伸びするために身に付けたのがマルクス・レーニン主義であり、ソ連から見ればナチスとは単なる野獣の思想に過ぎない。相互に降伏した相手や捕虜への容赦のない取り扱いが続き、それぞれ無事に帰国できた人数は異様に低い割合を示している。
 ヒトラーはスターリンの名を冠した都市を占領しようとし、スターリンは意地でも占領させまいとした…実をいうと両軍にとってこの過酷な包囲戦がそれぞれの指導者のエゴによるものではなかったのか?という疑問を著者は示してみせる。日本のインパール作戦やガタルカナル戦と同レベルの愚劣さがそこにはあるような気がする。現在に目を転じれば、イラク戦争も大国の面子やエゴでしかないのでは…。歴史に学ぶことはいつの世でも重要だ。本書は圧倒的な事実を膨大な証拠で構成していくというドキュメントの王道を行く内容になっていて、現場の悲惨を正当化するいかなる言い訳も思想も通用しない苦痛がクローズアップされている。マテリアルな事実の列挙に、ただ戦争を回避したくなる心情だけが呼び起こされていく思いがした。生ぬるい平和も言葉だけいさぎよい国防論議もこの事実の前では通用しない。

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紙の本カーニヴァル化する社会

2006/09/20 13:20

「カーニヴァル」と「データベース」

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 この本の基本的なスタンスや観点を保障する説明として「予期」というタームがいく度か登場する。あの宮台真司の初期の主張の根幹となっている「予期理論」の「予期」でもある。本書は予期理論を前提としながらオリジナルな観点からなされた大いなる成果といえるだろう。
 本書の主要テーマである「カーニヴァル」「日常の祝祭化」「祭り」は、かつてニューアカブームで流行ったテーマのひとつだった。当時「ハレ/ケ」「蕩尽」といった言葉が流行り「資本主義って日常の祝祭化だよね」とか「消費は蕩尽だ」とか、テニスラケットを抱えながら論じ合ったりしたものだ。もちろんバブル経済の崩壊とともに資本主義は「終わりなき、ケだるい日常」と化してしまった。
 当時のニューアカ論議と本書が決定的に違うのは「データベース」概念の登場だ。
 著者は現代人の若者の理念型モデルとして、データベースへの問い合わせによって自己確認する人格を設定するという先進の情報理論的なアプローチを示している。
 ただ、もっと心理学的なアプローチが試みられてもよかったかもしれない。いかなる共同体の経済や社会のどのような位相も、その共同体の構成員たる個人のモチベーションなしには成立しない。その点ではいまだにフロイトほどラディカルに人間のモチベーションを考察した科学者はいないだろう。
 ちなみに国家経済の過半を個人の嗜好で左右できる選択消費が占めることが<先進国>という呼称の基本要件であり、選択して消費するというモチベーションは世界政治の<先進国>ブランドとその大きな影響力=政治力を決定しているワケだ。個人のモチベーションへの洞察なくしては世界政治もグローバル経済も語れない。
 意外にオーソドックスな本書は、その評価できる点と同時にその限界もオーソドックスだ。たとえばデータベースをはじめとして外部に自己を評価する審級があるのは古来当然のことに過ぎないという事実がある。違っているのは、かつての評価者は親であったり先生であったり、それらを代理する試験であったりしたが、ここでいう評価者は人間的属性をともなわないシステマチックに集積されていくデータであることだ。
 ここでは他人を経由して自分へ再帰してくる審級データが、その経由経路を消失しつつ非常に自らに近隔化したものになりつつあることが示されている。いわゆる<動物化>だ。
 もともと動物化とは消費するだけの生産しない受動的な主体となった人間の姿を指すが、マルクスの資本論によれば消費は差延された生産であって、動物化した人間がその受動性ゆえに社会変革の主体であるという主張もある(フランス共産党の歴史学者H・ルフェーブルなど)ようだ。PL法に象徴される消費者の国アメリカの法体系にもそれは現われている。また、先進国において消費が過半数を占めるとともに、為替や株式などの<お金でお金を買う>金融消費経済が欧米から世界中に広がりつつあるが、これはけっして悪しき意味でのグローバル化ではなく歴史的必然の類いだろう。
 経済学をはじめ現在の多くの論者がこの点の視点を持っていない。究極には経済問題は<信用>の問題であり、信用の問題は実は<関係>の問題である。<国家>から<ひきこもり>まで、問題の本質は同じなのだ。ウヨサヨからニートまで、それらを身近な問題あるいはターゲットとするのが社会学ならば、あと一歩の展開が期待されると思う。
 ところで、本書ほとんどの若者をめぐる問題の根幹が経済(収入や就職)にあるという基本認識を前提にしている。意外にオーソドキシーなサヨク本なのだ。

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豊富な話題で評論家と読者に挑戦か?

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 バブル時代のニューアカが予想通りアカデミズムではなかった実態を披露(暴露ではない)し、産学協同が必然でもある社会分析の方法論を提示しつつ、自らが電通などともにバブルの演出者だったことを前提に書き進められる現代史の一面を持つ内容は貴重だ。著者がバブル期に注目されるキッカケになった『物語消費論』の発刊が89年。それから15年継続していた問題意識に自らが回答した成果でもある。
 15年間の自問自答の結果というものはそれだけの重味をもっている。感覚的な「左翼嫌い」「サヨ、うぜえ」に対するクールな応答でもあり、その解答そのものが左翼的な方法論においてしか到達できないものであることも明示した点も優れている。いまや左翼が自覚しない左翼のウザささえも大塚は論理的つまりは科学的(つまり左翼的に!)に把握したワケだ。
 本書の感想や書評で「わかんね」「新人類世代内のことジャン」というものが多い。読解力がないものにはそうだろうし、世代を超えて問題を置き換える認識能力の無いものにもそうだろう。そして文芸評論家のたぐいが想像することさえできなかった江藤淳の死へ至る問題さえも大塚はシッカリと解いてみせている。その「問題」がオウム事件やさらには「キャラ萌え」や「多重人格」にも通底することを大塚は説いているのだ。もちろんそのエグザンプルの豊富さが裏目に出たのはマーケティングの失敗?かもしれないけどね。(W

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