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  3. kc1027さんのレビュー一覧

kc1027さんのレビュー一覧

投稿者:kc1027

143 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本ルポ貧困大国アメリカ

2008/03/08 16:02

ルポルタージュ的マーケティングリサーチ

12人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書で読む内容と、最近のメディアによく出てくる「米大統領候補者の
演説に熱狂する人々」の映像がどうもしっくりこない。大変な状況に
なっているから選挙が熱狂的になるのか、それともメディアによって
何かが覆い隠されているのか、きっとコトの真相はその中間あたり
だろうとは思うけれど、本書のホラー的なインパクトは、既存の大手
メディアが発信する情報に、だいぶモレがあるということなのだろう。

本書がなぜホラー的に感じるのか、それは「苦痛に晒されるカラダ」が
随所にあるためだ。逆らい得ないものを前に、悲鳴を上げる体。
高度に発達した資本主義社会では、恐怖の源泉も表情のない金銭が入り
組むことで見えにくくなり、降りかかる脅威はテロリストだけではない。
正体の見えない恐怖は偏在し、武器を持たない小市民は脅えるしかない。
意図せぬきっかけで、いつの間にやら貧困のサイクルに入ってしまった
市民は、これまたいつの間にやら自分自身が商品となって「現場」に
派遣され、消費される。カフカの悪夢がここにある。

著者はあとがきで、危機が訪れたときに真っ先に気をつけるべきことは
「ジャーナリズム」を殺さないことだという。何が起きているのかを知る
こと、現場や市場(あるいは戦場)で起きていることの底辺を掬うこと、
それは資本主義社会の基本戦略であるマーケティングの第一歩でもある。
既存のメディアさえも資本の論理に組み込まれた現代において(何しろ
大手メディア企業の方はたいがい裕福だし)、切実な声を持って真相を語る
ことが出来るのは、生活という現場に身を置く人間であり、戦争という
生活を生きる市民だ。

今の世界システムの中で「よりましな生活」の実現を夢見るなら、本書を
ただのルポとしてより、マーケティングリサーチのひとつとして読みたい。
世の中どうやら経済の操縦だけではどうにもならずに、季節はめぐって
政治の季節になっているようだが、アメリカでも日本でも、選挙なんて
待っていられない。本書の終章が提示するように、市民は五感でカラダと
相談しながら日々の購買という投票行動でもって企業組織に意思表示し、
持てるモノたちが机上で計算するマーケティング戦略に揺さぶりを掛ける
しかない。それが、なんでも市場に組み込まれる21世紀に生きるわたし
たちの流儀なのだ。

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紙の本人間の覚悟

2008/11/24 10:07

お爺さんが迫る日本人の覚悟

17人中、16人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『バカの壁』と『国家の品格』で時代の潮流を創った新潮新書から
また壮絶な新刊が出た。本書、『人間の覚悟』だ。


内容は壮絶を極める。何せ第1章の冒頭の1文が「地獄の門がいま開く」
である。マジですが五木先生、こんな世相の世の中に追い討ちを
掛けるようにそんな強烈な言葉を放って大丈夫なんですか、という
気持ちで読み進めるうちに、段々と「決めるべき覚悟」の核心が見えてくる。


2005年をピークに、日本人は減り始めた。団塊ジュニア世代以降の
人間は、経済成長といわれてもピンとこない。憧れのアメリカは、
ユルキャラブッシュのせいで良く言っても今やダサかわいいぐらい。
ベンチャーの星たちは、黒字でもクロばっかりだった。
こんな時代にモチベーションを語っても、モチベーションって何?
その横文字意味分かりません、わたしたち日本の庶民だし、という
20代の反応のほうが自然だ。


日本はこれから長い長い下山の時代を迎えると五木先生は言う。
それは老いを受け入れて熟成していく過程でもある。
戦後の躁の時代を経て欝の時代に入ったいまは、カラダの流れに
逆らうことなく、ゆっくり下界を見下ろしながら、時には足が笑って
バランスを崩してしまうかもしれないけれど、悠々と下山する術を
身に着けるときなのだ。


でもそこで不図思った。下山は日本だけなのか?
世界帝国を作った大草原の国、モンゴル。
日本に始めてきた西欧人、ザビエルの国、ポルトガル。
鎖国江戸でも唯一交流が耐えなかった国、オランダ。
この国たちは、どれだけの長い下山の中にいることだろう。
その中で、登りたい若者は何をしているのか?そう考えてみると、
これらの国は人口の割には格闘技やらサッカーがやたら強い。
ユニフォームもクールだ。音楽も悪くない。食事も悪くない。
下山の哲学はこの辺に潜んでいるのかもしれない。

それにしても、日本のおじいさんて、すごいな。

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アメリカン・コミュニティー・オルガナイザー

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

バラク・オバマは存在そのものが物語的な人物だ。
ケニアの血を受け継ぎ、ハワイで生まれ、インドネシアでの生活を経験し、
シカゴで地域活動に従事し、ハーバードで法律を学び、イリノイ州で上院
議員となり、2004年の大統領選挙中の応援演説で一気に全世界デビュー。
「白人のアメリカも黒人のアメリカもアジア系のアメリカもヒスパニック系
のアメリカもない。ただ、アメリカ合衆国があるだけだ」という伝説的な
演説は、アメリカ人ではない私がいまユーチューブで見ても、気持ちを
揺さぶられる。ケネディの再来どころか、リンカーンとケネディとキング
牧師の歴史的融合と言われても、ううんそうかもしれん、と感じてしまう。

これから11月までのアメリカ大統領選挙は、アメリカが行く道を模索する
道で、新しいアメリカのアイコン選びとなる。だがすでに実際のところは
バラク・オバマかそうではないか、に絞られたとみていいだろう。
CHANGE一本槍で驀進中のオバマ氏とはいったい何者なのか、
それはこれからの世界を考える上での試金石になりうる。

本書で最も気になった部分、それはオバマ氏が地域社会活動家から
自身のキャリアをスタートさせたことだ。コミュニティーオルガナイザー
という耳慣れない職務は、声無き者を組織化し、主体性を引き出し、
行動を起こすことをサポートする役割らしい。オバマ氏がいつオバマ氏に
なったかといったら、このコミュニティーオルガナイザーが原点だとみて
間違いなさそうだ。

だから本書は全編通じて、声を聴いて回り、共感する姿勢に溢れている。
それがオバマ氏の価値観なのだ。選挙の前の政策発表の書であることには
違いないが、こんな言葉に触れると、アメリカを融合させようとする氏の
姿勢は本物なのではないかと感じさせる。オバマ氏曰く、
「どんなに意見が食い違っても、私にはジョージ・ブッシュの目を通して
世界を見ようと努力する義務がある。(中略)共通の基盤を見つける必要の
ない人間などどこにもいないのだ。」

その価値観を体現する「再生のための政策」のひとつの軸は、教育だ。
どこかで聴いたことがあるような気もするが、この教育は理念の教育では
なく、アメリカの本分である「商売」で世界的な競争を勝ち抜くための
教育をすると言っている。

オバマ氏が考えるアメリカ観、それは理念的・抽象的といわれる演説とは
異なり、教育の振興によって民衆の力を引き出し、高度資本主義社会を
(肌の色に関係なく)鍛えられた人間がリアルにビジネスで生き抜いていく、
そんなサバイバル観であるような気がする。それはすでに現れ始めている
アメリカの姿であり、その先には脱石油の前触れがあり、脱イラクが
あり、脱孤立主義があり、もしかしたら脱資本主義的な人間が活躍する
世界観であるのかもしれない。

2000年の大統領選挙では落選したアル・ゴアの方がアメリカを飛び越えて
世界に熱いメッセージを残した。今年の大統領選挙の結果はわからないが、
アメリカという世界最大のコミュニティーがどこへ向かうのか、それは
バラク・オバマというコミュニティーオルガナイザーの言動と行動が
握っており、それは東西南北すべてに波及していく可能性がある。
そのプロセスにどっぷり身を置きながら、オバマ氏を見続けていきたい。

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紙の本近代の超克

2010/10/31 19:54

日本人の超克

8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

太平洋戦争勃発に「知的戦慄」を覚えた当時の代表的知識人が
開戦翌年に開催した伝説的座談会、『近代の超克』。
開戦に至るまでの経緯と開戦後の国内の「空気」はその時代を
生きたものにしかわからないものだが、座談会に先立って
各自が提出した「近代の超克」論のテンションの高さは、
明治維新から地続きになっている帝国日本の息遣いが感じ取れる。
その異様な空気感は、敗戦による日本帝国の挫折、独立の気概の
断絶までも逆照射くれるものでもある。

当時の知識人たちが、言論の無力さを感じ取る以上に開戦に
よって興奮している様は、その先には新たな世界秩序があった時代の
「空気」として伝わってくるものはある。世界が西欧近代の勝ち組の
価値観だけに染められるかの世相にあって、己の存在を世界に
劇的に示しえた真珠湾の興奮は想像に難くない。逆に身も蓋もない
感想で言えば、近代の超克が現実の課題として目の前にあった時代、
知識人はあたふたと論を述べて座談会を開いて日本民族の優越を
担保して何とか存在価値を保とうとしていたようにも見えてしまう。

だが、本書後半に掲載されている竹内好が1959年に書いた
「近代の超克」論は、その功罪相半ばするかの座談会を戦後社会にも
生きる現実の課題として昇華させる役割を果たしていると思う。
ひとつは、近代の超克論の中に中国との関係がほとんど出てこない
ことの指摘。もうひとつは、いまだ復古と維新、尊王と攘夷、
鎖国と開国、国粋と文明開化、東洋と西洋、あるいは日本の真の独立
という明治的課題は何ら解決されていないことを気づかせてくれる点だ。

近代というものを乗り越えることがどういうことなのか、
それは何かガンガン前進していくものというより近代化という
名のものとに取りこぼされていったものを丹念に拾い上げていく
ような試みになるのだと思うが、オリンピックやワールドカップや
万博が擬似戦争として経済発展やら人体の鍛錬に貢献する中で、
日本は地道に東や西の枠組みを越えて、新たな枠組みとしての
京都議定書やら名古屋議定書を採択していっているのは、日本人と
いう枠さえもさりげなく超克するかのような仕事で、ちょっと誇れる
兆候だと思う。

近代の過ちを修正していく知恵は、近代から取り残されたものの声を
聴くことでしかなしえないはずで、そんな作業が出来る国は、世界にも
そんなに多くない。近代化以前に2世紀以上に渡る平和を享受したことの
ある民族として、お金がそんなになくても世相に沿ってしなやかに
生きる術をじわじわと世界に提示し、世界が注目せざるを得ないような
状況を創っていくことが、わたしたちの世代の近代の超克ではなかろうか。

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紙の本真の指導者とは

2010/09/26 18:39

石原慎太郎という価値の機軸

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「真の指導者」を語るには、指導者に精通する必要がある。
若くして世に出たときからすでに大衆を扇動する資質を備えていた
石原氏の説く指導者論は、指導者のあるべき姿を超えて、
善悪を超えたこの世界の姿、その中で生きていくとはどういう
ことなのかを喚起してやまない。読み込むうちに、氏の論に賛同する
自分と忌避したくなる自分が交互に訪れてしまうような、まるで
血判状を突きつけられているような異様な感覚がした。

ある組織の盛衰は、指導者によって決まる。
そして指導者は、その組織の中からしか生まれ得ない。
石原氏が指導者に必要と考える資質は、「指導者としての自負」、
「世界観と長期ビジョン」、「哲学」、「戦略性」、「旺盛な行動力」、
そして日本固有の価値観の機軸としての「武士道精神」。
それらを体現できる指導者は、予想通りというか、今の日本には
いないと一刀両断。中曽根大勲位以降、日本にはリーダーがいないも
同然という状況の中、言葉にせずともTOKYOの石原氏の存在は
際立ってしまう。特に対外的な話題になると必ずといって言い程、
メディアはそのコメントを取り上げるが、その感覚はこの国に
今住んでいれば、内容はともかくとしてよく分かってしまう。

ところで、東京都はこの10年で財政が好転しているようだ。
国の状態とは異なるこの結果は、TOKYOが日本を超えて
いよいよ独立した個性ある都市として世界と伍していく
プレーヤーになった証でもあるのだろう。調べてみると都の支出で
最も多い配分は「教育・文化」関連のもの。石原氏は、人間の幸福とは、
それぞれ持って生まれた天性特性を活かしきった充足感にあると
言っている。

その石原氏の行動と言動は、ときに強烈な悪も孕む。
毀誉褒貶する氏に対し、こんな言葉を前にしたわたしたちはひとまず
黙り込んでしまうのではなかろうか。
「そして結局最後は、本当に知恵のある、勇気のある者だけが
勝ち残るということです。何やらうそ寒いこの世の原理だが、
しょせん人の世の中はそういうもの。」

氏の「太陽の季節」は戦後社会に対する強烈な毒として世に出た。
「勇ましいものはいつでも滑稽だ」と言っていた小林秀雄氏も
ボードレールやドストエフスキーが描く悪に魅せられているし、
村上春樹の目指すのは善悪の彼岸を描いたとも言える『カラマーゾフの
兄弟』の現代版であったりする。善人の風貌のオバマが袋小路にはまった
2010年初頭に、石原氏が問う指導者像は、身も蓋もないけれど、強い。
善悪の地盤が問い直される現代において、石原慎太郎というひとりの
日本人の存在は長いこと、ひとつの極を体現している。
石原氏の言動・行動に対する姿勢は、己を問い直すことでもあるが、
なんだかんだ言っても氏はすでに高齢だ。かつて氏はこうも言った、
「子どもは親を超えて行け」。このシンプルな呼びかけにこそ、
善悪を超えて反応する責任がある。

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紙の本若者のための政治マニュアル

2009/02/01 18:43

政治を肌で感じるスキル

7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

政治学の使命とは「権力者の行動を看破できるスキル」を身に付ける
ことにあるらしい。権力者もニンゲンなので完璧ではない。
麻生総理の記者会見を見ていればそれはわかるし、オバマ大統領だって、
権力者が完璧ではないことを自分で認めている。だから、権力者の
行動を看破できるスキルが、われわれ民衆の側に必要なんだろう。


本書は、小泉改革がいうところの「自己責任原則」によって育ってしまい、
差別に鈍感になってしまったらしい若者に向けて書かれている。
差別に鈍感なものが世の中の主流を占めてくると、無視され
搾取される人たちが構造的に生まれてきてしまい、鈍感力では
すまされなくなる。ここ最近頻発している人の痛みに鈍感な
犯罪は、この社会が生み出してしまったもので、国民主権の日本に
おいて、責任は国民にある。つまり、わたしだ。


それをすんなり許容できるほどわたしの器は大きくないので、
マニュアル育ちの常として、政治参加のために本書を読み込んでみると、
選挙権という権利についてあらためて考えさせられる。政治の肌触りは
選挙を通じて得られるもので、選挙の肌触りはその後の世の中の
チェンジ!によって得られると思うのだが、足りなかったのは、
冒頭に上げた「権力者の行動を看破できるスキル」であり、それが
選挙権という権利を活かすものなのだ。


ということで、自分の住む社会についてもっと虚心坦懐に眺めながら、
来るべき総選挙において、権力者がいったいこの国をどうしようと
しているのか、自分はどんな社会に住みたいのか、自分の生活を
彩る周りの人間と、喫茶店や居酒屋でちょっと話してみようかと
思う。日本にオバマはいないので、勇ましく一気にバッサリ
変えるのではなく、みんなでボチボチ理想に向かう感じで。

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紙の本暴走する資本主義

2008/11/15 22:48

ポスト暴走資本主義はディープパープルになれるのか?

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

資本主義とは、赤か黒かのせめぎ合いの世界だ。
赤字なのか黒字なのかが世間に公表されてそれがほとんど株価
ボードというゲームボードに反映されて必然的に勝ち負けが生まれる。
とてもはっきりしている。はっきりしすぎて痛すぎた。


本書では、暴走する資本主義の処方箋として、民主主義を機能させる
ことの重要性を説いている。そして今月アメリカでは赤か青かの戦いに
ひとつの結論が出た。生身の体を持った人間の一票が、膨張する
赤か黒かの世界に判定を下したわけだ。アメリカの民主主義は崩れ行く
暴走資本主義と併走するように2008年を駆け抜け、バラク・オバマ
というひとりの生身の人間に収斂された。


私は本書と今回の大統領選挙の結果に、アメリカという国の底知れぬ
力を感じた。この11月にアメリカ人は、赤か黒かだけでもなく、
赤か青かだけでもなく、白か黒かだけでもない実に多面的な顔を
世界に発信したのだ。


そうこうしている間にも世界はすでに猛烈な勢いで変化している。
気が付けばG7は3倍近いG20にまでなり、資本主義のプレイヤーも
多様化した。フラッグの色彩も鮮やかに多彩なキャラが勢ぞろいで、
暴走を演じたブッシュアメリカは、何だかユルキャラにさえ見える。
これからアメリカは過去の威光の残照を放ちつつも緩やかに世界に
解けていくのだろう。


ここに来て、日本は資本主義の暴走を止める重要なプレイヤーだ、
などという論調が国内にはだいぶ溢れてきている。確かにそうなのだろう。
でも本書が言うように、これからは「民主主義を機能させること」が
まず重要なのだ。我々はどんな世界を見たいのか、それが主権者である
わたしたちひとりひとりに求められている。


その世界は、赤か黒かの経営者の世界より、白か黒かの裁判員の世界より、
実は難しい世界なのではないだろうか?わたしたちがこれから直面
するのは、青か赤か(なんと日本では自民党のHPは青、民主党は赤で
どこかの国と正反対だ)だけではないはずだ。両者が混ざり合った
ミヤビなムラサキの選択を見出さなくてはいけないのかもしれない。
そのとき、バイオレットがバイオレンスに行き着かないように、
ディープパープルな決断ができるかどうか、それがわたしたちに
突きつけられた、むき出しなポスト暴走資本主義だ。

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わたしとわたしの仲間の消費が、わたしたちを創る

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

いつの頃からか、ランキングの上位を見てもそれがヒット商品である
という実感を持てなくなった。それが個人的なことなのか、もう少し
広い範囲のみんなの間で感じられていることなのか、それすらもよく
わからない。顧客を分類し、ターゲットを定め、商品を確信犯的に
解き放つマーケティングという経済行為が、社会の分裂を加速させ、
時代のキーワードである「格差」の助長の源泉なのではないか、
ほとんど本気でそう思いかけていたとき、本書を読んだ。

第1章で紹介される『ラブANDベリー』やケータイ小説のタイトルを
私は何ひとつ知らなかった。でも私の周りの仲間も知らないし、興味を
持っていないので気にならない。ヒットの理由はその逆、仲間感覚。
仲間内の盛り上がりが伝播するかのように局所的に沸き起こるヒットを、
著者は「カーニヴァル化」した消費と呼ぶ。自分たちが作り上げたヒットに
自分たちで酔う。そこでは、生産者と消費者が絶妙にブレンドされ、
お客様は神様ではなく、仲間として側にいる。

本書がドライブ感を持って迫ってくるのは、局所的な盛り上がり=
第1のカーニヴァルのあとの考察だ。突発的な盛り上がりはいずれ
沈静化する。そこで、作り手側がすべきことは、ただ単に商品を
カイゼンすることではない。次のカーニヴァルを生み出すための
「ネタ」を提供すること、それが「わたしたち」の輪を広げていく。
もっといい「モノ」、ではなく、もっと楽しい「コト」が消費の
モチベーションをくすぐり、くすぐられたわたしがわたしたちの
仲間を増やしていくのだ。

21世紀初頭の日本に生きる「わたしたち」が自らの考えなり意思なりを
表現しようとするとき、もっともわかりやすいのは消費かもしれない。
レシートを並べれば日記よりわたしがわかるかもしれない。
消費という行動が個人の意思を反映し、(図らずも)社会への参加を促進し、
「わたしたち」をつくる。本書が提示するのは、消費活動を通じて緩やかな
つながりを求める「わたしたち」の姿なのだ。

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人間を人間にする場所、その実現の困難さについて

8人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

横文字がそのまま日本で流布している言葉には、注意したほうがいい。
例えばコミュニケーション、アイデンティティやセキュリティなどの言葉の
裏には、その言葉を使う人間の事情-利害が見え隠れしていないか?
言葉の意味するところは非常に重く深い概念であることはよく分かるが、
どこかこれらの語感はツルンとしていて無機質で、すんなり日本語に
変換されない理由がきっとあるんではないか?私はそう感じてしまう。

そこにきて、コミュニティだ。
本書の冒頭には、こうある。
「言葉には意味がある。しかし、言葉の中には「語感=フィール」を伴うものがある。「コミュニティ」という言葉は、その一つである。それは良いこと
だという感じがする。」
そうなのだ、コミュニティという言葉は横文字のままでも何だかとても
温かくて良いものの様な感じがする。コミュニティという言葉がイメージ
させる空間(人柄や言動が信頼でき、友好的で、自分に好意を寄せてくれる
人々の間)で暮らすことを願わない人はいない。

だが、実際にはコミュニティはすでに「失われた楽園」だ。
現実を振り返れば、安心が欲しければ自由の大半を放棄しなければならず、安全が欲しければよそ者を排除せざるを得ない社会に私たちは住んでいる。
想像上の世界になってしまったコミュニティは、どこまでも自由で甘美で
解放的な空間として私たちの頭の中に存在する。一方、現存する地域社会
は自由と安全が激しく交差する戦場として、今日も新聞の社会面を
賑わせている。

本書を読みながら、理想のコミュニティはどれくらいの大きさだろうな、
などと考えてみた。きっと、「3丁目」ぐらいの大きさなんだろうと思う。
『3丁目の夕日』はコミュニティのプロトタイプとして、人々の記憶に
焼きついて社会を動かすのかもしれない。

この高度資本主義社会で、人々が自ずと欲するものは、商品になる。
コミュニティを創出する行為はこれから益々商品になっていくはずだ。
だが商品である限り、経済原則に従いお金を通じてしか人は向き合えない。だが、コミュニティが本来持つ「人間性の共有」はある場所に住まう生身の
人間と向き合うことから始まる。

冷戦が終結した90年代以降、成功者は多額の報酬を得てコミュニティから
離脱してゲートやタワーの中に引っ込み、窮するものは結果的に出来て
しまったゲットーでそれこそ日々を戦っている。バラバラになった「多文化
の共生」を認め、推進することは、「もはや人間の相互理解のための打ち手は
ありません」という敗北宣言に等しいと著者は語る。

それよりも「人間性の共有」を優先させようとする著者の主張はとても
温かく、勇気のいる宣言だ。人間は弱いと思う。今強い人もずっと強いとは
限らず、全般的に見ればかなり弱い存在が人間といってもいいと思う。
そんな人間を人間たらしめるのも人間だ。コミュニティというものは、
今後人間がおかしくならずに生きていくための場所として、ますます
求められていくのだろう。人間に関心のあるものにとって、その実現に
挑戦する価値は、たっぷりある。

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威風堂々、「お金をください!」

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

どんなにお金が欲しくても、お金をください、とはなかなか言えない。
それを言うためには、何か一線を越えるような覚悟のいる言葉だ。

お金なんかそんなに要らない、といって質素なロハスライフを
こじんまり営むのが、21世紀的な奥ゆかしいライフスタイルかもしれない。
そういう価値観が広まるのは、悪いことではないと思う。
しかしそんな生活ができるのは、「すでにそれなりに満たされている人」
のみで、選択の余地があるということはそれだけでささやかな幸福だ。

この本の著書、ジョン・ウッド氏は若くしてマイクロソフトの重役という
立場にいた人物で、今の世界に流布する一般的な価値観からしたら
「すでに相当満たされた人」だ。ビジネススキルを身に付け、充分な役職と
報酬を手に入れた「満たされた人間」はどうしたらいいのか、これは非常に
現代的な問いだと思う。

そして彼が選んだ活動はとても爽やかだ。子どもに学びの場を届けると
いう活動は、子どもに生きるための言葉を届け、選択の余地のない人生
からの解放さえも与えうる。その活動にザブンザブン飛び込んでいく
彼の姿勢が、どこまでも世界が開かれていく感じでなんとも爽やかなのだ。

彼は自らが選んだ活動のためなら「お金をください」という言葉もまったく
いとわない。お金に対する後ろめたさがない人間だけが、正面切って
その言葉を堂々と笑顔で言える。活動の手法はビジネスと何ら変わりない。
マネジメントは企業だけのものではなく、領域を越えて広がっていく。
大事なのはマネジメントを堂々と行うための根拠だ。

ジョン・ウッド氏の活力の源泉が子どもたちの笑顔である限り、彼の活動は
実り豊かなものであり続け、この本も、美談を越えた21世紀的価値創造の
行動記録であり続けるに違いない。そして、お金が行動に集まる世界は、
貯めて運用する世界より、楽しそうだ。

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紙の本武道的思考

2010/12/25 14:59

これから気が付くための妄想

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「武道の極意とは他者との共生にあり」という帯に惹かれた。
他者との共生とは、わたしも生き延びて、あなたも生き延びる、
ということで、それ以上に大事なことはこの世にあまりなさそうなので、
久々に内田先生の本を読んでみた。

武道による他者との共生とは、身体技法を通じた生きる術の獲得とも
換言されるもので、相手を打ち負かすだけの格闘だけならそれは
武道とは呼ばず、格闘が終わった後も延々と続く日常に処する上でも
武道的立ち居振る舞いは必要で、必要なものというのは認知されていても
実行するのはなかなか難しく、頭でわかろうなんて思っても頭って
結構すぐ壊れたりして取り返しがつかなかったりするので、だから
身体技法によって「わからなくてもわかりあえる」境地に肉体が辿り着くのが
武道の極意のようだ。

本書はブログからの編集が多いので一見内容はバラバラで、しかも
身体技法が大事だといっているので書評をいくら書いても結局読んで
骨身に染みてみないと武道的読書にはならないのだが、ある一説に
書かれてあった「妄想する」という行為の効用は骨身に染みた。
妄想=強く念じることはとても大切なことで、この「強く」という
副詞の解釈が特に大事で、ここでいう「強く念じる」というのは、
まだ起こってないこと、ここでは起こってないことを「微に入り細に入って」
思い描くことで、そこにはただの数字の羅列は意味を成さず、
肉体から生ずる五感的な言葉で描写することで、強く念じたことは
実現する。その語りの強さといったら!

身体的感覚に裏打ちされた妄想を描写することは、それが五感と
結び付けば付くほど肉体的作業に近くなるわけで、そういえば内田先生が
高く評する村上春樹もどこかでそんな事を書いていた。

「わからなくてもわかる」状況というのは、そこかしこにあるわけで、
妄想の産物である国家という枠組みにおいても、この国の現状が
対外的に弱くなってきたことや年金制度がもう持たないことや、
アメリカや中国に対して政治経済上はもうそんなに強行には
なれないことや、それでもアメリカや中国に対して何でもかんでも
負けるわけにはいかないという国民的エートスがまだあることは、
わからなくてもわかる。

誰かが言わない限り消えてしまいそうなことを妄想的に描き続ける
内田先生の書物は、それでも言葉にすることによってこの現状に
しなやかに対応していこうとする静かな熱に満ちている。
わたしがこれを身体的に読み取れたかどうかは、これからにしか
わからないが、事後的に気が付く訓練自体が武道的日常でもあるのだ。

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これから百年の孤独の愉楽

6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

リーマンショック以降の金融危機に端を発した経済的混乱は、
単に景気浮沈や資本・流通の量的な問題ではなく、歴史のもっと
長いスパンの中で生じてきている何らかの質的な転換で、現在は
その移行期的な混乱の中にある。これが本書で著者の語る主張だ。

主張と言ってもそんなに声高ではない。
自分の思考の筋道をじっくり確かめるように、自らの経験と
五感から生じてくる感性に添うように、周囲のややヒステリックな
「成長至上主義」にも冷静にデータを示しつつ、移行期的混乱論は
静かに進んでいく。

現在の少子化の本質は、日本の人口が減る、というより、日本の人間が
向こう100年くらいは恐らく減り続けると言った方が感覚的にしっくり
くる。21世紀ゼロ年代を過ぎて、今後資本主義的に勃興してくる国と
地域もだいぶ出揃ってきたなかで、資本主義を急激に突き抜けてしまった
この国は今、経済合理性では割り切れない混乱の最中にある。

こういった議論や問題提起は数多い。
むしろ危機を煽るような論調は百花繚乱といったところだ。
わかりやすい処方箋がないことも大概の人は理解している。
移行期的混乱は混乱なだけに楽な日々ではない。
ただ、全ての価値観が金銭に一元的に集約されるような、価値観が
豊かではない世の中からの飛躍が得られるとしたら、現在をおいて
今後にはないのかもしれない。

本書における著者の主張も、特に断定的とまでは言えないし、
自信を持って混乱を乗り切ろうというノリでもない。
本書にあるのは、混乱の状況下にある日本に住むひとりの人間が、
ここに至った経緯を複眼的に振り返りながら、揺らぎの中にあって
これからの時代を生きる術を個人として思考している姿である。

人口減少社会のトップランナーとして、これからの社会をバランスよく
生きていく方法のようなものがあるのかどうかはわからないが、
日本という国家が世界の中で孤独な作業を強いられることはほぼほぼ
確実な様相に見える。それが個人の孤独とイコールなのかどうかは
これまたわからないが、多様な価値観がバランスする社会が出来る
ならば、多少の孤独もまた、引き受けざるを得ないのだろう。
そうなったら、子作りできない思春期の中学生のように、
部活でもやるか、ゲームするか、本でも読んでればいい。

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これからも「人」として話をしよう。

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「正義」について語る。
そんなこと、この自分がしていいんだろうか?
かなり小市民な自分にとって、「正義」なんておこがましい。
第一、「正義」について考えたこともないし。
という方は多いはずで、その裏にあるのは、イラク戦争以降の
「正義」の凋落だ。「正義」が振りかざすものになってしまい、
カッコつき注釈つきでしか「正義」は語れなくなってしまっている。
まるで、1世紀半くらい前の「神」のように。

本書は大学の講義が元になっていて、その模様が番組化されて
テレビで白熱授業が流されてからベストセラーとなった。
この日本で「正義」といえば、テレビに出てくるヒーローモノの
「正義の味方」みたいなもので、それもいまやどうなのかよく
分からないが、アメリカではバットマンにしてもスパイダーマンに
しても、すでに結構怪しくて、正義っぽいのはたいがいアンジー
だったりするので、「正義」の凋落とは「男」の凋落と対をなして
いるのかもしれず、そういえば「義」の世界のはずの任侠の世界を
描いた北野武の『アウトレイジ』では何だか男は腐れ切っていた。

リーマン以降の世界で「正義」を語ることはイコール、経済だけでは
生きていけないことに気づいた人間が、経済原則を乗り越えて
より深く人間について語ることで、それは、生から死に至るまでの
人間観の共有がグローバルに必要になってきたことに一因があり、
更に言えば、人間が今後もこの地球の万物の霊長として生きて
いけるのかどうかを自問することとも重なってくる。

昨年のコペンハーゲンのCOP15の決裂以降地球温暖化対策も
停滞しているようで、アリストテレスを生んだギリシャは破綻して
しまい、その間にも日本では脳死法によって臓器提供は進み、
100歳の老人が消えたりして、太陽に焼かれて人が倒れていく中で、
「正義」をめぐる議論にこれからの人間像を生み出せるのだろうか?
それは言い換えれば、わたしたちの魂は、いま自らが有するカラダと、
複雑すぎるほどに絡み合ったカネに伍していけるのかを問うことでも
ある。

本書を読み終えた今も、「正義」という言葉にまとわりつく負の
イメージは払拭できなかった。ではなぜこの本は話題になったのだろう。
私が思うにそれは、己の身一つで小生意気な学生と対峙するサンデル
教授の立ち姿にヒントがある気がする。その後姿は2008年のオバマの
ように見えなくもなく、ライブパフォーマンス中のロッケンローラーに
見えなくもない。わたしたちはきっと、議論やルールより、パルテノンや
コロシアムを求めてしまいがちだ。人には何が出来るのか、その限界を
見せつけてくれる人を、求めてやまないのが人間であるとしたら、
「正義」が死んだ後も、芸としての人間のパフォーマンスの極限を、
人間に出来る最高度の手術のようなオペレーションを、老若男女が
日々の生活の中に見出し、求めるだけでなく、それぞれがちょっとずつ
与えられる何かを模索していけばいいのだと、私は思う。

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紙の本人間の器量

2009/12/06 19:08

日本人による日本人のための日本人の器量

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器のでかい人がいなくなった、というのが本書の主張だ。
そして、器を大きくするためには
1.修行をする
2.山っ気を持つ
3.ゆっくり進む
4.何も持たない
5.身を捧げる
ことが必要であると、福田先生は言う。

先生曰く、どこまで人のことを考えることができるかで、器のでかさは
決まるらしい。そんななかで器のでかい人がいないということは、
自らの生活が第一、の考えがはびこり過ぎたか、他者に対する理解が
乏しくなりすぎたか、あるいはその両方か、あるいは、それだけでも
足りないくらいか、いずれにしても、器量を考えることは人間を見ること、
考えることとあんまり変わりはない。

ではなぜそんなに器が小さくなったのか。
それは器が小さくても何とかなったから。
戦争の脅威がなく、貧困も病気も格段に減り、小さくまとまって
生きていけるのだから、修行も山っ気もいらず、いろんなものに
まみれて大急ぎで自分のためにカネ稼ぎに邁進しても、なんとか
なってしまっていた。そして、どうやらなんとかならなくなってきた。

本書は先に挙げたウツワ5か条を含めて、いろいろ矛盾ありげな
記載が満載なのだが、それは器を大きく持って受け止めよう。
でもわたしは思うのだが、国技のトップにモンゴル人を据え、
柔道はグローバルになってK-1があって、ミシュランの星は
世界一で、イチローと松井がいて、村上春樹と北野武と宮崎駿がいて、
秋葉原があって築地があって、なおかつでかいタワーをもう1本
建てようとしている国民の器って、そんなに小さいんだろうか。

まあそれはさておき、戦争という政治と戦争をしない経済で
のしあがった辺境ニッポンが、今度はエッジなカルチャーで
それなりの存在感を出していくために、祝祭を演出できるくらいの
器は身につけて生きたいものです。

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紙の本「関係の空気」「場の空気」

2008/01/14 21:26

日本語が足りない日本

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今は「空気」の全盛期ではないだろうか。
2006年6月に発売された本書の帯の後ろには、「空気が全てを決めていく」
と書かれている。昨今の「KY」という言葉の凄まじいまでの広がりを
見ると、この日本では「空気が全てを決める」ことが、極点にまで達しつつ
あるのではないかと感じる。その社会を著者は、「日本語が窒息した」
社会だと喝破している。

毎年、流行語大賞があるような国は世界でも稀だという。
簡単で便利な言葉が作られては吐き捨てられ、その移り変わりに着いて
いけない人間は「KY」と言われて除け者にされる。相互理解を
深める道具であるはずの言葉が、欠乏し、窒息してしまっている。
その指摘は私たちの日常にも当たり前のように現前する。
日々飛び交う言葉を咀嚼できなかったり、複雑な状況を前にして
言葉が出てこないことは、しょっちゅうだ。
そんな日々では本当に呼吸だって浅くなっているに違いない。
不図した弾みで窒息したっておかしくない。

本書における著者の仮説はこうだ。
3人以上の場における空気のことを「場の空気」、1対1の会話における
空気を「関係の空気」と呼んで区別し、大雑把に「場の空気」が問題で
あって、「関係の空気」はむしろ必要なものとの前提に立っている。
どちらにも必要なものは、対等にコミュニケーションするための言葉で、
そのためには「です、ます」調で日本語をきちんと語り、敬語を使う
ことが重要だと説いている。

「です、ます」調や敬語は、ともすれば目上の人間や力の強いものの
支配をより強めてしまう印象があるが、実はそうではなく、立場の異なる
ものが、感情をむき出しにせずに対等に話すための話法なのだと著者は
主張する。そして最近頻繁に利用される、「だ、である」調と「です、
ます」調を会話において巧みに使い分ける「コードスイッチ話法」は
権力者や多数派にのみ許された話法で「下から上へ」は通じない言葉
なのだという。

これらの主張は、日本に住む人々が相互理解を深める上で、真に具体的で
実行可能なものだと思う。権力者やマジョリティが空気を利用して大衆を
扇動する裏では、少数派の人間がどこかで窒息している。空気にはなかなか
抗いがたい。しかし、空気が全てを決める世の中は、もろく、危うい。

空気を読み取る言葉を身に付け、空気に流されない言葉を獲得するのは、
至難の業だ。だが、窒息しそうな場の空気を、「です、ます」調の
穏やかで質感のある日本語が、ゆっくりと場を満たしていく光景を、
私は想像できる。空気の全盛期に必要なのは、そんな日本語だと思う。

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