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  3. kc1027さんのレビュー一覧

kc1027さんのレビュー一覧

投稿者:kc1027

143 件中 31 件~ 45 件を表示

紙の本あなたにもわかる相対性理論

2011/07/18 22:44

天才と勇気は比例する。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

米『TIME』誌によって20世紀を代表する人物に選ばれたアインシュタイン。その代表的理論である相対性理論を、アインシュタインを生涯のヒーローと仰ぐ茂木先生が解説した書。

アインシュタインは、ニュートン力学が世の常識としてまだ絶対的な権威を持っていた20世紀初頭に、その絶対的なるものを疑い、宇宙の真理を知りたいという純粋というか一途な思いをE=mc2という極めてシンプルな一行に結実させた。正直、『あなたにもわかる』という題名に納得するほど自分が相対性理論を理解できたがどうかわからないのだが、エネルギーはまったく次元が異なっていそうな質量と光の二乗に等価である、ということを突き止めた、そのとてつもなさはよくわかった。100年あとで、たくさんの解説を読んでも理解しきれないけど、世界は相対性理論によってすでに変化している。わたしたちはそんな、アインシュタイン後の世界にいる。

どんな人間がどんな生活の中でどんな頭の使い方をすれば、そんなすごいことに思い至るのか。詳細な筋道は巻末の論文全訳に譲るとして、その人となりを茂木先生なりに10の人間力として分解しているのが、本書の売り。
1.反発力
2.見えないものを見る力
3.粘り強く考える力
4.平等力
5.ユーモア力
6.浮世離れ力
7.方程式力
8.信じる力
9.自立力
10.友人力
アインシュタインがこのすべてをいつも実践していたかどうか、それは茂木先生にもわからないと思うが、この10個を人生の早い段階から発揮し続けてきたからこそ、誰も到達し得ない真理に辿り着き、億千万の人々の常識を覆すような革命を起こせたのだと思う。その所業は、地球の人類の極点に立ちすくんで独りで宇宙と対峙するような、誰も見たことのないご来光を浴びるような、生命をフル稼働させるようなものだったんだろうなあ。

でもなんで、アインシュタインには見えないものが見えたのか。
それはもしかしたら見えないとみられているようなものを変な偏見に惑わされずにただ見ようとしただけなのかもしれない。2000年も前、カエサルは「人は自らが見ようと欲するものしか見ない」と言ったそうだ。きっとアインシュタインは、見ようと欲したものの範囲がとてつもなく広かったんだろう。それは誰にも止めようもなく、どこまで見ようとするかはきっと、しがない世間になんて囚われず、己に正直になろうとする勇気の問題だ。だから天才と勇気は比例するらしい。良い言葉に出会った。

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生きることを見定める

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

現実を直視するのは、簡単ではない。
ましてやその現実を自分のものと受け止めていち早く前へ進みだすことは、誰にでも出来るものでもない。目を覆いたくなるような現実を前にして、途方に暮れる時間も必要かもしれない。震災から10日間経過した今、わたしたちが直視すべき現実とはなにか。

本書の主人公・二宮金次郎は、本を読みながら薪を背負う銅像で広く知られるが、勉学の傍らその薪を換金商品として少ない元手をつくり、更にそれを低利で融資することで身を立てた。単に商売をしてものを売りまくっただけでなく、得た収入を広く世間で活かす方法を深彫りして考え、複利の効果を最大限利用した。生活できる限度を見定めて、融資する民に返済させる術を考えさせた。生活できる限度を見定めさせ、その範囲を超えない日常を送り、余剰分は社会が必要とする事業に投資した。幕府は退廃し、自然災害が頻発し、人口が減少する江戸後期の社会において、二宮金次郎が成したことは、日常生活の中に希望を見出すための事業だった。今の生活を続けていけば、この村は大丈夫なんだ。その線を指し示すこと。指し示せるようにまでなんとか持っていくこと。これを復興というのだろう。

社会が大きな災厄と不安に包まれる状況下で、わたしは被災者ではない。職もあり食もある。わたしたちにはきっと、生活できる限度の見定めが必要になってきているのだと思う。災厄は今後も起こるだろう。電気もガソリンも、自分だけのためにあるわけではなく、自分が生きるために食べる量もあらためて大体わかった。わたしたちの暮らす国では、借金は増えることがあっても減る見通しは立たず、30年先のこの国での生活などほとんど描けたものではないが、そんな現実を今こそ直視したい。

代表的日本人・二宮金次郎は、人口が減少傾向にあった1840年代当時、この生活の範囲を続けていけば180年先まで、つまり2020年まで大丈夫なんだと、指し示したという。戦後成長モデルが機能不全に陥ってもうだいぶ経つ。これからどう生きていくのか。この10日間の現実の中に、希望はある。

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紙の本芸術闘争論

2010/12/23 21:38

圧力を使う。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「美」は時を越えると言われる。
人を魅了する「美」という概念は、概念なだけに人の心技体に根拠がある。
現代の美の根源は、美という概念を体現する芸術作品を大量に生産し
流通させた西欧にあり、自由の象徴であるかのような芸術の世界にも、
ルールがあり、秩序があり、流れがあって、経済がある。
そんな身も蓋もない現代の芸術の世界で戦い続ける村上隆氏の
最新の叫びが本書だ。

氏は芸術の世界に長くはびこる自由礼賛な風潮を糾弾する。
何もかも自由で好き勝手でなおかつコストも大量にかけて人も
好きなように使って時間もいくらでもかけながら作品を創れる
環境など、この世にまず存在しない。あったとしてもそれは
功なり名を遂げて、すでに十分な信用を築いたものしか与えられない。
信用を築くには、現実にあるルールを学んで読み取り、ひとつひとつの
作品のなかにそれを具現化していかなければならない。

西欧が築いた芸術という市場のルール、歴史、文脈を読まずにどれだけ
吠えても、辺境日本の偏屈な芸術家もどきで終わってしまう。
四方八方からの圧力の中、理解者を得て、世界を相手に戦ってきた
氏ならでのやり方を本書ではあとに続く若者のためにかなり詳細に
公開しているのだが、それは日本人が現代芸術のマーケットに影響力を
発揮し続けるためのほとんど憂国的とも言える闘争のためなのだ。

だから本論では芸術を視るものの鑑賞眼を鍛えるという基礎的な部分
からの訓練を要請してくる。その鑑賞の4つのポイントとは、
「構図」「コンテクスト」「圧力」「個性」だ。視線を誘導する構図の妙、
他の芸術との歴史的地理的関係性から生じるコンテクスト、
作家の執拗なまでの執着で視るものの目を惹きつける圧力、
そのままで滲み出る個性。こういったものを読み取れるかどうかで
芸術とわたしの関係性はまったく変わり、価値は変わり、
価値が変われば当然現実にも影響して、やがて気が付けば現実も変わる。

氏は本書で圧力という言葉を多用している。
海外からの圧力、業界の歴史の圧力、ネットの中の匿名の圧力、
経営者としての日常の圧力、昨日までの己からの圧力、
その圧力を作品に使ってしまうことでしか芸術家は芸術家
たりえず、芸術家は作品を残すことでしか評価されない。
しかし美しい作品は自らの人生を超えて残る。

自分には何が残せるのか、それは好むと好まざるとに関わらず、
わたしたちひとりひとりの日々の闘争のテーマでもあり、
生きるということを自分に問う圧力でもある。

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成長というか神なき時代に神話を語れるか?

4人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

無神論と同じような、無成長。
それを語ることは永遠に続くニヒリズムとの闘いのよう。
停滞する中世の果てに人間を再発見し、自ら人間を再復興した
ヨーロッパ人が、近代の果てに見出すものとは何なのか。
人間にとっての社会発展とは何なのか。いま世界中で新しい声が
響き始めている予兆がある。本書もそんな一冊。

本書に出てきて驚いた言葉がある。それは、「近代の超克」という言葉。
真珠湾攻撃に知的戦慄を覚えた戦中日本の知識人が、その翌年に開いた
伝説のシンポジウムに冠せられたタイトルが「近代の超克」。
もともとが西洋生まれの言葉であるにもかかわらず、本書の終章近くで
21世紀の無成長の文脈でこの言葉に出会うと、意外な感があった。

近代を超えること、西洋的価値観を乗り越えて、地球の民として
人類が存続していくわかりやすい条件は、エコロジカルフットプリントを
減らすこと。ローカルへの回帰。生きる糧を近場で済ますこと。
近場で楽しむこと。土着的かつ芸術的生活術。

この命題を達成するために、世界は再び「魔術化」されなければならない、
と教授は語る。無成長の中で社会が発展していくには、キリスト教の
脱神話化によって中世を脱した西洋も、芸術家の力を借りて再び大きな
物語の中へと帰していく必要がある。これは地球を逆さまに捉えれば
何週遅れかに見えたアフリカや南米が最先端になる可能性さえ示唆
している。

そして再魔術化という妖しげな仕事に必要なことのひとつは、
多神教的神話の創造、ではないか?そもそも近代は、敗北を重ねる
十字軍遠征が終わりを迎える頃に宗教改革と歩調を合わせるように
勃興したルネサンスと共に始まったわけだが、東西のイデオロギー抗争が
終焉し、クリスチャンとイスラムの相克にも終わりが見えず、一方で
じわじわとBRICSの勢力拡張が続く今ほど、世界を魅了する物語が
求められて止まない時代はないだろう。

その物語を奏でるのは、オバマでもマンデラでもルラでもプーチンでも、
マイケル・ジャクソンでもアバターでも村上春樹でもオルハン・パムクでも
宮崎駿でもレディー・ガガでも少女時代でも誰でもいいのだが、世界を
我らの時代の神話で埋め尽くす試みは、地に足を着けた個人からしか
始まらないはずである。神も成長もない時代の顔を、カネや核やWEBという
顔なきシステムに譲りはしないという思いを根源に秘めた芸術家だけが、
近代に生まれた諸々を超えて、この時代の神話を奏でられるのだと思うし、
その動きはすでに、始まっていると思う。

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しなやかな維新の起こし方

3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

マーケティングの勢いは留まるところを知らない。
民間企業での長年に渡る実践を経て、マーケティングはいよいよ社会の側を
変え始めた。本書は豊富な事例でもって公益を実現するマーケティングと
その手法を解説している。

民間企業におけるマーケティング対象は市場という名のお客様の塊だ。
公的部門におけるマーケティング対象は市民という名の生活者の集まりだ。
ここで奇妙な感覚に襲われる。お客様と市民は別々に引き裂かれた存在
ではない。お客様としての人間は自分の意思でモノやサービスの対価を
企業に払う。市民としての人間は、税金を払う。払う前提は、サービス
以前に、国や地方といった土地にいることだ。当然、状況によっては
選べない場合だってある。払い方も国に対して払う場合もあれば、
地方に対して払う場合もあり、購買に付随して払う場合もあれば、
いつの間にやら徴収されている場合もある。

いずれにしろ、公的部門におけるマーケティング対象者は、そこに住んで
土地に根ざしていることによって、サービスを受けたり税金を払ったり
している。

本書で最も新鮮だったのは、終章で紹介されるニューヨーク市にCMO
(チーフ・マーケティング・オフィサー)がいるという記述だった。
その使命たるや1.市の新しい収入源を育て上げ、2.市の重要な施策と
各関係機関を支援し、3.市を世界中に売り込むことによって観光を
盛んにし、雇用機会を増やすこと、だというから驚きだ。
あのニューヨークでさえ、ここまでマーケティングに重点を置いて行政を
行っているということは、裏を返せば、世界最先端で在り続けるには
不断の努力が欠かせないという身も蓋もない現実の証左なのだろう。

こうして世界中の公的機関で土地の魅力を上げるためのマーケティングが
今も行われていて、そのサービスの優劣によって、移動できる市民は
移動している。当然法人というヒトも同様に。

「社会が変わるマーケティング」を考えること、それは税金の対価は
何なのかという、古くて新しい問題を顕在化させるものであるのだろう。
それは詰まるところ、税金の使い方を通じて、どんな風に生まれ、
どんな風に生きて、どんな風に死んでいきたいのかを考える行為に
他ならない。

では日本では誰がそれを形にしていくのか?それはサバイバルに
必死な地方を背負う人間、地方公務員ではないだろうか?本書にはそんな
世界の事例が随所にある。日本でも、ここ数年虐げられ続けた地方が、
公共サービスのマーケティングに真に目覚めたとき、しなやかな維新は
起きるのかもしれないし、もしかしたらそれはすでに、始まっている
のかもしれない。

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紙の本プレーンソング

2008/02/11 20:22

読むことの嬉しさ

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

作品の終盤あたりで中上健次という文字が一瞬だけ出てきて、
保坂さんの頭の中にも中上健次という人はいたのだなあと思って
嬉しいような気持ちになって、さっきbk1で中上健次の評伝の
『エレクトラ』を買う本リストに入れてみた。以前中上健次の
小説に強い衝撃を受けて、昨日の読売新聞の書評欄で『エレクトラ』
という評伝の紹介を見て、それで何もしなかったのだけれど
プレーンソングの中でまた中上健次という言葉が出てきたので
これはもう買うしかないと思い、そこに介在する時間は
ねじれつつもつながっているようでそれが面白い。

書評というのは日常からずれている行為のような気がして、
たしか保坂さんご本人も書評のくだらなさをどこかで書いていた。
文章に接してそれを評価することの浅ましさというか意味の
なさはこういう本を読むと身に染みて感じられて、読んでいる最中に
何か反応するものがあってそれによって自身の時間の流れが
微妙にでも変わると、作者と時間の流れを少しでも共有できた
ような気がして、読者として本を読んでよかったと思う。

プレーンソングを読み終えたばかりの今、もう一度読むかどうかは
わからないけれど、何かの偶然でまたこの本を読むことになったと
したら、それがきっかけで猫を飼いたくなったり競馬をやりたくなったり
誰かに電話をしたくなったり海に行きたくなったりするかもしれない。
このプレーンソングという本が、そんな風に読む人の生活に静かに
浸透していきながら、何だかよく分からない評価に意味づけされることを
逃れて、いつまでもプレーンソングとして生きて続けていったら、
それを読んだひとりの読者として私は嬉しい。

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紙の本ほんとうの復興

2011/07/17 13:24

どう創り、どう使い、どう制御するか。

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

人間が生きていくということは、どういう営みであるのか。
日々の生活も、経済成長も、これからの未来も、エネルギーをどう創り出し、どう使って、コントロールしていくかが最重要課題であることが、東日本大震災を機に露わになったわけだが、より根源的な問いは、わたしたちにとって必要なエネルギーとはどんなものなのか、であって、復興後の姿もその地点に立つ事によって見えてくる。

「目の前にある現実は問題ではなくて、答えである」と、養老先生は本書で語っている。自然にあるものは、太陽と土と水の中で、自らの生存に必要な要素を日々取り込むために、「最適化」をしている。適者生存の答えは、目の前に生えている木々の姿そのもので、都会の地中にもそんな生物はまだまだいる。自然の生物のスマートさに比べ、太陽光パネルはなんとも融通の利かなそうな、不細工な格好をしている、と池田先生も嘆く。

生態学の世界では、多少の撹乱要素があった方が生物の多様性は増し、生態系は豊かになると見られているらしい。地震や津波、台風や火山の爆発などの自然に組み込まれた撹乱要素は、人間ごときの力では制御できるものでもない。ましてや人命は地球より重いわけでもない。その謙虚な人間観に基づいた上で、日本列島での人間の日々の営みに必要なエネルギーは何キロワットぐらいで、それを中長期的にまかなうには、どんな地理的用件をおさえ、どんなプラントを創り稼動させて制御していけばいいのか。

だからほんとうの復興とは、わたしたちの今の科学的知識と経済的現実と生物学的体力を搾り出して、これからの世代に必要な日々の生活の仕組みを再構築する計画を立てて実行を始めることで、そのために課された時間的猶予は、きっと現在の衆院の任期切れまでも、ない。

果たして日本列島に住む人間は、自らのエネルギー最適化を達成できるのか。江戸という先行事例を仰ぎ見ながらも、複雑な神経細胞のように密集して脳化した都会を抱え、居心地のいい場所を見つけられるのか。それはわたしたち自身のカラダから沸き起こる人間エネルギーを、どう創りだし、どう使い、どう制御するかにかかっている。

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紙の本地下鉄は誰のものか

2011/04/10 21:14

大人の事情を乗り越えろ!

3人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

東京メトロと都営地下鉄の一元化を目指す猪瀬氏の闘争の書。
石原知事の再選が確定し、震災によって日常感が終焉した現在の日本・東京にとっての、克服すべき大きな課題である地下鉄の現在。

都営大江戸線の開通と東京メトロ副都心線の開通によって東京の地下鉄の開発は終わった。人口減少時代に向かう大都市にとって、顧客である住民の利便性を阻害する要因は、都市間同士の国際的競争の妨げとなり、後世にいらぬ負担を残すこととなる。すでにして優良企業で財務体質も従業員の平均給与も高い東京メトロには、不動産開発を優先して来るべき社会に向けたバリアフリー対応が不十分な面があるとして、猪瀬氏は憤る。

世界の大都市で、地下鉄の経営が一元化されていないのは東京だけだと言う。九段下の駅にはメトロと都営のホームが薄い壁を隔てて閉ざされているところがあり、氏はそれを「バカの壁」と呼ぶ。運賃にしても何だか損をした感じがすることは日常的にあるが、なんとなくキレイでわかりやすくはなっていく地下鉄の駅の表示やロゴマークを前にして、不便さは覆い隠されている感じはわからなくもない。

きっと、一元化されないことによる無駄はある。役所的企業の例に漏れず、顧客志向もきっと足りなくて、それによってトーキョーのサラリーマンはいらぬ不便を強いられているはずで、知らない人間はただ黙々とそれを受け入れるのみ、だったんだと思う。

その小市民的辛さの背景にある事情とは一体なんなのか。震災によって、この社会の日常性の不可思議な点が、「生きていく」という観点からするといろんな問題があることが露呈されてきた。地下鉄のみならず、電気の融通が効かなかったり、省庁の連携はやっぱり複雑だったり、マスコミの質問のレベルがわかってしまったり。今まで「大人の事情」とか言ってわかったような気になっていたものが、まったく子どもじみたものであったりすることもわかった。

地下鉄は利用者のものであると猪瀬氏は言う。石原氏が再選したことで地下鉄一元化は少し前進していくのだろう。そのとき、利用者としてのわれわれは、利便性の裏にある様々な事情に関心を示しながらも、最終的に利益を享受するものとしての節度を問われていくことになる。地下鉄がわたしたちのものであるならば、地下鉄の風景はわたしたちを映す鏡となる。サリンと震災を経た地下鉄は、わたしたちの生きる場所そのものであって、大人の事情を乗り越えていく現場そのものである。

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紙の本小説修業

2008/03/09 22:33

その都度、立ち現れる

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「私が生まれる前から宇宙はあり、私が死んだ後も時間は流れ続ける」
これは保坂さんが自然科学の本を読むようになってからはじめて
考えたことらしい。小島信夫さんが亡くなられた後も時間は流れ続けて
いて、この往復書簡は読まれるたびにどこかで響き合っている。

二人の人間がいて、それぞれがそれぞれの脳で言葉を紡ぎ合っているのが
この本で、だからといって「巨大な知性が激突」しているわけでもなく、
「柔らかな感性が融合」しているとも言い切れず、解き放たれる言葉が
お互いの世界を了解する能力で持って響き合っている、ただそれだけで
それ以上でも以下でもなく、意味づけすることが出来ないのできっと
もう1回読んだらまたそれなりに楽しめるだろう。

楽しめるだろう、という感覚が残っているだけで、実は何が書いて
あったのかどっちがどういうことを言っていたのかそれなりのフレーズも
覚えていないのだけれど、作者がこの世にいてもあの世にいても、
このテキストは読まれるたびに読者を含めた三者間で響き合うことと思う。

それは常に、どこにもない世界がその都度立ち現れてくるということで、
そういうことが起こるのは、小説という枠組みはなかなか死なないことの
示唆のようで、冒頭の保坂さんの文章の、宇宙とか時間という部分と
小説というものは並列的に語られてもそれほど傲慢ではないような
気がしています。

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紙の本クララとお日さま

2021/07/18 14:23

求めてやまない存在

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病弱なジョジ―は賢くて明るい少女型AIロボットのクララと暮らすことになる。
クララは見るものを何でも吸収して学習して理解力も抜群。
気まぐれなジョジ―の行動にも常に寄り添って気遣う。
お日さまの恵みを浴びて生きるクララは周りを明るく照らす。

人は何のためにロボットをつくるのか、という問いは人間は何のために
生きるのかという問いにおそらく直結する。クララはジョジ―の友だちとして
ジョジ―の母が購入したロボット。ジョジ―にとってクララは遊び相手でありつつ
ジョジ―の母にとってのクララは病弱なジョジ―の代わりにもなりうる存在。

自分のためだけに生きることがなかなか大変なように、
誰かのためだけに生きるのもなかなか大変だ。
誰かのためだけに生きるように初期設定されたロボットは
自己犠牲の存在そのもので尊く美しく儚い。
生み出す側の人間はきっとそんな存在にはなれないから、
これからも芸術のようにAIロボットの資質を磨き続けるはず。

人間から見れば本物ではないロボットは役割が終われば
自ら分身を生むこともなくやがてその存在意義をなくす。
代わりが代わりとしての役目を必要としなくなることを
素直に受け入れて誰かのために微笑む。
自分もそうありたいと思ってもそうなれることは少ない。
そんな他者は誰にとってもそんなにいない。
おそらく人間はそんな存在をずっと求めてやまない。

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紙の本恋するアダム

2021/07/18 13:37

わたしたちはまだ機械にウソのつき方を教える方法を知らない

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

あったかもしれない1982年の英国でAIロボが人と暮らす話。
あったかもしれない英国にはアラン・チューリングが生きていて
AIロボがすでに人間と一緒に生活していて、その雄型ロボットは
人間の女性と交わったりして、人間の男と三角関係になっていたりする。
あったかもしれない世界は、今後あるかもしれない世界とも違うかもしれないが
そこに暮らす人間の在り方は、要件によって都度都度変わりうる。
この物語の中で今の現実と異なる最たる要件が人型AIの社会への浸透。

人はどうやってAIを創り出すのか。人間にとって助けにもなれば
脅威にもなりそうなAIはひとまず人が創り出すもので、初期設定は
人を補助して人の能力を拡張するもの、性別はあるかもしれないが超越している。
ロジカルな思考はAIの方がまあ得意だから、初期設定で問題になるのは
正邪善悪の判断であったり共感の範囲であったり、物理的な力の範囲であったり、
生殖の方法であったり、人間に対する基本的な態度であったり、
つまりは人間の何を代替し拡張するか。

アダムの思考は正確で従順。人を好きになるという「弱い」感性すら
持ち始めているけど、正邪の判断に適度な忖度がまだ効いたりはしない。
世間にまみれた人間は「優しいウソ」みたいな論理までものにしてしまっているけど
アダムがそんな論理を使いこなすにはまだずっと学習が必要だから、
ときに主人である人間を追い詰めてしまったりする。なぜなら
「わたしたちはまだ機械にウソのつき方を教える方法を知らない」から。

融通は利かないけれど善良な意識を保ち続けるロボットを、人間が殺めることを
どう判断したらいいのか。人間が善良なる存在であり続けたいなら、遠からぬ将来に
意識の主体としてのロボットの心と対峙する時がくる。自分の体を変形もできる
世界が当たり前になるとして、そのときに生物無生物性別を超越した存在の
意識と向き合うことになる。自らが生み出したもの個体として認識できるのか。
優しいウソを普遍的価値に昇華できるのか。

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その歴史があるからこそ

1人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

坂本龍馬的な立ち位置の本である。
日本では「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の著者として知られ、
中国では「トウ小平」の伝記作者として知られるアメリカの社会学者。
両国にとって恩人ともいえるヴォ―ゲル氏が生涯最後に手掛けた著作が
この China and Japan Facing History.

ヴォ―ゲル氏は、GDP世界一位のアメリカと二位の中国との関係が
世界で最も重要であるとすれば、世界で二番目に重要なのはおそらく、
中国とGDP世界第三位の日本との関係であると見ていた。
それは2010年代以降のアメリカの視点で見た場合のアジアの重要性でもあり、
世界から俯瞰した場合には太平洋が時代の中心になったということでもある。

日本と中国には遣隋使以降1500年の交流の歴史があり、それは
日本が中国に学ぶ時期が大半でありつつ日本が不服従を貫いた歴史でもある。
19世紀以降は日本の近代化とそれを礎にした大陸侵攻の歴史があり、
戦後の日本の経済成長を中国が学ぶ時期を経て、直近では
想像をはるかに上回るペースで経済規模が逆転して大差が開いた事実がある。

特にこの100年を両国が当事者として客観的に把握するのは実に難しい。
歴史には語る主体があり、主体は主観から自由にはなれず、
真実はいつも語りの向こうにぼんやりとしていて、絶対のものではない。
そこにこの著作の永遠の価値がある。両国をよく知るヴォ―ゲル氏の語りも
アメリカからの視点であるかもしれないが、そこには相互理解を促そうとする
個人の使命感、無償に近い愛情を感じる。

成り立ちと構造の違う2つの国家がどう付き合うのか、そこに答えはないが、
終章、アジアの未来に対して日中が何で協力できるのか、そこまで氏は
指し示してくれている。これまでの歴史の果てに、今の両国がある。
これまでの歴史があるからこそ、それを通過したアジアの未来ができていく。
協力できると言ってくれたヴォ―ゲル氏は世界の永遠の恩人だ。

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紙の本一九八四年 新訳版

2010/03/21 16:22

『1984年』は未来なり、と思ってみる

19人中、17人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ユートピアにはユートピアなりの高揚感があるのはわかるけれど、
チャキチャキの未来がすでにセピア色になって久しい現代で、
人々に未来に向けた行動を何か起こすには、ディストピアの方が断然、
強烈だ。本書は、実現しなかった過去の顔をしながら、これからまだまだ
起こりうる現在進行形の書として、いまだ強烈な世界観を持ちえている。

わたしたちはもう、1949年にオーウェルが見通した1984年の風景を
逆の時間軸で吟味できる立場にいる。本書では世界は3つの帝国によって
支配され、そのひとつであるオセアニアのスローガンは、
“戦争は平和なり”
“自由は隷従なり”
“無知は力なり”

本書で二重思考と呼ばれる相矛盾する言葉の共存は、言葉の絶対量の
削減を促し、言葉のループの中で言葉自体への信頼感を薄れさせ、
言葉によって生まれる感情を単純化を通して混沌のなかへと追いやり、
やがて人間を壊し、社会は壊れ、その道筋を作った帝国だけが残る。

それにしてもこのスローガンはある意味魅力に溢れている。
現に石油をめぐる戦争の傍らに平和は実現し、隷従を強いられているかに
見えた地域がかつてない繁栄を謳歌し、知性に溢れているとは言いがたい
テレビによって、なんだかんだ言いつつ政治は動いてしまったりしている。
そこに言葉への信頼を問うのは何だか偽善じみていて恥ずかしい。

恐怖による危機感が人々を行動へと駆り立てるとしたら、本書ほどの
力を持ちうる書物は有史以来そんなにないと言ってしまっていいと思う。
だがその衝撃的結末以上に、付録まで読み通してみると、今こうして
新訳の日本語で『1984年』が読めることは、かなり偶然的幸福の連続の
果てにあり、そういうことを示唆してくれることこそ、本書の根源的な
価値なのだ。だからわたしも稚拙ながら本書に書評として参加し、
この世界がいまこうしてあるのはなんとなしにあるのではなく、
何もせずに維持されるものでもないと、自覚してしまいたい。
本書は実践を伴う読みこそ似合う。オーウェルの叫びは、願いとなって
これからもダークサイドから世界を批評し、人間を鍛え続けていくのだ。

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紙の本日本辺境論

2009/11/16 00:52

わからないなりにわかってしまっている日本

22人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

今を生き延びることに必死な人間は、世界観なんて持てない。
首を上に持ち上げるのは、空を見るためではなく、電車の中吊りとか
マックのメニューを見たりするときで、この国では働けども楽に
ならないときは星ではなくじっと手を見ることになっている。
世界観のない人間集団は世界の中心にはなりえず、いつまでも
どこかにありそうな世界の中心をキョロキョロ探している。

内田先生は新著で、世界の辺境でキョロキョロする日本人の習性を探る。
中華思想の遠隔地で生まれた辺境である極東日本は、いつも学びの対象を
探している。いつの間にか日本だった日本は、日本であることにいつまで
経っても自信がなく、「国際社会のために何が出来るのか、自らに真剣に
問うたことが一度もない」。

では今この国で効率的な模倣の学びが機能しているかというと、どうも
そういうわけではないようで、師を設定し師から師以上のものを引き出す
ような学びのダイナミズムもどうやら薄まってきているよう。

ということは、世界の端っこにいて国際貢献を真剣に考えもせずに
学ぶ力さえ弱まっているとしたらそれはかなり危ない状況ではないか。
内田先生曰く、学びとはそれをやってどうなるのかもわからない状況で
始まるもので「わからないけど、わかる」状態に辿り着くことだという。
身体をきめ細かく使い、機を見るに敏な身体が出来ていれば、
「わからなくても、わかる」。その意味は、本当に「わからなくても、
わかる」。

今の日本に生きる人々は、なんとなくこの国の行く末をわからないなりに
わかっているように感じる。世界をキョロキョロすれば、繁栄から下山に
向かった国は日本だけではないし。そんな世界で、いまだかたくなに
日本語で話し続け、書き続ける我々は、わかるヒトにしか伝わってない
かもしれないけれど、すでにこの地球上でエッジな存在感を出せているの
かもしれないし。

中心なんてなくなってしまった世界で、エッジな臨場感を感じつつ
そこそこ楽しく生きていくとしたら、今ここにある星空を眺め田畑を
耕し豊穣な日本語で理想郷を描いた岩手県人のように、どこまでも
開かれていてなおかつすごい謙虚にコウベを垂れて歩くような、
そういうものに私もなりたい。

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革命はしなやかな言葉と共に。

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読んで、書く。革命はそこから始まる。
人の歴史などまだまだ始まったばかりで、革命は何回だって起きる。
革命の本体は文学であって、暴力などその派生物に過ぎない。
現代世界の枠組みができて1000年あまり、その枠をこしらえたのも
人間なんだから、世界をさらに読み込んで書き換えることは
いつだって出来る。

著者の至高の語りに圧倒されながら、わたしという人間がどうやって
わたしになったのか、なってきたのかを考えれば、それは読んで書いて
きたからだった。読んで書かずに今の自分にはなっておらず、
世界を読む術を本を読むことで体得し、書くことで表現し、
カラダもそれに付き合ってきた。

人は言葉によって現実を紡ぎ出して、それぞれの物語のなかを
生きているのだと思うが、世界は自分の前からあって、自分なしでも
運用されて、己の死は己では確認できず、地球は誕生と滅亡を延々と
繰り返してきて、さらに宇宙は地球みたいなものを何億兆個も包含
しているはずなのだが、それもこれも、読むことで世界を知り、
人類は書くことで昨日の世界を書き換えてきた。
人間がアホみたいに書くことをやめなかったから、今がある。

文学が死んだ、なんてことを言ってる輩はもういらない!と
著者は怒っている。ドストエフスキーは文盲率90%のロシアで
あの小説群を書いたらしい。その戦いの日々たるや、何という
革命的人生であったことだろう。音楽が死んだとのたまう音楽家や
ダンスが死んだというダンサーなんていらないように、
狂おしいほどに読み書くことに賭ける人間だけが、
文学をやるに値し、既存の価値を転覆させるようなシビレル人生を
生きられる。

わたしには、革命なんて、と思ってる人間でも、
読み書くことで変化が訪れることを知ってしまった瞬間、
身体と脳は読み書くことを求めて止まなくなる。
読み込んで書き込むことの狂気を恐れず、
読み込んで書き込むことに没頭する勇気を持てば、
世界はまだまだ広い。世界は広くて柔らかい。
革命はしなやかな言葉と共にこの世界にやってくるのだ。

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