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  3. 菊理媛さんのレビュー一覧

菊理媛さんのレビュー一覧

投稿者:菊理媛

54 件中 31 件~ 45 件を表示

紙の本天と地の守り人 第3部

2009/02/12 14:04

行く末遥かな「結びの章」

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 大河ドラマが完結した。終わってしまって安堵したような、寂しいような、待ちかねていたファンとしては複雑な心境になる。
 「なるようになったな」という結末だった。御幣があるのを覚悟で言えば、各人が「そうあるであろう」と思われるところに落ち着いた結末だった。
 何事もなかったように・・・と言えば、貶し言葉ととられそうだが、そうではない。物語が始まってからこの結末まで、天地がひっくり返るほどの変化を経て、登場人物の主要メンバーそれぞれが、死んでもおかしくない経緯をくぐりぬけて、あるものは命からがら、あるものは寸でのところで踏みとどまり、あるものは否応もなく大切なものを失いつつも、「あるべき場所」へ至り、過ぎた日々と似たような(しかしながら、確実に変わってしまった)生活に戻り、淡々と日をおくる生活に身をゆだねてゆく。ここに至るまでの支流は数限りなくあると含みを残し、ここからまた、新たな物語が始まりもしそうな奥行きをただよわせて、「守り人シリーズ」は終着点にたどりついた。
 バルサとチャグムとともに旅した物語は、長かったようであり、短かったようでもありつつ、二人とともに、喜びも悲しみも併せ呑み、読者もここで旅を終えることになる。この大河ドラマが、バルサの物語であったのかチャグムの物語であったのかは、読者の目線がどちらとシンクロするかによっても違うだろう。国の存亡と、勢力図を左右する壮大な物語となったチャグムの大河。‘個’に対する愛情と思いやりを糧に、国の存亡を左右する謀略さへ揺るがすバルサの大河。究極は、どちらが主役であってもかまわないと思うのだけれど、物語の終わりが、「誰が誰の元に帰ったか」であるところを見ると、作者の意図ははっきりしているような気もする。
 私は元来、戦争ものは本も映画も好きではないし、戦闘シーンも人殺しを美化しているようで好きではない。しかしながら、チャグムの初陣の場面では、涙が出そうになるほど感動してしまった。外へ出ることさへ穢れとされてきた王家の皇子が、人の命の大切さゆえに、先頭に立って戦乱に飛び込んでゆく様は、深い感動を与えてくれた。
 戦場に借り出されたタンダを心配し、敗戦兵の収容されている場所までたどり着いたバルサが、タンダとの関係を聞かれて答えた「つれあい」という言葉に涙が出た。あぁ、この二人は、本当に「つれあい」と呼ぶのが相応しいなぁと心から思えた。
 できれば、遠い将来でいいから、バルサとチャグムに再会のときがあればいいと思う。「精霊の守り人」の別れでさへ、二度とは会えないと思っていた二人が、不幸を媒体としてではあったが再会を果たせた。不幸は国を揺るがす大事ではあったけれど、二人が会えたことは幸いだったのだと思う。二人が会えたから、不幸の中で幸いが芽吹いた。
 いつかまた、幸いな二人の出会いがあることを期待したい。それが儚い夢だとしても、「絶対に無い」という結末でなかったことを、私は幸せに思ってしまうのだ。

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猫の一大ファンタジー

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 なかなかに珍しい、野生猫の部族争いを舞台としたファンタジーである。
 飼い猫ラスティーは、虚勢されて飼いならされ、意気地なくダラダラと過ごす家猫の運命を厭って、野生猫の部族抗争の渦巻く世界に身を投じる。
 サンダー族、リヴァー族、シャドウ族、ウィンド族に分かれ、それぞれの縄張りを保持しながら4部族に分かれ、集団で生活を送る野生の猫たち。物語は初っ端からサンダー族とリヴァー族の激しい戦いの場面である。
 これがなかなかに勇ましい。リヴァー族の戦士・オークハートと、サンダー族の戦士・タイガークローが猛獣さながらの死闘を繰り広げるが、サンダー族の副長・レッドテイルの判断でサンダー族は一時退却を余儀なくされる。
 サンダー族の族長であるブルースターは、近ごろ形勢不利な一族の窮地を救うのが“火”であるというスター族(人間で言うところのご先祖様たち。いわゆる神様猫の一族か?)の啓示を受け、火のような色の毛並みの飼い猫ラスティーをサンダー族にスカウトし、ファイアポーという名の戦士見習として迎え入れる。
 サンダー族では頼りにする戦士が抗争のさなかに命を失い危機感を募らせる。そがれた戦力を補充するために各戦士に見習いをつけ、日夜訓練が繰り返される。
 同じ見習であるグレーポーと仲良くなったファイアポー。二本足(人間)の匂いがするなどと、他の見習たちに苛められながらも、持ち前の勇気で一族の仲間に馴染んで行く。
 はぐれ猫のイエローファングやバーリーなど、それぞれ個性的な猫が魅力的に描かれている。群れで暮らすには規律が有り、なによりも一族に対する忠誠心が問われるというあたりは、あまり猫っぽくは無い気もするが、サスペンスや謎解きの要素もありで一気に作品の世界に引き込まれる。
 「不幸な野良猫を増やさないため、さらには猫の幸せのために、虚勢(避妊)手術を受けさせて、一生外へ出さずに家猫として可愛がりましょう」という、愛猫家のスローガンが罪悪に思えてくるようなお話ではあるが、これはこれで物語としては面白い。
 猫に猫権があるならば、きっとこのような生活こそが、猫の本懐であると訴える猫も多いのではなかろうかという気はするが、現実問題人の友として今の世で生きるには猫権の侵害も辞さずというのが愛猫家の愛情なのである。それをエゴと言われるなら、甘んじて受けようと思う。やはり我が家の猫には、ぬくぬくとした寝床と、味気なくとも栄養バランスのとれたキャットフードで長生きしてもらいたい。
 というわけで、せめてワイルドな猫たちの冒険を物語りのなかで楽しみたい。巻頭の作者の言葉から察するに、ある日居なくなった飼い猫が、きっとどこかで愉快に生きていると信じたい猫好きの空想から発した物語かなという気もするが、時間をかけてラスティーがファイアポーとなり戦士・ファイアハートとなる一大ファンタジーを楽しみたい。
 集団で生きるということ、対立勢力があるということ、そして迫害に負けず頑張るということなど、人として生きて行く上でも大切なことを、個性ある猫たちが教えてくれる。

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紙の本まんまこと

2008/09/19 15:51

こけ未練とは哀しいね

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

代表作『しゃばけ』の若だんなとは、ちょっと違ったタイプ、だけどこちらもご大家の若だんなが繰り広げる、洒脱で粋なお話です。
全編を通して春風のように漂う桜のイメージを持つ女の影が漂います。成就することが適わなかった恋心の傷を隠すためなのか、ある日突然き真面目で勤勉なところをどこかで落としてきたかのように、突如お気楽男に変身してしまった古名主の若だんなを主人公に、女タラシと堅物の親友がつるんだ男三人、互いの友情に助けられつつ、支配町で起こった雑多な困りごとに裁きをつけてゆくお話です。
裁きモノというと、「遠山の金さん」や「大岡越前」のようなお武家様モノが通常なのですが、奉行所に持ち込むほどのことでない日常のイザコザは差配や名主が解決する仕組みがあったという(浅学な私には)初耳の情報にとても興味をひかれました。確かに、この手の日常の揉め事をすべて町奉行所に訴えていたのでは、北と南では納まりきらないであろうことや、それでも誰かが裁いてあげないと治まりがつかないだろうということも納得できるので、物語自体の信憑性も増した気がします。
裁く本人がお気楽なせいか、勧善懲悪のお裁きモノとはちょっと違って、ちょっと小ズルイ顛末が待っていたりもする采配もあったりするのですが、人の心のひだを心得た裁きというか、血も涙もたっぷりあるお裁きが、なかなか心に染みるお話になっています。
人間、あまりに悲しくて、それをどうしようもなかった自分を歯がゆく思うとき、泣いたり怒ったりを突き抜けてしまうものかもしれません。
16歳までは評判のよい若者だった麻太郎が、突如人が変わったようにいい加減になってしまった事情も読み進むうちに徐々に明かされ、初恋のすっぱさと失恋のほろ苦さが、物語全体にトッピングされることで、お気楽若だんなのお話に薄いベールを被せたような効果をあげています。
「今まで何を真面目に生きてきたんだろう。イザというときに何もできないくらいなら、いっそ浮雲のように生きていた方がいい。他の何にも、誰にも心を執着させず、いい加減に、のほほんと楽しく過ごしていた方がいいに決まってる」とでも思ってしまったかのような体でありながら、消し去れない正義感とくすぶり続ける恋心に引き立てられて、態度とはうらはらに真面目に真摯に支配町でおこる揉め事を裁いてゆく姿も心地よいものがあります。
どんなに真剣に思っていても、適わない恋もあるものだと、妙に「こけ未練」という言葉に惹きつけられた作品でした。
もともと真面目で頭のいい若だんな。あちらの若だんなとは違い、こちらは腕っ節には自信があるし、女たらしと堅物の頼りになる友もいる。まだまだ楽しいエピソードが期待できそうなので、こちらもシリーズ化してくれたらいいなと思います。

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紙の本空色勾玉

2008/07/02 15:22

古事記に対向できるかも?

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

執筆を生業としている人というのは、最初からそうなるべくしてなるのだなとつくづく思った。それは、この作品が処女作だと書いてあったからだ。一番最初に書いた作品で、こういうのが書けるのかと思うと驚いてしまう。作家は作家に生まれつくものなのだなと思った。
実を言うと、甚だ失礼な経緯でこの本を手にとった。作者、ファンの方には「ごめんなさい」と言わなければならないかもしれない。それは、ある日「荻原規子、小野不由美、上橋菜穂子の三人は日本ファンタジー界の三羽烏…」という一文を目にした。小野、上橋両先生の作品はとても面白く読ませていただいたので、「これは荻原さんのも読んでみねばね♪」という理由で本を探した。
後で思い出したのだが、上橋さんの作品も「小野と双璧…」とかいう、何処ぞの文章を見てたどり着いたものだったので、順番はどうあれ、系列としては自然な流れだったと、そう考えればさして失礼でもないことだったとも言えるかと自分勝手に思い至る。
とはいえ、どの作品を先に手に取るかは運というものだろう。まして、先に読んだ作品の方が優れているというものでもない。もちろん、後から読んだ方が優れているというものでも決して無い。ただし、先に読んだ作品は「この手の本をもっと読みたい」という欲求を生んだと言える点、「日本のファンタジーも捨てたもんじゃない」と思わせてくれた点においては、優れた作品と言えるように思う。
そういう経緯はともかくとして、さて本作品である。先の二先生の作品と比べると、少しばかり「少女漫画」気が強い気がするのは事実である。思い浮かぶ絵も、目の中に星が輝き、バックに花を背負って登場しそうな登場人物が多い。(と言うと失礼なのか?)
輝の御子に至っては、照日の女神と月代の神のニ柱は太陽と月の双子であり、きらきらで然るべきだろう。「天照と月読み、須佐之男の三兄弟(姉とかくべきか?)をモデルにしているのではない」と書いてあったが、この作品に描かれる三兄弟の関係性の方が信憑性がありそうな気がしてくるほど、うまい人物描写だと思った。
神は人とは違う。その倫理も、善悪の判断基準も、そして心情の変化さへも。人が理解できないような残酷な事を平然と行う代わりに、人なら怒るだろうと思うような仕打ちにも平然と耐える。感情が表現されていないわけでもないのに、その感情が激しくはあっても人離れしている様を、とてもうまく表していて、面白かった。あえて言うなら、輝の大神と、闇の女神が比較的人間らしかったかなと思った。
とても面白かったので、三部作の残り二作も早々に手に入れたいと思った。

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紙の本うそうそ

2008/06/11 15:27

ホント、ホント!

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

これは、なかなか面白いですよ!
一作目では、二人の兄やは「大物妖」と紹介されながら、付喪神のなり損ないごときに(不意打ちとはいえ)、のされてしまったりしたので、「大物妖、ナンボのもの?」と思っていたところがありますが、今回の兄やたちの大物ぶりは、すごいですよぉ~。いや、ホントに。
姫神の守りである天狗をちぎっては投げ、蹴飛ばし、なんと腕もぶった切りという大活躍。「殺せないので始末がが悪い」と困っているあたりも、ツワモノならでは(負けるとはツユほども思っていない)こその大言で、「おぉ、それでこそ大物妖♪」と納得できた、始まって以来の満足度です。
これまでお店が大火に見舞われようが、余人が襲われようが、「眼中になし!」の体を崩さない兄やふたりが、とどの詰まりは若だんなを守るためとは言いながら、揃って自らの判断でお側を離れてしまうのもシリーズ初の出来事で、普段は迷惑甚だしい顔してる若だんなも予想外の事に納得できないご様子で。
「いつまでも、あると思うな親と金」ならぬ、「いつだって、側にいると思うな兄やたち」というのを初体験するだけでも若だんなにとってはオオゴトなのに、それが不慣れな旅先(湯治といえど、長崎屋からどころか、お江戸から離れようという状況がすでに千載一遇)のことであり、ただ一人付添ってくれている松の助(実兄)と二人して、たかられた雲助のかごに乗り(実は気のいい、けれど怪しい? 雲助の新龍登場)、湯治場にようやく着いたと思えば、せわしない事にその晩誘拐されちゃって。犯人はと見れば、なんとなく善人臭いお武家が二人。その手下に先の雲助が雇われてて、めまぐるしいほどに状況が変わります。
さらには姫神に言われもわからぬまま嫌われたばかりに、さらわれてゆく道中、姫神のお守役である天狗に襲われ大立ち回り。五体満足な人間でも寝込みたくなるような災難続きに、日ごろひ弱な若だんなには「生きてるだけ偉い!」とエールを贈りたい気になりました。
実は、この「うそうそ」と、次作となる「ちんぷんかん」の読む順番が逆だったので、本書の盛り上がりと「ちんぷんかん」のちょっと落ち着いたッポイ内容の差を感じてしまい、「こりゃ、このシリーズここが頂上か?」と思ってしまい、失礼ながら「ぼちぼちネタ切れか?」と危惧するほどでした。
ま、物語は山あり谷あり。「うそうそ」で盛り上がったから、「ちんぷんかん」ではちょっと落ち着いたのさ♪ と思い直し、二冊の刊行日の差を数えて「新刊が出る日」を予測してみたりしています。

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紙の本月の森に、カミよ眠れ

2008/05/21 15:22

古来、神は人に優しいばかりではなかった

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

人は自然と対話する能力を持っている。「持っていた」と言うべきか。それとも、「対話できる能力を持った人間もいる(いた)」と言うべきなのだろうか。
自然をないがしろにすれば必ずしっぺ返しを受けなければならない。それは情報が豊な現在では皆が知っている事実だ。嫌でも耳にする「地球温暖化」などの言葉は、まさに節度を超えた人間の営みがもたらした産物であり、地球が悲鳴をあげている姿に他ならない。それが「自分たちの仕業である」と知っているつもりでも、実のところ自分たちの何が悪いのかがわかっていないのが人の愚かなところなのだろう。「エコバックを使えばCO2の削減」「分別すればゴミも資源」などという行いも、実は焼け石に水の罪滅ぼしだ。むろん、「しないよりはマシ」というご意見も、「身の回りのできることから」という論法も理解はできるが、地球の悲鳴はその程度では収まらない。とどのつまりは人の営みを楽にするための行いが地球を痛めつけてきたのだ。その程度の行いがどれほどの延命措置になるものかは疑わしい。
そんなことは、実は誰でもわかっているのだ。わかっていても、今の便利な生活を「地球温暖化」という言葉の存在しなかった時代にまで逆行させる勇気など、ある人間がどれほどいるのだろうか。結局は「自分の許容範囲で」自粛することはあっても、決して「地球の許容範囲で」行いを規制するということはないのだ。
「生きるために稲を植えるということが、それほど罪な事か」と問うキシメにタヤタが答える。「崖からチョロチョロ噴出す湧き水を些細なことと見逃せば、人知の及ばぬ長い時ののちに崖は削られ、いつか崩れ去る」と。それが良いか悪いかは別として、紛れもない事実であることを否定できる者はあるだろうか。人は皆、実は知っているのだ。
臨終の際にホオズキノヒメが息子に言った言葉、「怒らないでおくれ。人はおろかなもの。いくども過ちをくりかえす」。絆を断ち切ってしまえば、いつか自然は姿を消し、自然の一部でしかありえない人の世も終わりを告げるという真理を、知ってか知らずにか人間は文明を巨大化させてきたのだろう。巨大になりすぎて、もはや歯止めも利かないのだ。
その昔、自然と人の営みを調和させるためにシャーマンの役目を果たすものがいた。多くの物語では超能力者のような力を持ち、未来を読み、病を治す存在のように描かれている。深くは知らないが、シャーマンとして神々と対話する役目を担った者が存在したのは日本に限らないようで、どこの国にも神の声を聞き、民衆を導く役割を果たすものがいたようだ。現在でもいるのだろう。そう言えば卑弥呼もシャーマンではなかったか。イメージとして日本では、神との仲立ちをするのは女性が多い。「神」が男だから、つなぎ役は女性が相応しかったという程度の理由だろうか。それとも、「育み守る」というのは女性の性だからだろうか。
目の前で飢えて死んでゆく隣人を助けたいと思うのも愛ならば、自然を、地球をあるがままに受け入れて共生する道を守ろうとするのも愛なのだろう。それは哀しいけれど相容れないものなのかもしれない。古代文明が遺跡を残して忽然と消えてゆく。文明と自然のバランスが崩れた時、そこに人の生きる場所はないということなのだろうか。カミ殺しを行ってまで作った稲は租税に取られ、その後も村の者が飢えに苦しまなくなったわけではないと物語りは続く。どうあがいても生活に苦しみはついてくるのだ。
「月の森に、カミよ眠れ」はファンタジーとして読んでほしいというのが作者の意思だと書いてあった。事実考証の問題なのだそうだが、そういう理由でなら「古事記」だって「日本書紀」だって、いわばファンタジーだ。絵空事と思わず、こともはこどもの、おとなはおとなの、それぞれの感性で読み味わって欲しい物語だと思う。

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紙の本虚空の旅人

2008/05/04 11:12

作者の世界

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ファンタジーを書く人たちは、どのように己の中の異世界を見るのだろう。
話を紡ぎ出すというよりは、吟遊詩人が英雄伝を語るように、あたかもその世界を見てきたかのように語る。そして聞き手(読み手)は、それに引き込まれてゆく。
登場人物すべての心情が一人称のように伝わってくる。あたかも、各人に憑依し、その人物の目で物事を見て考え、体験するようなストーリー展開。主役であるチャグムはもちろん、シュガや訪問先の海の都の王族の目で。なんの違和感も無く島国の平民の目から、その島の領主の目に変、。ノマドのように海をさすらう民の少女の目から、王宮に暮らす王女の目に変る。
大どんでん返しの展開なのに、話の流れが自然でとてもスムーズに一気に読めてしまう。
あたかも現実にあった話を語るかのように語られる物語は、「守り人」シリーズを愛する読者にも配慮しつつ、新しい世界を見せてくれる。

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紙の本光をはこぶ娘

2009/10/21 12:52

等身大で異世界を駆け抜けるファンタジー

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この作品は、これまでのメリングのケルトの妖精シリーズの中でも多少毛色の違う作風であるように感じます。それは、主人公の生い立ちゆえかもしれませんし、これ以前の作品のように、人間の世界から何らかの方法で妖精の世界に入ってゆき、現実世界へ帰ってくるのではなく、ふたつの世界は表裏一体で存在しており、今回の旅は、たとえるならストライプをぬうように二つの世界を駆け抜けてゆく主人公の体験を描くことで、「別世界」ではなく、見えないけれど、すぐ側にある妖精国の存在を感じられるせいなのかもしれません。体はつねに「ここ」にありながら、「ここ」の周囲が変わるというか、同じものの別の面が表立ってくることで、別景色が見えているのだという感覚とでも言いましょうか。
 もう一点、妖精たちに混じって、聖者や守護霊的存在の狼が出てきたことも、いままでとどこかしら違う臭いを醸し出しているのではないかと思われます。古代ケルトの妖精たちのほかに、キリスト教的な存在や、言ってしまえば身勝手な妖精たちとは違う、自己犠牲をもって導いてくれる存在がそこにあることで、多種多様な存在が、二つの世界をまたにかけて旅する少女だけが別世界にあるという違和感を緩和してくれているようにも思います。
 それゆえ、かえって妖精国の存在が身近に感じられ、たとえば私たちも、無機質でない場所に行けば、もしかしたら瞬間でも妖精国へ足を踏み入れられるかもしれない。いや、踏み入れていることに気づかなかっただけかもしれないというような気にさせてくれます。

 本作品では、先行作品で妖精国に転生した少女オナーが、妖精王の后でありながら、いまだ妖精になりきっていない中途半端な状態で現れ、本作の主人公であるダーナに妖精国を救って欲しい、そうすればあなたの一番の願いがひとつかなえられると伝えます。
 幼いころに母が疾走した過去をもつダーナは、さまざまな葛藤の元凶として、そしてすべての問題の解決策として母に会うことをかなえてもらうために、こわごわながらもオナーの願いをかなえるべく、使者としてウイックローの王に便りを届ける旅に出ます。
 誰でもない、ダーナでなければその人に届けられない理由、母の謎、ダーナの先祖と、出生に秘められた力と、自ら封印した力。人間界と妖精界の栄枯盛衰は同調している。妖精界を救うのは、いつも人間であるという事実。向き合うべき“敵”の真の姿。
 思いもよらない展開が展開を呼び、妖精と人間の違いによる小さな歪が思わぬ不幸と幸福を産んでしまった事実があきらかになり、それぞれがそれぞれの悲しみを理解して、それを乗り越えたときに、現実も大きく変わるという大団円に向かいます。
 妖精の常識は人間のそれとは大きく違う。そういうことを、物語の中で知り、それを理解できるなら、国民性の違う外国人の常識が、多少理解しがたいものであっても、それなりに理解できるようになるかもしれないとか、なんだか本の内容とは直接関係のないようなことをふと考えてしまった作品です。

 ファンタジーが創作され、多く読まれる意義はなんだろうと考えるに、今目に見えている現実の裏にある、隠れて見えない真実や真理を別の角度から理解するためのヴァーチャル体験なのではなかろうかと思えてきます。
 いつも何気なく見ている景色の中に、自分なりの「輝き」や「意味」を見出すためのツールがファンタジーの存在意義なのであり、国や環境が違う人間が等しく体験できる事実の中にある真実を見るレッスンなのではないかなと思います。
 本の中に描かれるような体験があろうとなかろうと、その結末から得られる示唆は、かならず人生になんらかの光明を与えてくれるように思えるのです。このような作品が、これからも多く生み出されることを願います。

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紙の本薄紅天女

2008/12/02 11:09

内に巫女を秘めた少年は闇の末裔。男装の皇女は輝の末裔。勾玉三部作最終話。

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「空色勾玉」「白鳥異聞」に続く「薄紅天女」。
この一連の作品で、しみじみ思うのは史実の整理箱に、こうも上手く当てはめて行くか? とあっけにとられる作者のみごとな創作能力の高さである。
99%の創作ながら、確実に歴史に当てて進んで行く物語を読んでいると、「もしかしたら口語訳されているだけで、こういう話があるのかも?」と思うほど、すんなりと歴史書にはまっている。もちろん、歴史書自体がいろいろあって、どれが正しいのか、どれも後のこじつけなのかは定かではないが、それにしてもうまくはまっている。
さて本作品は、もっとも乙女チックな表題でありながら、先の二作品と一番違う点は、闇の一族側が男性であるところだろう。陰陽でいうならば、陰は女性、陽は男性であるという流れで先の二作品は語られてきた。これまでの作品でも、輝の一族に女性は存在したし、闇一族に男性もいたのだが、今回は主役二人の性別が入れ替わっている点が、今までの作品と微妙に雰囲気を異にしている気がする。
「東から勾玉を持った天女が来て、滅びゆく都を救ってくれる」という言い伝えどおりなら、元来の薄紅天女であったはずの蝦夷の娘は、戦場で(家系的には輝一族であるかもしれない)板東の若者と恋に落ち、ふたりの間には男の子が生まれる。元来、うまれるべきは女の子であるべきところへ生まれた男児。けして命は保てないだろうという長老の言葉に挑むように、娘は自分の命を子に与えることで子を生き延びさせる。こうして、明勾玉を持つ乙女であるはずの命は、男子として北の一族、板東で成長してゆく。
一方、病んだ兄の身の上に胸を痛める皇女苑上は、輝の一族でありながらも、女性である事から疎外感を禁じえない境遇にあった。「私など誰も要らないのだ」という心の渇きを埋めるため、東宮である兄や、次の東宮に立つであろう弟を災いから救おうと、男装して宮廷を抜け出す。
輝として立つべき者としての陰であろう皇女と、闇として立つべき者の息子である少年が出会い、都に蔓延する厄災に対する「救い」の、本当の姿がじょじょに露になってくる。それは、薄紅天女の癒しを求めてやまぬはずであった輝側にとっては、たやすく受け入れ難い現実であった。
それでもなお、いにしえから伝わる明の勾玉を輝かせた者として、蝦夷の巫女の血を引く少年阿高は、物の怪の跳梁する都へ向かう。そして苑上と阿高が心を通わせたとき、神代から伝わる力が見せる結末は?
 これでもまだ十分に「いにしえ物語」の域では有るが、一作目から二作目と、だんだん時代が遡ってくることを読みながら感じられる。それぞれが単独の物語であり、生まれ変わりや、大河ドラマではないけれど、前作の香を風景のどこかに漂わせ、そこはかとなく連作をイメージさせる出来となっている。
個人的な感想としては、三部作にこだわらず、せっかくここまできたのだから歴史に沿って、各時代での「勾玉物語」を書いてくれればいいのにと思わせる作品だ。表紙の少女漫画チックな体裁に照れて敬遠することなく、多くの人に読んでほしい。

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紙の本下町のねこ

2008/11/02 22:44

下町は猫にもやさしい人情の町

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 「下町の路地で、ひっそりと佇むお地蔵さんの側を通りかかったとき、突然、私の前を1匹の子猫がよぎった。思わず後を追いかけると、そこには猫の家族がいた。予期せぬ出会いにうれしくなり、私は、毎日のように、ここへ通った。」
 写真の中に写りこんだ看板や、お品書きに書かれた文字を別にすれば、文章というのはこれだけ。あとはすべて猫たちの写真だけ。なんの説明文もありません。
 のんびりした時間が過ぎてゆくのを感じるような猫たちの日常写真。
 傘をさして歩いてゆく男の子の後ろを、まるで犬のように付いてゆく猫の姿や、サラリーマンのおじさんに「いってらっしゃい」と言っているのか、はたまた「おかえり」と迎えているのか、足元に擦り寄る猫の姿がほほえましくて、下町の人間気質が現れているように思えます。
 この写真を見ていると、近所の子どもも自分の子のように叱れる人たちの住む下町。野良猫にも「おや、久しぶりだね。どこいってたの?」と声をかけてくれそうな人たちが住む町なんだろうなぁと思えてきます。だって、猫たちがほんとうにリラックスして写真に納まっていますから。
 この猫たちは、首輪をしている子は外猫とはいえ飼い猫でしょうし、家族兄弟で写っている、いかにも野良ですという猫たちにしても、ずいぶんと人なれして見えます。たぶん、日ごろから人に食べ物を与えられている猫たちなのではないかしら? とさえ思います。どの子もやせていませんし、こんなに無防備な写真を撮らせるあたり、人との間にも肌で感じるような信頼関係があるのだろうなと思えてきます。

 私の住む北陸では、外猫たちはこんなに安穏に生きていけません。なにより冬を越すのはたいへんです。街角で見かけて側に寄ろうとしただけで逃げてゆく野良猫は、いつか人にひどい目に遭わされたことのある猫なんだろうなと思えます。反対に何度か声をかけるうち、慣れて擦り寄ってくる子猫は、どこかの家で生まれたのに捨てられた猫なんだろうなと思います。人のエゴに傷ついた猫たちだと思うと、口の中に苦いものが広がります。

 この写真集の中の猫たちは、人を恐れもせず、けれど媚もしていません。カメラを向ける関さんを「なぁに?」という顔で見つめ返している子もいれば、まったく気づかない様子で写真に納まっている子もいます。お気に入りはモノクロ写真の一枚、子猫が抱き合って眠る姿は、見ているだけで笑顔がこぼれるような写真です。
 北陸に住む者としては、野良猫の生活はこんなにのんびりしたものではないような認識がありますが、こんな風に生き場所があるなら、外で暮らす猫たちも幸せだろうと思えてくる、幸せな猫たちの日常が収められています。

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なーんだ漫画の原作本かとなめてはいけないのだ!

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この物語を読んで、まず感じたことは、変な話しだと思われるかもしれないが「音が良い」ということだった。
「声に出して読みたいナントカ」ではないけれど、名前や地名がとても相応しい響きがあるのだ。極めて個人的な感想なので、なかなか共感を得ない話なのかもしれないが、主役の少女をはじめとして出てくるどの名も、そして地名や館名まで、名は体を表すよろしく、とてもそれらしい音で耳に心地よく感じた。
あまり裕福そうではないなと思わせる情景描写のなか、これまた正当は美人じゃないんだなと思うような容姿描写で一人の少女の朝が描かれて始まるこの物語は、常道といえば常道ともいえる話の筋を、奇想天外なエッセンスを交えて一気に読ませてくれる。先に音を褒めたが、情景が絵として目に見えるような文章で、色や形が容易に想像される。確かに子どもに受ける内容ではあるけれど、その手の話が好きならば大人でも十分楽しめる出来に仕上がっていると思う。
逆境の中で、それでも自分の周囲に愛をもって立ち向かう少女のこの後を見てみたいと思う気にさせてくれるので、「こんなに楽しいのに、もう終わってしまう」とビビリながら読み進めるジレンマは、けっこう先のことになるだろうと、妙な安心感がもてるあたりも嬉しい限りだ。

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紙の本危機のドラゴン

2009/01/08 14:53

三叉の黄金竜といえば。。。

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危機のドラゴン

 三叉の黄金竜というと、思い浮かぶのは宇宙怪獣キングギドラ(最近なら「ハムナプトラ3」の悪皇帝か?)。ある範囲の年齢層ならお馴染みの、ゴジラの宿敵である。その設定のせいなのかどうか、勝った姿を見た記憶が無い(映画でもやっつけられちゃったし)。「宇宙最強」とかいう触れ込みのわりに、強かった印象が薄い大怪獣なのである。
 もとい、この物語の黄金竜は宇宙怪獣などではない。この星古来の生き残りであり、もしかしたら最後の個体。インテリ系で、どちらかといえば怠け者のような描かれ方だが、正義感は強いし、絶妙なバランス感覚をもつ、いわば高等生物である。しかも意外にも菜食主義。博識で、話好き。自由と平等主義らしい。ただ、たいていは眠っている(うちの猫でもこんなに寝てないだろう)んじゃないのと思うほど寝ているようだ。物語の進行役でもある子どもたちが訪問したときも、いつも眠っており、来客の気配に感付いて目を覚ます。人間との会話好きの彼は、子どもたちに薀蓄深い(?)昔語りをし、話し終わるとまた眠ってしまうのだから、ほんとうによく眠る。
 さて、竜の三つの頭はそれぞれ、緑目・青目・銀目を持つ三兄弟(銀目の頭は女性)であり、普段はひとつの頭しか目覚めないらしい。三頭とも目覚めるのは、緊急時のみなのだとか。
マヒタベルおばさんの秘密の島へ出かけた子どもたちが訪ねてゆくと、緑目、青目、銀目をもつ三つの頭が順に目覚めて話をしてくれるという展開で話は進められてゆく。
 ハナ、ザカリー、サラ・エミリーの姉妹(弟)は、マヒタベルおばさんからファフニエル(三頭竜の名前)への友情とともに、彼を守ることの委任と熱い信頼を受けている。彼らは、おばさんとの約束に忠実であり、ファフニエルへの友情と彼の秘密を守るため、日夜スパイの目と耳を気にし、竜の親友としての証である掌の星(ドラゴンが友情の印に与えてくれる)を誇りにしている。
 ファフニエルの住むドレイクの丘は、マヒダベルおばさんの私有島にあり、おばさんの許可無しには何人たりとも上陸は許可されないのだが、おばさんが若い頃、うっかり心許して友情を交わし、島に招待した女性とその息子に、ファフニエルの秘密を暴かれそうになってしまった。それを戒めとして、けっして他人を島へは上げないのだが、子どもたちが訪れた島に、今また招かれざる訪問者がやってきた。果たして、ドラゴンの秘密は守られるのか・・・と、話は展開する。

 ファフニエルを守ろうと奮闘する子どもたちに、緑目の頭が語ったのは羊飼いのニコ少年の物語。青目の頭が語ったのは騎士見習のガウェインの物語。銀目の頭が語ったのは黒人奴隷のサリーの物語。それらの話は、語られる子どもたち(読む子どもたち)に、なにを伝えようとするのか。

 ちょっと不思議な気分にさせてくれる、昔語りするドラゴンの物語だ。

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紙の本夏の王

2009/08/06 15:33

妖精国を救うのは、いにしえから人の役割である物語

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 夏至祭の役割。二つの世界をつなぐ絆。時空を超え、転生する魂、妖精の取替え子、人とは善悪の尺度が異なる妖精の世界。光と影が入り乱れ、敵と味方も交錯し、ファンタジーの醍醐味が盛りだくさんのケルトの妖精物語です。

 一年前の夏、祖父母の家があるアイルランドで過ごした双子姉妹のローレルとオナー。
 闊達で積極的な姉のローレル。物静かで思考派の妹のオナー。そんな個性の異なるふたりは、お互いにとって大切な存在でした。

 「わたしは考える人、あなたは行動する人ね」とオナーが言ったように、「ふたり合わせて完全」と互いに思っていた姉妹でしたが、オナーが思いもかけない事故で亡くなり、「片割れ」となってしまったローレル。傷心のまま、ある決意を秘めて、一年後再びアイルランドへ戻ってきました。

 二人は仲が悪かったわけではありませんが、気質の違いによる理解不足から、お互いがお互いの幸せを自分の理解の中に引き込もうとする部分で喧嘩になることがありました。
 部屋の中で本ばかり読んでいるオナーを現実の世界に引き出し、ともに現実の世界を楽しみたいローレル。自分が信じる妖精の世界についてローレルに話し、協力を得たいのにそれを口に出せないオナー。それは、超現実主義のローレルが妖精を信じるはずも無く、信じない者に妖精の世界が見えるはずが無いと知っていたからでした。

 そんなオナーの思いは、彼女が亡くなって初めてローレルの知るところとなりました。オナーの日記のいたるところに、不思議な彼らと彼らの世界についての記述がちりばめられており、ある使命を得るためにオナーがローレルの協力をどれほど望んでいたかが記されていたのです。

 不思議な世界を信じきれぬまま、意志の力の強制でとりあえず「信じる」ことに成功した、オナーの日記にあった妖精と出会うことに成功します。その妖精(クラリコーン)の話しから、妖精国へ行こうとして果たせぬまま、今は「中間の場所」で一人眠るオナーに再び会うためと贖罪の念から、オナーの「使命」を代わりに果たすべく旅立ちます。

 元来現実主義のローレルは、妖精と人との「違い」に戸惑い、時に怒りながらも、危険に身をさらしオナーに再会することだけを望んで「使命」に挑みます。

 「死は別世界の生の始まり」

 オナーの事故死は取り消しようの無い現実ではあり、妖精国で起こった悲劇も取り返しのつかない事実ではあったけれど、ひとつの世界での死が、別の世界での誕生であるのなら、それを喜ぶ人は少なくないのかもしれません。
 転生の思想は日本にもあり、それは仏教の教えとしては六道輪廻のような戒めとして残ったりもしています。いろんな解釈の仕方により違いがあることは事実ですが、根幹に流れる思想は良く似ているのではないかと感じました。「死後の世界は恐ろしい世界なわけでは無い」けれど、「美しい夢の世界だとばかりは限らない」。なんともジレンマを禁じえない思想でありながら、魅力的な話だと感じてしまいます。

 「一つの世界で起きたことは、もう一つの世界に反映せずにはおらぬ」夏の王の言葉の通りなら、並行する「もう一つの世界」の存在を信じることの出来ない者が増えることは、知らぬうちに自分たちの世界を壊すことになってゆくのでしょう。

 「妖精国とは、美しい夢の世界なぞではない。夜ごとの悪夢の世界だ」

 夏の王の言葉に、我を忘れて立ちすくむローレルに「この世の苦しみで、希望を殺すな」という黄金のワシ、エーリ族の王ライーンの声が届きます。再び使命を果たそうと動き出すローレルの潜在的な勇気と、多くの味方の犠牲があってついに使命は完遂されるのですが、現実味の薄い世界での戦いでありながらも、散ってゆく命には辛い気持ちになりました。

 オナーに会うための厳しい道のりは、ローレルの「自分探し」の試練だったのかもしれません。物語のカギとなる、幼馴染の少年イアンとの過去と現在、そして将来。とんでもない大騒動が、人の世界ではほんの数日の出来事らしいあたりも、異世界での冒険物語にありがちなパターンではありますが、それも二つの世界の時間軸の違いと思えば、すんなりと納得できる気がします。

 ローレルの帰還とともに、読者も人の世に帰ってきたような気分を味わえる、大人でも楽しめるファンタジーです。

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紙の本妖精王の月

2009/03/10 16:02

フェアリーランドへようこそ

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 ファンタジーを楽しむには、良くも悪くも童心が必要である。どちらかといえば、日本人にとって‘妖精’という生き物は身近ではない。私など、この‘妖精’という言葉から真っ先に連想される姿といえば、ディズニーのティンカーベルである。
 本書に描かれるのは、系譜でいえば王道のひとつフェアリーランドの物語である。先に、妖精と言えばティンカーベルを連想すると書いたが、フェアリーランドとくると、ドワーフやレプラコーンのように、あまり美しいとは言えない種族もじわじわ頭の中にわいてくる。
 宮崎駿の「千と千尋…」が海外で賞をとったとき、「あの世界観が外国人にわかるのか?」という人たちもいたようだが、あの奇妙な日本の神さまたちと、アイルランドの妖精たちとが妙に似た存在に思えていた私としては、なんとなく「同じようなもんじゃないの?」と思っていたことを思い出す。そう、あの映画に出てくる奇妙な、そしてたくさんの神様たち。湯屋に憩いにやってきて、ドンちゃん騒ぎをしている神様たちは、宴で踊り・飲み・食う妖精たちの様子と良く似ているように思う。
 どちらも、今はむかし。。。遠い昨日には、身近にあった世界、失われてゆく懐かしい異世界の記憶なのではないだろうか。物語の中に出てくる言葉が、そうとは知らぬ現在の人々が普通につかう地名になっていたりするのが読んでいて楽しかった。
 たとえば、次の目的地を示す歌詞の中に出てきた「シーガラ」。その地を探すが地図にはなく、酒場の酔っ払いに教えられた「シーガラ=シー・ゲイル=笑う妖精たちのふるさと(古きアイルランドとともに死んで埋葬されてしまった地)」とつながったくだりは、「失われた土地」「消え行く記憶」という、ちょっと胸が痛むような感慨を感じた。
 人間は、古の約束事やあるべき姿を忘れ、自分勝手に暴走することで、古の友を失ってきたという人の心の底の感慨は、日本でもアイルランドでもどうやら同じらしい。
 単純な私は、妖精探訪の旅に出たふたりの従兄弟のうち、細身で長身の色白美人を想像させるフィンダファーが妖精王に花嫁としてさらわれ、太目で背の低いグウェンが取り残されたとき、「並んで寝てたのに、美人の方だけさらってゆくなんて失礼な話だわ」と憤慨してみたりもしていたのだが、どうやらそうでもないらしいことが徐々にわかり、関係ないながら矛先を収めた。
 現実に立ち戻って考えると、この結末の後が大変なんじゃないの? と、要らぬ心配もしてしまうのだけれど、人はフェアリーランドに夢を与えられて育ち、フェアリーランドがなくなれば夢や希望がなくなってしまうから、フェアリーランドを救うために命をかける7人(正しくは6人と1妖精王)の決断と勇気には、拍手喝采だった。
 つねづね、壮大なファンタジーを紡ぐ作者たちは、いったいどうやってこのような荒唐無稽の話を構築してゆくのだろうと不思議に思っていた。それが、この本にあるように、フェアリーランドに行ってもどってきた人間たちの創造物(体験記?)であるとしたならと考えて、妙に納得させられるものがあった。
 フェアリーランドを訪れた者、そして彼らに愛されて7年の年月、彼らと暮らした人間たちは、自分が見てきたこと、体験してきたことを物語として世に知らせているのだと思うと、不思議なくらい壮大なファンタジーを作り上げた作者たちのことが理解できた気がした。彼らは、自分たちが見てきた世界を物語として綴り、得た知識を‘伝承’として人伝えに残してきたのだろうか。
 フェアリーランドに招待されるすべもない私は、彼らの話を読むことで、さまざまなフェアリーランドを旅したいと切に願う。

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ドジさまワールド、みやびな物語

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高倉健が、何を演じても高倉健であるように、そして木村拓和がそうであるように、木原敏江のキャラクターには基本キャラがある。多くのファンは、その基本キャラのファンである場合が多いように思う。
多少の造形に変化はあるものの、「あの人が演じる○○」として読み手側が楽しめるのは、映画のファンである前に役者のファンという構図によく似ている。
そして木原敏江という人の作品は、なんというか品が良い。それは、娼婦を描こうと、殺人鬼を描こうと、根本的には登場人物がみな良い人なのだ。だから哀しい物語を読んでも後味が良い。私がこの人の作品が好きな所以である。
さて、この作品も類に漏れることなく、ファンなら演じ手の基本キャラは人目でわかる。というか、基本キャラはそう多くないので、わからないはずがない。極端に言えば二人なのだから。個人的には久しぶりの木原作品だったが、作風といい、キャラの行動といい、とても懐かしかった。
耳慣れた和歌の類が多く出てくるが、曲解では決してないが、一種独特の表現がされるので、新鮮な発見がある。私ごときがこう言うと恐れ多いが、木原敏江には万葉歌人なみの力量があるのだろうとさえ思える。漫画本とはいえ、「みやび」とか「もののあわれ」とか、そこはかとなく漂う、風雅な作品であると思う。

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