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ばーさんのレビュー一覧

投稿者:ばー

66 件中 16 件~ 30 件を表示

紙の本となり町戦争

2007/12/21 02:54

遠く離れた、非リアルとしての戦争。

4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 三崎亜記は、本作で第17回小説すばる新人賞を受賞。福岡出身の新進作家。

 ハルキ臭い。
 この人ハルキ・チルドレンだったろうか。私はハルキストなので、十分すいすいと読めるんですけども。【失うもの】、【ねえ、香西さん】、【深淵】、おまけに【井戸】。巻き込まれ型なのも共通してますね。
 書かれている文章だけだとハルキっぽいですが、内容はスリムでハルキより分かりやすい。テーマが具体的。 つまりは、「何も傷ついていない人間」が、「傷ついている人間」に対して何ができるか、ということ。これは、「何かを体験、経験していない人間」は「その何かを人間している人間」を共感、理解できるか、ということとしても置換される。大きいですが、漠然としたテーマでもありましょう。
 「戦争」は具体的でもあるが、抽象的なメタファーにもなり得る。わざとぼかしている(死人が主人公の前に直接的に現れない、戦争の描写が少ない、など)のは、「書かない」ことでより逆説的にそれを強調することにもなり得る。また、抽象的にする事で、具体的に出来ない、漠然としたおどろおどろしさ、その恐怖を描くことにも成功しているのでは。
 【絶対悪でもない、美化された形でもない、まったく違う形としての戦争】
 戦争の第三の道。
 それは、戦争すら業務の一つとして捉えているように、システム社会の比喩としても描かれる。戦争マニアのおかっぱ頭や、香西さんの弟のように、戦争は感情を表出させるものではなく、事務的な物として描かれている。
 それは、戦争を新しい視点で捉えなおす、という事にもつながるが、その裏に潜むのは、死生観を見つめなおすことでもある。

 三崎亜記は、「非リアルな戦争」を通して、死生観をも新しく見直そうとしている。(この部分も村上に共通していると言えば共通している。【死は生の対極ではなく、その一部として存在している】)
 「死の周辺にいる(いた)者」と、「死の周辺にいない(いなかった)者」とは絶対的な隔たりがあり、感情的になりがちなその事実を、消化(昇華)するのではなく、その存在をただ受け止めるしか無いという諦念にも似た意識。
 【たとえどんなに眼を見開いても、見えないもの。それは「なかったこと」なのだ。】
 たとえ自分が戦争に受動的に加わっていたとはいえ、人を殺したという事実が目の前に無いのであれば、それは「なかったこと」、つまり「殺していない」ということ。しかし、その事実を【どうでもよい】とし、とにかくそれでも生きていかなければならない、たくさんの人の死の上に自分の生があったとしても、それでも生きなければならない。これは一種の「汚れ」の意識ではないかとも窺える。だからこれは「逃げ」でも無いし、「避け」でも無い。ただ、そこに(眼には見えないけれど)自分と関わる死は確実に存在しているということへの自覚。
 「眼に見えない戦争」を、「始まっているのか、終わっているのか分からない戦争」を経験した結果、かけがえの無い人を戦争で失くしたという事実によって、やっと主人公も戦争や痛みを理解する事が出来た。
 まず傷つくことからしか、けじめをつける事もできない。
 
 何かを理解するには何かを失わなければならないという事実を、相対的を越えて絶対的に表現したことはなによりも良かったと思う。

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紙の本幸福な生活

2011/09/04 15:41

スパイスの効いたショート・ムービー

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

百田尚樹の短編小説集。

ストーリーテリングの巧さが光る著者の初短編集。

最後の一行を読むには必ずページをめくらないといけないという構成になっており、期待通りの読みやすさも重なることで、ちょっと黒いスパイスの効いたショート・ムービーを連続で見せられている気になる。

また、ページをめくるには一種の怖いもの見たさが重なり、読書欲が刺激される一冊となっている。

良い意味でも悪い意味でもTV関係出身の人なので、こういう短編を書くのは得意なのかもしれない。

ラスト1行でスパンと物語の感動をさらってぶつけてくるのはいくつかあるが、中には、そのラスト1行が意味のわからないものもあった。

その読みやすさ故に、内容も短編集にしては若干説明過多のように感じる作品もいくつかあった。

説明過多により、ラスト1行を読まなくても良いレベルにしてしまっているのはいささか不味いのでは。

だが、全体的にひたすら読みやすく、ここまで角を無くした小説にするのはそれだけですごい。

お勧めは、「夜の訪問者」。

「かわいいのが取り柄」の妻を持つ男のもとに、浮気相手が訪問してくる。
突然の夜の訪問に男は驚くも、その浮気相手から自分の妻に関するある考察が語られて…。

抜群に怖い。
妻ののほほんとしたイメージからラスト1行へのギャップがどかんとクる。

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紙の本レヴォリューションNo.3

2011/08/28 22:58

みんなで叫ぼう!「ギョウザ大好き!」

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

おすすめ青春小説と聞いており、私は青春小説大好きなので読んだ。

つくづく思ったが、こういう本を学生時代に読んでいなかったことは、数ある不幸の中の一つでしょう。

落ちこぼれ高校に通う「ゾンビーズ」と呼ばれるお馬鹿だがアツイ高校生達が起こす事件を描いた物語。
一言で言っても二言で言ってもお馬鹿には変わりない愛すべきバカたちが起こす事件が面白くないわけがない。
常識もルールも彼らには通じない。
くそったれな世の中を変えるために駆け回る彼らを本当は誰も笑えない。

とても元気が出る。

「在日」、「ハーフ」等のガジェットもいい形で物語に幅を持たせている。
若干村上春樹の影響受けてるか?
「異教徒たちの踊り」の結末の一言、この本のラストを飾る一言も、そのけらいがあるけれど、それにしたっていい感じに結んでるよなあ。

「GO」の窪塚の印象が強すぎて、ドラッグ・暴力・セックスのイメージが先行していたが、作品によるとは思うが、案外そうでもなかった。
なんというか、突き抜けた明るさが物語全体にある。

私自身は、こういう奴らを遠巻きに見て、そのおこぼれに預かろうとする卑小で卑怯な人間の側に類するのだけれど、この主人公のキャラクターには共感できた。

なまじっか、周りにいるのが、意外とすごい奴ばっかなので、そういう意味では、こいつらも一種のエリートなのかもしれん、などと思った。

なんにせよ、

「ギョウザ大好き!」

である。

シンプルは強い。

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論理力育成はすべてにつながる

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 有名予備校講師が書いた独自の読書術についての本。
 「出口汪」と聞いてピンと来る人は、高校時代著者の本のお世話になった人でしょう。
 『システム現代文シリーズ』、『出口の現代文レベル別問題集シリーズ』、『源氏物語が面白いほどわかる本』等々。かくいう私もお世話になった一人である。
 そんな著者が書いた「読書術」についての本、ということで、読んでみた。
 まず、(他にもあるかもしれないけれど)予備校講師が考える「読書術」とはどういうものか気になったから。人を教える立場の人間が考える読書術に興味があった。イチビジネスマンが書いた「読書術」が多い中、珍しいと思った。
 と書いたが、一番興味を引いたのは、ぱらっとめくったページに文学について書かれたページがあったからだ。「文学についての読書術、ひいては速読だったら超いいじゃん!」ってなもんである。
 正直「頭がよくなる」にはそれほど惹かれなかった私です。

 表題にもあるように、著者はこの本の中で「頭がよくなる」読書術について語っている。
 筆者の実体験である講師としての経験から、読書の為には、ひいては「頭がよくなる」には、論理力を鍛えることが大事であると説く。
繰り返し出てくる「頭がよくなる」とはつまり、言葉を鍛え、論理力を鍛えることで、自分の頭の中に、明晰な思考システムを作りあげることである。
読書を通して必要な情報を取捨選択し、自分のものにするには、日本語を使いこなし、その脳内回路を万人それぞれで育成することが必要である、と筆者は述べている。
 この、日本語の正しい習得を通じた論理力の育成を頭の中で繰り返せば、読書が自然と熟読・速読にも繋がるというわけだ。
 これらの出口式の読書術の延長線上には、文学書も枠内に組み込まれており、エンタメではなく、文学(本書では森鴎外の『舞姫』について触れている)を正しく読みこなせば、言い換えれば、文学書のイメージを正しく頭の中で想起できれば、それは時代を越えた同一性を獲得することであり、「頭がよくなる読書術」の非常に有効な練習になると出口は説いている。

 概ね賛同でき、分かりやすく書かれていることもあり、読みやすかった。いささか筆者の体験談が多い気もしたが、習うより慣れろ、論旨を理解するよりも実体験を理解した方が早い、という出口の意図であろう。この方法に慣れたら便利であろうなあ、と感じた。
 具体的な頭の育成方法(パターン化された言葉の仕組みの理解)も説明されており、理解がすすむ。

 もしも、速読術という観点から本を選ぶのであれば、この本は、速読術の中では、仕組みを理解することを重視する方の範疇に入る。視点の追い方などの、読み方重視の方ではない。読者である我々は、その点を理解した上で読めばいいと思う。
 高望みすると、各章毎のまとめがつけてあればもっと良かったと思う。

 お楽しみの文学の読書法については、あくまでも「出口さんが考える文学の読み方」という程度の理解でいい。やっぱり文学書の統一的な読書術、速読術を作るのはいささか難しい、と私は改めて感じた。

 

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紙の本人形館の殺人

2008/08/04 01:19

館シリーズ異色作。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 綾辻行人の館シリーズ第四作目。
 今回の舞台は、今までの人里離れたような場所ではなく、古都、京都。だからと言って綾辻色が抜けたわけではない。綾辻らしいどんでん返しは健在である。
 と言いつつも、やはりこの作品は異色の分野に入るのではないだろうか。
 作品を一言で言い表すと、「一人称サイコミステリ」(多分)。館トリックと「思しき」ものもあるし、島田も「出てきてる」し、中村青治作と「思しき」館も出てきてはいるのだが…。ご覧になってください、としか言いようがないのだけれど、違った意味で色々驚かされる。一人称が「ふんだんに」使われている時点で気付かなくてはいけないのかな?

 物語は、島田の旧友である飛龍想一が京都に帰ってくる場面から始まる。想一は父が遺した館(後に「人形館」と「命名」される)に母と、館に住む下宿人との共同生活を始めるのだが、次々と怪異が起こる。そもそも館のそこかしこに奇妙な形の人形が設置されている時点で気の弱い私なら精神を病んでしまいそうだが、そこに怪異だ。人形が血(実は血じゃないけど)まみれになってたり、家が何者かによって火つけられたり。おまけに近くでは通り魔事件が勃発する。島田はまだ来んのか、とやきもきした。

 どんでん返しの後に思ったことは、「ああ、上手く館シリーズという特徴を使ったなあ」ということだ。
 『十角館の殺人』から読んでいる人なら間違いなくひっかかってしまうトリック。ただ、あの事実にはびびる。まさか、である。というか、一人称をこういう風に作者によって使われてしまうと、正直なんとも。粗はあるし、そこが抜け目になるのだけれど…。うーん、綾辻さん、楽しいだろうな、という感じである。

 舞台が京都らしく、作品そのものは意外とじわじわ怪談調。じっくり、ねっとり来る怖さ。
 だけども一方で、なんだか少しすかされたような気もする。綾辻といったら館トリック、と思っている人は不満足になってしまうかも。殺人事件=ミステリ、というカテゴリには入りにくいだろう。
 綾辻初めにこれを読むのはおすすめしません。館シリーズを通し読みしてこそ、この作品に隠された本当の驚きに出会えます。
 そういう意味では、この作品自体が館シリーズ全体からの隠し要素になっているような気もします。

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紙の本水車館の殺人

2008/07/20 11:54

堪能・館トリック

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 綾辻行人、館シリーズ第二作目。
 今回の舞台は、山間の館、「水車館」。前回は孤島、今回は山奥の西洋風の館。おまけにゴム仮面をつけた車椅子の主人に幽閉された薄幸の美少女、ときたもんです。もちろん、建築者は中村青司。いわくつきの館にいわくつきの登場人物、事件が起きないわけがない。

 探偵役は島田潔。ひょんな事から(っても、どっか行く途中で「昨年の事件を思い出したから」と言って、人ん家の特殊な会合に首突っ込むのはちょっとハチャメチャ過ぎやしない?)「水車館」での殺人に首を突っ込みます。「人が死んでいるのを見るのが初めて」というくだりが出てきますが、確かに「十角館」では本土で推理してただけだなあ、なんて思う。

 物語は、「現在」と「過去」に分かれて話が進む構成になっている。ある程度推理小説を読んでる人なら気付くかもしれないが、ここから(目次から)仕掛けが始まっていることになる。そして、人称を使った叙述トリックも使われてます。いくらなんでも怪しすぎだからなあ…。

 こちらをすんなりと現実に戻させない、良い意味での「嫌な感じ」のラスト。藤沼一成の幻の作品『幻影群像』が見つかるのだが、そこに書かれていたのは…。皆さんある程度予想してラストに挑んだと思いますが、こういう終わり方は不思議な感慨を抱かせるのでは。推理という、現代的な、人間の理知の勝利、精密な論理の勝利、なのではなく、あくまでもそれらを上回る超常に勝たせている。推理小説という枠組みを描きながらも、「推理なんて本当はたいしたことないんだ」なんてちらっと思わせる。すかっとしない、良いラストだと思う。ずっと小説の中に迷わせるような。

 今回の『水車館の殺人』は、古典的な舞台、典型的なガジェットを使いながら、それでも目新しい、新鮮な物に見えるのは、やっぱり「館」の力が大きい。逆に、どのように使い古されていようが、いかにそれを洗練させていくか、がよく分かる作品だったと思う。なんというか、綾辻が描く「館」自体の仕掛けが楽しみで仕方ない。どんなに論理を組み立てようが、館のトリックでぶち壊し、又は、もう推理の時点で「この館には秘密通路がある!」「どこかに秘密の抜け口がある!」なんて島田が言っちゃってるんですもの。

 綾辻作品が好かれるのは、「館」の魅力があることはさておき、論理的な推理でありながらどこかにある隙(「館」トリック)が大きく推理を超えてしまう、一種のはちゃめちゃ振りなんじゃないかなー、なんて私は思います。

 あと、解説で有栖川有栖が綾辻に「新本格の呪い」をかけてるのでそちらもチェックしてください。戦友とも言える有栖川の言葉は秀逸。

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紙の本明け方の猫

2008/06/02 21:28

緩と急。静と動。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 保坂和志の作品は、独特の雰囲気を持っている。ゆっくりと時間が流れていくような、何も劇的なことなど起こらない、静かな作品が多い。
 だが、今作『明け方の猫』に収録されている、表題作「明け方の猫」と、「揺籃」は、私が知っている今までの保坂の小説とはちょっと違う。何も起こらないという良さを哲学的に表現するだけではなく、何かを起こそうと実験的に小説を書いているように思える。

 『明け方の猫』は、保坂作品ではおなじみの、猫が主人公として登場する。明け方見た夢の中で自分が猫になっていた、これだけの話だ。何かをしなくてはならない、というわけでもなく、ただ猫になった「彼」が歩いていく、それだけの話だ。
 作中ではメタ的に、何度も何度も「これは夢だ」ということに彼は気付く。そして、それについて考える。ただ考える。夢の本質的な意味とは何か。夢の中で「これは夢だ」と気付いているのにも関わらず、「これは夢だ」と証明することが果たしてできるだろうか。そもそも、猫になっている「彼」を「彼」と読んでいる存在は誰なのか。
 もちろん、猫のミイの話など、物語を牽引する役割を持ち「そうな」ものはいくらか出てくる。しかし、この小説の視点はそこではなく、あくまでも、この夢というもの自体、その夢を通した「私」自身である。
 保坂は、物語を物語っぽく活用させることなく、ただ物語は外枠として存在しているのであり、最も核心に迫りたいものは、自分である、ということを丁寧に表現しているように思う。
 『プレーンソング』などの作品と違うのはそこであり、もっと露骨に「私とは何か」という命題に答えよう(というよりはむしろ、その命題自体をいつまでも考えていたいようにも感じる。答えはもしかしたら求めていないのかもしれない)としている。「夢」というあやふやな物の中で、「私」に迫る、というのは、なんだか興味深い。

 一転『揺籃』は、ひどく前衛的で、イイ感じに純文学になっている。保坂の習作時代の作品、ということだが、保坂の荒削りの部分が窺えて面白い。ガツンガツンとぶつかってくる純文学のワケワカラン香り。保坂は何かの意味を込めているのかもしれない。解読の価値があるかもしれない。私はどうしようもなくこの感じが好きだ。なんだかつげ義春みたいだなあ、と感じた。
 話の主旨、というと言いにくい。最初は漠然とした不安を払うために、怪我のことを書こうとしていたが、終盤になると、ひたすら「姉さん」を追う男の話になる。文章の脈絡も崩壊し、「姉さん」がどの「姉さん」なのか、果たして本当に「姉さん」がいるのか、それすらも曖昧になる。どこか別の空間で執着したトレーナーは顔に巻きつき、怪我した頭からは脳汁がこぼれ出す。街はすでに街では無くなり、砂漠と化す。
 この小説のような物語に何か意味を求めるのがひどく間違った行為のように思えて仕方なくなる。『揺籃』はひたすら「感じろ」と私を責める。
 
 保坂の作風の変化(と言える程のものかは分からないが)を楽しめる一冊であるし、猫好きの人は読んでみると楽しい(猫うんちく、というか猫の描写が愛にあふれている)だろう。どちらも短編と中篇の境目のような作品で、どちらかというと他の作品に比べると、断片的で補足的なポジションを占めるが、保坂好きなら読んでおいて損はない。
 

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紙の本ア・ルース・ボーイ

2008/05/19 23:15

少年は飛び出した。

3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 三島由紀夫賞受賞の本作は、一見すると、どこにでもありそうな「少年から大人へ」を描いた、ありふれたストーリーのようだ。

 高校に行ったがいいが、馴染めず、はぐれ、そしてドロップアウトする主人公。物語は、母との確執や、幼年時代の暴行の過去を挟みつつも、自分ではない他の誰かの子どもを身ごもった元彼女と主人公の新しい生活をありありと映し出す。

 与えられた居場所を是とせず、周りの環境全てに反感を抱き、何か別の物を探し、それが自立だと考えさせる物語(直接的にそうと表現しない物語もある)。それは思春期と合わせ業で物語として成立しているものが多い。

 そして、その中の多くの物語の主人公は、挫折している。『ライ麦』のホールデンのように、大人ぶった主人公が、オトナの世界に敗れ、実は与えられた環境こそが一番の安全地帯であり、自分は井の中の蛙だったことを思い知る。
 そーいうのが多い。実に多い。別にとやかく言うわけではないが、今作のような作品に出会うと、より一層この作品の特色が浮かび上がる。

 この作品では、主人公は高校に戻らない。家庭との不仲もそのままだ。彼女とも別れてしまう。にも関わらず、主人公は、高校を辞めてついた職業のまま、ラストを迎えている。もしも成長譚だと言うのなら、変わったのは、主人公だけだ。それも、世間の世知辛さを体験して元に戻ったのではない。世間を体験してもなお、世間の方がいいと主人公は判じたのだ。そこがこの作品の特色であり、ものすごくポジティブな世界の捉え方だと思う。
 この特色は解説で山田詠美(そのものズバリの人選であると思う。ものすごく説得力がある文章になっている)が述べているので、それほど新しい意見ではないと思うが、やはり言いたい。二番煎じになってしまうが、この点が、今作をありふれた作品にしていない点だと思う。

 青臭い、と判じる人はいるだろう。だけど、そんな人にこそ、この特色を感じとってもらいたいと思う。

(ものすごく余談であるが、やはりセックスというのは、自己の成長を捉える意味で扱われやすいのであろうか。つまりホールデンがあの時セックスしていれば、物語の結末も変わったのかもしれないなあ、と暴論的に思った)

 物語ラスト。主人公は、かつての母校の照明点検をする傍ら、卒業するであったろう自分を思い浮かべる。主人公にとってみれば、もはや高校卒業(かつての自分がいた環境)は想像の中で済む問題なのであり、それよりも、職業に就いて「アイ・アム・ア・ルース・ボーイ」と自信をもって宣言する事が現実味を帯びているのであろう。

「アイ・アム・ア・ルース・ボーイ」

 この主人公の将来を案じる気持ちにさせないのは、この終わりの文句があるのだからであり、この言葉の為にこの作品全てが作られると言っても過言ではないだろう。


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紙の本真っ暗な夜明け

2008/03/07 21:18

いかにして論理性を語り得るのか?

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 風変わりな作品を数多く輩出しているメフィスト賞の中では、今作『真っ暗な夜明け』は、他の作品と比べると幾分大人しい印象を受ける。

 主人公、氷川透がかつて所属していた大学のバンドが同窓会を開いた。そして起こる殺人。現場にいないはずの被害者が、駅のトイレで撲殺されたのだ。容疑者は、当時駅にいたバンドのメンバー全員。推理小説家志望の氷川は、メンバーの容疑を晴らす為にも、推理を展開していく。

 変人・奇人が登場するのでもなく、派手なトリックが炸裂しているのでもない。

 この作品で繰り返し述べられているのは、「どこまで本格であり続けることができるか」、「どこまで論理的に推理を展開できるか」ということであり、言い換えれば、「純粋に[本格]という手法だけを使った場合、物語として破綻をきたさない限界はどこか」ということであり、「作者だけでなく、読者も視野に捉えた場合、フェアプレイとしての論理性を維持したままどこまで物語を拡げることができるか」なのであると思う。

 ものすごく読者に優しいし、ただひたすら「論理性だけで物語を作る」という精神は、愚直、という言葉さえこちらに抱かせるようだ。
いくつかの作品には「本格」という言葉を謳いながらも、どこか推理以外の要素で物語を面白くさえようとする趣が見受けられる。だが、この作品は(トピックの一つに「音楽」があるとはいえども)、本当に論理性、推理、つまりはミステリのことしか語られていない。他の要素を挟み込まず、ミステリとしての手法を煮詰めている印象を感じる。推理だけがあり、推理だけがある、こんな感じなのだ。

 そういう意味では、フィクションとしてのミステリを踏まえて、「もしも現実世界でミステリの舞台に近いことが起こったらどうなるか」(「正常な」日常の世界に、「異常な」ミステリの世界が介入することは可能か。物語として整合性を保ったままどこまで、両者の接触を描くことができるか)に触れようとしているのは当然とは言え、面白く感じた。

 主人公が「氷川透」であるのも、ちらと「設定」、「登場人物」などの言葉が出てくるのも、「小説としてのミステリを、小説の中で語る」実験の一つに見えるし、なんだか、そう、まるで「小説の登場人物が、[自分達は小説の登場人物なのである]ということに気づいている」ようであり、やっぱり、「小説(殺人事件が起こる世界)」と「現実(我々がこの小説を読む世界)」を意図的にごっちゃにしようとしているように感じられる。

 そして、私にとってその実験は、とてもエキサイティングなことであり、小説の本線である謎解きよりも、この「小説全体にかかる仕掛け(のようなもの)」の方が気になって仕方なかった(結局はその仕組みには触れず、「本当に」純粋なミステリで終わっちゃったんだけども)。

 そうであっても、全体を通しての「ミステリ一途」な所が好意的に見えたし、本線の方のトリックが、本格であるが故に、論理的にあるが故に科せられた「普通さ」を持ってしまっていてもそれはそれでいいのだ。動機を完全に無視し、「犯人であろう人はあいつだから」という理由で犯人が指摘されても、そしてそれを受け入れた犯人の真の動機がうやむやにされていようが、たぶん、きっと、いいのだ(叙述のトリック…うーん、なんだかなぁ)。

 著者が行った「ミステリでの論理性の一点追求」は成功している。そこに魅力を感じるかどうか、その物語を面白いと感じるのかどうか。「読者次第」という相対性に優位を譲るしかないのである。

 

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ビブリアシリーズ3巻目。様々な絆をめぐる物語。

14人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ビブリア古書堂シリーズ第3巻。今回も前巻から引き続き、サブタイトルに匂わされていますが、栞子さんとそのお母さんの話。しばらくこのテーマが続くのかな。

 収録「作品」は、『王様の耳はロバの耳』、『たんぽぽ娘(ロバート・F・ヤング)』、『タヌキとワニと犬が出てくる、絵本みたいなの』、『春と修羅(宮澤賢治)』の4つ。3作目の『タヌキと~』はタイトルそのままではありません。その本が出てくる話のテーマが本探しですので、ここでは省略します。

 五浦さんがアルバイトを辞めてしまうんじゃないかと未だひやひやしているのですが、今回ではまだ辞めていません。一度前科があるから、というのも理由の一つですが、何より、栞子さんのその性格の特異性がいつ五浦さんに襲いかかるか、これが怖いです。今回もちらっとそういう疑いが出てきますが、上手く解消されています。お互いの関係性はますます親密になってきていますが(今回は二人で呑みに行っています)、古本+ラブコメのラノベなので、そういうものには別れ、つまりはすったもんだがつきもので、なんだかいやーなすったもんだがありそうで、それにはやっぱり栞子さんの残酷さが原因になっちゃうんじゃないか、と愚考する私。いやほんと、永遠に続いてほしい程好きなシリーズなので、そこはあれ、頼むよ、五浦さん、栞子さん。

 漫画の『金魚屋古書店』もそうだけど、常連さんが頻繁に話に絡んでくるのは良いですね。古本を通して人と人との繋がりが深まり、拡がっていく。これは、ある意味読書という個人的な行為とは真逆の現象であり、それでいて読書と関連性が強い現象であり、読書人誰もの、願いなのではないでしょうか。そういうものを描写してくれる作品が一つでも顕れてくれることは、うれしい限りです。

 栞子さんのお母さんの謎が少しずつ解き明かされていく今作ですが、相変わらず本探偵・栞子さんの頭のキレは抜群です。繋ぐ絆、再生した絆、切れない絆、大切な絆、いろいろな絆が出てきます。望むらくは、栞子さんとお母さんの絆の復活を祈るばかりです。

 残念なことは、今回の3つの作品、どれも読んだことが無い…。いかんなあ、と思いつつ、いやだからこそか、この中で語られていることが有名な事実なのかどうかも分からない。無知な私にしてみれば、作者さん、勉強熱心だなあ、と頭が下がるばかりでございます。

 次巻も期待。次は冬頃で、収録作品も決まっているそうですよ。楽しみですね。

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イチ若者として。

8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 新書ブームだった頃に大いに売れた本の一つ。
 私はどうにもこういう社会系に疎いので未読であったが、100円だったので読んでみた。的確ではない書評、しかも時期を逸した書評になるので、若干の今更感を自分でも感じるが。

 この本のテーマは、「若年層の離職」というよりも、「年功序列制度」なのだろう。
 筆者は、年功序列制度が既に崩壊し、それによる不利益、負担が若者に負の影響を与えていると説く。成果主義を導入しても抜本的に変わっていないので、非正規雇用の増員、新卒採用減などを繰り返しても、負の連鎖は止まらない。
 そこで、我々は現在の昭和的価値観を見つめなおし、自分の本当の仕事の動機を見つけてはどうか、と婉曲的に最後を締めている。筆者は年功序列制度を完全否定するわけではない、と文中で断っているが、幾分操作的な文章である感は否めない。「仕事は根性と気合だ」的な体育会系のビジネス書とは真反対である。
 もとより上記のような主旨であるので、根源的な原因である不況への視点はほぼ無い。が、今の状態を大雑把に再確認し、更に若年層の離職率という卑近なタームへと目をつける点は優れていると思う。私のような門外漢で非常識的な人間にとっては、「なるほどね」と納得する場面が多かった。

 じゃあ実際はどうなのだろうか。
 私は80年代生まれで、徐々に景気が回復していると「された」時に就職した公務員だ。
 同期は前後の年を比べると多く、公務員を志望していた学生も多かったように思う。
 また、私の友人も公務員が多く、彼らの性格、私の交友関係にもよるが、民間に就職した友人よりも公務員の彼らの方が苦労が絶えないようだ。まああまり役には立たない情報だな、これは。
 入社(もしくは入庁)して2・3年足らずだから当たり前かもしれないが(というのが昭和的価値観なのだろうか)、彼らのモチベーションは低い。「仕事だから」という理由で毎日ひいひい言いながら、欝になりかけながらも職務に専念している。
 既に転職した人間もいるにはいるが、ごく少数のようだ。
 彼等(私も含めた)の願いは、「仕事をもっと早くできるようになりたい」、「今の仕事が嫌だ」、「人間関係が嫌だ」など。少なくとも本書で筆者が書いているようなことは誰も言っていない(腹の中は分からないが)。少なくとも、「仕事は嫌だけどやんなきゃならん」である。
 職場の上司も概ね、「仕事はしたくない」派である。ケースバイケースに偏るので恐縮だが、「この仕事は天職だ」という人間は本当に少ないように思える。

 これらの事実から何が見えてくるのか、私には分からない。
 
 ただ、私自身は筆者の主張に概ね賛成だ。だからこの本を読んだ。そして、満足した。
 
 自分をどの程度のレベルに持っていくか、また、その努力をするか。そして、自分がどれだけのレベルであるか「自分で」分かるか。個々人の問題とはいえ、皆が皆そうではないとはいえ、不断の努力は必要だと私は感じる。

 筆者の言うとおり、年功序列システムはもう限界なのだろう。だが、それを立て直す地力が、国にも、人にもあるのだろうか。普通の若者の一人である私は疑問に思う。

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紙の本オタク学入門

2008/05/24 22:55

オタクになるには?

7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 オタクブーム(と言っていいのかもよく分からないが)は最近下火になってきた感がある。
 ちょっと前、ほんのちょっと前、エヴァとか同人とかラノベとか2ちゃんねるとか。その他もろもろ。そういうのが折り重なって、「最近の若者はすっかりオタクだ」っていう声もあった(気がする)。私個人の見解から言えば、
 もう既に「オタク」という言葉が使えないほど、皆オタクになっちゃってるんじゃなかろーか。
 アニメ、漫画などの(なんて言うか、「そーいう感じのもの」)に「特に」詳しい者が、オタクではない。すでに。「オタク」は「何か」に「特に」詳しい者であり、その対象は特に限定されてない(はずだ。多分)。
 過去にオタクだけに許されていた諸々はもはや世の中にばら撒かれ、消費されている。

 本著は、「過去」のオタクの第一人者、岡田斗司夫のリニューアルされた文庫本である。
 岡田というと、ダイエットですっかり有名になったようだが、やっぱりホームグラウンドはオタク的文化である。オタクとはどういうものかを一般的に世に広しめたのも多分この人だろう(っても、あんま私もここらへんの人達は詳しくないのですが)。

 まさに「オタクのなり方」とでも言うべき本著であるが、やはり、今の時代に読むと、いかんせん時代を感じさせるラインナップである。その一方で、オタク的な分析法、その技術、その特異性などは今の時代にも通じる、むしろ、昔のオタクを通して今のオタクを見ることで、「オタク的」だと思われてきた事柄がくっきりと説明されているような気がする。さらにその一方で思うことは、やっぱり昔のオタクはなんていうかかっこいいような…萌え系の近年のオタクとは違い、理系的な、技術屋的なプロ的な強さを感じるんですよね。ビデオもなく、当然ネット環境も普及していない時代で、どのようにアニメを見るか、そして、それをどうやって一見で分析するか。どうやってそのアニメの構成、カメラワークなどを解析するか。その心意気は確かに、細部にこだわる、それこそ日本的な「粋」な見方であろう。

 また、本文の中でも触れられているが、この本はオタク的作品の、作品論ではない。あくまで描かれているのは、見方であり、いや、そういう方法論ではなく、見る態度、姿勢といった、いささか精神論的なものである。そういった意味でも実に広い門構えである。言い換えれば、この本さえ読めば、どのように見るべきか、ということが分かる。

 この本は、岡田が書いているという点からも、オタク一辺倒の、オタク万歳の観点である。東のように客観的な視点ではない。
 だから、この本が書いていることは、オタク環境の中では間違いなくバイブルであり、入門書であるが、それ故の盲目さもある。オタク万歳を先に出さなければいけない地位の地盤の弱さももちろんあったろうが、当時のオタクの弱さを知りたかった、というのは高望みであろうか。

 若干ブームが下火になってきている昨今、こういう本を読むことは、ちょっとした面白みがある。どのようにオタクブームを作ろうとしたのか、その熱情がよく分かる。じゃあ、岡田達はウハウハか?と言うと、あながちそうで無いんじゃないかな?岡田が求めているオタク像と、現在のオタクは違う。その違いは、富野(ガンダムの原作者。岡田との対談が巻末に付加されている)のガンダム観と、消費者のガンダム観との違いにも通じる。

 この先オタクはどうなるか?ますますこの日本発祥の文化に注目してしまうのである。

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紙の本全日本貧乏物語

2008/10/06 21:36

分かります。

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 分かります。皆さんそれぞれ、たくさんの貧乏体験があるかと思います。格差格差、と叫ばれていますし、ワーキングプアとかいう言葉をよく耳にする時代になったかと思います。貧乏はいつの時代でも永久不滅です。私自身だって、きっと貧乏です。すぐお金は本代に消えちゃうし、誰かが私の口座から秘密裏に引き落としているに違いありません!いや、冗談です。こんなこと、ただの金遣いが荒いだけなのでしょう。ここで言葉にするのが出来ないほどの貧乏体験もあれば、もう過去の良い思い出になっている貧乏体験もあるかと思います。ましてや、今現在貧乏の方がいるでしょう。そもそも貧乏という言葉は一言でその意味を捉えきれるものじゃないのでしょう。もっとも、それは全ての言葉に当てはまりますが。私が赤瀬川源平の『全日本貧乏物語』なんていう、表題からして面白そうな貧乏話のアンソロジーを読んで思ったのは、そんなたくさんの貧乏のイメージの中の、「楽しい」、言わば、貧乏とは正反対のプラスのイメージです。そもそも、このタイトルからして、著者は貧乏をマイナスで捉えようとはしていないのかもしれません。どこかおかしみが漂いませんか?私は嗅ぎ取りました。貧乏も過ぎ去ってしまえば良い思い出、なんて標語は無いかと思いますが、貧乏というのは辛い、そんな時を乗り切った私にとっては良い思い出だ、なんてなことなんでしょう。そんな過去の体験を省みる貧乏物語、貧乏体験が多い中で、収録作である、種田山頭火「貧乏の味」はとっても新鮮だった。まさに貧乏そのもの、放浪の身なんて貧乏の極致ではないですか、そんな山頭火の現在進行形貧乏話。つまりは日記なのですが、これは過去ではなく、現在、良い思い出もクソも無い。今、まさに、苦しい、腹減った、そんな状態を描くには日記がうってつけなのですね。非常に新鮮。それでも山頭火が偉いのは、もうなんか悟りきっちゃってるよ山頭火、ちっとも苦しそうに見えない。どこまでも無常、なんてなこと。他の作品にもそれぞれおかしみがあったけど、この山頭火の日記こそが、この表題『全日本貧乏物語』のトップなのではないか。貧乏を通した感情を技巧で隠したり、そのものズバリの「俺は頑張った」だったり、色んな作家(堂々たる面々!)が書いてるけど、山頭火が描いてるのは、ちゃんとした現在のちゃんとした素直な心なんではないでしょうか。良かったです。山頭火。他には、源平さんのハナクソ食ったり爪食ったり(お食事中失礼)は、壮絶、というより、素朴で。渡辺和博の話には、多分本当である事が書かれていて、それがきっと本当なんだから、思わずむかついちゃったけど、それを言えば、森茉莉の話は、読み始めは変にうざったく思ってたけど、これはこれで変におかしみがあって、「可哀想…」(貧乏が、という意味ではない)って思わせるのが作者の技量で、引っかかった自分は悔しかった。この一冊で今の日本をどうこうとか言いたくないし、きっと言えないけど、読んだら元気になると思う。頑張ったんだなあ、ではなく、普通に笑って読んだら元気になると思う。貧乏話に特に感動がなくても面白いものは面白い。分かります。

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紙の本六枚のとんかつ

2008/03/31 14:37

アホバカトリックというものは、それだけで価値がある気がする。

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 葉山響(with海路友)の解説から抜粋。

 【「たんなるゴミである」(笠井潔)】
 【「作者はバカミスを逃げ口上にしているだけ」(村上貴史)】

 以上のように、この作品は、メフィスト賞を受賞すると共に空前の批判に曝されることになった。正面きって「ゴミである」と言い切るにはそれ相応の内容でなくてはならない。
 くだらないとは前々から聞いていたが、今回の読書は少しいろいろと期待していた部分があった。もしもくだらないのであれば「どのようにくだらないのか?」、批判をするには、理想がなければならない。という事は、この本の逆が「理想のミステリ」の逆を示しているということだろう。私はミステリには疎いので、そういう意味でもこの本は一つの指針なのだ、私にとって。(あと、メフィスト賞の懐の大きさも分かるだろう。話題取りかもしれないが)

 私が読んだのは文庫版。講談社ノベルス版に比べいくつか削除された物があるが、その分、文庫版だけの特典として、「オナニー同盟」、「五枚のとんかつ」が加えられている。

 トリックそのものをここで話すわけにはいかないが、そのトリックは幼稚で、脱力系で、一言で言えば「く、くだらねぇ!」だ(下ネタもある)。他の推理小説をベースにしたトリック、などのようにパロディものもある。自分の作品のトリック(「六枚のとんかつ」)を基にした作品もある(「五枚のとんかつ」)。言うてしまえば、「誰も思いつかない」、「もし思いついてもやらないであろう」ネタの数々である。
 短編の(バカ)ミスで構成されている一冊。主人公は保険調査員の「私」。その私の所に舞い込んで来る保険金絡みの事件が描かれている。時には自分で解決することもあるが、その多くは知人で売り出し中の新進作家・古藤に解いてもらう。同僚の早乙女と一緒に解く事件もある。だが、トリックがトリックであるのに関わらず、そう簡単に解けない。見当違いのシロウトっぽい推理の数々。探偵役は古藤であるが、アドバイザーであるので、いつもその後始末(「トリックはこれ!だから犯人はあんただ!」役)をする「私」は恥をかいてばかり。古藤や早乙女との(見当違いな)かけあいはもちろん、明かされるくだらなすぎる真相は絶対笑える(か、脱力する)。古藤達の推理よりくだらない真相って…。

 笑った笑った。
 
 ミステリに美学を感じていない(愛は多少はあるけれど)私にとっては、十分面白かったけどなあ。真面目にミステリやってる人は良いとは思わないかもしれない。また、その「超くだらないミステリ」っていうのが、存在する「真面目なミステリ」への反抗になっているのかも。「なに真面目にやってんだよ、ふん!ミステリってこんなもんじゃん」って感じで著者は書いたのかもしれない(し、書いてないのかもしれない)。

 究極のアホバカミステリ。くだらないけど、そのくだらなさが、秀逸!

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紙の本QED百人一首の呪

2008/03/14 13:57

「Q.E.D.」が。というか「Q.E.D.」がかっこいいのです。

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 第9回メフィスト賞受賞作。

 百人一首コレクターの会社社長のある男が殺された。容疑者は多数だが、犯行は不可能に見えた。探偵役は、皆に「クワバラ・タタル」と呼ばれている、奇人薬剤師桑原祟。日本における大きな謎「百人一首の呪い」が解ける時、不可能殺人事件の真相が明らかになる…。

 この作品の主に触れるべき点は、西澤保彦氏が解説で見事に、的確に、説明してくれている。ミステリ界の歴史と、この作品の登場の意味が巧妙に複合されて語られており、少し長いが、非常に実のある、良い解説です。

 作品の最後で、タタルさんが「Q.E.D.」、つまりは「証明終わり」と宣言するのであるが、

 かっこいい!ものすごく!

 (ああ、なんてベタな私)

 思わず鳥肌が立った。ぞくぞくっと。古来からのミステリロマンである百人一首の謎が、曼荼羅と伴って解かれる課程は、一つの新しい観点でありながら、見事に壮観だ。曼荼羅という壮大で深遠な額を下地に、壮麗で煌びやかな百人一首のパズルが出来上がる様子は…うーん、すごい!
 その全てが終わった時に「Q.E.D.」である。かっこよくないはずがない。完璧な決め文句!

 (ああ、なんてベタな私)

 その「Q.E.D.」だが、これはもちろん、数学の証明問題が解けた時に使う文句である。つまり、非常に理数系なものだ。
 一方の作品自体は、文系的とは言わないが、呪い、言霊、幽霊など、理数系とはもともと相容れないもののように見える。
 理論で不可思議を解いていく。
 相容れないものを丁寧に読み解いていく(証明していく)。そして、不可思議すらも「Q.E.D.」としてしまうのは、これぞミステリの醍醐味、理論の極致、全うな推理小説の代表宣言のようだ。

 メインテーマは百人一首の謎。おそらく著者が考えたであろう解答に本書の全てがあてられている、と言って大方間違いでない。その為に本編の殺人事件が脇に押しやられても、だ。もちろん、解説で触れられているように、それぞれの独立性でもって打ち消しあってはいない。事件の真相と謎の解明が巧妙に繋がりながらも、その開き直りとも言える清々しさがこの作品を類まれないものにしている。

 最後は私自身の感想を少し。私はもろ文系ですが、百人一首は、その…。いや、五芒星にはなんとなく気づいたんだけどさ。というか、ここだけの話、殺人事件の方の真相はあんまり合点がいかない。伏線は張られているかもしれないけど、理論だった説明はされているんだけどさ。あんな方法で話の前提が崩れるとは…。なんだってありのような気がするなあ。やっぱ百人一首の謎解きがメインか。両者の真相はちゃんと関連しあって、西澤氏の述べている「お勉強ミステリ」になっていないのは理解できるんだけどね。「現代の」殺人事件が、「平安の」一大ミステリで解けちゃうのはすごい。そして、そんな過程が通ってしまう現在の事件の設定が面白い。

 自分の興味のある謎をタタルさんが「Q.E.D.」してくれそうなら、手に取ってみるのもいいかもしれません。

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