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ばーさんのレビュー一覧

投稿者:ばー

66 件中 1 件~ 15 件を表示

期待の西尾×ジョジョ!のはずが…?

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ジョジョノベライズ第2弾は西尾維新。 
 相当期待して読んだ。

 ぺらい。ぺらいよ西尾維新。

 DIOの手記を西尾が復元するという構成。
 よって書かれている内容は、物語というよりもDIOの回想と言っていい。
 つまり、我々がコミックスで読んできた内容を、DIOの心情というフィルターでもって追体験できるということである。

 だが、西尾の強烈な作家性を代表するものは、言葉遊びとキャラクター性である。
 そのどちらもが、ノベライズには不向きではないだろうか。
 敢えてこの題材を取り上げたのであれば何も言うことは無いけれど、現に、なんというか西尾らしくないのである。
 荒木さんがよっぽど好きなのかどうなの分からないけれど、描いている内容に遠慮のようなものが見える。
 そりゃそうだ、さすがに自身が敬愛する作家のノベライズではっちゃけることはできない。
 そういう窮屈さを回想という形で小説の体にしようとしているから、自然とぺらくなるのではないか。
 非常に勝手で申し訳ないが、僕が西尾維新に求めていたのはこういうものではなかった。

 だがその中でも、ボインゴとの会話やエリナへの想いなど、第6部に巧くつなげている個所や、人間臭いところなど、説得力があり読んでいて面白いところもあった。

 ボインゴのスタンドとプッチ神父のスタンドの共通点には、今回の読書で初めて気づかされた。
 僕にとっては目から鱗であり、つまりそれは、第6部へのつながる共通点であり、ジョジョ全体を貫くテーマでもあるのだが、思わず「なるほどね」である。
 巧いよなあ。
 ボインゴにスポットライトをわざわざあてようなんで思わないもんな。

 エリナへの想い、つまりは己の母を始源とする聖女への畏敬も、巧いこと書いている。
 読んだことがある方なら分かるが、第7部でないDIO(つまりプッチ神父によって世界が一巡する前のDIO)は、母への想いという一見軟弱な性質のものとはかけ離れたキャラクターである。
 我らがDIO様はそんな小さいことで悩んでほしくないのだ(エンヤ婆でないけれど)。
 その分第7部では人間臭い矮小さや泥臭さが出ていて、それはそれで良いが、まあそれは置いておいて、少なくとも第3部のDIOは絶対君主である。
 だからこそなのかもしれないが、本書のDIOの思わぬ人間臭さに戸惑う読者もいるかもしれない。
 「ちょっとドジったなあ」、「失敗ばかりでやんなっちゃうよ」なんてな言葉を日記で(日記で!)書くDIOが次第にかわいく思えてきてしまう。
 つまり、本書のメインテーマが人間臭いDIOであるのかもしれないので、その起源となるエリナへの恋慕、ジョナサンへの嫉妬が垣間見える個所は、なんだか秘密を覗いているようで(それこそ日記を盗み見ているようで)、変にどきどきした。

 西尾維新は人を食ったような作家であるので、ここまで書いてなんだか書かされているような気分になっているが、それでも僕は不満である。
 好物を目の前で没収されたみたいな。
 そんな不完全燃焼感がある。
 いつもは西尾に良い意味で裏切られて悔しいやら嬉しいやら複雑な思いを抱かされる西尾作品だが、本当にこの本はコンパクトにまとめられ過ぎやしないか?
 「素直なあとがき」と自身であとがきをまとめているように、この本もある意味西尾の本心が出た、素直な物語なのだろうか。
 腑に落ちない、してやられたのかどうかさえ分からないもやもや感が残る読書だった。

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心の奥底にはまだ早すぎる。

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 昨今、速読が人気である。
 
 世の中には様々な速読関連の本が溢れ、速読の認知度の高さは既にご存知の通りだ。

 私は遅読である。これでもかっ、て程の遅読である。なお、遅読とは、そのままずばり、速読の反対語である(造語である。多分)遅読にも様々な種類の遅読があると思われるが、私の場合、どんな本であれ読むのに時間がかかる。しかも、一度読み出したらその本を最後まで読まないと気が済まない、「完璧主義的遅読」である。読みたい本があるけど、思うようなスピードで読めない。だから本が溜まる。そんな状態に嫌気がさす。また読みたい本ができる。悪循環である。

 「そんな私が出会ったのがこの本です。一気に読むスピードが上がりました!」

 …なんていうどっかで見たような文章は書けない、この本では。

 適当にこの本を選んだのではなく、ダ・ヴィンチの速読特集でこの本の著者を知り、そんなに有名なら効果あるんだろう、なんてな気持ちで読んだ。

 著者である栗田昌裕は「SRS(スーパー・リーディング・システム)速読法」の提唱者であり、指回し体操の提唱者でもある。SRS速読法というのは、従来の速読法とは違い、「蝶のような読書」を目指すものであり、文章を他の速読法のように面で捉えるのではなく、空間で捉える。その為に、最終的には自らの心の奥底に潜り、自分の内側から改良を施していく。

 つまりこのSRS速読法というのは(他の速読法もそうなのかもしれないが)、本を読む、というよりも、本の中の文章を含む、本を読む自分を自分の中で再構築する方法なのだと思う。文字を読む(取り組む)のではなく、意味を読んで(取り込んで)いくようなイメージに近い。読書の状況、状態を丸ごと取り組むので、労力はかかるが一度身につくと非常に楽であろう。現在の自分を本にトレースするのではなく、本を自分の中にトレースするのだから、まあなんというか、ものすごくアクロバティックだ。

 この本は、そのSRS速読法の本当に基本的な入門書になっており、この一冊だけでSRS速読法が身につくものではない。ただ一方で、従来の速読法で謳われているような、速読の為のトレーニング法、使われていない脳の力を引き出す為のイメージトレーニング法、文章を素早く目で追う為の眼球運動トレーニング法などが紹介されており、そこの部分だけでも読む価値はあるかもしれない。

 ただ、どうしてもまだ疑いの目(これを克服するのが最初のステップらしいが…)で見てしまうのは、入門書であるからなのかどうかは分からないが、具体的な根拠が詳しく書かれていないからだ。「とにかく信じてやってみなさい!」だからそれが信じられないんだけど…。

 一般的な書籍ならともかく、小説や詩など、行間を読まなくてはならないジャンルでも使えるか。微妙である。意味を取り組むには有効だが、表現されていない意味までも取り組むことが出来るだろうか。微妙である。
速読というのは、時間に追われながらも冊数を稼がなくてはならない人には有効だろう。やっぱり使い分けが大事、というのをひしひし感じる。

 この本が使えるかどうか。トレーニングしてみないと分からないが、それだったら一般的な速読トレーニング法を扱う書籍を読めばよい。心の奥底はそれが終わってからでもまだ間に合う気がする。

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紙の本銀の檻を溶かして

2008/03/31 14:32

読者失格。

4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「メフィスト賞を集中的に読む!」なんてことをしてると、「本当にたくさんの小説があるんだなあ」なんて当たり前の事を思い知らされる。普段読まないジャンルの作品、ということもあるけど、そういう創作の熱意というか、「新しいものを作る」という挑戦というか、そういう当たり前だが非常に尊いものをびしばし感じる。
 それで、じゃあ何が言いたいんだお前は。私が『銀の檻を溶かして』で感じたのは、先入観や偏見はやっぱりいかんなあ、ということ。

 私が読んだのは、文庫版で、とにかく表紙を見ていただければ言いたいことは分かると思うのだが、そこにはアニメ柄の「美」青年(少年か?)が三人。男の私にとっては、「うへえ」と思ってしまう。かわいい女の子を見るのならまだしも、かわいい男の子を見るのが好き、って男はあんまいないと思う(暴論かなあ)。しかもしかも、内容もですね、「すわ、BLか!」「ああ、いつか読まなくてはならないとは思ってたけどこれは不意打ちだ」ってな感じに。やだなあ、読みたくないなあ、なんて読み始めた次第。

 主人公は薬屋を営む三人。彼らは実は妖怪で(「実は妖怪で」なんてフレーズが普通に言えるのがこのシリーズのすごさだと思う)、本業の合間に「同業(つまりは妖怪や悪魔とか)が起こした事件を秘密裏に処理する」という副業を営んでいます。持ち込まれた事件(ここがミステリ)を解決していく様を「妖怪(という異人)からの視点」で描くのが今シリーズの特徴。

 妖怪と言っても、おどろおどろしさ、日本的な妖怪ではなく、彼らの出身からして当然ですが、この妖怪達はなんだかスタイリッシュ。うっかりすれば「妖怪」という設定すら気づかない時があります。

 ミステリと言っても、重点的にそれを責めて小説を形作ってるわけではなく、どちらかと言うと、エンタメ的な、うーん、冒険活劇的な。多分こういう言い方は間違ってるかとは思うんですが。何しろ、十分ミステリ的要素があって、それに関するトリックがあって、それに関する謎解きもあって、それに関する人間劇も隠されていて、うん、十分ミステリなんだけど…。すごく主観的な言い分ですが、ミステリが薄いと感じてしまった。三人の会話や、それを構成するはずのキャラクターに頁が割かれすぎている(と私が勝手に感じた)のが原因か。うっかりすれば「ミステリ」という設定すら気づかない時があります。

 反論あり、慣れたらそうでもないかもしれない、そもそもお前はBLというものが本当に理解しているのか、という点を留保して、現時点での私の感触はすこぶる良くない。読み終わっても同じ。物語後半の核心が晒される箇所の感動も薄かった。回りまわって良い話、というのは理解できたのだが、共感は薄かった。

 では、これが「美」男(もしくは少年)ではなく、「美」女(もしくは少女)だったらどうなのか。十分に慣れたオタク系文化ならどうなのか。もしかしたら楽しめたのかもしれない。…という事を考えてしまうあたり、私が未熟なのであり、この本に対する正しい接し方ではなかったのであろう。

 とにもかくにも、【謎解きは本格派】という肩書き通り、ミステリと他の要素を組み合わせた今作。いずれ再チャレンジします。

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紙の本蜜の森の凍える女神

2008/12/01 21:49

いや、わかりませんって。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 なんだかいやな感じがする真相とトリックである。小説の題材としてはおかしくはないんだけど、ミステリの題材としては使ってほしくはなかったと言ってしまう。こういう所にミステリの芸術性があるようで、でもそれは結局の所現実を入れたくないという私の中の傲慢さが見えてしまっているようで嫌になる。私はそういう気持ちをもった。

 関田涙作『蜜の森の凍える女神』は、第28回メフィスト賞受賞。別荘に遊びに行った女子高生たちが事件に巻き込まれる話だ。舞台は雪に閉じ込められた山荘。そこに大学のサッカーサークルの面々が雪から逃げる形で転がり込む。そして行われる殺人。物語の背景として浮かぶある芸術家の生涯。

 叙述トリックが使われていますが、これは、確かに叙述トリックかもしれないけど、いくらなんでも気付けないんじゃなかろうか。
 作者はこの叙述トリックこそ一番のびっくりポイントだ!みたいに書いているけど、そのトリックのおかげで気付くことができた犯人の「回収しきれなかった犯行の形跡」が…確かに密室を解く鍵だとは思うのだが。だが。だが。些細なポイントに大げさに驚いているように見える。読み込みが足りないのかなー。
 また、その「叙述トリック種明かし」からの事実があるのだけど、それがまた、っていうか本当に地の文で嘘ついてませんか?

 これらとは別に、冒頭の件なのだけど、女子高生探偵やら、ヴィッキーやら、かわいらしい「読者への挑戦」を出していても、その実、いや、その分事件の真相及び動機の生々しさに裏切られた気分になってしまったのは事実。ひどい事件だ、と思ってしまったのは負けかも。最初っからがつがつとバイオレンスやら欝から、そんな感じで責めてきていない分、ギャップがあった。あのラストの情景こそが嫌であり恐ろしく、あのラストの誠君の感情こそが、切ない。

 そんなこんなで愚痴ばかり書いてしまった。読みやすかったけど、すーっと上っ面を滑っていった感があり、良いコメントが書けない。

 ただ、ヴィッキーの本当の名前を知りたいから続編があったら読んでみたいとは思う。

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ショートショート好きなら買わなきゃいけないの?

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ドイツ生まれのE・W・ハイネのショートショート集。(ドイツで)ベストセラーとなった『まさかの結末』の続編。

 『まさかの結末』を読んだ時も感じたのだけど、文章、変じゃない?
 そもそも著者の書き方がこういうものなのか、それとも、訳者の訳し方が変なのか。うーーん…分からん。続編を読んでもその理由がさっぱり分からない状態である。ひたすら飛ばして書いているような。普通ならあと一言補足が入る所で入ってない。それが持ち味なのかどうかは知らないが、私からしたら味気ない。星新一も極力無駄を省いた書き方をしているけど…やっぱり星さんの場合、日本人の共通認識で補うことで、読み解ける部分があるのだろうか?それとも海外の人にはウケるのだろうか?感性の違い?

 「著者から」にこういう事が書かれている。
 どうしてこうも短い話ばかりなのか?という疑問に、著者のハイネは、「自分だったら読み飛ばしそうな所を消すように努めている」と答えている。

 ショートショートという形態は、その名の通り、小説の短さが一つの重要な要素になっている。いかに字数を減らし、それでいていかに内容を凝らすか。
 そういう特殊な制限を自ら課す形態であるショートショートにとって、確かに不必要な所は省いていかねばならない。著者は、一文一語を非常に吟味して選ぶ。

 ハイネがいかなる基準で物語を書いているかは知らないが(それこそ、ハイネだったら読み飛ばしそうな所を書かないようにしているのだろう。私が分かるわけがない。というか、テレビをひきあいにして例えるのは、露骨すぎてやだ)、私には理解できない結末、簡単すぎる結末が多いような気がした。ダールやトゥエインと並び称されているそうですが、自分の理解が浅いのか、その称される理由が分かりません。

 不平不満ばかり書いて終わらすのはさすがに失礼なので、少ないですが、良かったと思える作品を挙げておきます。
 『愛情いっぱいの手紙』 … こういう風に最後を落とすとは想像つかなかった。宛名にしても、宛先にしてもそれぞれ面白みがある。
 『安らかに眠れ』 … 最後の文章が良い。実にパンチが効いた教訓。

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紙の本パラダイス・クローズド

2008/02/24 00:47

堂々と喧嘩、売ってます。

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 第37回メフィスト賞受賞。

 昨今純文学の力が弱まり、新しい文学に押し寄せられてきていますが、ミステリ界でも同様な事が起こりつつあるようです。

 『目には目を。歯には歯を。本格には…』
 双子の兄弟、真樹(バリバリ社会派の「名探偵」)と美樹(魚マニアの「死神」)のお守りの為に、推理作家達が集まる孤島にやってきた、刑事高槻。大嵐での停電の後、モナコ水槽が見守る中、密室殺人が起きてしまう。全てが「クローズド」されたサバイバルゲームが始まる。

 有栖川有栖が裏表紙で述べているように、この物語は、「いかにも!」なミステリではありません。というかぱっと見では、既存の「美学」としてのミステリに喧嘩売ってる作品。

 過剰なまでの魚薀蓄。真相を暴かない名探偵。ミステリの基盤をぶちまける存在である死神。めためたにバカにされる「本格」の推理作家たち。
 どれもこれもが、本当のミステリ好きにとっては嫌がらせとも思えるようなものばかり。

 ただ、有栖川が述べているように、「それでも本格」たりえるのは、「本格」を潰す為に、「本格」で勝負しているからだと私は思う。
 「本格」という美学を潰す為には、「本格」であたるしかない。挑戦状であることに間違いないけれど、律儀に「本格」で勝負している点(純粋なエンタメに逃げなかった点。探偵は真相を放棄するけれど、その真相はちゃんと語られるし、なによりも「合理的な」「論理」である点)からも、わりと律儀なんだな、と感じました。

 つまり、設定だけ取り上げれば、この小説は他のジャンルになりえることも可能だったんです。だけど、あくまでもミステリ(しかも「本格」)で勝負した、しかも「本格ミステリ」を徹底的にバカにする方法で「本格」をしたことは、作中の「本格」推理作家たちのように、嫌でもその正統性を認めなくてはならない。いくら小バカにされても無視することはできないと思うんです。
 その姿勢は、『六枚のとんかつ』や、西尾のそれと方向性は似ているけれど、「バカにする」という方法で嫌でもこちらを向かせた『パラダイス・クローズド』の勝ちだと思うんですよね。

 「美学なんて糞喰らえ、面白ければいいんじゃい」な物語は増えていると思うけど、この作品のようなスタイルは、ある意味極致だろう。こんなにストレートにギャンギャン真正面から抵抗したのはちょっと珍しいんじゃないかな。

 ただ、その姿勢は認めるけれど(いつまでそのスタイルでやるかは知りませんが)、そういうカウンターカルチャーとしての文学は、その性質だけが注目されがちであり(今の私の書評のようなもの)、その性質を抜き取れば、意外に中身スカスカのものが多いのも事実。
 この物語の場合、その脇を埋めるはずの魚薀蓄に、私は後半ついていけなかった…。自然とそこからの人生論チックの真理にも素直に入り込めなかった。

 とりあえず、ミステリ好きの方々は、ある程度覚悟してから読んだ方がよろしいかと。
 私もさすがに「タナトスきゅん」だのが出てきた時は、「ぐへぇ」と思いましたが、名探偵の真相放棄には意外とスカッとしちまいました。
 
 最後に。
「ビートたけし」だの「タランティーノ」だの、既存の固有名詞(明らかに作者の好み入りまくり)が出てきたり、キャラクター作りに精を出していたり。正直、やりたいようにやりすぎだと思ったのは私だけ?そこで純粋なエンタメにいかなかったから読むのが辛いと思ったり思わなかったり。そんなこんなで次作は何気に読んでみたいと思ったり思わなかったり。

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紙の本切羽へ

2008/08/19 23:41

切羽へ行った、おんな。

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 分からない、と私は思った。

 第139回直木賞受賞の今作、『切羽へ』は、ある島での男女の恋愛を描いた作品。ちなみに、ご存知かとも思われるが、作者井上荒野は、同じく小説家である井上光晴の娘。

 東京に近い島で、学校の養護教諭として務めているセイは、夫で画家の陽介と静かで幸福な毎日を送っている。そんなある日、本土、東京から新任教師の石和が島にやって来る。夫がありながら、徐々に石和を気になる存在として認め始めるセイ。失っていく時間、失っていく日々、そして、失っていく人たち。ゆれる心と、喪失を描いた一作。

 恋愛小説、と私は書いた。だが、私にとって、どうしてもこの作品が恋愛小説には思えない。小説の帯には恋愛小説と書かれているし、小説の流れからしても、恋愛小説と呼んでしまった方が適切なのかもしれない。だが、この小説の中の静謐な感情(のようなもの)の流れを恋愛と呼ぶには、余りにも脆すぎるように私は感じる。そもそもこの本の中で描かれる、セイの女としての心の揺らぎは恋愛と呼べるものだろうか。

 もしかしたらこれが大人の恋愛と呼ぶものなんでしょうか?だとしたら私のような若僧にとっては、とってもムズカシイ。分からない。

 この小説を分かる為にも(分かるために読む、というのもなんだか違う気がちょっぴりするが、まあとにかく)、他の点から迫ってみようと思う。

 それは、「別れ」という「喪失」だ。

 『切羽へ』で重点が置かれているのは、恋愛のような人と人との触れ合いではなく、むしろ人との別れの方であると私は感じる。
 卒業生との別れ、島を離れる人との別れ、しずかおばあさんとの別れ、「本土さん」との別れ、そして、石和との別れ。
 このような直接的な別れの他にも、間接的な別れ、つまりは、月江との仲違い、夫との心のすれ違い、など、様々な別れが描かれている。
 物語全体は、「石和」という一本の道の上に、これらの様々な別れが次々と挟み込まれている構成である。とても静かで抽象的だ。そして、その中心に立つセイは、常に深い喪失感に囚われている。
 両親はなく、生まれ故郷の島にも半分「よそもの」として関わるセイ。夫との生活を「サナトリウム」と例えた彼女の心境には、常に定まらなく、それでいて、どこか生温かい奇妙な安心感があったのだろう。
 彼女にとって、完全によそ者である石和との交感は、そんなあやふやな状態を切り裂く風のようなものであったのではないのか。石和と出会ってからセイは、段々と夫とのすれ違いを重ねるようになる。それ以前は、夫との間に何の不安もないように書かれていたのに、いきなり調子が変わる。直接的な描写は無いにも関わらず、以前から夫に対して不満を持っていたように私たちを作者は誘導している。私たちは、石和という風の出現によって、ちょっとしたいびつさ、奇形さを、それまでのセイと夫との生活の中に見てしまう。
 切羽、つまり「それ以上先へは進めない場所」に彼女は迷い込んだのではない。誘われたのでもない。彼女本人が進んで行ったのだと思う。様々な別れを体感しながらも、それ以上先を目指すこと、切羽を目指すことで、母がかつて見つけたように、セイもマリア像に変わるものを見つけたかったのだろう。これは決意だろうか。それだとしたら、何に対しての決意だろうか。
 
 幾つもの別れ、そして石和との交感を経た後の彼女が授かった一つの命は、切羽まで行った女の証明でもあり、そう考えると、この小説はますます恋愛小説ではなく、ある種の成長譚、はたまた女の変身譚なのではないか、と、ぼんやりと私は思った。

 

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紙の本ぼくのマンガ人生

2008/06/16 23:50

巨匠について。

6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 僕たちの世代(1980年代生まれ)の人間からは、手塚治虫はどう映るのだろうか。
 少なくとも僕にとっては、「手塚が死んだ」という事実はおそらく上手く距離を測りかねている事実である。

 僕にとって初の(まともに読んだ)手塚は『火の鳥』である。多分、中学か高校の頃。やけに深くて暗い話だなあ、と思った。最近になって、手塚を集中的に読むようになったが、手塚が描く、ジェンダー、死生観、生命の尊さ、などはずーんとこちらに届いてきても、果たしてこの受け取り方であっているのかどうか分かりかねる、というのが現実だ。「それぞれが感じたいように感じればいい」なんてのは当たり前だが、それを越えて、「手塚」という一人の人間の意味が巨大すぎるように感じる。ものすごくさびしい意見で恐縮なのだが、手塚の漫画もやはり、語るにおいてある種の壁、同時代性の壁を感じる。それほど有名過ぎているし、意味を含みすぎている。一種の神話みたいに感じる。当時の人間でしか分からない、感じ取れない部分が大きいと思う。

 テレビアニメの基礎を作った功績。ストーリー漫画を作り上げた「マンガの神様」。色んな漫画家が手塚の漫画を見本にしたはずだ。
 テレビアニメの基礎を作った罪。漫画への多大な情熱が見せる、独特の人間性。
 これらは全て有名な話であるが、私は聞いただけの話でもある。
 僕のように、手塚のアニメ、漫画を見て育っていない人間にとって、生まれた時から手塚が拓いたアニメがあり、または既に存在している他の漫画家が書いた、おそらく手塚から何らかの影響を受けている(と思う)漫画を見て育った人間にとって、手塚は漫画の源泉のようであるし、もうなんだか本当に手の届かない漫画家なのだ(まあ僕にとっては、だけど)。

 こんなに意識するのがそもそもおかしいのかもしれないけれど、結局は手塚に行き着いてしまうように、「手塚治虫」という人間が分からないし、興味深い。

 ものすごく前書きが長くなってしまったが、この本は、「手塚を知る」という目的からすれば貴重な一冊である。晩年の手塚の講演などをまとめたのであるから、ここに書かれているのは、手塚の生の声であり、(おそらく)手塚の本音だ(あー、でも「晩年の」というのが引っかかるんだよなあ…。手塚程の有名な人物の晩年…。うさん臭さが残る)。
 内容自体は、ものすごく分かりやすい自伝のようなものだ。また、その教養的で、やや啓蒙的な書き方からも、年齢層は比較的低めに設定されているようだ。
 漫画家になりたい人はぜひ本書を読むことをおすすめする。

 手塚を肌で感じていない僕のような人間にとっては、手塚の人間性を感じることができる、良書だった。少しでも手塚自身に近づけたのではないか、と思っている。

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紙の本十角館の殺人

2008/07/14 23:04

綾辻読み始めにはこの本を。

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 有名過ぎるほど有名な、綾辻を読んでなかったのはなんとも失態。少し避けていた、というのも事実。有栖川有栖が好きなら読むべきでしょう。

 綾辻自身は、有栖川有栖などと並び、本格推理小説の第一人者であり、実行者、そして「新本格」の生みの親である。なので、もちろん推理はフェアプレイ。今作の結末は、いささかアクロバティック。見事な結末。小説の構成からして何か仕掛けがあるとは思っていたが、まさかこういう風に仕上げるとは。

 モチーフは、クリスティの『そして誰もいなくなった』。ただ、モチーフと言っても、ここでネタバレになるような結末ではない。

 嵐の中、無人島の「十角館」に閉じこまれるミステリサークルの面々。半年前にその島で起こった、「青屋敷の謎の四重殺人」、そして再び起こる殺人。天才建築家・中村青冶が再び凶行に走ったのか、それともサークル内に犯人が?論理推理を軽やかに覆す結末が冴える、綾辻の記念すべき「館シリーズ」第一作。

 探偵役は、島田潔という寺の三男坊。ひょうひょうとして、ひょろっとしている風貌。その島田が大活躍か、と問われればそうではなく。島田は本土にいる為に、十角館には関連しない。彼が関わるのは青屋敷の方の推理。島と本土で二つの事件が交互に解かれ、最後に合わさる構造。先ほども述べたが、この合わせ方が面白い。

 今作は、館そのものにまつわる視覚のトリックと先入観が推理を誤った方向に導く為に使われている。最後は冒険活劇みたいな、決して安楽椅子探偵では終わらない結末になるが、そこにも館そのものが関わってくる。この「館シリーズ」は、まさに館が主人公になっている、と言うことが出来る。

 また、ミステリサークルの面々の名前を歴代ミステリの巨匠の名を被せ、それでいて、十角館で次々と彼らの推理をあざ笑うかのように殺していく綾辻の手法、そしてその姿勢は、「一筋縄ではない」ということをこちらに思わせる。本格推理が低迷していた時期にデビューした綾辻にとって、この小説自体が当時の風潮に対する何らかの提言になっているように思える。「本格とはこういうものだ」という思いと、「過去の本格を越えていく」という思いが折り重なっているような、そんな思いをびしびしと感じる。

 そんな人間が書く小説が面白くないはずがない。

 エラリイ・クイーンみたく10作予定らしいので、なかなか楽しみなシリーズ。

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紙の本緋い記憶

2009/01/13 21:44

記憶という不可思議な恐怖。

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 第106回直木賞受賞作。
 高橋克彦は、歴史ミステリの名手と聞いていたので、本作のような作品もあるのか、と少し意外。氏は他に『写楽殺人事件』で江戸川乱歩賞、『北斎殺人事件』で日本推理作家協会賞を受賞している。

 本書には「記憶」にまつわる7編の作品が収められている。

 誰もが持っている「記憶」。誰もがその曖昧な部分に一度は心を惹かれたことがあると思う。「小説を書きたい!」と考える人なら、一度はこの題材を扱おうとしたのではないだろうか?それだけありふれた題材であるから、ヴァリエーションを富ませるには技巧とアイデアが必要だ。

 本書の7つの作品には、奇妙で、なおかつどこか切ない物語が揃っている。過去を呼び起こす「記憶」には追憶と哀しみが切り離せない。
 一方で記憶には、どこか遠い自分が潜んでおり、そんなどこか知らない自分は恐怖でもある。ミステリ性の結果として、ホラーで締めくくる話が多いのも特徴だろう。

 地図に載っているはずの家を探す『緋い記憶』。
 ページを繰るごとに微妙に事実がねじれていく『ねじれた記憶』。
 洪水の日に消えた少女にまつわる『言えない記憶』。
 郷里でかつての生家を探す『遠い記憶』。
 自身の突然の発病を解く『膚の記憶』。
 かつてロンドンで別れた女性の消息を推理する『霧の記憶』。
 作品全体に仕掛けが組み込まれている『冥い記憶』。

 つげ義春の『ねじ式』の小説版はこれ!と前評判(時系列おかしい?)を聞いていたので読んでみたが、ひょっとしたら『ねじれた記憶』のことを言っているのかな。どちらも不条理な作品であるが、『ねじれた記憶』がホラーであるのは、永遠に不条理が続いていくから怖いのである。夢のような『ねじ式』とは違い、『ねじれた記憶』はずっと現実が続いていくのだ。

 高橋克彦の記憶シリーズ。続編があったら読んでみたい物語だ。

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紙の本そして誰もいなくなった

2009/01/02 13:34

そして誰もいなくなったけど。

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 言わずと知れた名作。もはや古典であるが、現在でも様々な物語の下敷きになっていることからも、その評価は現在においても揺るがない。今更あれこれ書くのも、本当に「今更」なのだが、やっと先日読んだので、簡単にちょびちょびと書いてみる。

 本作の舞台は、本土から離れたインディアン島。そこにU・N・オーエンと名乗る人物によって10人の様々な人間が呼び集められる。招待主が現れず、皆が訝る中、蓄音機の声が10人それぞれの過去の殺人を告発する。そして、過去からの声に導かれるように、第1の殺人が起こる。

 最終的にはインディアン島に「誰もいなくな」ります。結局の所、タイトルから私が期待したのは、誰もいなくなるまでの過程と、「犯人不在」という結果。
 思わず『十角館の殺人』を思い出しましたが、探偵役が明確に打ち出されていない分、クリスティの方がよりスリリング。クリスティの文章は端的にして簡潔。ぞくぞくと行間から恐ろしさが滲み出てくる。敢えて書かない「おそろしさ」というのは、本当に怖い。今となっては非現実であろうかもしれない手法も使われているが、それがかえって閉塞感を生んでいる。
 で、後者ですが。残念!犯人は存在してます。アンチミステリなのかな、と思っていたんですが、そうじゃなかった。ある意味、最後のロマンティックな手紙はいらんかったかも、と考えてしまう。真相は藪の中、でも個人的には了承してたなあ。追記として、犯人の手法は分かりやすいトリックです。動機も理解可能。

 古典は教科書、と誰かは言っていましたが、まさしくその通り。考え付きそうなトリック、プロットは過去の誰かさんがやってくれています。時代が進むにつれて、物語を作るのは難しく、細部に拘るようになるのは必然か、そんなことも考えてしまったり。
 やっとオリジナルを読むことができ、なんだか安心。これから読むであろうたくさんのミステリ読解に役に立ちそうです。

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紙の本書店はタイムマシーン

2009/01/01 23:14

怒涛の読書記録・第2弾

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 桜庭一樹の読書日記、第2弾。前回の読書日記があまりにも読書欲を喚起させる内容だったので、今回も期待してました。結果としては、当然の大満足!こちら側があまり読書をしていない時に、こういう「この本読んだ!」や「この本面白かった~」などのやさしい感じの読書日記は本当に励みになる。
 というか、自分をやさしく(自分に甘く)読書に持っていってくれる。ここで斉藤美奈子さんや、福田和也さんとかの書評集はヘビーすぎる。「っても」というか、「だから」だけど、当然このお二方の本は読んでません。だって怖いですやん。いきなり自分の読書傾向とかを批判されそうで凹みそうだ。うーん、「書評集」と「読書日記」は違うかな?だけどもだけども、この人たちは読書日記でも辛口発言しそうなんだけど。偏見なんだけど。

 と言いつつも他のやさしい感じの読書日記、又は書評集に比べ、桜庭さんの読書日記が飛び抜けて好きなのは、作家さん本人が個人的に好きだから、というのは置いておいて、この人の日記には必ず面白エピソード(これは、死語、なのか…?)があるからで、実は相当に、「期待」、している。毎回毎回。所々で登場するK島氏はもちろん、ご家族とか、変な人が多くて面白い(失礼)。「本を大量に読んでいるのは分かるが、特に面白くもない読書日記」とか、「ものすごい良いこと書いてあるんだけど、ちょっとお堅すぎる書評集」とか、「やさしい感じで全体をまとめようと言うスタンスは分かるが、おそらくその作家のファンしか買わないであろう読書日記」などが多い中で、桜庭さんの読書日記は非常におススメ。

 ただ、難点としては、ラノベ出身の人なので、独特の言い回しがあること、でしょうか。あと、個人的には日記冒頭の書物からの引用文はいらないと思う。おそらくは桜庭さんの気に入ったフレーズ、感動した箇所からの引用であろうが、読んでいない人にとっては、日記にするすると入り込めない、蓋のようなものになってしまっていると思う。読んでいる人にとっては気持ちいいのかな。これは桜庭検定か?(意味不明)

 日記がカバーする期間は、日本推理作家協会賞受賞から直木賞受賞までの日々。井坂幸太郎が直木賞選考辞退の際に危惧していたように、やっぱり忙しくなるんですね。前作の『私の男』執筆時の凄まじさがちゃんと報われていてよかったよかった。

 巻末には桜庭さんと読書日記常連編集さんとの対談が収められていてお得。日記では出していない、対談ならではの、素のハード桜庭さんが見られて(読めて)貴重。うーん、無骨!(失礼)こう、なんていうか、ごつごつしててクールな空手家桜庭さんが垣間見られます。

 まったく書評にはなっていなく、相変わらず桜庭・愛しか書けてないな、私。

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紙の本手塚治虫ぼくのマンガ道

2008/07/05 23:10

巨匠について2。

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 手塚治虫の晩年の(やはり晩年…)の講演、そして、自作にまつわるエッセイ、雑誌に連載された小話などをまとめた一冊。平易な文章、文体で書かれており、読みやすい。
 自作にまつわるエッセイのところでは、『ジャングル大帝』、『鉄腕アトム』などの有名な作品の主人公について触れている。キャラクター制作の裏話、楽屋の話のようなもの。他には、結婚時の話、ハネムーンの話、どのような本を読んできたか、など、ファンにとっては貴重で嬉しいものばかりであろう。
 岩波書店の『ぼくのマンガ人生』のところでも書いたが、やはりこの本も、仕方ないと言えば仕方ないが、晩年の頃の、売れて破産してスランプになってスランプを脱して、ある程度酸いも甘いも分かって、成功した時の手塚なのである。
 
 やっぱりどうにもこうにも…。そういうのはそういうので楽しいし、ファンであるなら勿論、ファンでなくとも「へー、あの人の考え方ってのはこういうものなのね」という類の興味深さがあって、良いとは思う。実際私は適度な手塚ファンであり、まあ面白いのだが。

 もうめちゃくちゃ偉そうになっちゃうんだけど、手塚の人生(まさしく思い出のアルバム)は、どんな人でも、アンチ手塚じゃない限り、楽しめる。しかし、これが手塚ではなく、手塚以外の人間の(僕でも、あなたでも可)人生語りだったら読みますか?それは面白い人が読めばいいし、むしろ本を出すぐらいだから(ネットでのブログなどの自分語りは別にして)その人にはその人のファンがいると思う。
 だけど、手塚にはそういう排他性みたいなのが無い気がする。これは手塚でなくても、「石原裕次郎」でも「美空ひばり」でも「ファーブル」だの「エジソン」だの「イエスキリスト」だのでも同じような現象が起きる。

 この本の書評なのに関係ない事を言ってる僕の「私の考え語り」でつまり言いたいことは、手塚に対するアプローチには、「好き」か「嫌い」の二つしかなく、「興味ない」は無い、のではないか?ということ。そして、「好き」には幅広い枠がある。「手塚だったらまあ読んでもいいかな」もこの枠内だし、「図書館に置いてあるし、どうやら有名な人だからとりあえず読んでもいいかな」という人もこの枠内。だからこういう本が何冊も出てもそこそこ売れる。
 「読んでみたらつまらんかったし、なにより重い…」という人もいるだろう。そして、「手塚、というだけで吐き気がする」という人もいるだろう。
 だけども、手塚の関係したあらゆる物に触れないわけにはいかないようになっているのではないか?興味無いし、「誰それ?」なんて全く無いんじゃないか?

 手塚は良い意味でも悪い意味でも偶像化されてしまっていて、僕のような人間にとっては、少しそれに対して抵抗があった。岩波の物でも、今作でもそれは変わることがない(それにしても、タイトルがこれだけ似通ってると、買う時に困る)。なによりも、そういう伝記物みたいな偶像の面での手塚は、本当の手塚初心者なら知識を仕入れる面で必要だが、手塚本人に迫れない気がしてならない。
 手塚本人がすごいのは良く分かるが、最近の「なんでもかんでも伝説化ブーム」に乗っかってるような気が、少し、する。
 

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紙の本男の隠れ家を持ってみた

2008/06/29 22:17

おっさんの自分探し

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 私の中のトロさん像は、ダ・ヴィンチのトロさんであり、古本屋のトロさんであり、「ひょうひょうとした、オトナの風格を持つフリーライター」というものだ。苦みがある渋い親父。
 だからこそ、そういう風に思っていたトロさんが、「北尾トロではない本当の自分とはどんな人間なのか」を見つけようとする姿は、本当に意外だった。そんなこと言ってるけど、本当はネタじゃないのかなー、なんて読み始めは思っていたけれど、「自分探し」の為にアパートを借り、全くの他人とドキドキしながら交流しようとする姿はなんだがマジだ。いい年したおじさんが「自分探し」なんて…などとは思えない。それほどの時代相、なんて言葉は不釣合い。むしろ、「自分探し」をやっていない人間なんて、私は信用できない。トロさんのようなおじさんだからこそ、この「自分探し」は興味深いものになる。

 また、タイトルの「男の隠れ家」という言葉。良いじゃないですか。「自分探し」しながら「男の隠れ家」を持つ。なんだか青年と親父のイメージがごっちゃになった面白さがある。
 ふつう、隠れ家を持つのは、いや、持てるのは、そういうのが許された人間だけだと思う。ある程度余裕が無いと、持てない。忙しくて忙しくて、そんな日常から離れる為に隠れ家を持ってみました、なんて言ってる人間には金がある。本当に苦しい人間は隠れ家を持てない。だから男にとって、「隠れ家」というのはロマン溢れるものになる。
 
 でも。まあ確かにですよ、文中に出てくるトロさんの友人の女性のように、「悩んでるだけ余裕がある」という言葉にもうなずいてしまう部分がある。そもそも自分探しは若い時にするものであり、というかいい年してからの「自分探し」はそんな余裕があるから出来るのだろう。ましてや、「隠れ家」である。うーん、余裕だね、トロさん。なんて言えるっちゃあ言える。感傷的すぎやしないか?

 結局トロさんは、自分が北尾トロである、ということがばれ、何も出来ぬまま、ちょっぴり自分のことが分かっただけで隠れ家暮らしを終えた。
 何のことはない、ほぼ一年かけて、おじさんが今の自分を丹念に見つめなおしただけだ。何も変わらない、と思っていたトロさんだったけれど、実際に何も変わらなかった。トロさんはリフレッシュして、素の自分に折り合いをつけたのだろう。

 本当に疲れているおじさんがこの本を読んだらどんな感想を持つのだろう、とずっと私は思っていた。トロさんのように、仕事上の仮面をつけて、「それでも仕方ないから」という理由で片付けている、本当は弱い人たちはどんなことを思うのだろう。羨むか、鼻白むか、果たしてどうなるか。
 この本は、いささか感傷的な、人生実験とでも言えるような、1エピソードだったけれど、出来そうで出来ないことをしてくれたと思う。それがフリーライターとしての北尾トロならではの仕事、なのではないと思う。北尾トロ本人の興味と不安が折り重なったからこそ、こういう本が出来るのだと思う。用意された舞台は日常から離れているが、描かれている発端や心情は、本当に人間臭くて、とても良いと思う。

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紙の本博士の愛した数式

2008/01/27 03:02

「いい話」というだけの物語ではない。

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 小川洋子は、今作品『博士の愛した数式』で第一回本屋大賞を受賞。小川自身は、『妊娠カレンダー』で第104回芥川賞を受賞。

 ここでいまさら言う必要が無いほど有名で、蛇足かもしれないが、念の為に。
 本屋大賞とは、2004年に創設された文学賞の一つであり、他の文学賞と大きく違うのは、「新刊を扱う書店の書店員が選考委員」という特徴である。現在の所の受賞作品を見てみると、「女性作家が多い」、「文学性云々よりもエンタメ性が重視されている」、「受賞作品全てが映像化されている」などの特徴が見られる(一部、ウィキぺディアを参照)。
 2008年一月末現在までの所、四作品が受賞作として知られているが、もうすぐ最新受賞作が決まるはずである。選考委員が書店員、という特徴からも、やはりというかなんというか、次世代の書物、文学を牽引する役割を担っているだろう。大きく拓かれた文学の誕生(又は再誕?)である。
 
 …などと、評論ぶった偉そう口調が出てしまってすいません。直木、芥川、メフィストと並んで、個人的に注目してるんで。

 前置きが長くなったのは、実は書く事があんま無いからだったりする。

 事故で記憶を80分しか保てなくなった元数学教授の老人、「博士」。家政婦紹介組合を介して、彼の義姉に雇われたシングルマザーの美人家政婦。その家政婦の息子であり、博士に溺愛される少年、「ルート」。彼らが紡ぐ、美しく、どこか悲しい話。

 これが概観であり、大体全てを表現していると思うんだけど、そういう「感動系のお話」として、物語らしい物語で、現代の良いおとぎ話だな、というのが一点。そっち系のお話として読んだらこれは、「小川洋子が書いた」というだけで一流で、外れるわけがない。小川洋子が『妊娠カレンダー』で見せたブラックさが無い分少し物足りないと私は感じるが(おとぎ話として、博士の「性質」にブラックさを求めることも出来るかもしれないが、そこに対する言及は避けたい。というか、したくない)。もちろん、「博士から【私】へ」、「博士からルートへ」、「ルートから【私】へ」、「ルートから博士へ」、「【私】からルートへ」、「【私】から博士へ」、と三人の間でそれぞれが「親子」どちらにもなりえる、という構成にも注目できる。

 我らがげんちゃん(高橋源一郎)が、どこかで小川洋子について触れた事を覚えている。詳しくは覚えてないが、おそらく褒めているような内容だった。
  
 この作品で大きく扱われているのは、さきほど述べた「いい話」であると共に、それでいて、細かすぎるほどの数学に対しての描写である。話の全てに数学が絡んでいると言っていいだろう。数学の「美しさ」の上に、「いい話」が置かれている。
 この作品が「いい話」で終わらないのは、この数学の描写という特徴のおかげである。

 数学という部門の真理に生きる人間が博士なのであるが、その博士が語る「真理について」は、こちらの心に大きく響く。
 私の印象としては、「いい話」だな、という一点であり、特別良いとも思えなかったが(これは私がひねくれているからであろう)、この博士が語る「真理」についての語りは一番光って見えた。

 彼が語った「真理」の対象は、「数学」であったが、私はそれを「文学」と置き換えて、小川洋子はやっぱりすごい、と一人で感じていた。この一冊でした「数学」への試みは、遠まわしな「文学」への試みじゃないのかな。それを博士という「特殊な運命を背負った人間」が滅びながらも実践し、それを小川はこんなにも「いい話」にしたんだから。

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