穏やかでいて才幹に優れた女帝
2015/08/30 18:17
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:きらきら - この投稿者のレビュー一覧を見る
美しく賢明で穏やかな氷高皇女が元正天皇となり、その政治的手腕を発揮していく。
古代の女帝と言えば持統天皇が有名だが、元正天皇もただの中継ぎの女帝ではなかったことを指摘してくれる。
遠い過去の遠い存在の人物を身近に感じさせ、歴史の教科書には載っていない当時生きていた人々の心情を微細にわたり語る。
政治のために自分の恋も犠牲にした元正天皇。
冷静且つ聡明なこんな人物に会ってみたい。
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:earosmith - この投稿者のレビュー一覧を見る
初めて未婚の女性として即位した元正天皇。単なる中継ぎではなく、藤原氏から皇位を守るために即位した蘇我家の女性、という見方がとても面白かったです。
一人の女帝を通して奈良時代前半の政治の流れを俯瞰できます
2019/10/17 11:33
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:おくちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
奈良時代に多く現れた女帝の一人、元正天皇(氷高皇女)を主人公にした歴史小説です。
この小説では、元正天皇(在位715-724)が自ら何かをした、積極的に関わったということはあまり書かれていません。しかし、永井路子さんによると、この両名(母と娘)は蘇我氏の血を引く最後の女帝で、まさにこのころ、皇室との関係を深めて勢力を伸ばそうとする藤原氏との激しい駆け引きがあったというのです。
実際、藤原不比等は娘の光明子を聖武天皇に嫁がせ、長屋王の変の直後に皇族以外で初めて皇后にしていることからも藤原氏の台頭は明らかですが、旧勢力を蘇我氏の流れをくむ女性とした点が新鮮で、たしかにそう解釈すると、元明天皇から元正天皇へと女帝が2代続いたことや、その後の聖武天皇の不可解な遷都などもよく理解できるのです。その意味でも、この小説は古代史に興味のある人にとってたいへん読みごたえがあると思います。
ひとつだけ不満を言えば、小説のタイトルです。美貌であったことは続日本紀に記述されているそうですが、元正天皇が自らの美貌を武器にして何かをしたのでも、またそれが原因となって男同士の対立が起きたわけでもありませんので、美貌というのはどちらでもいいことです。もっと適切なタイトルがつけられなかったのかと残念です。
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:エムチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る
美貌の女帝……誰かな?氷高皇女は美人というから……。やはりアタリ、元正天皇か。独身の二人の女帝、孝謙天皇に比べて、元正天皇は余り男性の噂聞かないが……。確かに長屋王ならば、地位も年齢も……。
せっかくの面白い素材なのに
2017/09/12 23:52
1人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:るう - この投稿者のレビュー一覧を見る
元正天皇という波乱万丈の人生をおくった方を主人公にしたのに善玉対悪玉に終始していて勿体ない。全部 型にはまり過ぎている。
投稿元:
レビューを見る
大好きな永井路子作品。
今回の主役は氷高皇女。
日本史上唯一の未婚の天皇。
女性として 皇女として 天皇として
一族の長として
政治と戦いながらのお話しに引きづり込まれたが、後半はちょっと大雑把になったような…
投稿元:
レビューを見る
持統天皇の孫、氷高皇女のお話。
スポットライトを当てる人物は永井路子らしく、いいところをついてるなぁ、と思います。
生まれ、天皇となり譲位し、聖武天皇の補佐をするまでの一生。
氷高皇女は静謐な美しく芯のある女性としてかかれています。
個人的にはぱっとするところがあまりない気がするのですが、傍観者としての役割を果たしているのだと思えばその静かさもすんなりと受け入れられます。
私はサイドの人物、特に藤原不比等と聖武帝がとても好きになりました。
不比等は陰険であまり好ましくないような書かれ方をしているのですが、晩年に至るにつれて人間味のある人なんだなぁ、と思うと人の儚い悲しみを感じます。
聖武帝も、人の弱さの中に潜む狂気的な強さが好きでした。
政治的に、あるいは寿命によって敗北していく人々の強さが描かれた小説だと思います。
投稿元:
レビューを見る
永井史観は説得力がありますねぇ。元明・元正帝は中継ぎとして存在感が乏しかったのですが、永井路子は蘇我系天皇としてキャラをたて、藤原系天皇との対立項とします。滅びゆく蘇我氏のプライドを守る女帝たちの生き様が凛としています。
投稿元:
レビューを見る
悲しくも気品のある女帝の姿にうっとりといたしました。それはなにも華やかで豪華絢爛だからではありません。むしろこの作品の主人公、元正天皇の生涯は苦難に塗れています。孤立を深めていく中、蘇我の娘としての誇りと意地をよりどころに己を滅し政(まつりごと)の世界で痛々しいまでに戦い抜く姿は感情移入をしないわけにはいきませんでした。もしかしたら、即位時の年齢が現在の私と同じというのも共感を生んだひとつの理由かもしれません。また藤原氏の面々が演じる腹黒い悪役ぶりは物語をひきたててくれます。
投稿元:
レビューを見る
百数年続く、天皇家の妃として名高い蘇我の女帝たちと、その皇位を奪おうとする藤原氏のお話。
後に元正天皇となる氷高ひめみこを主人公に
持統天皇、元明天皇、元正天皇、3人の女帝たちが活躍し、そして滅びるまでが
壬申の乱、藤原京から平城京への遷都や、薬師寺建立などの史実とともに描かれていて大変面白かったです。
薄紅天女の世界観がすごくよかったので、この時代のお話をもっと読みたいと思って本書に辿り着いたのですが、すごくよかった。
貴族という華やかさの裏にある、血統を守るためだけに行われる政治。
度重なる政略結婚、近親結婚で家系図が出てくるたび、蘇我氏の執念を見た気がしました。
かと言って、藤原の側が正しいのかと言えばこちらも私欲私怨にまみれていて、なんとも浅ましい。しかもやりかたが汚い。
長尾王が追い詰められて自害してしまった場面は読んでるほうまでしんどかったな。いいひとだったのに...ぐすん。
最後の最後で氷高が「政治は妥協と融和のうえに成り立つ」と悟るのだけど、もっと早くに気づけていれば死なずに済んだ者が何人居たことかと。
誇りなんて一円にもならないのに!というのは平和ボケした現代人ならではの感覚なのかななんて思ったりもしました。
薬師寺が持統天皇の病気平癒のため建立されたとか
藤原京から平城京へ都が遷るのと一緒に薬師寺も移されたとか
おなじく遷都の際に、藤原不比等が厩坂寺を移したのが現在の興福寺だとか。
もともと奈良や仏像がすきでいろいろ本を読みましたが、困ったことになかなか憶えられなかったんです。が、今回こちらを読んだことで完全に頭に入りました。ありがたや。
そしていま猛烈に奈良にいきたくてうずうずしています。
平城京跡も飛鳥もまだ行ったことがないので行ってみたーい!
投稿元:
レビューを見る
これは藤原氏が権力を獲得するようになる原点だと読める。蘇我の力が霞んでいく、そんな歴史物語。おもしろい。
美貌の女帝:氷高の物語。持統天皇の孫で阿閉の娘である。
______
p40 蘇我の血
蘇我家の繁栄の始まりは蘇我稲目からである。欽明天皇以降約150年の天皇は蘇我の血を引く女を妃に迎えて続いてきた。今回の主人公の氷高もこの系譜である。
p48 壬申の頃
氷高の母:阿閉は天智天皇の娘である。斉明天皇の頃に白村江の戦で唐・新羅軍に敗退して、中大兄皇子は国内の支持を得られず、政治の中心地の飛鳥から近江大津宮に遷都して心機一転して天皇に即位した。
天智天皇は唐風趣味を大いに取り入れた。それによって唐に恭順した体裁を作ったのだ。とはいえ現実には戦争に敗れた日本は唐の使節にしこたま貢納物をぶん捕られている。
そのうち唐と新羅が敵対し始める。新羅が日本に援軍を求めた際、大海人皇子の一派がそれに手を差し伸べた。天智天皇に抗する一派を従えてのことだった。朝鮮半島では新羅軍が優勢になって、大海人派の人たちは勢いづく。そして大津宮の天智天皇の息子:大友皇子と皇位継承を争って壬申の乱を繰り広げる。
壬申の乱は非常にグローバルな戦いだったのだ。そして、天智天皇派は思いのほか弱い存在だったのだと思う。それが天武派を覆すのは、これから出る藤原氏の力なのである。
p51 持統の意思
天武天皇の妻だった持統天皇。彼女は即位して夫の意思を引き継ぎ、意地でもそれを達成した。
天武天皇は壬申の乱に勝利し、天智の頃の政治を刷新しようとした。大津宮から飛鳥に戻り、新しい律令を作ることにした。その新しい法制によって外交も変わる。
天智の頃を超えるべく改革を推進した天武天皇は、悔しいかな志半ばで生涯を終える、それに加え息子の草壁親王も早逝する。その夫と息子の無念を引き継いだのが妻の持統天皇である。
飛鳥浄御原令の制定と飛鳥の藤原京への遷都、新羅寄りの外交転換。これらを断行したのは持統天皇である。次代への場繋ぎとしての女帝ではない、強い女だった。
p60 春過ぎて…
持統天皇の有名な和歌「春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山」
一般的には初夏の爽やかな情景を連想する名歌だが、この歌は彼女が諸事を達成した後に読んだ歌であるということを考えると、深い…。
p70 倉山田石川麻呂というヤツ
乙巳の変という蘇我蝦夷・入鹿の親子を滅ぼした事変。これの背景は、肥大した蘇我家の中の権力争いが関わっていた。蘇我倉山田石川麻呂という変な名前の男がいる。彼は蘇我馬子の息子:蝦夷の兄弟であり、蝦夷の地位を嫉んでいたようだ。それが中大兄と結託して事を起こしたのである。
その乙巳の変を共に起こした二人にも亀裂が生じる。それに付け入る者がいた。時の孝徳天皇に「倉山田のやつが中大兄の命を狙っている。」と忠言して倉山田は誅伐される立場になってしまった。都を逃げた彼は自害してこの世を去った。
彼を陥れたのは蘇我日向だと阿閉はいう。
p74 中大兄の罪滅ぼし
阿閉は倉山田石川麻呂の孫なのである。倉山田と中大兄が良好な関係だった時、倉山田は二人の娘を中大兄に輿入れさせた。竿姉妹ということか。その遠智娘の娘が持統天皇、姪娘の娘が阿閉だったのである。
中大兄は倉山田が死んだとき、大いに悲しんだ。自分の命を狙っているということが虚偽だったと知り、更に。そのせいか、倉山田の二人の娘である妻を愛することで罪滅ぼしをした。そういう態度を取った。
この辺が、人間関係を複雑にしている原因である。敵として滅んだ者の子供が再興したりするのはこういう罪悪感の強迫観念からくるのである。そう、俗にいう、怨霊信仰だね。
p76 藤原鎌足
中大兄の参謀として最も信頼されていた巨人。彼がこの頃の政治のすべてを動かしていたようだ。阿閉は幼いながら彼の姿を見て様々なものを感じ取っていた。
中大兄と倉山田石川麻呂をくっつけたのもおそらく彼の策謀であろうが、彼自身は蘇我家に対する激しい敵対心を隠しているようだった。まず蘇我家のトップである蝦夷らを仲間割れで倒し、その後倉山田も策謀によって潰してしまった。すごい。
彼が狙っていたのはポスト蘇我家だったのだろう。自分の娘を大友皇子に輿入れさせて天皇家の血を自家のものにしようとしていたのである。
p77 壬申の乱
壬申の乱は蘇我vs藤原の代理戦争であった。
大友皇子を押し、蘇我家の排除を狙う藤原家、それに抵抗しようとする長年天皇家の姻戚を牛耳ってきた蘇我家。二つの家系が存続をかけた戦いだったのだ。
大友皇子は藤原家の神輿、大海人皇子は蘇我家の神輿としてぶつかったのである。藤原鎌足はこのころすでに死んでいたが、巨人は死してなおその意思を残していったのである。
壬申の乱は唐と新羅のどちらに就くかという国際関係の背景もあるが、同時に宰相を争う家系の争いであった。
p118 文武天皇
持統天皇が病に臥し、孫の文武天皇が即位した。この即位の年は甲子で、中国で言う「辛酉革命、甲子革令」にあたる年だった。それ故にそれにならって甲子の日付の八月一日に即位した。
p122 田辺史
タナベフビト。藤原姓から田辺という姓に改姓していた、後の藤原不比等である。壬申の乱以降の不遇の時代を臥薪嘗胆で耐えてきた鎌足の息子である。文武の即位あたりから頭角を現し始め、文武の詔によって藤原姓を復活させている。彼が大きくなってきた!!
p126 革令
文武の即位の年に倣って飛鳥浄御原令から新しい法律を作ることになった。そこに暗躍したのも不比等だろう。そして天武以来、外交は新羅寄りだったが、遣唐使の派遣を再開する運びになった。
新しい法律には唐風の様式が随所に見られた。地域区分に使われていた評(コオリ)という字に新たに郡という字が使われた。これは中国と同じ用法である。
これは大宝律令というものである。
p148 持統のうらみ
持統は死の床に臥して、最後に胸中を吐露した。
持統は即位後間もなく、姉の子:大津皇子を謀反人として死に追いやった。それは自分の子の草壁親王���皇位に付けたいがためと思われていた。そう思われてもしょうがない。そういうこともあって持統天皇は女帝ながら冷酷な強い女というイメージを持たれていた。
持統曰く、大津皇子を殺したのは妻に山辺皇女という蘇我赤兄の娘がいたからだという。彼女にとって蘇我赤兄は祖父の倉山田石川麻呂の仇の一人である。祖父の死をなすがままにして旨味を吸った男の血を許せなかったと…。
持統は天皇になり、か弱き女を捨て、強く生きた。
これを氷高に話したのは、天皇として生きるには強さが必要だということを言い残したかったからだろうか。
p168 蘇我の怨念だな
文武天皇は25歳という若さで死んだ。病弱な体に天皇という神経質な仕事は辛かったのだろう。特に後継者問題が多くの期待や圧力を文武に強いた。藤原家の血を持つ子:首、石川家の血を引く子:広成、蘇我の血をひかないものが皇位を継ぐために多くのイザコザを産んだ。その重圧に耐えきれなくなった結果だろう。
蘇我家の血が呼び起こした権力闘争。蘇我という無形の魔物が生きる者を死に追いやった。まさに怨霊だね。
ちなみに文武の後は母親で共同統治者にいた阿閉が元明天皇として即位したよ。
p173 銅
元明天皇と藤原不比等の静かないがみ合いが続く中で、秩父の山中から自然銅が採掘されたという朗報が入った。それを記念して年号を和同と改めることにした。そして新たな銭貨を鋳造することになった。そう「和同開珎」である。
p181-190 遷都
大宝律令によって官制の規模が拡大した。それには飛鳥藤原京では規模が不足する。それで遷都すべきという意見がでた。これは律令を制定を不比等が最初から目論んでいたことだと元明は思った。
そのうち陰陽師も「藤原京は運気が悪い。だから持統もここで死んだし、文武も早逝した。そういう禍の地から離れるべきだ。」という進言し始めた。外堀が埋まってきた。
最終的に元明帝が折れて、710年に平城京への遷都が実施された。
p206 あをによし
「あをによし 奈良の宮には 万代に 我も通はむ 忘ると思ふな」と藤原不比等に歌わせている。この歌は万葉集の1巻80首目(作者不詳)にある歌である。
奈良の都の事は忘れませんよ。いつまでも通い続けますよ。という意味の歌だが、遷都を推進した不比等に歌わせる皮肉。もう、皮肉しかない。キーッ。
p208 焼失
遷都に際して、まだ造営途中の藤原京から移ることの無駄を理由に元明は反対した。それに対して不比等は「それなら造営途中の物はそのままそっくり移せばいい。それは全部自分がやりますよ。建設途中の薬師寺ももちろんやります。」といって遷都をゴリ押しした。
ところが、元明たちが居なくなった藤原京の大官大寺で火事が発生した。薬師寺は無事だったが、これはきっと放火だろう。初めから不比等は建造物の移転を本気で実現するつもりはなかったのである。燃えちゃったから、で済ますとか、代わりに新しいのこっちで作るから許してちょ、とかすごくすごいズルい。
p259 大陸事情
この頃の外交方針はコロコロ変わっていた。唐よりになるのか、新羅寄りになるのか、それが国内の派閥争いに深く関わっていた。
p246 元正天皇
氷高は長屋王と画策して元正天皇として元明の次に即位した。不比等としてはライバルの石川家の広成と広世から皇位のはく奪に成功し、藤原の血を継ぐ首皇子が次代と思っていたから寝耳に水だっただろう。とりあえず一旦は藤原の勢いを抑えられた。
しかし、不比等は元正天皇即位に際して尽力した。長年、壬申の乱後の苦節を乗り越えてきた男にこれ位の障害はなんてことないのであろう。
p292 首親王の即位(聖武天皇)
元明天皇が死に際して遺言を残した。皇太子には首皇子をと。阿閉の息子:文武帝の忘れ形見である首に、藤原の血が混じる首に皇位を継がせることを許した。
p314 大夫人
聖武天皇は母の藤原宮子を正一位藤原夫人を尊じて藤原大夫人と呼ぶようにという勅令をさりげなく出していた。
この大夫人はオオミオヤと読ませる仕組みがあった。
当時の日本語では夫人(オオトジ)と読み、皇祖母(オオミオヤ)と呼んでいた。つまり元明とか皇族の母が冠する名前である。人々が同じ言葉で読んでいるうちに藤原家の人間を皇族の人間と同じようなものにしようという、さりげないけど、周到な作戦だったのだ。藤原家の皇族入りを本当に些細なことから外堀を埋めている。こわい。
p338 長屋王の変
長屋王が国家転覆を図る呪詛を行っているという噂を聞き、天皇の勅令で長屋王の家を囲んだ。これは藤原四兄弟の陰謀である。事実である。
この時、元正天皇は病に伏していた。太上天皇の地位にあるのに前相談なくこの長屋王の変は決行された。いや、これは意図的だ。
p350 長屋王の変は虐殺
長屋王は家を襲撃され殺された。公式発表では自殺である。無実の罪を問われ、尊厳死を選んだという。そして妻の吉備ら家族も長屋の後を追って首を括ったという美談に仕立て上げられている。
とはいえ、自殺を騙った虐殺である。
長屋王の妻:吉備は元明の娘である。だからその子供にも皇位の可能性はある。藤原家の狙いは長屋王の息子たちだったのであろう。こわい。
p352 元正の一言が
元正天皇は病に伏した際、聖武の後嗣に吉備の子を指名した。その頃はまだ聖武に子供が居なかったため、そう言い残したのである。その一言が聖武と藤原家に不安を産み、狂行に走らせたのだろう。
そんな、間接的とはいえ、自分のせいで妹夫婦が謀殺されるなんて…。
p375 長屋王の呪い
735年、藤原四兄弟は流行り病で次々に死んでいった。そのタイミングはさながら長屋王たちの怨念のようだ。
p385 藤原広嗣の乱
聖武天皇は長屋王の呪いを恐れて平城京から遷都しようとした。そんな折、藤原広嗣が九州で挙兵し都に攻めてくるとの報が入った。
広嗣は藤原宇合の長男で太宰府に務めていた。しかし、藤原四兄弟が皆死に、中央政界に伝手がほぼなくなり、自分の中央復帰が絶望的になったので事を起こした。挙兵の理由としては、聖武天皇が厚遇していた吉備真備と玄昉が天皇をたぶらかす君側の奸だと訴え、それを討つという名目で挙兵した。まぁ、負けたけどね。
それでも聖武天皇には効果バツグンだった。
p389 恭仁京
聖武天皇が長屋王にビビッて遷都した都。藤原広嗣の乱の最中に聖武天皇は放浪の旅に出て、この恭仁京に行きついた。まだ完成しない都で741年の新年を迎えた。
恭仁京遷都の諸手続きは橘諸兄が頑張ってさばいた。
p406 大仏作りたいの…
聖武天皇は紫香楽の地に大仏を作りたかった。でも国庫が悲鳴を上げていた。藤原広嗣の乱、聖武天皇の放浪、度重なる出費でもうお金は残っていなかった。
国庫は当てにできないとわかって、聖武天皇は「大仏建立の詔」を発した。つまりこういうこと「私は廬舎那仏を造りたいが権力だけで建てては心がこもらない。だから広く同志を募って事業を完遂させたい。(だから募金してね)」
p408 行基
大仏は行基法師を勧進して造営されることが決まった。行基はそれまで仏教を国に無許可で広めて信者を集める危険人物とされていた。当時の仏教は変なもんだった。国のために祈祷し、国のために仏教を使うこと以外は認められなかった。民の教化は禁止だったのだ。上乗仏教ともいえない都合の良い扱いだ。
そんな時代に行基は民を教化し、教徒ともに社会事業に着手していた。橋や道を造り、租庸調を運ぶ運脚のための布施屋を建てた。行政を無視した行いに政府は弾圧もしたが、そういう人物に天皇自ら関わってしまったのだ。
そういう意味で仏教の革命である。
p416 安積が死んだ
聖武天皇の安積親王が17歳で急死した。もう、暗殺としか思えない。その容疑者の筆頭は橘諸兄である。
諸兄は恭仁京遷都の中心人物として活躍し、そこを拠点に橘家の権力機構を築こうとしていた。しかし、聖武天皇は急に紫香楽にまた遷都したいとか、大仏を造りたいとか言いだし、諸兄らと軋轢を生じ始めた。そういった手におえない権力者は革命に遭うのがよくあることである。恐らく諸兄は安積親王が恭仁京に行った際に「聖武天皇を廃して安積さまが即位すべきです。その助けは吾らが…」という聖武暗殺をほのめかしたのではないか。しかし、それを断ったために口封じのために殺された可能性が、十分に考えられる。
p420 仲麻呂の暗躍
元正天皇はこの安積の死が橘諸兄の陰謀かという疑惑の中に、さらに大きな陰謀を感じ取る。藤原仲麻呂である。彼も安積親王が死んだ恭仁京にいた。ここで安積が死ねば一番疑われるのは誰か、わかっててやったのではないか。藤原氏のやってきたことを知っている元正天皇だから思いつく想像である。
たしかに、安積親王は藤原氏ではなく、藤原氏の血を疎んでいる聖武天皇はこのまま藤原氏を皇族から遠ざけるかもしれない。そこで皇位継承者を藤原の血のある者だけに間引きし、ついでに橘氏を貶めることができるのが、今回の一件である。一番良い思いしたやつを疑うと、そうなる。
p432 紫香楽の廃都
聖武の望む紫香楽遷都は妨害に遭っていた。妻の光明子と仲麻呂にだ。彼らは藤原氏の根拠地である奈良への帰京を望んでいるのである。そのためか、紫香楽の近くの山々で不審火が上がり、大仏ができる前に薪がなくなる可能性もあった。
そして紫香楽京が完成してから、不審火で近くの山々が燃え、��らに悪いことに5月に地震が頻発した。これではもう人々は呪われた地であるという思いしかない。そして平城京へ遷都が実行された。
聖武天皇、、、無念。
p444 永井路子史観
この本にある、古代の天皇の女系には必ず蘇我家の血があったという事実に気づき、元正天皇が聖武天皇に譲位したことでその系譜が断絶したこの史観は非常にユニークである。古代の女性の大きな役割を史料から読み取った永井路子史観は実に興味深い。
p446 持統天皇の意味
女帝として男性天皇よりも有能で行動的だった持統天皇の例を見ると、女性天皇が巫女的存在だったり、場繋ぎ的存在だったという解釈はあまりに低評価だと思えるようになる。確かに飛鳥時代に女性天皇が続いたこの時代、連続して場繋ぎが置かれるなんて言うのもおかしな話である。そういった意味で、持統天皇は真相を考える上でのキーウーマンである。
そこに観点を向けた永井路子は良い。
______
数ある著作の集大成的な感じがする。永井路子の女性を中心にとらえる独特の史観がここに極まっている。
持統天皇・元明天皇・元正天皇と三代の女性天皇を主人公にして、朝廷の権力争いを描くが、これは結局藤原氏の始まりの物語と感じられる。
藤原氏はやっぱりずるがしこい貴族連中の中でも格が違う。というかやはり遺伝子レベルで優れているな。権力に適合している。
奈良、飛鳥時代から平安時代を学ぶならやっぱり永井路子がいいね。
投稿元:
レビューを見る
なぜ遷都が繰り返されたのか、なぜ四代だけ女性天皇だったのか、その答えかもしれないと思いながら読むとハマる。それにしても血統が複雑。それも原因だったのかもしれないが。元正天皇だけは独身で突出した美貌。井伊直虎のときのように妄想してしまう。こんな見方、不謹慎だろうか(笑)
投稿元:
レビューを見る
のちに元正天皇となる氷高皇女が主人公である。
著者によると、歴史的には地味な人物であるようだ。
それでも、奈良時代に生きた彼女の壮絶な人生は小説にするに値する。
妹吉備と長屋王の結婚、側近の裏切り、為政者であった当時の天皇の苦悩は計り知れない。
自身の血筋を守るという大きな使命を背負い、巧妙な駆け引きが繰り広げられる。
一人の女性として様々な思いを持ちながら、天皇という職務を全うした彼女の本当の思いはいかばかりだったのだろうか。
当時は、腹違いの兄弟姉妹や、姉妹で伴侶が同じだったりと、家系が複雑で少し混乱してしまった。
人物の関係性をしっかりと把握していれば、もう少し滑らかに読めて、ストーリーに没頭できたかもしれない。
投稿元:
レビューを見る
氷高の皇女ーのちの元正天皇の物語。
話は、氷高の祖母である持統天皇の晩年から始まる。弟である文武、母である元明、そして自身の元正、甥の聖武の時代にかけて綴られている。
天皇家の女性たちを中心としながらも、やはり政治の面になると欠かせないのが藤原氏。
天皇家VS藤原氏の行く末に、歴史を知っていながらもハラハラドキドキしてしまう。
改めて、藤原氏は狡猾というか、とても頭の良い政治家だったのだな、と思わざるを得ない。
ところどころ、急に話が進んでしまうように感じるところもあったので、永井路子さんの文章が大好きな私にとっては少し残念。
好きな時代だったこともあり、とても面白く、時代に引き込まれて一気に読み上げました。
投稿元:
レビューを見る
女性のつよさ、優しさ、儚さ。女帝として時代を背負って生きることの意味。抗うことなく立ち向かい、苦しみ、それでも戦う姿。女性の視点と強さは、凄まじい。そして逞しい。