MementoMori(死を忘れるな)を教える名著
2005/12/03 21:05
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投稿者:銀の皿 - この投稿者のレビュー一覧を見る
多くの哲学者からも「死を描いた優れた書」と評価されている、トルストイの短編。文庫の中でも薄い方に入る一冊です。一人の中年の男が不治の病に罹り、何を考え、死んでいったのかを描いただけ、と言えばそれだけ、の物語です。しかし、短編だからこそ、それだけ、を切り取り凝縮した形で読ませてくれます。同様のテーマを扱った文学は少ないないですが、ポイントに絞り込み、深く切り込んだ文章は、やはりさすが、と言うしかありません。
本当に「自分の死」に直面して読む気力など無くなるまえに読んでおきたい本だと思います。若くで元気一杯の人が読んでも、忘れてしまう一冊なのかもしれませんが、そろそろ健康が気になりだした、ぐらいの年齢になったら読んでおいても損はないでしょう。
お話は、何度でも何度でも、至るところでくり返している情景です。急に調子が悪くなり、治らない病気ではないかと主人公が不安を感じ出した時、「大丈夫」と励ますだけで主人公の不安には答えられない家族。自分自身も、仕事のあるうちは仕事をすることで不安な気持ちを紛らし、死を考えないようにしてしまう。そして彼の死が伝わったとき、職場の同僚たちはポストの移動について考え、妻はお金のことを考え、弔問に来た友人もその後のトランプ遊びの予定について考えているのです。いえ、おそらく死んでしまった主人公自身もこれまでは同じように行動し、「死」など考えずにいたのに違いありません。
死の恐怖が身近になって、彼が周りの人に求めたものはなにか。彼が問い続けたのはなにか。最後に何を考えたのか。自分もいつかそう考えるのだろう、と思わせるリアルな心理描写です。
重くて皮肉さも含まれるお話の中、「だれでも死ぬんだから親切にするだけ」と明るく看病する下男に少しだけ救われた思いをし、死の直前、泣いている息子をみて「彼らを苦しめないように」と考える主人公に、自分はそうなれるのだろうか、と自問してしまいました。
必ず自分にも死が訪れることはわかっているつもりでも、それを考えない生活を続けていくのが現実です。そうでなければ生活などできない、と言えるかもしれません。それでも時々、こんな短編を読んだりして「死」を思い出してみることも必要かも。自分なりに「よく生き」たと思うために。
死生観について考えさせられます。
2020/01/26 20:20
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投稿者:岩波文庫愛好家 - この投稿者のレビュー一覧を見る
病気に苦しみ悶える・・そんな生活の中で、主人公と彼を取り巻く家族の様子がまざまざと描かれています。人は病気になって初めて自身の健康の有り難みを知ります。私も一ヶ月前に前庭神経炎で眩暈を患った時、つくづく平生に感謝する有り様でした。
さて、小説の中身を見ますと、主人公の妻の態度(結婚後、子供が出来てからの時期)と、主人公が病に煩悶している時期の態度とが、見事に対比されてありました。興味深い構成でした。
人は時と共に変わります。主人公も幼少期・青年期を経て結婚・家族としての生活と、目まぐるしく変化していきます。私自身、引いては今この時代の多くの人々も同様な歩みを経験しているのだなぁと感じました。
世界の文豪トルストイの円熟期の作品
2009/08/25 21:51
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投稿者:萬寿生 - この投稿者のレビュー一覧を見る
第1刷発行が1928年10月10日、この第70刷発行が2003年4月4日である。超ロングセラーである。まさしく古典と言えるものであろう。書かれたのは、1884〜6年。ロシアのというより世界の文豪トルストイの、円熟期の作品だそうです。
時代はロシア帝政期の作者と同時代、主人公は平凡な小市民的判事。農奴が大部分の人口をしめる当時のロシアにあっては、そこそこの収入と財産がある中流階級と言えるのであろう。その凡人が、ちょっとした事故がもとで不治の病になり、死にいたる経過を書いている。
社会的地位の向上と収入の増加を自己の幸福と信じてきた主人公が、自分の死に直面し、それまでの人生や生き方に疑問を持ちはじめ、苦悩し、死を受け入れる過程が、克明に描かれる。内容、描写ともに世界の文豪にふさわしい。官界における栄達と快適な私生活の充実を求める俗人を主人公にしながら、誰もが迎える死の問題の本質的を捉え表現している。最近の小説のように大事件が起きるわけでもないのだが、不治の病になり、だんだんと激しくなる肉体的苦痛と体の衰えと、営々苦心して築き上げてきた生活への執着と、死に直面しその生活の無意味さ無価値さに気づいていくまでの苦悩は、すべての人間に共通するものであるが故に、またその表現力故に、読むものの心に働きかけ訴えるものがある。非常に短い短編ではあるが、世界の文豪の一級の文芸作品である。
まあ、ざまあみろと思わないでもないのだが
2021/04/22 22:09
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投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
イワン・イリッチの死因となった病名は本当は何だったんだろうか、医学からは遠くに居すぎている私には見当がつかないが、新居の飾りつけをしているときに梯子を踏み外してわき腹を強打したことが始まりだったことは確かのようだ。名作「アンナカレーニナ」が完結したのが1877年、この作品はその9年後の1886年に発表されている。主人公・イワン・イリッチの裁判所の判事を勤めて、上流階級とも付き合いがあり、カードも上手な人生の成功者が「自分は山へ登っているのだと思い込みながら、規則正しく坂を下っていたようなものだ。世間の目から見ると、自分は山を登っていた。ところが、ちょうどそれと同じ程度に、生命が自分の足元からのがれていたのだ」と悲しむ有様は胸を打つ、まあ、ざまあみろと思わないでもないのだが
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投稿者:さんさん - この投稿者のレビュー一覧を見る
『戦争と平和』には自分の体力も理解も及ばなかった私はこの『イワン・イリッチの死』を読んでようやくトルストイの凄さを実感しました。たった100ページほどなので退屈さを感じずにじっくり読めるのがありがたく、それでいて内容は秀逸。これほどまでに人は死に向かう人間の真相を克明に記すことが出来るのか、とまずトルストイの描写のうまさに舌を巻いてしまいました。
ひとつ難を言うとすれば訳が古いこと。(そのほうがかえって味があって楽しめる、という面もありますが。)ちょっと読者の教養に頼っているところがあるので読む前にロシア人の名前(父称、愛称)ぐらいは慣れておいた方が読みやすいと思います。
イワン・イリッチの死
2003/01/15 17:26
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投稿者:ぺやんぐぅ - この投稿者のレビュー一覧を見る
イワン・イリッチは不治の病に侵されていた。彼は自分が死に行く事を知りながらも死を受け入れられずに、肉体的・精神的苦悶を抱えつづけていた。誰しもが迎える死。しかし、生きてるものは誰も知り得ることはできない。彼は最期に向かい何を考え、何におびえ、何を喜びとしたのか。
彼が死ぬまでの感情を細かく、リアルに描写されていてとても読みやすい。そして、最期まで読み終わったとき、イワン・イリッチの死というものが何か、という事が自然と解る。
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学生時代読んだ本。
多分この作者、一度死んでるんじゃないかな…と思った。短いし本自体ものすごく薄いけど、とてつもなくヘビーです。
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人生に懐疑を持ったことのない平凡な官吏が、死をとおして本当の「生」とは何かを悟る物語。
イワン・イリッチは薄っぺらだけど、器用で冗談はうまいし処世にも如才ないしかし傍目には上手くやっている人間で、自分もそうだと思っている、という意味で平凡なのである。
彼が、死を目前に親身に感じてくれない妻や娘や同僚に悲しくなって、子供が熱を出した時のようにただ優しくしてほしいと思う素直さが、哀しい。
前半は少し退屈だけど、後半のイワンの悲しみの宗教的発露にいたる過程は迫真。
死は、誰にでも自分にも訪れるものと納得するのは苦しい。
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4時間に及ぶ、
病院での待ち時間中に読破しました。
病院でこんな内容なんて、
なんだか胃に違和感があって病院に着たのに、
この選本に、不安がよぎりました。
主人公のイワン・イリッチは、
色々な人間不信に捉われて、
家族がいながら、自室で1人息絶えていくのですが、
読んでいると、ブランコで1人悲観に暮れる志村喬が浮かんできました。
黒澤明の『生きる』の名シーンですが、
調べれば、『生きる』は『イワン・イリッチの死』をベースにして脚本が書かれているということでした。
いやいや、偶然。
イワン・イリッチは絶望だけを背負って死んでいきます。
死んでも周りで語られるのは、
イワンの職場のポストを巡る、探りあいばかり。
逆に『生きる』では、絶望の中にも希望を見出すストーリーです。
両方を鑑賞すれば楽しいかもしれません。
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これは薄い本だが、トルストイの例にもれず非常に内容密度が濃い。
一凡人の病気の勃発から死に至るまでの精神の変遷が中心であるが、読んでいると主人公のその精神状態にどんどん引き込まれていく。
主人公はあるきっかけで不治の病にかかり、途中で自らの死を悟る。しかし周りの連中(家内、同僚など)は「いや、治るよ」といって聞かない。医師までがそのような態度だ。だが周りの連中も実は、「おそらくもうダメだろう」と言うことは分かっている。しかし彼らは「いやまだ助かるよ」と強調する。つまり、嘘を連呼するのだ。こうして主人公の人間不信は広がっていく。
私はこのような精神状態に陥ったことはもちろんないが、なぜか主人公の心理は妙に共感できた。つまりは「治らないなら正直に治らないって言ってくれ!」と言うような感覚なのだ。しかし、周りの人すべてが偽る。そして主人公は悩んでしまう。主人公は肉体的苦痛も悲壮なほど味わうが、それ以上に精神的苦痛のほうが大きいというわけだ。一人の召使と主人公の息子だけはそのような態度を表さず、「もうダメなもの」として主人公に接してくれる。これが主人公にとってむしろ安楽になっていた。が、死に向かう絶望に変わりはない。
そうして主人公はいよいよ臨終間際に入る。ここでひたすら主人公は死の恐怖に向かい合わされ、心理的にへとへとになってしまうことになる。絶え間ない死との直面。「死にたくない!」と思いつつも徐々に「死」に蝕まれていく恐怖。そうしていよいよ臨終になった主人公が見たものは…
このような大筋の他にも、主人公が自分の妻にさえ分かってもらえないという悲壮感、主人公の病状の身体に現れるときの彼の痛ましい状態などが詳細に描かれていて、「これじゃああんまりだ」と思いつつも興味深かった。そんなわけで、これはお薦めできる本だ。
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一官吏が不治の病にかかって肉体的にも精神的にも恐ろしい苦痛をなめ、死の恐怖と孤独にさいなまれながらやがて諦観に達するまでの経過を描く。(表紙解説より一部引用)
死は永遠のテーマですね。
これまで何度か病床の物語は読んだことがありましたが、よくよく考えてみれば死ぬ側の心理を書き綴った物語はあまり読んだことがないかもしれません。
主人公であるイワン・イリッチは物語の冒頭で死に、その後の部分で死に至るまでの経緯が書かれています。
初めてのロシア文学、そしてトルストイ。
先にドストエフスキーを読む予定でしたが人気のためになかなか図書館になく、こちらにしました。・・・というのは言い訳で、とても薄っぺらい本だったので惹かれました。ロシア文学ってやたら長い。
でもこの本ほど薄っぺらいのに中身が濃い本はなかなか無いかもしれません。
最近の日本の小説はやたら分厚いくせに中身はペラッペラですからね。
この本を読みながら、病床に臥している親類のことを思いました。それこそ、イワン・イリッチが患った病と同類の病でしょう。
自分が病気に掛かったことのある人、若しくは近しい間柄の人間が病気になったことがある人なら解ると思いますが、病気になると明らかに変貌します。それは単に見た目だけの問題ではなく、心の変化が表出しているといった具合です。
何度かそういった場面に出くわしましたが私はとても安易に言葉を掛けられなかったです。
イワン・イリッチもどんどん変貌していきました。
イワン・イリッチは病が進行するにつれ、自分の人生を回顧し、自分はどこで何を間違えたために今このように苦しむ羽目になったのかと思考を廻らします。
・・・私も同じ境遇に置かれたら同じことを考えるのだろうなと思います。
この辺がとてもリアルで、トルストイが世界的に評価されているのも頷けました。
イワン・イリッチは最後にとうとう死を受け入れることが出来ます。(ん?ネタばれ?wネタばれしても物語を読むのに影響はしないです!!)
その点救われた気がしました。多くの人が同じ経験をするのだと思います。絶望の淵に立ち、最期突き落とされて意識を失うだなんて考えたくもない。
人が死ぬということは当然のことです。
でも、今の私は若かりし頃のイワン・イリッチと同様に自分とは切り離して考えてしまいます。
それに直面したとき、もう一度これを思い出して読むことができたら良いなと思います。
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順調に、自分の思う設計図通りに人生を送っていた主人公が、ちょっとした怪我を境に転げ落ちるように、何をやってもうまくいかなくなる。最後は家族にも疎まれる中で人生の終焉を迎えようとする、まさにそのときに死の意味を悟る...
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トルストイと言えば『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』のような大作が有名です。事実、この二作品で巨匠としての不動の地位を築くのですが、『アンナ・カレーニナ』の出版後、自身の人生に無意味さを感じ、小説を書くのをやめてしまいます。断筆生活はほぼ10年間に及びました。『イワン・イリッチの死』は、そんな長期間の断筆生活後に書かれた作品です。既に60歳を目前に控えていたトルストイがこの作品のために選んだテーマは「死」でした。
物語は、イワン・イリッチという男の葬式の様子から始まります。イワンは裁判官でした。仕事はよくできたようで、名誉ある地位を得ていましたし、家族にも恵まれていました。しかし、そんな順風満帆の日々も、イワンが腹痛を訴えた日から崩れ始めます。医者は盲腸だと診断するのですが、どうもそうではない。症状から察するに、恐らくガンです。けれど、自分の身体が一体どうなっているのか詳しい説明もされないままに、イワンの闘病生活は続き、結局、快方に向かうことなく亡くなってしまったのでした。
葬式のシーンから始まった物語は、病気になる前のイワンの生活にまで巻き戻され、そこから最期の場面までを再現する形で進みます。その過程で執拗に描かれるのは、イワンとその周囲の人間達が一様に持っている平凡で俗悪な価値観のことです。イワンは体面と社会的な地位にしか興味ないし、妻と娘は病気の夫を差し置いて社交に大忙し。職場の同僚達もイワンの死に際して、イワンの後釜になるのは誰かということしか考えないような人々ばかりです。
病気になり、社会的生活からドロップアウトしたことによって、イワンは否応なくそのことに気付かされてしまいます。そして、絶対的な孤独に苛まれる中で、自分の人生がいかに無意味なものだったかと自問自答し始めるのです。自分はもっと生きたい、生きたいが、どう生きたいのか。今迄の人生において、本当に自分は生きていたのだろうか、自分の人生は決定的に間違っていたのではないか。死を目前に、そんな自問自答を繰り返すイワンの姿は悲壮です。
イワンは最期の最期まで悩み苦しみ続けます。そして、ついに自分の生き方が間違っていたことを認めます。認めた後、何が起きたか。死の直前、イワンは、死ではなく光を見ます。そして、「ああ、そうだったのか!」と喜びの心に満たされて逝くのです。
一体、イワンに何が起きたのでしょう?イワンが人生の最期で見つけた「本当のこと」とは何だったのでしょうか?
黒澤明監督は、本書を下敷きにして名作『生きる』をつくりました。本書で主人公が見つけたものと、『生きる』で志村喬扮する市役所の課長が見つけたものは、同じものかもしれません。しかし、映画ほどに本書の結論はわかりやすくありません。最期にイワンが何を発見したかの解釈は、読者一人一人に委ねられているのでしょう。
映画のタイトルが『生きる』であったように、本書の根本的なテーマも「死」ではなく「生」です。どうすれば人は満たされた生活を送ることができるのか。死に際して「自分の人生は間違っていた」と思わないようにするにはどう生きればいいのか。
100ページ足らずの小品ですが、どう生きるべきかについて、深く考えさせてくれる名著です。是非、読んでみてください。
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▽ 心に残った文章達(本書からの引用文)
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イワン・イリッチの楽しみは、小さな晩餐会を開いて、立派な社会上の位置を占めている紳士淑女を招待し、彼らとともに時を過ごすことであった。それは彼の客間がすべての客間に似かよっているのと同様、この種の人たちのありふれた時間つぶしに似かよっていた。
勤務上の喜びは自尊心の喜びであり、社交場の喜びは虚栄心の喜びであった。
かつてキゼヴェーテルの論理学で習った三段論法の一例――カイウスは人間である、人間は死すべきものである、従ってカイウスは死すべきものである、という命題は、今まで常に正確このうえもないものと思っていた。しかし、それはただカイウスのみに関することで、彼自身にはぜんぜん関係のないことであった。それはカイウスなる人間、つまり一般に人間の問題であるから、したがって、まったく肯綮に当っている。しかし、彼はカイウスでもなければ、一般に人間でもなく、どんなときもまったく他のものと異なる特異の存在なのだ。
時とすると、ある一つの願いがなによりも強くなることがあった。それは自分自身に白状するのもきまり悪いほどであるが――彼は、病気の子供でも憐れむようなぐあいに、誰かから憐れんでもらいたいのであった。子供をあやしたり慰めたりするように、撫でたり、接吻したり、泣いたりしてもらいたい。
イワン・イリッチは泣きたかった。そして、人からも泣いて愛撫をしめしてもらいたかった。
「いったいお前は何が必要なんだ?」これが彼のはじめて聞いた、言葉で現すことのできる明瞭な観念であった。「いったいお前は何が必要なのだ?何がほしいというのか?」と彼は自分で自分に言った。「何が?――苦しまないことだ。生きることだ。」と彼は答えた。
「生きる?どう生きるのだ?」と心の声がたずねた。「なに、今まで生きて来たのと同じように生きるのだ。気持ちよく、愉快に。」
「今まで生きてきたように、気持ちよく愉快に?」と心の声がたずねた。
自分は山へ登っているのだと思い込みながら、規則正しく坂を下っていたようなものだ。まったくそのとおり。世間の目から見ると、自分は山を登っていた。ところが、ちょうどそれと同じ程度に、生命が自分の足もとからのがれていたのだ…こうしていよいよ終りが来た--もう死ぬばかりだ!
人生がこんなに無意味で、こんなに穢らわしいものだなんて、そんな事のあろうはずはない!よし人生が真実これほど穢らわしい、無意味なものであるにせよ、いったいなぜ死ななければならないのだ?
事によったら、おれの生き方は道にはずれていたのかもしれない?ふとこういう考えが彼の頭に浮かんだ。しかし、おれはなにもかも当然しなければならぬことをしたのに、どうしてそんな理屈があるのだ?
「そうだ、なにもかも間違っていた」と、彼はひとりごちた。『しかし、それは別にかまやしない、大丈夫、大���夫「本当のこと」をすることもできる。だが「本当のこと」とはなんだろう?』と彼は自問した。
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●[2]編集後記
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最近、娘は「制作」に夢中です。とにかく何かつくっていたいらしく、今までだと休日は公園で遊ぶことが最優先だったのですが、最近は、何したいか聞くと、「なんかつくる!」「制作する!」という答えが返ってくることが多くなりました。
朝も夜も一心不乱に絵を描いたり、ハサミを使ったり、ビーズやブロックを組み立てたりしている姿を見ると、何かをつくることというのは人間の根源的な欲求であり、営みなんだな、と教えられます。
娘は一人でつくるのも好きですが、一緒につくるのも大好きです。今の彼女にとって「一緒につくろ」というのは、「一緒に遊ぼ」というのと同じ。そして、一緒になってつくっていると、二人にしかわからない絆のようなものが芽生えてくる気がするから不思議です。
黒澤明の映画『生きる』の中で、志村喬扮する市役所課長が、人生の最期で見つけた生きがいは、貧しい住民達から陳情のあった公園を造成することでした。鬼気迫る態度で関係者達を粘り強く口説き、5ヶ月かけて何とか公園ができあがったその日、志村喬は公園のブランコで歌を歌いながら楽しそうに最期を迎えるのでした。
「誰かのために役立つことができた」という満足がそうさせたのかもしれませんが、もっと単純に、ようやくつくりあげたという、そのことの喜びだったのではないかと思うのです。何かをつくるのは大変なことも多いですが、本質的にはとても楽しい。そして、つくる過程で芽生えてくる他人との絆もある。そういうものが、「生きている!」という実感を与えてくれるのではないでしょうか。
娘はつくりたい欲求が高じると「なんか何かつくりたい!」と叫び出します。それは本当に魂の叫びのようです。それだけ根源的なものなのですから、つくること、大事にしたいものです。
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真に迫った肉体的苦痛の描写は、読み手までが本当に痛みを感じてしまうほど。主人公は死によってのみ、その苦痛から解放される。タルコフスキーは最後の死のシーンに関し、以下のように述べている。「われわれの心の奥底を深く揺るがさずにおかないこの感動的なエピソードに対して、一義的な解釈を下すことなどできるだろうか。このイメージは、名状しがたいほど深いわれわれの感覚と結びついており、われわれの内的体験や、ぼんやりとした思い出についてわれわれに思い起こさせてくれるし、また啓示のように、魂を困惑させ、激しく揺さぶるのである。」【『映像のポエジア』、P162】
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読みながら父親のことや、自分が入院した頃のことを思い出した。あと10年してからもう一度読むとまた違った印象かもしれない。