直接に歎異抄の本文に親しむ
2010/11/28 02:41
5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:みどりのひかり - この投稿者のレビュー一覧を見る
「歎異抄_ワイド版岩波文庫」の方に、書評を一度書いているのですが、今回はその続きとも言えるものを書こうと思います。
ここにも歎異抄 第1条 とその訳を載せておきましょう。
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歎異抄 第1条
弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき、すなわち摂取不捨(せっしゅふしゃ)の利益(りやく)にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆへは、罪悪深重(ざいあくじんぢゅう)、煩悩熾盛(ぼんなうしじゃう)の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆへにと、云々。
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第1条のおおよその意味
弥陀の誓願不思議というものにたすけられて、死ねばちゃんと浄土に往生できるのだと信じて南無阿弥陀仏と、その仏の名前を呼ぼうと思いたつ心が起こったその時その刹那に、すなわち収めとって捨てない、仏の胸の中に抱かれてしまう、そういう利益にあずけられるのだ。その阿弥陀如来の本願には本願の対象は、老人であるとか若いとか善人であるとか悪人であるとかというような区別はない。ただ信ずること、つまり、阿弥陀如来に救われると信ずるこころ、それだけが必要だ。なぜなら、罪が深くて欲と迷いとが盛んな人々を助けようという願なのだ。であるからその本願を信じたからには、ほかに何の善も必要ではない。何故なら念仏と言うことが最高の善なのだから。その最高の善さえあれば他の善は必要がない。悪をおそれることもない。弥陀の本願を妨げられるほどの悪はこの世には存在しないからだ。
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以上の訳はこちらの「般若心経物語」から引用したものです。
次の文章もおおむね「般若心経物語」のものを纏めて引用したものです。
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風俗で仕事をしている浅葉チエさんは他人(ひと)に、「汚い」「信じられない」「理解できない」「人として欠けてる」と、もう、浴びるほど言われた。その結果最初は落ち込んでいたが、やがてその批判を受け止めて自分を見つめなおすようになる。
そして、《どれだけ、世間一般にけなされることをしている人でも、必ず何か理由がある。心に闇を抱えてる部分がある。それがわかっていれば、どんな人と接してもどんな人の話を聞いても、「批判」という言葉はチエの中に生まれなくなった。「その人を受け止める」心の器が、少しできたように思うのだ。「他人とぶつかる」「人とケンカをする」ということが、驚くほどなくなった。》
浅葉チエさんは、そのように、「自分のものさし」を持って決め付けるのでなく、人それぞれの事情を受け止めようという心を持って生きるようになった。
そして、ここに、こういうかたが居たということに、人の世の不思議を感じるのです。「不思議」、「思議することが出来ないもの」「人智をこえたもの」を感じるのです。「宇宙の不思議」を感じるのです。親鸞聖人は、たぶんこれを「弥陀の誓願不思議」とおっしゃったのだと思います。
「弥陀の誓願不思議」ということを、本当に考えた時に、
《 悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに 》
力強くこうおっしゃって下さった先達の言葉に慟哭するのです。
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以上が「般若心経物語」の一部を纏めたものです。
岩波の歎異抄は著者:金子大栄氏の注解や解説は載っていますが、翻訳は載っていません。自分で努力して読みなさいということでしょう。このほうが比較的、人の解釈の影響は少ないので、本当に大切なことを自分で探し出せる気がします。
そこのところがこの金子大栄氏本のいいところだと思います。あまり押し付けがましいところがなくて好きです。金子大栄氏自身はたぶん歎異抄から大きな感動を頂いているのではないかという気がします。金子氏の心の奥にはここに掲げた「般若心経物語」(岩男潔著)で語られているようなものがあるような気がするのです。
金子大栄氏は次のように述べられています。
「明治以後の諸家の解釈・講話等は、それぞれの意味において愛用せらるべきものである。しかしてそれはまたそれぞれの解釈に執(とら)えられるべきものではなく、直接に本文に親しましめる縁となるものでなくてはならない。」
親鸞滅後に浄土真宗の教団内に湧き上がった親鸞の真信に違う異義・異端を嘆いた書です!
2020/04/30 11:13
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、鎌倉時代後期に書かれた日本の仏教書で、親鸞滅後に浄土真宗の教団内に湧き上がった親鸞の真信に違う異義・異端を嘆いた内容です。『歎異抄』の作者は親鸞に師事した河和田の唯円と推定されています。『歎異抄』は、難解な仏典仏語を使わず、真宗の安心と他力本願の奥義が平易に説かれていると言われています。同書は、金子大栄氏によって、段ごとに大意が付されており、現代に生きる私たちにも非常に読みやすくないっています。
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投稿者:オタク。 - この投稿者のレビュー一覧を見る
歎異抄の末尾にある流罪記録はある写本とない写本があると書かれているが、一応、本文の末尾に印刷されていても扱いは素っ気ないのは大谷派の伝統なのだろうか。大谷派の「真宗聖典」では同格の扱いは受けているが、紙装の冊子本ではやはり素っ気ないし、お東騒動の過程で宗門から離脱した東本願寺派の先代が英訳した歎異抄でも流罪記録はなかったはずだ。流罪記録は覚如の御伝抄で承元の法難を書く際に活用されているが。結局のところ、信頼出来る宗門内の親鸞の記録は本人が教行信証で記した承元の法難の記述や著書に記した年齢、歎異抄と恵信尼消息に行き着いてしまう。
あれほど法然と門下を忌み嫌いながらも選択集を熟読して強い関心を持っていた日蓮が親鸞を言及した事がないようなので、当時はそれほど大きな存在ではなかったらしい。
本文自体が長くないから、解説の分量はちょうどいいぐらいだ。
親鸞は「父母の孝養のため」に念仏は唱えなかったかもしれないが、西本願寺に親鸞が実父の日野有範の四十九日に外題を書いた無量寿経を存覚が書き移した写本があるから、実像は違うのかもしれない。師匠の法然のように、意外と周囲の人々の信仰に合わせた事をしていたのかもしれない。
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唯円(1222-1289)の著。1300年頃刊。浄土真宗の開祖親鸞の直弟子である唯円が、親鸞の没後、真宗に対する諸々の誤解を払拭すべく、親鸞の言葉をまとめている著である。本文自体は非常に短く、すぐに読める。原文に加え、十分な解説が列記されていて非常に分かりやすい。「絶対他力」「悪人正機」「自然法爾」といった真宗の教義が非常によく分かる名著である。岩波文庫の売り上げランキングにおいても上位に位置しており、多くの人々に読み継がれている名著である。
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鎌倉時代の書物ですが、意外と読みやすいです。そしてむちゃくちゃ面白い。善と悪って何か、とか、死ぬってどういう事か、みたいな問答が詰まっています。親鸞って人は案外アッサリ「わかりません」とか言っちゃうんだよな。その辺もすごく好きで。
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専修念仏。
浄土を願い、ひたすら念仏を唱える。
すると他力で浄土へ参ることができる。
そこに善人悪人の区別はない。
ただただ仏を信じて念仏を唱えること、それが光明。
ということですかね。
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これが一番薄くて良いです。「善悪はこの世の都合」みたいなセリフは、並の人間ではなかなか言えるものではありません。
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善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。
外形的感想。
ひらがなが多いと頭に入らないです。そういう意味で結構辛い本でした。
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浄土真宗の祖、親鸞上人没後、弟子の唯円が師の言葉をもとに編んだとされる書。
難しい仏典用語も無く、解説が付いているのにもかかわらず普段なじみがないせいか、よく解らないです。
なんとなく自力を誇らず、謙虚さが必要だと言われているような気がするのですが…。
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浄土真宗の聖典。
読んで初めて分かったけど結構危険思想じゃないかこれ??
念仏唱えてれば基本的に他力で往生できるし・・・。
そう思って色々調べてたらなんとベルギーでカルト認定されてたw
新興宗教じゃなくてもカルト認定ってされるのねw
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いい呪文がたくさんある(*^^*)
「弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて往生をばとぐるなりと信じて、念仏まふさんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益(りやく)にあづけしめたまふなり」
「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆへに」
「とても地獄は一定すみかぞかし」
「善悪のふたつ、そうじてもて存知せざるなり」
「よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」
自分が悪人であるという実感に痛めつけられてどうしようもないころに目にした「悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆへに」という言葉。光って見えた。
「日月を切り落し、天地を粉砕して不可思議の太平に入る。我輩は死ぬ。死んで太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。」(『我輩は猫である』より)
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親鸞の弟子唯円が、教えに出会った感激をあらわす。
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
の一節は有名。
もう、とにかくみんな救われる。
ポジティブすぎます。
完全他力の教えは自己の調和を目指す原始仏教とは全く正反対のものであろう。
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念仏唱えてれば救われるという通念が頭にあって、どうしても胡散臭く感じて手を出せずにいた。
ところが、親鸞のことばというものはそういうものでは決してなかった。彼のことばというものは、決して教えだとかそういう指導的なものでは決してなく、彼が思惟することで知ってしまった驚きから発せられたものだった。
念仏をひたすら唱えてれば救われるだなんて、彼は一言も言ってない。そんなの知らないとまで言い切っている。彼ならきっと、地獄に行ってもそこでも念仏を唱えているだろう。彼にとって念仏とは、それしかできないからそれをするより他ない、そういうものなのだ。
弥陀の本願という存在しない(知ることのできない)ものによって、この自分という存在が裏付けられてるというこの恐るべき逆説を知った時の彼の驚きは、カミュと異なり、反抗という形をとらず、信じるという形をとる。
自力・他力というのも肉体を指して、自分・他人というそんなちっぽけなものでは決してない。ひとは自分以外の何者にもなれない。この自分という存在なしには何も始まらない。念仏を唱えるのだって自分がいなければできない。人間の成すことはどこまでいっても自力なのだ。しかし、この自分という存在は、どうやっても自分ではない何かがなければ存在しえない。なんだこれは。この存在するはずのない存在に気付いてしまった以上、すべてが自力だと疑いえないのに、この存在がつきまとって離れない。知ることから考えることが起こる。ぽっかりと空いた宇宙に親鸞は投げ出されたのだ。
そして、この信仰はキリスト教の主が見せる熱情や怒りからくる畏れではなく、弥陀の悲しみから来るものだ。「甘え」と言ってもいい。だから、彼の信心はまるで弥陀に対して五体投地をせんばかりの強い力なのである。そうして彼は問いを問いとして生きることにしたのだ。弥陀に願をかけられる宿命として生きたのだ。念仏はそんな弥陀に縋り付く子どものようだ。
往生とは、どこかここではないあの世に生まれることではない。往生とは、弥陀が弥陀であること、理想が理想であることによって本願は実現しない。生きている限り死ねないことと同様に。だから、死ねと言っているのではない、死んでは本願は現実に実現されないからだ。本願は生きている人間にかけられたものだから。往生とは実現不可能なものによって実現を裏付けられてる。どうもこういう逆説的なものであるのだ。
そういう本願に支えられた人間の生だから、考えるということ、感じるということは人間に分け隔てなく与えられたものである。すべての人間が救われないというのはありえない、というのはこういうことなのだ。
善人なおもて往生というのは、自分で悪いと思うことはしないという当たり前を言っている。ひとの行うことは自分で善いと「思う」ことだ。この点で人間が行うことは無自覚に等しい。これが自力というものだ。
善は善だし、悪は悪というものすごく当たり前の話なのだ。
ところが真に悪人というのは、悪いと気づきながらも行動する、つまり悪いということに気付く存在がいるのだ。この瞬間に自分ではない存在に悪人は善人では気づきえないことを「知って」いるのだ。往生できないわけがない。善も悪もそれを善や悪とわかる存在があってのものだ。そうであるなら、この善や悪を知っている「この」存在は、善悪を包含・止揚した存在であるはずだ。この存在がなすことが善か悪かなんて、もうわかりようがないのだ。すべてが弥陀の本願によって許されている。そんな存在であるから、千人殺すことが逃れられない宿命とならば、せずにはおれないというだけの話だ。善く生きられねば死なねばならぬというソクラテスと同様に。
親鸞の場合には、念仏を唱えるということが善く生きることだった。ひとを殺したり、自ら世を嘆いて死んでしまっては、念仏を唱えられないし、弥陀の本願に気付き、念仏を唱えられる可能性のあるこの衆生を減らしてしまう。だから、しないのだ。だが、彼のように心から祈り念仏だけを行えるひとはそうそういないわけで。
真宗の教義書を読んだことがないのでわからないが、親鸞のこの信じて念仏を唱えよというのは、表面的なわかりやすさや、やりやすさが前面に出てしまい、弥陀の本願という存在に対する驚きへの気付きを体系化できなかったために、誤解されるのだ。
知らなければ経典をひもといて知ればいい。経典を読めなければ、とりあえず、念仏を唱えてみればいい、そうすればきっと気付くはずだ。彼がひとに求めるのはそういうやり方だ。各々、出来ることを各々やればいいと言っている。念仏か教義かなんて話ではない。
この点、禅というものは、そんなものをわけるなんて面倒くさいしややこしさを生むのだと一蹴したのだと思う。
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私の能力では、一度読んだだけでは理解することが難しかった。
最後に書かれている「親鸞の語録と唯円の歎異とを結び付けての感懐」を述べている部分(本書岩波文庫の解題ではそう書かれている)を読んでみるだけでも良いかもしれない。
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今ではウェブ上に様々な現代語訳の歎異抄をよむことができる。本書が出版された昭和33年当時も「現代語訳の優れたるものが続出している」とのことで、本書はあえて解題と解説のみ付したスタイルとなっている。歎異に書かれた思想が時を選ばず読まれていることを感じた。
近代につまずく時、人はたびたび親鸞を参照する。時にイエスと似通いながらも対峙する煩悶者として。時に西洋哲学に対する日本的思想の強靭な代表者として。現世における価値判断の欺瞞性の暴露や、近代的教育ではありえない絶対的な他力本願は、西洋思想に比する風格があると見なされてきた。
自らが内包する根元悪に対してどうしようもない絶望を感じ、それでも己の弱い心情として救われたいと涙ながらに執着するとき、人は「南無阿弥陀仏」を必死に唱えずにはいられない。これは絶望的な本願成就に対して絶対的他力以外にすがるものがない者たちのワラを掴む思いであり、また悪人こそ正機があるとするいわれである。
そんな状況におかれた者に対して歎異抄は語る。「念仏はまことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつる業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」