紙の本
自身の来歴と歴史学界の過去や実情を描いて痛快な一書
2022/08/20 14:26
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投稿者:Haserumio - この投稿者のレビュー一覧を見る
実に面白かった。著者の「精神的ストリップ」部分もさることながら、歴史学の奥深さと重要性、今後の課題群などについて、大いに蒙を啓かれました。暴露本的な要素も含め、このような本が公刊されることそのものが素晴らしい。著者の今後ますますの活躍を願うこと大です。
紙の本
歴史学の再生を願う
2022/08/19 19:35
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投稿者:いつか - この投稿者のレビュー一覧を見る
私が中高大の勉強を通してなぜ「歴史」がつまらなく、嫌いな科目になったか。本郷教授は歴史学を教える側ながらも真摯にその責任を認められ、再び歴史を学ぶことの大切さと豊かな可能性を伝えてくれた。歴史学を真に愛するからこその潔さを感じた。「歴史学」という硬直化したアカデミズムの中では本郷教授はマイノリティであるかも知れないが、素人の私に始めて「歴史」を科学的に学び、考えたくなった。時間を戻せるなら十代の自分に読ませたい。
紙の本
情熱の方向
2022/10/22 16:36
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投稿者:名取の姫小松 - この投稿者のレビュー一覧を見る
歴史を知る手掛かりは、普通、ドラマや映画、小説などから。そこから歴史に興味を持って勉強しようとすると、愕然とする。
本郷先生も歴史とは史料からつなぎ合わせて考察する科学であり、ロマンやフィクションではないと学問の現実を知る。
いかにして歴史を学び、史料編纂所で働いてきたか、自らを語る。
電子書籍
古代と京都
2023/03/09 19:03
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投稿者:エムチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る
自分は京都が好きなので、こういうのはすぐに手に取ってしまいます。とはいえ、これは、歴史の上からの目線ですからね。案外、ドライに書かれているのではないでしょうか?もう少し、……とは思いましたが
紙の本
私の履歴書 本郷和人
2022/11/13 16:32
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投稿者:tad - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本を一言で表現するとこんな感じかなと思います。表紙や帯からはもっと大学の先生にありがちな学会の裏側とかのどろどろしたところの話もあるのかなあと期待していたんですが、そんなのはありませんでした。それでつまらないのかと思うと、知らなかったことも結構あってそれなりに楽しみました。やっぱり歴史小説とかとは違って事実の積み重ねが大事で、その時その人がどう感じていたとかどうでもよくて、その意味でやはり本能寺の変はわからないということなんですよね。納得。
紙の本
著者の自叙伝&持論が著された1冊です。
2022/10/31 14:01
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投稿者:広島の中日ファン - この投稿者のレビュー一覧を見る
前半は著者がお生まれから歴史学者になるまでの自叙伝となっています。そして、後半は歴史学者の立場から、歴史研究の取り組み方など、著者の持論が展開されています。
日本史関連のたくさんの書物、新書を世に刊行している著者。当書は普段の歴史見解ではなく、著者ご自身を振り返る内容で、著者のファンの方ならなおさら読み甲斐のある1冊と思います。
紙の本
歴史学者の心中を吐露
2022/09/25 14:44
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投稿者:つばめ - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者は、一般人向けの日本史に関する書籍を多数執筆している歴史学者である。本書は著者の半生記であり、歴史学に対する著者の考え方を開陳した内容である。その一部を紹介する。◆現在の歴史学は実証を重んじる「科学」なので、人間の内面にこだわってはいけない。歴史上の人物の心の中へ分け入り、「当時この人はこんなことを考えていたのだ」ということを語ることは、作家や文学研究者の仕事である。◆著者の考える実証史学とは、歴史事実や史料から「史実」を復元する。次に、復元した史実をいくつも並べて、その史実を俯瞰する「史像」を導く。それらの史像を集めて「史観」という歴史の見方を生み出していく。つまり、史料を現代語に置き換えるだけなら単純実証に過ぎない。◆最近は博士号を取得しても仕事もポストも見つからない「高学歴ワーキングプア」の問題が、しばしば話題となる。著者の見解は、博士の粗製乱造に根本の原因がある。今どきの博士号の価値は低い。ひと昔前と比べれば「実態は努力賞」に過ぎない博士号所持者も実に多く見られる。
歴史学に留まらず、大学教育(特に私立大学)の実態などにもふれ、興味深く読み進めることができる。著者の妻は東大史料編纂所の所長、つまり著者の上司である。こうした過酷な環境下、一般向け歴史書を量産する著者の益々の活躍に期待したい。
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本郷和人さんは「世界一受けたい授業」で初めて拝見した時にアイドルの高城亜樹さん推しという妙なキャラで軽く引いていた(アイドル推しに引いたのではなく番組見たらわかるよ)のだが、東大教授なのだから当たり前だがガチ中のガチの人だな
高校歴史教科書を変えようとしたり
引用
「非常勤残酷物語」とか言うが、私から言わせれば、学問の一定のレベルに達していない人間が大学に残ろうとしてもそれはうまくいくはずがないよ、ということであり
本来は、指導する先生が研究者として見込みがない人間に対してはリスクについて説明した上で「君は実社会で頑張ったほうがいい」などと引導を渡すべきなのだ。大学の方針だからといって、自分の可愛い教え子を貧困のどん底に落としてどうする。
引用終わり
言うねー帯にある「ぜんぶ、言っちゃうね。」って大抵こけおどしなのだけど本書は言っちゃってる。上記は序の口で歴史学の根本についても言っちゃってる。
目の離せない人だ。
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<目次>
はじめに
第1章 「無用者」にあこがれて
第2章 「大好きな歴史」との訣別
第3章 ホラ吹きと実証主義
第4章 歴史学者になるということ
おわりに
<内容>
歴史学者・本郷和人の半生記。彼は近年やたらと教養書を書いている(一方で研究書は少ない、というかかなり少ない)。まあ、東大教授と言っても史料編纂所の教授なので、通常の学者とは少し違うのだろうが、異端と言ってよい。「なんで?」という疑問も含めて読んでみた。自分も歴史好きから文学部史学科に入った口なので、大学入学時の話はうなずけた。彼はとても優秀な感じなので、そこを乗り越えられたわけだが、今の異端の位置に就くまでの過程も面白かった。学界の様子も垣間見られ、どこも役立たずがのさばっている様子が分かった。その職場で生きていくに必要な能力のある者は少なく、意外とそういう人がその職場を引っ張ることもない。彼のような強心臓?ならば、意に関せず(たぶん結構のストレスだと思うが)に我が道を行けるのだろうが…。歴史学界の「実証主義」の行き過ぎ(むろんきちんとした史料の読み解きは必須なのだが、そこから先が「歴史」なのだと自分も思う)の弊害を説いている。こうした本を書かざろうえないところに、歴史学界のみならず、日本全体の衰退が感じられた。
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学問的な新書ではないから、こんなことを言うのもどうかと思うが、オビのような要約は果たして意味があるのだろうか。これは「奥も闇も深い」ことを支えているのか?
史学の学者の回想記といえば良いのだろうが、できれば最後に示されている3点について、新たな新書を一冊と望む。
①「一つの国家としての日本」は本当だろうか。
②実証への疑念
③唯物史観を超えていく
第四章が一番学ぶところが大きい。
調べることと、考えることは違うということも再認識する。
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本郷さんの gacco での講義を受講した事があり、それからの気になる方でした。歴史の真実は深いのだなぁと、その時思いました。その時の論調があり、楽しく読めました!
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個人的には大変面白い。
誰もが面白いと感じられるかは疑問符がつく。
興味を持って面白いと思う人は以下のような方であろうか。
・歴史に興味があり、これから歴史学を志す人
・大学で歴史をかじった人
・過去、歴史学を履修したことがある人
・蛸壺のような学会政治に興味がある人
まず、歴史学と歴史は全く別物と認識する必要がある。
歴史学科に入った時の違和感は以下に代表される。
三国志、戦国時代、幕末が好きなのに自分の好きな○○は研究対象にならないと
いうことである。
歴史は物語であり、歴史学は実証を元に構造化するということである。
とはいえ、歴史学も物語主義と実証主義かという2つの軸のバランスで学会は成り立っている。
学会は古文書などを元にした実証主義が大勢をしめ、実証主義もただ資料を現代語訳するだけ
となっているという実勢に批判が入っている。
現代までの歴史学の流れは以下になっているという。
、
1皇国史観の歴史学 (主な学者 平泉澄)
2マルクス主義、唯物史観の歴史学 (主な学者 石母田正)
3社会学史的アプローチの歴史学(主な学者 網野善彦 佐藤進 勝俣鎮夫 笠松宏至)
90年代の歴史学は唯物史観は影を潜め、網野史学を代表とするアナール学派が評判となっていた。
歴史学は抽象化、構造化が苦手な性質をもっており、社会学のフレームワークを持ってきて結論ありき
実証は後回しの状況には危惧をしていた。
網野史学への違和感は民衆は平和や自由を追い求めるという面をクローズアップするあまり、
結論に実証を紐づけるきらいがあった。
(極端な話 学会の趨勢がマルクス主義が社会学史に置き換わったような印象もあった)
歴史学は資料をもとにした実証的すぎる立場(物語性なし)、ある立場にしたがった物語的歴史学(実証少なめ)
どちらかに偏っていたように思う。
筆者は以下の手順を取って歴史学を論じるべきといっているように思う。
資料を元にした事実の確認→事実を元にした他の資料との整合性の確認→抽象化・帰納化→解釈
上記のような考えであれば統一理論的な解決はできないと思われる。
ボトムアップ的な考えで、「この条件であればこうという」「この考えは全体の一部」という
歯切れの悪い結論となると思われる。
しかし、ビジネス界隈では当然用いられる手法であり、歴史学でも取り入れられてしかるべきである。
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ここ数年、この本の著者である本郷氏の歴史解説本をよく読んでいます。彼の本に出会うまでは、戦国時代以降のものをよく読んでいましたが、戦国時代に至るまでの歴史の面白さを教えてくれたのが本郷氏でした。
その彼が歴史学者としての本音をこの本で述べています、今まで何冊も彼の本を読んできましたが初めてのように思いました。私たちは歴史学者が丹念に多くの古文書を読み解いて、さらに関連する文献を読み込んで、一つの結論を出していくという途方もない努力をされてきた結果を、本の形で読むことができます。この苦労の一部がこの本に書かれていると思いました。
学者の本分である論文執筆、そして大学教授としての大学での講義以外の貴重な時間を割いて、このような本を書いてくれる本郷氏は頭が下がる思いです。これからも本郷氏には頑張ってほしいと思いました。
以下は気になったポイントです。
・自分にはできないことがある、とはっきり自覚したからこそ始まる人生もある、「どうするか」こそが本当に大事なのだと言いたい、立派でな九ともいい、その人ならでは、みたいなオリジナルやスペシャルなんかなくても良いのである(p50)
・本能寺の変について学説と呼べるレベルに達しているのはたった一つ「四国説」しか存在しない。これは四国の長宗我部氏をめぐる信長と光秀の対立を指し、この対立が本能寺の変の遠因だったのでは、と古文書の史料を持って後付けで説明することは可能であるから(p91)
・江戸時代とは、平等を手放しながらも平和を選び取った世界であったというのが、現在の歴史学者としての私の味方である(p107)
・認められるためには一等賞を獲れば良いと思っていた、しかし学問というのはもっときめ細かいものであった、まず周りに友達を作り、小さな学会を編み、互いに褒め合うという行為をひたすら続けることでみんなが豊かになっていくという現実があることを身をもって知った(p161)
・地政学を含めて考察する、現在の江戸川にあたる流域には、実は当時とても太くて広い利根川が流れて分断していたため、房総半島への移動は大変であった。実際に室町時代に至るまで、利根川を挟んだ東西を隔てる地政学劇な分断が続いていた(p171)
・鎌倉幕府において1軍が南関東4カ国(駿河、伊豆、相模、武蔵)とするなら、千葉篤胤らの房総半島は2軍、そして北関東(群馬、栃木、茨城)の3カ国は、3軍の扱いであったのではないかと思われる(p173)
・鎌倉時代、地頭への命令書には必ず「先例に任せてその沙汰を致すべし」という決まり文句が書かれている、あなたを地頭に任命するが詳細はその土地の先例通りにうやりなさい、ということ(p185)
・歴史学について現在考えていることは、1)一つの国家としての日本は本当だろうか、2)実証への疑問、3)唯物史観を超えていく(p212)
・現在の学者に必要な資質とは、研究者としての実力だけではダメで、競争的研究資金を得る(=自分は研究するために幾らかの金が必要)、さらには、学校内外で仲間を上手く作れる能力が大事���ある(p213)
2022年9月18日読了
2022年9月25日作成
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「第二章 『大好きな歴史』との訣別」pp.93-94より
学説を大切にしながら、ものの見方というものは非常に純粋でなければならない。ブレてはいけないし、不純物が混じってはいけない。その一事を肝に銘じ、自分はその一点をきちんと踏まえられる人間だ、自分に詰め腹を切らせることができる人間だ、という一点に自信を持てた人間こそ、「私はこう思う」と伝える資格をもつ。
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遠藤誠という白髪混じりの豊かな黒髪を無造作に撫でつけた文士然とした弁護士がいた。帝銀事件の弁護団長や『ゆきゆきて、進軍』の奥崎謙三の弁護人、山口組の顧問弁護士を務めた。その遠藤氏が〈右翼と左翼の違い〉について語った記事を、確か『噂の真相』で読んだ記憶がある。
〈右翼は先の戦争を聖戦と見なし、左翼は侵略戦争とみなす〉。明快な見解を述べるご本人はバリバリのマルクス主義者。またイデオロギーの対極にあるヤクザや右翼団体の弁護も請負った。その理由は『同じ反体制だから…』。渾沌と信念が同居してるような方だった。
…そんなことを、ページを繰りながら古い記憶が蘇った。自国の歴史についての見解についてもしかり。学者の立ち位置によって異なる。日本史教科書の近現代史の記述なんて、その最たるもの。必ず自虐史観か否かが議論され、そもそもニュートラルがどこにあるかさえ定めきれずの状態で、どちらかに偏るのは致し方ないにもかかわらず、右派は口角泡飛ばし、しばらく不毛な議論が展開される。
私見を述べるなら、近現代史においては右派と左派の教科書を見比べながら学ぶのがいいんでは。どう判断するかは学ぶ側が決める。
まぁ、現代史は大学受験にほとんど出題されないし、相変わらず卑弥呼から順番に辿り、タイムオーバーは必至。こと〈受験の日本史〉であれば山川の教科書1冊で事足りる。
〈教養としての日本史〉教育に重きを置くのなら見解の相違をありのままに提示し、歴史学の複雑さを知る上でもプラスだと思う。
さて、本書。
学者というのは、研究する分野において膨大な資料を渉漁し、フィールドワークや実験を行い、その一連の行為を通して浮かび上がった事実を繋ぎ合わせ、ある仮説を立てる…というのが理系文系問わず共通する姿と思っていた。
しかしながら、本書で語られる『歴史学者』は、必ずしもそうとは限らないんですな。
このことが、本書の主題『歴史学者という病』に繋がる。現在では〈歴史学は科学〉と認識され、資料をひたすら読み込み、事実のみを拾い出す『実証』がメインストリーム。
ただ、そこに至るまで日本の歴史学は時代の波に翻弄され続けてきた。戦前は皇国史観オンリー、敗戦後は唯物史観(マルクス主義史観)がニューウェーブ。そんな変遷を経て実証史学主観に至る。
それだけあちこちにうつろう史観に学者たちも浮沈の憂き目に遭う。国史って実体がありそうでいて、 その実、かなり相対的で振り幅の大きい不安定な学問であることを知り、驚く。
著者は実証史学に対し疑問を目を向ける。資料資料と言うが、そもそも恣意的に作られたものが多く、そこに解釈に様々な考えが入り交じる現実から、著者は事実から仮説を導く演繹的解析を行う手法を採用。
また実証主義学者は『司馬遼太郎はバカだ!』と宣う。理由は司馬遼太郎は資料に基づいておらず実証がまったくわかっていないから。
確かに司馬史観については意見は分かれるが、司馬遼太郎は執筆となれば、神保町の古書店からある特定分野の書物が払底すると言われるぐらい資料収集は徹底。
作家は集めた材料を発酵熟成させ、歴史小説に仕立て上げるのが仕事…と、学者は見なさず偏狭な意見を垂れる。このあたり『象牙の塔』と揶揄される所以ですな。司馬遼太郎や山岡荘八らの数多の作品は冒険活劇の匂いを放つものもあるが、それが歴史好きを産んだのは紛れない事実。
著者も偉人たちに通底する歴史ロマンを愛し、偉人伝に心を揺さぶられてきたひとりであるが、東大で国史を専攻するうちに、自身が信奉してきた『物語の歴史』と訣別しなければならず、科学としての実証史学を突きつけられ、葛藤と懊悩の結果、『正統な歴史学のメソッドを体得する!』という方向に大きく舵を切る。
具体的には、こつこつと『史実』を復元し、復元された史実をいくつも並べ、俯瞰する『史像』を導き集積した史像からの『史観』という歴史の見方を生み出していく。史実という土台が堅固であれば、史像や史観ならば、それは実証史学の範疇であると。
著者は3年後に東大資料編纂所教授の定年を迎える。現在の心境は、歴史学は今やダサい学問になり下り、依然として、受験の日本史が数多くの歴史嫌いを大量生産していると嘆き、憂う。
はたして、自分に出来ることは?
その命題に対し歴史学という学問の魅力をわかりやすく伝える、『ヒストリカル・コミュニケーター』になろうと誓い、次々と歴史解説本を上梓し、テレビに出演し、すでに活動を開始。
本書は私家版『私の履歴書』である。大好きな歴史学に身を置いたものの、現実との乖離を思い知らされ、自意識をかなぐり捨て、正統な歴史学のメソッドを体得するまでの長い旅路を描く。
半生記でありながら反省記でもあり、軋轢・衝突・失態を通して得た成長物語としても読める好著。