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・読み終わって色んな気持ちが残ってる。言いたいことが山ほどある。でも、この小説をどう表していいか全くわからない。でもがっつり揺さぶられた。そんな小説(どんなだよ?)。
・村上春樹のあとがきも、「現代の総合小説」とか言っちゃってるけど結局のところどう捉えていいかわかんないと書いてるとしか思えない。
・これ村上春樹が訳したわけが良くわかるわ。
・正直に言って、自分の妻子を手にかけちゃうほどの核妄想については全く理解も共感もできない。でも自分も子供の頃核兵器の存在を知って眠れないくらい怖かったことを思い出した。使うと世界が終わっちゃうものが存在していることが怖くて仕方なかった。
・結局60年代ってのがどういう時代だったのかについて書かれた本なのかもしれない。
・ずっしり100ページほどもある訳注がまるでエッセイのようで、村上春樹好きには凄くお得な感じがする。思わずにやりとさせられる内容。
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ベトナム戦争中の話である。
なぜウィリアムは穴を掘り続けるのかが知りたくて、一気に読んだ。
「掘れよ、と穴が言う。」という文章がよく登場する。
穴を掘り続ける意味がなんとなくわかった時、全身震えた。
又、村上春樹の訳注がすごく丁寧で分厚く、有り難い。
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「君が正常な人間なら、脅えというものを抱くはずだ。脅えを抱けば、穴を掘るはずだ。もし君が穴を掘れば、君は異常人間ということになる」
ティムオブライエン、二冊目。
核戦争、ベトナム、兵役忌避、狂気。
安定を追い求めることへの強迫観念。
どこまでいけば安全なのかわからない。
失わない為にはどうしたらいいのかわからない。
どうして冗談にできるんだろう。
どうしてわからないんだろう。
という、シンプルな問い。
「Eは本当はmc2なんかじゃないんだ、それは狡猾なメタファーであり、最終的な等式は本当は成立していないのだ」
究極の骨子。
ここに着地するしかないのですか。
私の中にもウィリアムがいるねぇ。
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とても面白かった。
英語勉強用に使ってる「ハイブ・リット」の中にティム・オブライエンの「レイニー河で」が入っていて、とてもよかったので買ってみた。
とても心を揺さぶられた。
ベトナム戦争や東西冷戦の時代で、核戦争がリアルな危機として感じられていた時代の話。核戦争に備えて庭に穴を掘り続ける男の話と、その男がどういう風に成長してきたかという二つの話が交互に登場して話が進行していく感じだった。
アメリカでは学校で核戦争用の避難訓練とかしてたとか、そういう時代背景を詳細に注釈としてつけてくれていたので、主人公たちの置かれている状況を把握しやすかった。
タイトルにもあるように、話の中では「核」が大きな意味をもっていたけど、この話は核についての話であるというよりは、核というものを使って書かれた、おびえ方というか、心の病み方の話なんじゃないかなと感じた。
自分は核戦争の危機というものを当時の人ほど差し迫ったものとは感じてないと思うけど、それでもとても強く感情移入しながら読めたからそう思った。
正しいと感じることをしようとすると頭がおかしいように見えて、頭がおかしく見えないようにしようとすると、狂ってるとしか思えないことを信じないといけない。
そういう何を信じていいかわからないような状況でどんどん決断を突きつけられて、それでもなんとかやり過ごしているうちに、気がつくと取り返しのつかないところまで来てしまっている感じ。でもどうしたらいいのかは全然わからなくて、そういうのにおびえたり、心がおかしくなりそうな感じ。そういうのに強く引き込まれたんだと思う。
つよく感情移入してたからか、ハッピーエンドじゃなくてもいいから、どうか破滅的な終わり方だけはしないでくれと思いながら読んだ。
アメリカではこの本は失敗作という扱いらしい。信じられへん。
印象に残っているシーンはたくさんある。以下。
・船で夜の海に出かけて、エンジンを切ってラファティーと二人だけで飲みながら話すシーン。
・ラファティーと銃を沈めるシーン。
・サラが主人公に、他にもありえた未来を細かく上げていくシーン。
・主人公が逃げ出すのを家族が送り出すシーン。
・逃げ出した後のキーウェストでの不安に満ちた平穏の日々。
・父親の葬式に双眼鏡をつかって覗き見るシーン。
あと、村上春樹はティムオブライエンから思ったよりも影響をうけているのかな、と思った。スタンスが似てるっていう方があってるかな。
人生をダンスのステップに例えるくだり、チェーホフの銃の話の引用もそうだし、ラファティーと主人公の会話はダンスダンスダンスでの主人公と五反田くんの会話と雰囲気がそっくりだ。
読む順番が逆だったらにやりとしながら読めたんだろうと思うと少し残念かも。
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穴を掘っていた。大きな穴を。そんなものが核シェルターのかわりになるはずがない。わかっている。けれど、どうして皆、じっとなにもせずにいられるというのだ?
家の中では妻と娘が、狂人を見る目で僕を眺めている。だけど僕は狂ってなんかいない。核ミサイルは現実だ。爆弾は現実だ。戦争は現実だ。穴は囁きかけてくる。掘れよ。掘れ。掘れ! ただそれだけが、土を掘るたしかな手ごたえだけが、僕に安堵をもたらす……。
ジュニア・スクールの頃、あるいはハイスクール時代、あるいは大学のキャンパスで、あるいは徴兵から逃れるために身を隠しながら、僕は空を切って飛んでいくミサイルを、爆発を、死の灰を、キノコ雲を、殺されていく兵士たちを、この目に鮮明に見た。それは幻覚かもしれないけれど、この世界にたしかに実在するものだった。どうしてみんな、怯えずにいられるんだろう?
核の冬、冷戦、そしてベトナム戦争。大量の兵士と兵器がベトナムに送られ、何万人もの人命が遠い国で失われていく、その当時のアメリカ。核の恐ろしさや戦争の凄惨さから、人々が目を背けながら暮らす中、そこから目をそらすことができなかったゆえに狂気に陥った主人公の、息の詰まるような、孤独。
明らかに頭の配線が飛んでしまってるのは主人公のほう。だけど彼と、戦争に、核に、無関心を保ちつづける人々と、本当の狂気はどちらなのだろう……。読みながらふと、何度も胸をよぎる疑問。
繊細すぎて、臆病すぎて、頭がおかしくなったと思われる。人に笑われ、気の毒がられ、あるいは遠巻きにされて、そうするうちに自分でも、心に堅固な壁を築き上げる。うまく人とかかわることができなくなる主人公。思考が狭まり、他人を拒んで、だけど、それでも愛をもとめずにはいられない。彼は欲し続ける。安全な場所を、守ってくれる存在を、そして愛を。自分を守るために築いた壁が、ますます彼を孤立させ、傷つけていく。
そして、長年の希求の果てにようやく手に入れた愛も、やがて彼を裏切る……。
傍から見ると狂人にほかならない。だけど、その彼を突き動かしているのは、ただ恐怖、世界の現実。戦争と核の現実。それから、愛する者が自分のもとを離れていくという、現実。
劇的に変容し戦争に傾いていく世界、暴力の反乱、押し寄せる滅びのイメージ、強迫観念、コンプレックス、恋愛へのおそれ、過剰に膨れ上がる自意識、理解できないことの苦痛、理解されないことの恐怖、拒絶、孤独、かろうじて自分の平衡を保とうとする危うい精神のバランス。読んでいて、とても胸苦しい。
そして、狂ったようにしか見えない父親が、それでも自分のことを愛しているといい続ける父親が、毎日、毎日、庭に延々と穴を掘り続ける。シャベルとダイナマイト。恐怖と愛情の板ばさみになって、それを見まもる娘……。その心を思うと、胸が潰れそうになる。
主人公は間違っている。そう、たしかに色々なことへのアプローチを間違っている。自分の殻に閉じこもり、愛に都合のいい幻を投影し、存在しないものを追い求め、現実から逃げて。だけど、彼をただの狂人だと、自分と縁遠いものだと突き放して読むことが、どうしてもできない。
辛く、やるせなく、後味もいいとはいえません。誰にでも薦めきれる内容ではありません。でも、それでも、声を大にしていいたいです。素晴らしい小説でした。
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60年代のベトナム戦争や冷戦時代に生きた青年グループの話。
現代と60年代時の話が行ったり来たりする。
この時代のアメリカの情勢や人物が分からないと
特に前半は読むのが大変だなぁと感じるけれど、
読み応えのある注釈もついており、雰囲気は感じられると思う
最初は、狂気的に思えていた主人公の言動が
本を読み終える頃には、理解できるようになる面白さがあるなぁ。
そうはいってもやはり、主人公の穴を掘るという行為の
意図に何となく気が着いた時には、驚きました。
おかしいのは、どちらなのか…。そんな事を考えながら読みました。
歪んでいるけれど、強力なパワーに吸い寄せられた本でした。
村上春樹 訳。
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〈穴を掘り続ける僕。家族にも理解されず作業を続ける僕が思いを馳せたのは60年代だった…〉
著:ティム・オブライエン
村上春樹訳にはずれなしと読んだオブライエン。
ベトナムに従軍した彼の、魂を込めた大作です。
精神のバランスを失い、核爆弾への恐怖から、シェルターとするための穴を掘り続ける…
明らかに可笑しいことであるはずなのに、主人公ウィリアムやその友人達のたどってきた人生を見ると、
それが説得力を持って悲しみ、孤独、渇きなどの感情とともに圧倒的に迫ってきます。
何か衝撃的すぎて一回読んだだけではうまく文章を書くことができないのが残念・・・
われわれが普段感じることはなくてもそこにある原子力という恐怖
60年代とベトナム
生きるということ
そして愛
さまざまな要素が積み込まれたこの小説。
村上春樹はこれを「総合小説」とのべています。
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BOOKデーターベースよりあらすじ
元チアリーダーの過激派で「筋肉のあるモナリザ」のサラ、ナイスガイのラファティー、200ポンドのティナに爆弾狂のオリー、そしてシェルターを掘り続ける「僕」…’60年代の夢と挫折を背負いつつ、核の時代をサヴァイヴする、激しく哀しい青春群像。かれらはどこへいくのか?フルパワーで描き尽くされた「魂の総合小説」。
インパクトのある表紙絵に惹かれて。
少年時代から核の脅威という妄想にかられる主人公ウィリアム。
序盤の少年自体~ハイスクールのウィリアムのひねくれた
エピソードの部分が最高に面白い。
イカしたジョークでフランクに息子と接するオヤジ。
スクールカーストの頂点に君臨するチアガール。
治療するはずが少年に話を聴いてもらってる精神医。など。
アメリカーンで楽しい世界が妄想家の主人公を中心に広がる。
中盤~後半は、同じようなことを何度も繰り返し話されるので、
読み進めるのがツライ部分も。
正直、伝えたいテーマがなんだったのか分からなかった。
読んだことのある人と感想を聞きたい。
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たぶんこれを以前読んでから一年も経ってないはずなのに、え?こんな小説だったけ?と、響いてくるものがあまりに違っていて驚いた。物語としてぐいぐい読ませる力があるから、さらっと読めてしまうけれど、そんな風に読むと取りこぼしてしまう、この小説は。
この小説に対するわたしの理解は全然足りていないのだけど、なんでこんなに怖いのにこんなに魅力的なんだろう。狂気と哀しみと絶望に満ちた小説なのに、読んでいてどうしてこんなに居心地が良いんだろう。わたしはウィリアムほど追いつめられていないし、サラほど爆弾を抱えていない。こんなに大胆な行動はしない。もっと上手く現実と折り合いをつけて、それなりにやれると思う。でもウィリアムやサラの持つ問題がまったく存在しないかというとそれは嘘で、自分の問題を拡大して嵐のようにストーリーに乗せてみせられている感じ。
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読み終わった後、台風が来た。
海の近くに住んでいる私たちは、津波が来そうだ、という話をした。
「くるわけないよ」と私が口にしたとき、この本を思い出し、ぞっとした。
私は正常なんだろう。
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こんなにひりついている小説なかなか出会えない。
自分は狂っているのか自問自答しつつ穴を掘り続ける寓話的なシーン(現在)が過去の回想の間に挿入され絶妙なバランスを保っている。
印象的なのは幼少時代に自作のシェルターで怯えるシーン。子供の頃見た悪夢を思い出させるようでぐさりとくるし、それを励ます父親の姿にカタルシスを感じる。
中盤からは青春小説。ただしやばい方向に流されていくひりつき具合がすごい。
核の恐怖観念をテーマにしてて、手に取りにくいかもしれませんが、狂気、青春、家族、いろんなものが詰まってて、一気読みしてしまいましたし、折に触れて再読したくなる作品です。
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過去の回想の合間に語られる現在。(といっても、20世紀末)
過去が徐々に現在に近づいてきた、その時に…。
僕ことウィリアムは、少年時代から非常に繊細で、世界の終わりが来ること、その時をずっと怖れていた。
核兵器による終末におびえ、家の地下室に卓球台を利用したシェルターを作る。
学校の備品庫から持ってきた大量の鉛筆でシェルターを覆う。
なぜ?―鉛は放射能を通さないんだよ。
坊や、黒鉛〈鉛筆の芯〉は鉛とは違うんだよ。
でも本当に怖いのは、こんなに核の恐怖が身に迫っているのに、誰も怯えていないこと。
だって、人類が滅亡するかもしれないんだよ。
どうしてみんな平気なの?なんでもないような顔しているの?
「うちの子は少し普通じゃないかもしれない」
そう思う両親を心配させないために、ウィリアムは普通の子を装う。
そして、ヴェトナム戦争がおこった。
殺される人々、情景をありありと思い浮かべるウィリアム。
銃で、ミサイルで、焼き払われて死んでいく人たち。
大学三年の時、ウィリアムは毎週月曜に学内のカフェテリアでポスターを持って立つ。
「爆弾は実在する」
映画でもテレビドラマでもなく、爆弾は実在するんだということを、なぜみんなは気がつかないふりして生きているのか。
僕は怖い。怖い。怖い。
爆弾で殺されたくなんか、ない。
いつしか数人の仲間ができ、反戦運動へと流れていく彼ら。
ウィリアムが恐怖を訴えれば訴えるほど、変人だと異常だと狂っていると言われてきたが、ここに来て初めて仲間ができる。
“正常な人間は何かをするときには危険性など特に気にはしないで物事を進めていくものなのだ。なぜならその危険性はそこに実際に存在しているわけではないからだ。実際に何かが起こったときには、その正常な方々は肩をすくめて「やれやれ」という。”
遂にウィリアムに召集令状が届いたとき、彼は身を隠し、意に反した形で仲間たちと過激派グループに参加していくことになる。
戦争はよくない→戦争を止めるべき→想像力のない大衆を止めるためには武器の使用もやむを得ない
兵役を拒否してきたはずなのに、体を鍛え、武器の使い方を訓練する日々。
“「テロルの時代にあって」とエベニーザーは高らかに宣言した。「良心的兵役拒否などというものは存在しない。兵役に代わる奉仕など存在しないのだ。」”
“僕はリスの思考をした。この世の中に生命を捨てるほど価値のあるものなどないのだ。何ひとつない。威厳も、政治も。何もない。生命を捨てる価値のあるものなどひとつとしてないのだ。”
ウィリアムの言い分の方が「わかる」と思ってしまう私は、異常側なのだろうか。
世の中の方が間違っているのでは?
と思って読み進めてきたのはこの辺りまで。
現在のウィリアムは組織を抜け、結婚し、愛する妻と娘の3人暮らし。
「お父さん、やめて。お父さん、おかしいよ。狂ってる。」と娘に言われても「大丈夫。わかってる。愛してるよ。」と言い��がら、庭に穴を掘ることをやめない。
核兵器の存在は確かに恐怖だ。
気づかぬふりをしているのは欺瞞だ。
けれど、庭に穴を掘るのは…それが正常…?
“ストレートに語ることは野暮な行為なのだろうか?核戦争―僕は時代からずれているのだろうか?みんなは僕を憐れむのだろうか?僕はマンガなのだろうか?こうして穴を掘って、女房を娘を監禁して、穴にそそのかされたりして、僕は頭がおかしいのだろうか?周りに溢れている例証から世界の終末を類推するのは狂気なのだろうか?ミニットマン・ミサイルやバックファイア爆撃機、世界中にストックされた六万個の核弾頭。そういう数字を口にすることは雅致に乏しく、不恰好なのだろうか?僕は不作法なのだろうか?核戦争、と口に出すことが。”
彼がなぜ穴を掘っていたのか。穴を掘って何をするつもりだったのか。
最後に判明したそれは、正常なことなのか異常なことなのか、もはや私に判断はできない。
ただ、娘が可哀そうで。
“「要するにね、畜生め、人々はもうテロルに脅えたりはしないのよ」”
この本が書かれてから約30年。
世界はまたテロルの脅威に脅えている。
60年代のアメリカの政治や風俗、世界情勢などが訳注で詳しく書かれている。
当時のヒット曲いろいろに対する訳者〈村上春樹〉の感想がことのほか面白い。
とにかく質も量も読みごたえありの1冊。
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ベトナム戦争以降のアメリカの姿を、「核」の存在に怯える1人の男を語り部として描き切った力作。
ストーリーはあるものの、その奇妙な面白さを楽しむというよりは、そこに描かれれたアメリカの多様かつ奇妙な姿をどう解釈するか、という点が本作の面白さである。なかなか万人にはお勧めはしにくいが、非常に骨太な読み応えがある作品であることは間違いない。
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訳者でもある村上春樹が、「読んで元気が出た」というようなことを評していたので、訳注も含めて600頁超のボリュームではあったが、ならばと読んでみた。
不思議な魅力を持つ小説であった。村上春樹自身も「あとがき」の中で「登場人物のだれにも全的には感情移入できない」と書いていたが、確かにそうだった。でも、つい引き込まれて読んでしまうのである。訳者によるかなり精密な訳注も、その一助となっていたと思う。
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同じティム・オブライエン著でも『本当の戦争の話をしよう』はついていけたが本書『ニュークリア・エイジ』はまったく感情移入ができず後半流し読みをする。この感覚は『グレート・ギャツビー 』(村上春樹翻訳ライブラリー)を読んだときに感じたものと同じである。