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最初はキャッチーで、題名から携帯批判かと思っていましたが、人類学的に現代の日本人の生活習慣を批判しているに留まっています。
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≪読書会紹介図書 2016.3.1≫
テーマ:いちばん衝撃を受けた本
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http://sistlb.sist.ac.jp/mylimedio/search/search.do?target=local&mode=comp&materialid=10301164
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メル友からの意味のないメッセージに、意味のない返事をするヒトの行為は、存在を知らせるためのサルの鳴き声と何ら変わらない。
いやまさにその通り。
だが時代は変わった。
スマートになったのだ。ヒトではなくケータイが、である。
ついにヒトはケータイにライフスタイルを支配されるようになった。
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電車の中で化粧をしたり、ホームでしゃがみこんだり、傍若無人な振る舞いをする若者たちの生態を、猿を研究している動物学者が解説した本です。発売当時はベストセラーにもなりました。
家にひきこもる若者も、外で人の迷惑を顧みない行動をする若者も、実はその病根は一緒で、他者との関係が築けないまま大人になったことが原因、という見解は興味深いものがありました。結局は少子化社会の日本では子供が母親と一緒にいる時間が長すぎて、甘えん坊になっているらしいです。
猿を研究して人間がわかるのか?と昔は疑問も持っていましたが、この本を読むと、あぁ確かに人間って猿と一緒だと納得しました。
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著者は比較行動学が専門。
霊長類の観察から人類の文化的進化を解き明かそうとする。現代人に顕著な行動の深層を追及している。
タイトルに反して?かなり専門的な方法論で現代人の行動を解明している。単なる観察分析だけでなく、たくさんの実験結果を踏まえた分析もユニークで面白い。
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IT化(ケータイ)が人を猿化させているという論旨。
ここでいう猿とは、村上春樹の「カフカ」ででてくる、”うつろな人”のような人間と近いような気がする。
p179
日本では、私たちひとりひとりの自己意識は、依然として他者との関係中で形成される部分がかなり存在していた。
近代主義的個人のような、外界との対立をはらんでいなかった。
ところがIT革命によって、その関係枠が途方もなく拡大し、かつ輪郭があいまいになる。
結果として、「私」というもの自体が、捕らえどころのないものに変質してしまった。
・・・
世間の評判やレッテルに気を配らないはならなくなる。
↑
この傾向が、日本や韓国では特に強い。
例:ルイビトンなどのブランドを買う。
その理由が他者に認めてもらうため。
・・・
ひとりひとりが誰であるかがはっきりしないのだから、個人をベースとした社会的交渉は成り立たなくなる。
・・・
要するに、人間は言語遺伝子が進化した10万年あまり前の姿へ戻ってしまったことになる。
***本題とは関係ないことメモ***
p87
美しさの生物学的基礎
生物の美しさは、左右対称(の顔)に重点が置かれる。
左右対称が好まれるのは、生まれたままの状態に近いことが望ましいから。
人間も、生まれたときは左右対称の顔をしている。
成長していく仮定で、外圧によってアシンメトリーになっていく。
女性の乳房・鹿の角・鳥の羽模様もそのようにして好まれる。
p143
集団内のメンバーが直接的な個人のつながりを保てる臨界値は150人。
これは、軍隊の個別の活動単位の最小値である中隊と同じ人数。
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サルの社会性を通して現代日本の社会を読み解いた本。
第一章 マザコンの進化史
サルについての考察と、現在の子育てについての考察
第二章 子離れしない妻と居場所のない夫
現在の家庭内の状況。「家のなか主義」
第三章 メル友を持ったニホンザル
サルの会話と、メールのやりとり
第四章 「関係できない症候群」の蔓延
関係性の脆弱化
第五章 社会的かしこさは四十歳で衰える
子育てと生活スタイル。本当は子育てしていたのは母親じゃなく、爺婆。
第六章 そして子どもをつくらなくなった!
家族像の激変と、「性差」の発現。現代社会のしくみは、近年つくられたもので、「母親とはかくあるべき」論を信じるのは思考停止。
学校の図書館に置いてあった本。手に取ってみたら、意外におもしろかった。
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(「BOOK」データベースより)amazon
「ひきこもり」など周囲とのコミュニケーションがうまくとれない若者と、「ケータイ」でいつも他人とつながりたがる若者。両者は正反対に見えるが、じつは成熟した大人になることを拒否する点で共通している。これは「子ども中心主義」の家庭で育った結果といえる。現代日本人は「人間らしさ」を捨て、サルに退化してしまったのか?気鋭のサル学者による、目からウロコの家族論・コミュニケーション論。
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ちょっと理解に苦しむタイトルだが・・・
ニホンザルを研究されている筆者だということを知り、一応納得。しかしながら、ややこの本の古さが気になる。この本が出版された当時、筆者はまだケータイを持っておられなかったそうだ。その前提で書かれたのであれば、筆者の主張もまあ理解できないこともないが。ルーズソックスなど懐かしい時代を表すものも、いまとなっては一般化するルールとしては説得力が弱い気がする。
本としては楽しく読めた。この筆者は今ケータイ、いやスマホをバリバリ使われているのではないかと・・・あくまでも私の推測ですが。
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以前一度読んでいたが、内容をすっかり忘れていたので再読した。「ひきこもり」と「携帯依存の女子高生」は基本的には同類であり、いずれも社会と交渉することを拒絶した人々とのこと。単に「ひきこもり」は社会と接触しないために部屋の中に閉じこもり、「女子高生」は外に出ているように見えて実は自分の部屋を外に拡張しているだけ。だから平気で外でも家の中にいるように大きな声で友人と会話し、地べたに座り込み、食べ物を食べる。社会との断絶の原因が実は親の過干渉にあり、今の日本人はサルの家族と同じになっている。サルは集団でいるので社会性があるのかと思うが、実はサルは集団に属してもあくまで家族としか接触を持たず、他家族との間では接触がないらしい。大変示唆に富んだ本。20年前の本だが、今読んでも遜色ない。むしろまだ携帯にメールしかない当時より、SNSの出現した今の方がよりサル化が進んでいるようにさえ感じる。
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サルの生態に現代人が近づいていることを挙げ、現代の社会問題にメスを入れている。
夫をないがしろにして、子に期待を押し付ける主婦、専業主婦の生態など、うすうすみんなが感じていることを的確に文字にしてあり、大変おもしろく読めた。
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高名なサル学の研究者が書いたトンデモ本との評を耳にして、興味本位で手に取りました。
著者は、現代の若者は人間らしさを捨ててサル化しつつある、と述べていますが、これは一種のレトリカルな表現だと理解しました(コジェーヴ=東浩紀の「動物化」だって、生物学的な意味での「動物」を意味しているわけではありませんし)。そのように受け取るならば、人間の社会的行動を、社会的な近接要因をすっとばして生物学的な要因に還元してしまうような議論ではないので、竹内久美子のような本式のトンデモ本といっしょにあつかうのは酷だという気がしました。だからといって、本書がおもしろいとは思いません。まあ、オヤジの愚痴のようなものでしょう。
たとえば、母子密着の「家(うち)のなか主義」が広がっていると述べている第2章で、サルどうしの毛づくろいの時間についてのデータと、子に対する経済的な投資額の多寡のデータを並べて議論をしていますが、この2つのデータからただちに現代人の「サル化」という結論を引き出すことの乱暴さを、この本の著者が承知していないというのは、少し信じがたいように思います。
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人間がケータイを使うことによる弊害が書かれているのかと期待して読むと、それだけではなくパラサイトシングルや引きこもり、主婦が夫を蔑ろにすることから、20年前当時の若者の行動について書かれている本だった。
20年前の話だったので、勿論スマホは無い時代なので共感できることは、ケータイの件では少なかった。
また、話にまとまりがなく、章ごとに主題の異なる話ではあったが、20年前と現在での繋がる話も多く、新しい発見は得ることが出来た。