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存在の不確かさ。ぼんやりと感じたことのあるような感覚が言葉で言い表わされていて、しっくりするところもある。サルトルの思想は面白い。
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「私にはいわゆる心配事がない。金利生活者のように金はあるし、上役はいないし、妻も子供もない。私は存在している。ただそれだけだ。そしてこの厄介な問題は、あまりにぼんやりした、あまりに形而上学的なものなので、恥ずかしくなるほどだ。」
ロカンタンとはこういう男だ。こういう男の悩みにどれほどの価値があるか……まあそれは置いておこう。本人もそのことは自覚してるのだから。
ただこういう男の主観で語られる物語は、予想通りとても退屈だ。ロカンタンは「嘔吐」を感じるのではなく、ロカンタン自身が「嘔吐」そのものなんだ。
昔の彼女であるアニーの「自分では何一つやろうともせずに、まわりの物が花束みたいに配置されていないからというので、愚痴をこぼしているだけじゃないの。」という批判もそれなりに的を射ていると僕は思う。
ロカンタンは存在を恐れる。もっというなら「不確かな存在」を恐れてる。
「存在している。だから何だ?」
興味深かったのは独学者がアメリカの著書について話しながら、ロカンタンが自身に課している問題は「人生は生きるに値するか?」ということじゃないかと探りをいれる場面(もしかしたら、とカミュの「シーシュポスの神話」を思い浮かべたけど多分ちがう)。
ロカンタンは「もちろん違う」と一蹴する。
……うーん、こじれてきた。ちょっと整理しよう。
ロカンタンが癒しを感じるものはユダヤ人歌手がうたうレコードを聴いている時だ。音楽は、音符は、鳴らされるべく配置され、その音を出した次の瞬間にはもう死んでいる。音楽には過去も未来もない、ただその瞬間にのみ在る。
それはロカンタンが〈冒険〉と呼び、アニーが〈完璧な瞬間〉と呼んだものじゃないか。二人とも別々の方法でそれを求め、そうして裏切られた。
〈冒険〉は物語となった時点でまったくの別物になっている。だから「選ばなければならない。生きるか、物語るかだ。」
そして例え生身の〈冒険〉を選んだとして……要は、人間は飽きるし、倦み疲れる。〈冒険〉が「生」だとしても、人間は生き続けることはできない。
マロニエの根を見つめながらロカンタンは洪水のように一挙に悟る。
けどこれは今までよりもっと説明が困難だ。よくわからん。
なんか「存在のデフレ化現象」という言葉を思い付いた。
「木(人間)とかたくさん存在しすぎて価値がない」(ゲロゲロ~)
「本質的なことは偶然性なのだ。つまり定義すれば、存在は必然ではない。」うーん、わかったような気になるけどよくわからん!
僕のこの本に対する評価は、ロカンタンの次の言葉に集約される。「そして考えた、『なんて長いこと笑わなかったんだろう』」。
ロカンタンの物語は僕にとってはあまりに卑屈で、窮屈で、退屈だ。
そして僕としてはやっぱりニーチェの「ツァラトゥストラ」のこの一節に漂着する。
「わたしは踊ることのできる神だけを信じるだろう。
わたしがわたしの悪魔を見たとき、悪魔はきまじめで、徹底的で、深く、荘重であった。それは重力の魔であった。――かれによって一切の物は落ちる。
怒っても殺せないときは、笑えば殺すことができる。さあ、この重力の魔を笑殺しようではないか!」
ロカンタンはちょっと運動したほうがいい。
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サルトルの著書は初めて読む。
「存在」、「存在する」という日本語に偶然性の意味は余りないので、そのまま読むと主人公ロカンタンの嘔吐感は理解しにくかった。その辺りを意識してもう一度読み直したい。
とは言え、実存主義を学びたかったのでこれより「存在と無」を読むべきだったか。
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1938年、ジャン‐ポール・サルトル著。フランスの港町ブーヴィルに住み、ロルボン侯爵についての研究をする、孤独な金利生活者ロカンタン。彼の書いた日記という形で物語は進行する。孤独が故に膨大な「物」に囲まれている彼において、やがて「物」との関係性が崩れ始め、哲学的な狂気が彼を襲う。
名前は知っていたが、サルトルを読んだのは初めてだった。新訳なので文章自体は読みやすく、訳注や後書きにおける解説も丁寧だが、哲学的な各モチーフが濃すぎて決して読みやすくはない。飲み下すのに時間がかかるし、読み終えても完全に理解できたとは言い難い。そういう部分がまさに哲学書のようだ。
ただ、小説としてもしっかり成り立っている。独学者とアニーの二人は強烈な印象を残すし、主人公を取り巻く環境・現象(カフェや樹木のみならず主人公を取り巻く人物達も含めて)を細かく描写しているからこそ、それが「物」として哲学的に解体していく様子がスリリングに感じる。こういった、当たり前のもの、いわば足元が解体していく感じこそ哲学の醍醐味だろう。だが、それはある種の狂気に違いない。ロカンタンのことを考えると、そう思わざるを得ない。
何年か経ってから再読してみたい。また違ったものが見えてくるだろう。
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アントワーヌ・ロカンタンの手探りの思索の記録。すべてのものはただ存在しているだけでそこに意味などないと気付いた瞬間からロカンタンの吐き気が始まる。
「本質は偶然性だ」という発見。クライマックス。思ってたより小説らしい小説、というどころかフランス文学(ほとんど知らないけど)の名作の匂いを確かに感じました。
面白かった。
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これがサルトルの「嘔吐」なのか。
プルーストとの決別宣言とも取れるし、マロニエの根っこから実存主義が芽生えてくる瞬間を捉えた哲学的ドキュメンタリーとも取れるし、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」みたいなごくつぶしの愚痴小説の原点とも取れるし。
でも一番腑に落ちたのは訳者解説の「冒険小説」という言葉でした。
何はともあれこれが海外の長篇第22位。
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若い頃に読んだ時は正直、訳が解らなかったが、歳をとってから読むと不思議な感慨を抱く。感慨というか郷愁? 不思議な本だ。
何となく埴谷雄高『死霊』を思い出した。
こういうのは若い頃に読めばいいのか、歳をとってから読めばいいのか、判断に迷うねw
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人間も含め、あらゆる存在は偶然性の産物である。存在そのものも、存在から存在への移行や動作も、互いに連関はない。その恐るべき状況の中にどうしても必然の可能性を見出したくなるアニーには共感を覚えた。物語ではその試みが挫折せざるを得ないことが示されているが、そこにどうしようもなく退屈な遺棄された日々の生活に対する調味料としての役割を、あえて見出してもよいのではないかと個人的には思う。
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プルースト『失われた時を求めて』の訳者による新訳。訳者は、サルトルの中にプルーストの影響を認めている。
中村文則の小説『何もかも憂鬱な夜に』にサルトルのことが書かれていたので、読むことにした。
そういえば、大学時代、サルトル好きの友人がいた。当時はフランス現代思想にかぶれていた僕は、現代思想が否定していたサルトルのことをバカにしていた。現代思想は、サルトル的な主体性、自由、行動する知識人の在り方を批判することから始まった。現代思想も廃れた現代において、改めてサルトルを読むと発見が多い。
サルトルがガリマール社に『嘔吐』の原稿を渡した後、何度も改稿を命じられて、出版まで7年もかかったという。よほど編集者の直しが入ったのだろう、しかし、ガリマールの判断は正しかった。他のサルトルの小説といえば短編か未完作品ばかりだが、『嘔吐』は完結しており、サルトル自身認める傑作となっている。
小説は主人公ロカンタンの日記の体裁をとっている。ロカンタンは十八世紀ヨーロッパの架空人物であるロルボン公爵の歴史研究をしている。生活のための仕事はしていないが、食べていける金利生活者である。行きつけの居酒屋の女主人、独学者の青年としか接触がなく、ロカンタンは物に囲まれた孤独な生活をしている。ロカンタンはある時、物に対して嫌悪感、吐き気を覚える。探求の結果、ロカンタンは、すべての物が偶然存在していることに気づく。存在に必然はない、世界の本質は偶然性だとロカンタンは喝破する。
ロカンタンの目には、自分達の存在理由をかたく信じている社会の指導的エリートは俗物だと映る。以下冒頭の文章引用。
「一番いいのは、その日その日の出来事を書くことだろう。はっきり見極めるために日記をつけること。たとえ何でもないようでも、微妙なニュアンスや小さな事実を落とさないこと、とりわけそれを分類すること。このテーブル、とおり、人びと、刻みタバコ入れが、どんなふうに見えるのかを言わなければならない。なぜなら変化したのはそれだからだ。この変化の範囲と性質を、正確に決定する必要がある」
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「この自由はいくぶん死に似ている」小難しいニート小説…というと雑すぎるけど、社会の仕組みから浮いた人間の心理をしつこいくらい炙り出している。自分が存在してしまう「余計さ」という言葉は痛いくらい響く。
責任ある仕事とか社会の称賛とか「これがあれば幸せでしょう」みたいな価値観から自由になった時、自分の余計さがやっと死んでくれるのかも知れない。
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"存在を恥ずかしく思わせるような小説"、ここに息していること自体余計だけれど、情景の美しさや冒険の話は希望と捉えていいのか。ここまで人生に冷静な人がどこかにいてほしい
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読み心地はいいものではない。でも有意義な読書体験になると思う。作家の意図としてなのか意図せずにかはわからないけれど、読んだ結果の反作用的な意味で有意義だったような気がする。これは個人的な前提があってのことかもしれずよくわからない。ただ、哲学者らしいある種の徹底があるので、そこは柔らかくなく読み応えがあるので相応の読書になると思う。
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サルトル 「 嘔吐 」ロカンタンが 吐き気を通して 事物と人間の実在を発見する物語。
小説にすると 人間の主体性や自由のための実存主義の主張が弱まり、事物の存在の空虚性が目立つ。「実存主義とは何か」の方が面白い
存在論
*存在とは 何でもない〜外から物に付け加わった空虚な形式にすぎず、物の性質を何一つ変えるものでもない
*本質的なことは偶然性〜存在は必然でない〜存在とは 単にそこにあること
*現在 以外に何もない〜私自身も 〜現在でないものは存在しない
「人生は それに意味を与えようとすれば 意味がある〜まず行動し、一つの企てのなかに身を投じる」
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ついに読み終えた、という読後感。
「吐き気」という症状を持病という「存在」の一部として抱える身として、この作品においてロカンタンが吐き気に襲われる場面で本当に吐き気を催してしまうことが何度あったことか。
しかし、僕にとってこの哲学小説は通るべき道のように思い続けていた作品(そう、まるでアニーの「完璧な瞬間」のように!)なので、吐き気を堪えながら読み終えた今、やれやれという心持ちとここ数年来自身が抱えていた内的問題に対する姿勢への得心を得たという感覚に浸ることができた。
巻末の訳者解説によれば、この「嘔吐」はサルトルがフッサールとハイデッガーを咀嚼して実存主義を展開する前に書かれたために、「実存」という訳語を使わず「存在」に統一したということらしい。つまり、この段階ではまだ実存主義ではなくその萌芽が示されたに過ぎないと。けれど、この「嘔吐」を読むに当たっては「実存は本質に先立つ」という有名なサルトル実存主義の題目を念頭に置いておくと、ロカンタンの思索を読み解く助けになるように思う。
例のマロニエの根のごとき存在(「自然」或いは「景色」と置き換えてもいい)と自己存在が完全な偶然性の下にリンクするような感覚をここ数年来覚えていたこと、またロカンタンのライフスタイルが僕にとても似ている(僕は高等遊民のような財を持たないが)ことなど、ほとんど身につまされながら、吐き気を堪えながら3ヵ月余りの期間の中で読了できたことを嬉しく思う。
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208ページまで読んだ。難しい。
『嘔吐』は、「実存」を発見する道程を描いた作品ではあるが、決して実存主義の思想に基づいて書かれた小説ではないのである。(解説、p.336)