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原題は『吐き気』と訳したほうが正確なんでしたっけ?
とにかく、存在そのものに嘔吐しそうになる、という着想にはちょっと笑いました。
「あなたという存在が気持ち悪い」みたいな言い方がありますが、サルトル流に解釈するなら、気持ち悪いのは「あなた」じゃなくて「存在」なんですよね。
でも、すごく共感します。
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2020/7 読了
感想書き忘れ。
自分が存在するとは何かと考えたとき、
周りの人との会話などを通して存在が確かめられるけど、
周りの人たちは自分が意識していない時は本当に存在するのか分からないって思っていた時期が昔あったなぁーと思い出した。
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仏文学を最近全く読んでいないと思い、思い当たったのが本書。
本書についてはサルトルの思想面が強調されているイメージ(哲学書のような)があったが、思ったよりも「小説」であった。
といっても、語り手のロカンタンという青年が、街の中を行ったり来たりし、モノローグを続けている場面がほとんど。
他の登場人物は、「独学者」、元恋人のアニーくらいしかいない。アニーは、「特権的な状況」「完璧な瞬間」について、そうしたものは結局存在しないことを表すために登場したのだろうが、独学者というこの風変わりな人物の役割は、ヒューマニズムへの批判的態度を表明することにあったのだろうか?
以下、巻末の鈴木先生の解説を参考に個人的に考えてみたことを書くこととします。
「存在」・・・ロカンタンは「物」(石やふと目にした店員の衣服?)に触れたり、「自然」(マロニエの木など)を観察したりすることによって、一人一人の人間の存在も、それら物や自然物と同様に「余計なもの」であると気づいてしまう。余計なもの、という感覚は、人間以外の物体などが例えば風に吹かれてたまたまその場所に転がっているように、人であってもその存在はあくまで「偶発的」なものである、という悟りのようなものである。美術館の肖像画の場面で(この場面はかなり長かったが、、)、肖像画に描かれた、歴史に名を残す偉大な人物たち。このような人たちは、自分たちは何事かを成すために地上に存在しており、他の者ではない自分だからこそできることがある、いる意味がある、というように考えているが(またそうした偉大な人物たちではなくても、誰でも多かれ少なかれ自分の意思や判断が影響してきたからこそ、今自分のいる位置にいるのだというような意識はあるものだと思うが)、人間が存在するということは、その他の「物」がたまたまその場所に転がっているがごとく、何らの必然性もないものだ、ということにロカンタンは気づくのである。存在たちはそれぞれ、相互に連関しあって意味付けられ、そこにいるように見えても、あくまで孤立しているものである。例えば仕事。それもまた存在の理由にはならない、だからこそロカンタンは論文?の執筆を放棄するのである。
「完璧な瞬間」・・アニーのいう完璧な瞬間とは、ロカンタンのいうような、何らの必然性もない「存在」とは対照的に、なるべくしてなる、起こるべくして起こるような状況を指すものと思われる。しかし、あなたと私の出会ったあの瞬間は、まさに奇跡であり同時に必然であった・・というようなドラマのような場面は、実際には起こり得ないものであり、そのことを悟ったアニーもまた抜け殻のように余生を送る他ないと考えているのである(といってもアニーにしろロカンタンにしろ、思った以上に若く設定されていた。2人とも達観しすぎていて老人かと思ったが)。
一方で、劇的な展開を見せるドラマには筋書きがあり、大団円もある。作中で音楽も同じ扱いがされていたが、つまりいわば小説というものは、結末に向かって、冒頭から必然のみが積み重ねられていくものであるから、小説の中では存在の偶然性といったことは生じないこととなるのではないか。ロカンタンは結��部分でも、この点にわずかに希望を見出しているのではないか。
この小説で表現されているものは、上記のような存在の偶然性といった考え方であるが、やはりこうした概念は哲学の中の抽象語の一つで、やや現実離れしすぎているようにも感じる。むしろ本書を読んでまず感じたのは、存在の偶然性の発見により絶望するロカンタンというよりも、小説の中の彼がほとんど誰も話し相手がおらず、家族も登場せず、ひたすら孤独に生きているのに、それでも年金収入もあり「生きられてしまう」ことが恐ろしいと感じた。なぜなら存在自体に必然性がないといっても、直ちに実感はわかないが、死にもまた必然性はない、といったほうが、我々には実感しやすいのではないかと思うからである。
本書は、哲学書などに比べると随分読みやすかったが、難解な箇所もあり、読了まで時間を要した。しかし、非常に勉強になる読書体験だった。
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ブクログのモニター当選したやつなんですが、ようやく読み終わりました。大変。
海外文学や海外小説の大半がそうなんですが、日本人の日本語の言い回しと違うところがかなり多く、頭の中で理解するのに時間がかかります。
この作品なんですが、哲学系ですので、やっぱり難しい。一応、小説なんですけどね。
日記形式の小説で、主人公が海辺の街で過ごすうちに、突然「存在」に目覚めるというもの。
…中二病ですか。
これ読んでて、哲学と中二病に凄く通じるものがあるんじゃ無いかと思えてきました。
世界の在り処を疑ってみたり、そこらにあるものを疑ってみたりと、どこの中二病なのかと。
なお、主な登場人物にろくな人は居ません…。
結局のところ何を言いたいのかわからない話でした。が、絵が容易に思い浮かべる事が出来る話ではありました。
わからないけど、ところどころ引き込まれて一気に読みすすめる部分もあったので、具体的に何とは言えないけど、面白かった部分もあったのかなぁとは思います。
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嘔吐 新訳
(和書)2012年05月10日 14:12
J‐P・サルトル 人文書院 2010年7月20日
サルトルさんの『嘔吐』を新訳で読んでみました。
以前、別の訳で読んだことがありましたが、あまり印象に残ることはなかったけれど今回はなかなか素敵に読むことができて、これは翻訳のためか、それとも2回目ということで、やはり読書というものは一回読んだからどうだとかじゃなく、読むことを愉しむことは大事なのだと思いました。
特に近日思うことは、真理の探求ということを考えていくと読書の面白さは無限大に愉しむことができると思いました。
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実存主義の世界に没入できる内容。
違和感=嘔吐が生む生の価値を客観視できる。
もう一回きっちりと内容をまとめて読みたい。
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昔、NHKの番組で紹介されていた時から読もうと思って読めていなかったが、ようやく読了。意外と読みやすく、すらすらと読めた。
小説ではあるが、何か出来事があるわけでもなく、主人公が書いた日記形式で、孤独な主人公の日々が書かれている。しかし、彼は自分を「孤独のアマチュア」と呼ぶように、まったくの孤独というわけではない。馴染みのカフェがあり、独学者という知り合い?も出てくる。
実存主義の古典ということだが、実存主義の「実存は本質に立つ」という言葉の「実存」だけが語られており、本質との違いは語られていないように思える。後で調べて分かったが、サルトルが実存主義を提起するのは、この小説のずっと後らしい
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高校の卒業文集で「嘔吐」を読みたいとよくもわからずに書いていたのだが、卒業して15年後に読んでみた。
主人公のロカンタンがなにげないものにも吐き気を催すようになったということなのだが、てっきり、吐き気を催すようになった思考の過程がユニークかなのかと思っていたが完全な思い違いだった。
今の自分には全く理解できないし、そんなつまらないことを考えているなら、もっとましなことを考えたほうが良い。「もともと世界なんて意味がない。でも意味がない中でも、色々やってみたら面白いじゃないか」という考え方を持つ自分にとっては、時間の無駄だった。
卒業文集で馬鹿なことを書くもんじゃなかった…
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あっという間に読み終わった。
ロカンタンの思想の流れ、キーワードになっている言葉や要素がが手に取る様に分かり易かった。
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〝存在〟という言葉について、一度でも考えたり、引っかかったりしたことのある人にとっては、必読の本かもしれません。
私に関しては、本書『嘔吐』が、サルトルさんとの初めての出会いだったから、余計な先入観、こじつけなく読めたと思うのです。
内容は、金利生活者(働かなくても生きていける)の主人公ロカンタンが、孤独と退屈と暇を持て余しに持て余した結果、人間世界を覆っていた〝観念〟の存在に気づいてしまい、「生きるか物語るか」という至上命題に行き着くまでを、日記、一人称、独白形態の形を取って描く作品。
現状の生活で、何も違和感を感じない人は、なかなか理解し難い内容になってます。
例えば、教師。消防士。警察。自衛官等の公務員。営業。店頭販売。製造。アスリート。などの肩書きのある職業。もしくは、学生、主婦等、社会で一定の効力を持つ(ほとんどの)人には、理解に苦しむ内容です。
筆者は、これらを〝観念〟と呼びます。つまり、実在していない物です。確かに、資格を持つ、面接を通る、結婚すれば、ある一定の年齢になれば、上記のステータスは、手に入れることができます。
でも、それらが〝本当にある物ですか?〟と聞かれると、どうでしょうか。教師だって、警察官だって、人間です。それら付属物は記号のような物で、人間という本質を変えてはいない。そう言われると、不思議と首を縦に降らざるをえません。
しかしこの『嘔吐』は、それだけにとどまりません。〝経験、過去〟これらも、観念に含まれると、言いのけてしまいます。
さて、内容への考察はこれくらいにしておいて、個人的に引き込まれてしまった場面を解いて行きます。
ーVS独学者〜厭世主義(ペシミズム)じゃないんだけど、説明が難しいよ…ー編
ロカンタンが存在について考察を進めていく際に、何人かの、反証者のような役割を与えられた人物達と邂逅します。
独学者はコテコテのヒューマニスト。ロカンタン曰く、最もタチの悪い論客といったところでしょうか。
人間というだけで、概念そのものをすっぽりと包み込むように愛するヒューマニストにとって、ロカンタンの展開した〝存在〟は天敵にあたる。人間の行いを全て愛するという態度は、観念へさらに現実味を持たせる。
対してロカンタンは、観念は存在していないのであって、存在しているのは、今この瞬間を生きている自我なんだよっと説明したい。
でもそれを言ったら、厭世主義と言われてしまった。ここが面白いです。どう切り返すのかというと、ロカンタンはそこから逃げ出してしまうのですが、、
その後で、「私のようなカッサンドラはいないのか」と嘆く場面も読書の笑いを誘います。
存在に対して作り上げる〝物語り〟も、観念の一つでしょう、とツッコミを入れたくもなりますけれど。
ーVS大失恋アニー編ー
観念への吐き気から、観念にどっぷり浸かっている人をこれでもかとこき下ろすロカンタンですが、元恋人の前には、たじたじ。
〝完璧な瞬間��を演じることを求める、プッツン女優のアニーが彼は好きで好きでたまらない。それこそ、観念にがんじがらめにされることを、自ら望んでいるようなものでは?と意地悪を言いたくなりますが。
〝私は余生を生きているの〟このアニーのセリフは本編を通して1番衝撃的なパワーワードでした。
二人が別々の時間軸で得た視点が、物語ることと、ただ単に生きるということだった、という設定は、震えるような感動を覚えます。
人間は〝観念〟という、社会通念の上にシナリオを書かれた、ある役割に従って、人間を演じているだけ。ということに、二人は気づいてしまったわけです。
そうなると、もう絶望感でいっぱい。
そこから、この『嘔吐』を、小説形式で書き上げることで、自分の〝物語り〟を始めると、ラストに繋げ、サーキュレーションさせる手法にも恐れ入ります。
ーブルジョワもプロレタリアも大嫌い、トゥールヌブリート街編ー
観念の舞台として、この上ない役割を果たすプーヴィルのカフェやギャラリー、通り、船、全てを、ロカンタンの目線になって読む。
これが、『嘔吐』の楽しみ方の一つでしょう。画廊に掛かっている、街の創設者達と睨み合い、ディスり合う場面も白熱します。
孤独な人間にとって、ロカンタンの見る景色は、実を言うと、日常風景なのかもしれませんね。
観念にどっぷり浸かって生きる人びと(社会的に恥ずかしくない人々のこと)が、思考停止しながら生きる姿を面白おかしく捉えています。
今の世をロカンタンはどう見るのでしょうか。
6G・DXによる。大個人時代。のように見えて、人間のやってることは何にも変わらねーな、と言いそうです。
また、新しい観念に、追いすがり、引きずられる、エキストラのような人影に縁取られた、ジョーカー。そんな構図を、ロカンタンは一人でコソコソと、「吐き気」がする、と嘯いているのだと思います。
全体を通して、分かりやすく、丁寧に描写されていました。原語で読みたところですが、フランス語の勉強はまだ、、、
訳文に頼るしかないのですが、相当に整った、文章でした。読みやすい。。
また、サルトルさんに関しては、哲学から出会う方も多いようで、私のように、図書館の棚からスッととったら、たまたま、なんてことは稀のようです。。
でも、主義や、哲学方式など、から入るよりも、よほど入りやすく、分かりやすいのではないでしょうか?
なんと言っても、哲学こそ、一種の観念なのですから。
読了日 2021.10.26
初感想 2021.10.26
二次感 2021.10.31
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自分も偶然的に存在しており、世界にとっては余計なものである。
人が退廃したところでは自然が覆い尽くす。
これまで私はあなたの愛しいアニーであったことはない。
人間主義者は全てのものを一つの考えにまとめてしまう。
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恐縮ながら「自分語り」をすると、ぼくはすでに「いま・ここ」に、この肉体を伴って(つまり「吐き気」を催させる臓器・精神を伴って)「ある」。「ある」ことが所与の条件となってこうして何かを知覚する意識も成立する。そんな「あたりまえ」「自明の理」にロカンタンは見事に、実に滑稽に足をすくわれつまづいてしまう。眼前の光景に「いま」が脈々と横たわっていることそれ自体を戦慄とともに受け容れ、有名なマロニエの光景の中にそうした「ある」ことの生々しくかつ神秘的な真実を見出す。小説としてはやや平板だけど、その深度はあなどれない