紙の本
涅槃をあきらめる
2023/06/22 16:11
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投稿者:ツクヨミ - この投稿者のレビュー一覧を見る
神戸の事件を題材にしたフィクション
作家を目指いしながら、情熱を失って実家に帰った女。少年Aの追っかけをしている少女。被害者の母親。そして少年A自身。
その四者の視点が切り替わりつつ、ストーリーは進行してゆきます。
最初は重くて暗くてドロドロしていて読みにくかったけれど、後半になるにつれてストーリーはスピードアップし、面白くなってきます。
幸せな家族って、そうはないんだと思う。何某かの問題を引きずって生きている人は多いのではないでしょうか。
だから、やっちまった奴、に惹かれる。
少年Aは育てなおしをされる。何故か『時計仕掛けのオレンジ』を思い出してしまいました。しかし、可塑性のある少年には、たとえ特殊な性癖があったとしても、それを背負って犯した罪を償う一生があっていいと思う。
凶悪な犯罪を犯したからって、この国は死刑が多すぎると思います。
曖昧なラスト…それで仕方がないと思いました。
紙の本
面白かったけど感情移入はできなかった
2022/10/01 23:15
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投稿者:やつはし - この投稿者のレビュー一覧を見る
*ネタバレあり
7歳の女の子を殺した少年Aと被害者の子の母、少年Aを崇拝する女の子、その三人の輪からは少し離れた位置にいる作家志望の女性の4人の群像劇。
少年Aのパートはいらない方がミステリアスというか、そっちの方が好みだったかも。
最後美化しすぎな気がする。倫太郎(晴信)も莢も死んだけれどもバッドエンドにしたくないのか、最後すごいスピードできれいになっていってついていけなかった。
謎が多い。結局あの宗教団体は?とか、今日子じゃない方の倫太郎を追ってた車って結局何やったんとか。宗教団体の方は、ルーが何で作ったか言ってたけれどもよく理解できない。ルーは人を騙そうと思ってその宗教を作ったわけではなくて、団体が大きくなるとある団体で事件が起きて、その結果カルト宗教と呼ばれるようになっただけ?でもルーのいた団体でも大人の部屋ではいろいろあったし。それは一番上のルーが指示してたんじゃないのか。そういえばSはどこに連れてかれたんやっけ。忘れた。
最後、莢を光に重ねてたなっちゃんが駆け落ちさせるのが理解できない。なっちゃんにとっては莢は光同然だったはず。あと最後のなっちゃんの登場シーンはもう完全に頭がおかしくなったってこと?(p442)
この事件が実際に神戸で起こった少年Aの事件を題材にしてると聞いたから調べてみた。ある記事では人の性衝動は、初めて性的快感を得た時の環境に左右されると聞いたけれど、なんでこの小説の中の少年Aは死で興奮してるんだ。実際の事件の少年Aは祖母が亡くなった時に、祖母の部屋に合ったマッサージ機ではじめて快感を得て
、祖母の死+性的快感=死で興奮って書いてた。
今日子のシーンが読んでてしんどかった。特に最後の小説家としてこれからやっていけるかもと思ったころ。作者自身が自分の作家人生をそう思ってるってことかな。ただ求められた本を書いてるだけなんかな。
紙の本
酒鬼薔薇事件にインスパイア
2020/12/07 21:46
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投稿者:くみみ - この投稿者のレビュー一覧を見る
何を想い、何を伝えたくてこの作品が生まれたのか。触れてはいけない、進入禁止の所に踏み入った感覚。完全なるフィクションなら評価はがらりと変わったが、インスパイアされた元の事件を思うと胸焼けがした。何も知らずに読めば単純にとても面白い
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【私の運命の人は、少年Aでした】少年犯罪の加害者、被害者の母、加害者を崇拝する少女、その環の外に立つ女性作家…人々が交錯した時何が起こったのか。渾身の長編。
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かつて新人類と呼ばれた世代に「少年A」よりもずっと前に幼女を数人殺害し、「おたく」という言葉に対してネガティブな印象を日本中にもたらした宮崎勤がいた。彼は数千本のビデオテープの孤独な籠城だけが拠り所だった。ある人が彼と同じ姓である宮崎駿の作品を観ていたら、宮崎勤はきっとあんな犯罪を犯さなかっただろうと言ったらしいが、その数千本のビデオテープの中でラベルに唯一「さん」づけされていたのがその監督だと昔何かで読んだことがある。宮崎勤だけではなく、「少年A」と同学年である九州バスジャックや秋葉原通り魔事件に、PC遠隔操作事件の犯人であるかつての少年たちは書きかけの小説やなんらかの表現をしていたと言われている。だが、それらは未完成だったりしたし何よりも他者には届かなかった。彼らが表現しようとしたものは一体なんだったのか? 何を見ようとしていたのか?
物語とは世界を理解するモデルであり、人間の中身や世界の構造について知りたいという欲望と、自分と他者との関係性は、創作というものに関してかなり大きく影響してくる。『さよなら、ニルヴァーナ』の中でルーが晴信にそれらのことを端的に告げている箇所が出てくる。
物語≒小説を書くという行為と読むという行為はこのどうしようもなく救いのない世界で自分の内部に降りていくものであり、この繋がりすぎてしまう世界においてはかなり孤独なメディアであると言えるはずだ。それは著者と読者の密接な対話だ。だけども受け手が降りていく内部にいるのは受け手本人だけで、その降りるキーがその物語や著者だったりする。そこで僕らが見てしまうのは自分という人間と向かい合うことだし自分の見たくない本音だったりする。
『さよなら、ニルヴァーナ』はそこに降りさせてしまうタイプの小説であり著者である窪美澄さんの八冊目の単行本であり、この度文庫化された。それまでの窪作品にあったものがここに一気に集結しているそんな作品になっている。この小説は各章ごとに主人公が変わる。主要人物は大きく四人いる。
一人目は東京でOLをしながら小説家を目指していた今日子。2011年の震災後の翌年に夢を諦めて実家に戻るが、自分勝手な妹夫婦とその娘と母との生活に倦む中、過去に凶悪犯罪を起こした少年Aが地元にいるという噂を聞いて彼を追いかけようとする。
二人目は神戸生まれで1995年の阪神淡路大震災で父を亡くし東京で育った莢。仕事で忙しく家を留守にしがちな母を持つ大学生の彼女は少年Aをハルノブさまと敬い、彼に関する詳細なウェブサイトを作成していた。目撃情報があるとお金を貯めてその場所に行っている。
三人目は少年Aに当時七歳の娘・光を殺された片山(なっちゃん)という主婦。彼女は神戸で夫と大学生の息子と平穏な暮らしを取り戻したが、酒に溺れる母や鬱病から自殺未遂を起こした夫の世話に追われていた。少年Aが住むと噂される場所を訪れた片山は、彼を崇拝している莢と出会ってしまう。彼女は光が生きていたらこんな娘になっていたかもしれないという少女だった。
四人目はかつて少年Aであった晴信。彼は施設を出たあとには名前を倫太郎に変えられて静かに暮らしている。
『さよなら、ニルヴァーナ』は窪さんの三冊目だった『アニバーサリー』の流れの延長線にあるのだろう。『アニバーサリー』は戦前から東日本大震災以後に母親になった女性を軸に描いていた。戦前に生まれ戦争が終わって高度経済期を生きてきたおばあちゃん世代の晶子と、1995年に女子高生だった真菜という世代を交互に描いて最後に結びつけていく。意識的に窪さんがやっていると思ったのは、前二作『ふがいない僕は空を見た』『晴天の迷いクジラ』の要素を掛け合わせた上で二つの時代を書いているということだった。
性的な衝動や行動は人間の性であり、それは子供を作る行為でもある。「なぜ、わたしはここにいるのだろう?」という存在意識の根本として。故に家族を描く際に避けては通れない。それを出産という始まりから書いている。セックスをして子供が生まれたから家族になったの? なれるの? 血の繋がりがあろうが個人個人の関係のなかで一緒に暮らすと言う事はどういうことなのか?
抱えきれなくなった想いの行く先はどこなのかということが書かれていた。そして辛かったら逃げてもいいんだよというメッセージや登場人物の行動、そして血の繋がった家族ですら居場所がなくても、疑似家族的な血の繋がりもないけれど関係性を築ける人々の元に逃げる、あるいは作れるのならそれでいい、死ぬよりは絶対に生きていけるその可能性を示していた。
『アニバーサリー』は前二作で窪さんが書いてきたものと震災後の人の心のありようや想いや不安を母になった真菜が感じている中で、祖母のような晶子との関わりの中で少しだけ和らいでいく。真菜のこんな世界に産んでしまってごめんねという気持ちが少しでも青空に近づくように書かれていて、描写や台詞が、ふいに心の奥にある泉に小石が投げられて波紋が広がる。しかし、彼女が見上げた空は移ろいやすく放射性物質も舞っているのかもしれない。それでも真菜が再び抱きしめた娘と歩き出すこの世界には色彩があり音があり匂いがしている、肌が感じる風の揺らぎも生きているから感じられるものだった。
窪さんを含め五十代と四十代後半の作家群が2011年を経て書かざるえなくなったのは、やはり1995年という時代でそれはただの近過去ではない。彼らが二十代や三十代の頃に同世代が起こした世界の終わりに向けてのことを含めて日本が確実に変化した1995~2011年の季節。リアルタイムで見て聞いて感じて知っていた事を、2011年の震災が原発問題の風化される速さを思う時にあっという間に風化された時代を語りなおそう、しなければいけないという書き手の人がたくさんいる。窪さんは『さよなら、ニルヴァーナ』も含めてそう意識していたように思える。
窪作品の核としてあるものは母と娘の関係性と父性の不在、家族ができるが誰かが損なわれるor自ら出ていく喪失感や捨てた側の後悔の念というものがある。家族とはいちばん「小さな共同体」であり、この社会の最小単位だ。僕らは誰も両親や生まれなどを選んで生まれてくることはできない。気がつけばその共同体の中にいて、もがき苦しんだりする。そうじゃない人もいるかもしれないが、自我が生まれて他者との自分��一緒ではないと気づいた後にはその共同体が祝福なのか、呪縛なのか、守るべきものなのか、出て行くべきなのか、がわかるようになってくるしそう行動するようになっていく。
『さよなら、ニルヴァーナ』の主要人物である三人の女性は小説を読めばわかるが、どの女性も母と娘の問題が大きく人格に人生に影響を与えている。男性である晴信も同様だ。そして父親の不在がある。このことは窪作品におけるテーマであり、実は戦後日本の問題点だと言える。村上春樹はずっと父の不在ではなく近年までずっと父になれない主人公を書き続けてきたのも実はそれに関係しているのかもしれない。
今作で窪作品において珍しいなと感じられるのはルーという存在だ。彼はこの国には父がいないと語ったり、他にも物語の中における語部として機能している節がある。主要人物三人をそのまま著者と結びつけるのは短絡的ではあるが、何かに夢中になっている十代の少女、作家志望であるが作家になれない三十代の女性、結婚し出産して子供を育てている四十代の女性と窪さん自身の体験や経験も投影されているようにみえる。そこに現れるルーという存在の客観性、外部性は今までにはあまり感じられなかった気がする。
窪さんは母と娘(あるいは息子)という関係性においてデビュー作から書き続けている小説家でもある。『アニバーサリー』においては真菜と母、今作では<少年Aと母>の関係が<創作物と作り手>にも見えてくる。だからきっと書き手である窪さんと書かれた小説の関係でもあるのだろう。
生み出されたものは自然発生的に自我による彷徨を始める。涅槃にあるのは父性でも母性でもないのだろう。だから窪さん自身にもこの小説について書いたのにわからないことがあるはずだ。だからルーという存在は著者と表現物における批評としての意味合いもあるかもしれない。
莢と片山の関係は少年Aで繋がってしまった赤の他人だが、代理の娘と母として機能していきある種の疑似家族のようになっていく。血の繋がった母娘ではない他人だからこそ、優しくできて甘えることのできる関係性が、実際の母娘問題で損なわれたものを補っていく。莢の母が言う「誰かが急にいなくなってしまうことがほんとうに怖いのよ」という台詞は窪さんの想いでもあるのだろう。
僕たちはいつかいなくなる。大切な人も嫌いな人も急にいなくなる。日々はすり減っていつか時間は永久に止まってしまう。『さよなら、ニルヴァーナ』という物語は僕らの内部に深く浸透して自分でも知らなかった感情や想いと向かい合わされる作品だから、絶賛されるか拒絶されてしまうかに分かれてしまうのかもしれない。だからこそ気持ちが揺さぶられるし途中で読むのがしんどくなってしまう人もいるだろう。でも、少し休んで続きを、この物語を最後まで読んでみてほしい。そこには小説家である窪美澄の作家としての強い覚悟があり、読み手である僕らの知らなかった感情がむきだしにされる。その感情には僕たちを取り囲んでいる世界に対しての想いでありどうしようもないことやくだらなくて下卑したくなるものもはらんでいる。だからこそ、その反対側にある想い。そこに思い浮かんでくる人はあなたの世界においてもっとも大切な人物であるはずだ。���けどその人もいつかいなくなるから。だとしたらあなたはその人の名前をもっと愛おしく感じるし会いたいと思うし、話したいと感じるだろう。この世界は残酷だけど時折素晴らしい瞬間がある。その時に誰と居たいのか、居るべきなのか、この物語を読み終わった後には柔らかだがしっかりとした光が差すように教えてくれるはずだ。いつだって僕らは大切な人と笑っていたいのだから。大切な人が笑っていてくれる世界で生きていたいと願うように。
https://bookstand.webdoku.jp/news/2018/05/18/170000.html
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2018.09.30.読了
重くてグロくて悲しい。
はじめての窪作品。
文体は読みやすく一気に入り込んでしまった。
少年Aについてはフィクションノンフィクション問わず多くの作品になってきたし、私も何冊か読んだ。
その中でもこの作品は本当にあった話なんじゃないだろうか?と思わせるチカラを持っていると思う。
少年A、莢、なっちゃん、そして今日子。
それぞれの結末は曖昧に表現されている。
読了後、ああ、いい作品だったなと思って文庫を手にとって帯も含めてマジマジと眺めた。そこで気がついた
そうか、この作品は、それぞれの地獄を描いていたんだと。。。
地獄という言葉がピタリとハマった。
それにしてもなっちゃんが悲しい。
ほんの少しでもいい、なっちゃんに光を与えてほしいと心から願う。
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引き込まれて一気に読んでしまった。が、かの有名な神戸連続児童殺傷事件をモチーフにしていることは明らかで、フィクションであるにも関わらず、設定に実際の事件と重なる部分が多すぎて、中途半端な印象、複雑な読後感だった。せめて神戸でない地域にするとか、事件そのものの内容を変えるとかしなかったのか? これでは被害者の母があまりにも哀れでやるせない。
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14歳の少年がおこした幼女殺害事件を題材にした群像劇。加害者の少年A、被害少女の母、少年Aを崇拝する少女、少年Aを題材に小説を書こうとする女性、4人の視点で物語が進行していく。
3人の女性は様々な形で少年Aであった青年に魅せられていくのだが、誰にも感情移入できなかった。でも、読むことを止められない。なぜなら、小説にしようと考えた女性と同じように、彼がなぜそんなことをしたのか?を知りたくなってしまうからだ。
その恐怖心をベースにした好奇心は、少年が「人間の中身が知りたい」と少女を殺す気持ちと変わらないのではないか?と作者に疑問を投げつけられたかのようだ。
そう、私たちはこれからも、悩み、苦しみ、涙し、喜びながら読んで読んで死んでいくのだ。
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神戸児童殺傷事件をモチーフに、被害者・加害者・崇拝者の視点から事件の【その後】を描いた作品。登場人物達の置かれた環境の閉塞感には息が詰まるが、多角的に【少年A】を描いていく中盤まで非常に惹き込まれた。しかし、終盤に向かうに従いどこか浮わついた掴み所のない展開に。加害者視点の挿入などタブーに切り込む攻めの印象はあるものの、多角化し過ぎた影響なのか広げた風呂敷は充分に回収し切れず、散漫な結末になってしまったのは残念。物語を総括する役割の小説家には著者である窪さんが投影されているように感じたが、どこか免罪符的。
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地獄をみたくなくて、死にたくなる。それは逃げなのだろうか。誰も救われない物語で、現実は厳しくて、どこにも答えは書いてなかったけれども、主人公が最後に前に歩き始めるのに心打たれた。物語を進めるのは人間で、人間の中身は本当に複雑で、絶対に分からなくて苦しくなるのだろうけど、向き合ってみたら何を感じられるのだろうか。
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タイトルと書き出しだけを見て購入したら、すごいお話でした。
びっくりした。
グロテスクなシーンはわざと流し読みしました。
たまにある、理解出来ないことがわかって安心する本です。
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子供を殺してしまった「少年A」。少年Aに恋をしている少女。小説家をめざしている女性。
べつべつの話から始まって、この3人が絡み合っていく。子供を殺してしまう少年の心理は全く想像もできなかったが、この中に出てくる少年の描写で、ほんの少しだけその心理を想像してみることができた。
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こういうデリケートな題材を扱うことにリスクはあったでしょうし、実際に被害に遭われたご家族のことを考えると胸が痛みます。
それでも一作家として、描く欲求に抗えない、描くことへの執念のようなものが本書からは伝わってきました。
様々な重みを引き受けていくことを含め、生半可な覚悟ではできない作業だということは、物書きを生業としていない私でも分かります。
あえてそこに挑んだ著者の勇気にまずは敬意を表したいと思います。
本作で一番印象的だったのは、14歳の時に女児を殺害した少年Aに翻弄される人々のことを描いているようでいて、実は作家としての性(さが)、もっというと人間が持つ欲求の本質に迫ろうとしている点でした。
恐らく私小説的な意味合いもあるのでしょう。作中に登場する作家は著者自身と重なる部分がありそうですし。
物語はその少年A、少年Aを崇拝する少女、被害者の母親、そして作家志望の女性の4人の視点で進みます。
読んでいて感情移入できるかどうかは別にして、どの主人公もしっかりと造詣がなされており、心理の描き分けがとてもうまくなされているように感じられました。
被害者家族、特に母親の描写は秀悦で、関西弁で心情を吐露する場面や、殺された娘を思い出して家族で嗚咽する場面などは、かなり胸に迫ってくるものがありました。
物語終盤、登場人物たちは運命に導かれるようにして少年Aのもとに引き寄せられます。
明るい展開にはなりようがないと思っていましたが、やはりというか重くてつらい展開の連続でした。
特に最終章の最後の2ページは・・・。ああ、窪さんは何て残酷な方なんでしょう。
この結末には異を唱える向きもあるかもしれません。でも、私はやむを得ないと思いました。
ところで本作は直木賞の候補にあがりませんでした。
間の悪いことに、発売直後に本物の少年Aが手記を出版したんですよね。そのあたりの考慮もあったのでしょうか。
でも個人的には『じっと手を見る』のようなぬるめの作品より、この渾身作こそ候補にすべきだったように思います。
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「少年A」の事件をもとに書かれた小説。
窪美澄じゃなかったら読まなかった。
重く、重い。グロテスクで淫らで黒い。
読みながら気持ちまで重くなっていったのは、この物語に引きずり込まれていたから。
精神を揺さぶるインパクトが強烈だった。
正直、読むのはしんどかったけれど、それでも読まなきゃ良かったとは思わなかった。
再読はしないかも知れない、だけどわたしの本棚にはずっとある本かも知れない。
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すごかった。窪さんの物語は中毒性があって抜けたと思うのに数年経つとまた彼女の味を求めてしまうんだよなぁ。
それぞれの地獄を生きる覚悟の物語というのは言い得て妙だ。
死ぬよりずっとしんどい道を選んだ彼女はこれからどう生きていくんだろう。