紙の本
女たちも シベリア抑留 されていた
2023/08/04 23:13
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投稿者:清高 - この投稿者のレビュー一覧を見る
1.内容
以前NHK・BS1のの「BS1スペシャル」で「女たちのシベリア抑留」というドキュメンタリーをやっていたが、その番組の取材をもとに書き下ろしたものである(本書p.314)。恥ずかしながら、筆者はシベリア抑留について不勉強なうえに、女性まで抑留されていたのを知らなかったが、本書においては、ロシア連邦国内において「『女性抑留者はいない』と主張する人々」(p.143)がいても、証言や公文書により、女性抑留者がいたことを説明するものである。
2.評価
前述の「BS1スペシャル」を観るまで、観なかった人は本書を手に取るまで知らなかったであろう、女性がシベリア抑留されたことの一端がわかる本である。困難の中にあっても気丈に生き、帰国した人もいれば、帰国しなかった人がいることもわかる。戦争は政策の一端だという説もあり、それも一理あるが、戦争が参戦している国の人々をおかしくすることがある一方で、敵であっても温かく接する人がいることもわかる。現在もし戦争が起こればここまでクローズアップされないだろうが、当時の戦争は基本的に男性がやるものであったであろうことから、新たな歴史を掘り下げたと言える。以上の通りであるから5点とする。
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知らなかった事実
2022/10/28 16:02
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投稿者:カレイの煮付 - この投稿者のレビュー一覧を見る
女性がシベリアに抑留されていたことを、知らなかった。歴史に埋もれた事実を、掘り起こして、調査した内容だった。歴史に埋もれた事実は、きっと、世界中に山ほどあるのだろうと思う。
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女性抑留者に迫った労作
2022/08/17 19:33
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投稿者:BB - この投稿者のレビュー一覧を見る
NHKの番組取材を基に書籍化したもの。
60万人近い人が抑留され、6万人近くが飢えや寒さで亡くなったと言われるシベリア抑留は、いまだにその全容が解明されていない。
その中に女性がいたことは、この分野に関心がある人なら、ある程度は知っていることだが、その実際については、これまでほとんど明らかにされてこなかった。
飢えや寒さ、重労働という「シベリア三重苦」で語られる抑留において、数も少ない女性抑留者は圧倒的にマイノリティだ。
その抑留体験者の女性たちに迫り、証言をとり、抑留の一断片を浮かび上がらせている。多くは看護師だが、そうでない人もいる。そのままロシアに帰化した人もいる。
一人一人の声から、ステレオタイプに語られるシベリア抑留が立体的に見えてくる。
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シベリア抑留
2020/03/07 20:25
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投稿者:earosmith - この投稿者のレビュー一覧を見る
70年以上の沈黙に大変重いものを感じました。私たちは何があったのかを知らなければいけないと強く思います。またこのような証言を残して下さったことに感謝したいです。
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最も大変な人たち
2020/01/17 10:53
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投稿者:ニッキー - この投稿者のレビュー一覧を見る
太平洋戦争末期、日ソ中立条約を無視してソ連軍が満洲や樺太、千島に侵攻し、その地域の日本人(多くは軍人だが官吏や民間人も)をソ連本土に拉致した。いわゆるシベリア抑留である。これは、日ソ中立条約に違反するし、とくに民間人などの非戦闘員の拉致は国際法にも違反する。約60万人もの日本人(朝鮮人や中国人なども)が拉致され強制労働をさせられた。そのうち約1割は帰還できなかった。その実態は、帰還した人たちの体験記や研究書などで分かる。しかし、いつも一番の被害者は、子供や女性といった弱い立場の人間である。シベリア抑留では、多少ではあるが女性も存在した。数が少なかったせいか、シベリア抑留関係の書籍でもほとんど扱われないか、ついでに紹介される程度であった。本書は、少数ではあるが、最大の苦労をしたと思われる女性に焦点を当てて書かれている。そもそも労働力としての抑留だったことを考えると、なぜ女性が抑留されたのかも不思議である。
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【歴史の影に埋もれた女性たちの声を聴く】シベリアに日本人女性が抑留されていた! 七十年以上の沈黙を破り、元捕虜だった女性たちが初めて証言した刮目のノンフィクション。
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想像を絶する内容だった。何度も泣いた。
これまで、残留孤児として苦労された方や逃避行の末帰国された方の本は何冊か読んできたが、看護婦さん達については知らなかった。
この本を読んで改めて戦争の悲惨さを痛感した。
語り継がれるべきだと思うが、体験した方々は思い出すことも辛いだろうと思う。
この本を通じて、史実をたくさんの人に知って欲しいと思う。
親戚にも片足を無くしてシベリアから帰国した伯父がいた。穏やかで優しい伯父だったが、戦争の話は一度も聞いたことがなかったし、聞いてはいけないことのような気がした。
抑留者の帰国後の人生が幸多いものであってくれたらと願わずにいられない。
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同じ職業婦人として
ソ連の女性と温かい交流があった話には
やはり 国ではなく 人なんだな
と心温まりました
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シベリア抑留の話は聞いたことがあるが、女性でシベリアに送られた人がいたことは初めて知った。
きっと、辛い思いをしたのだろうが、与えられた場所で頑張って看護師として働いていた女性もいたようで、すごく強いなと感心した。
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終戦時、57万人を越える日本人が旧ソ連に連行され、労働に従事されられた。そこには数百万人の女性もいたことは恐るべき史実だと知った。スターリンの非人道的な指示に憤りを感じるが、そもそもは日本の無謀な帝国主義がもたらした結果かと思うと、犠牲になった方々が無念でならない。
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「戦争は女の顔をしていない」と共に、あまり表立って語られることの少なかった、歴史の中の女性の姿。記録されなかった事実をひとつひとつ丹念に拾ってくれた人がいて、私たちは、現在が過去からつながっているものだということを再確認する。現在からつながる未来のためにも、過去をきちんと知らなければ。
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シベリアに女性も抑留されていたとは・・・!というか、よくよく考えてみたら軍の病院に看護婦はいただろうし、それは日本の病院だけでなく外地の病院でも同じだろう。なのになんとなくそういう人たちは敗戦で帰国か残留婦人かあるいは彼の地で亡くなってしまったか、で、まさかシベリアに連行されていたとは思わなかった。看護婦だけでなく、民間人もだけど。本当に知らないことだらけ!日本人よりソ連人の方が人情味があるなんて話しは、なんか寂しい。でも帰国後の日赤の態度なんて読んでたら、そうなのかなと納得できたりして。
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まず、シベリアに女性がいたのに衝撃でした。
これは、学校でも習ってないと思う。
看護師さんが戦地に行ってたことは知ってたけど、その先を知らなかった。
何かあった時のために、青酸カリを持ち歩いてたと言うこともショックだった。
青酸カリで楽に死ねると皆は思ってたが、実際に青酸カリで自害した人が苦しんでた姿を見て衝撃を受けたこととかすごい光景を目の当たりにしてたんだろうし。
しかも、その看護師さん達が学校を出たばかりの若い子達。他にも日赤の看護師さん達がいたが。
日本に帰国した時の日赤の対応にはショックだった。
国のために働いて戦地に行ったのに、汚いものを見るような目で見られたとか酷すぎる。
後半には、ロシアに残ることにした村上秋子さんの話が衝撃的でした。
彼女も壮絶な人生で何とも言えなかった。
女性に見えないような姿になるまでの強制労働など
でも、なぜ日本に帰れるときにロシアに残ったのか?とても疑問だったけど。
満州に身売りさせてたと言う事情。
家が貧しく売られて芸妓として生きてたとか悲劇しかない。
最後、自分の妹と連絡が取れたが…
家族のために身体を張って生きた凄まじい人生。
女を出せと言われ、自ら進んで出て芸妓さん達。
信じられないことばかりでした。
この本を読んで改めて、残留孤児のことを思いました。
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女たちのシベリア抑留
著者:小柳ちひろ
発行:2019年12月15日
文藝春秋
あまり知られていないが、シベリア抑留者には女性もいた。2019年11月現在で、
1.佳木斯(ジャムス)第一陸軍病院看護婦、約150人。
2.その他の短期抑留者、80名
3.受刑者、114名。特務機関に勤務した女子軍属など。
4.子供、24名
この本は、上記の佳木斯第一陸軍病院看護婦の一部を中心に取り上げたノンフクション。2014年にNHK-BSで放送された内容について5年の歳月を費やして書き下ろされたもの。看護婦といっても、日赤看護婦、陸軍看護婦、そして、看護婦不足のため満州の一般の職場で「子供でもいいから」と召集された若い娘たちからなる「菊水隊」と呼ばれた人たちだ。
終戦直前、彼女たちが働いている病院撤退が決まった。私物は最小限にすることになり、看護婦たちは軍隊がため込んだ物資の多さにあきれながら、自分たちの思い出の写真や手紙、満州に渡る際に知人から贈られた晴れ着、化粧品などをじっと見た後、営庭で焚かれていた火の中に投げ入れた。
しかし、逃げ出すわけにはいけないと看護婦たちが言ったため残留することになって、それが抑留生活へとつながることになる。残留が決まった翌日、女性たち全員に「御身薬」と称する小瓶が配られた。粉末の青酸カリ30㏄と寒天(水がなくても飲み込めるように)が入ったものだった。
菊水隊の1人は、山形から来た開拓団に黒竜江省の方正で出会い、話を聞く。女性たちは逃げる時、「子供は連れて行っても足手まといになるから殺せ」と団長に命令されて殺していた。子供も覚悟して「お母さん、痛くないように殺してね」と言ったそうだ。方正について気持ちが落ち着いたら大変なことをしてしまったとみんな気づき、松花江に飛び込んだ人も何人もいた。みんな過酷な運命を背負っていた。
菊水隊は看護婦として懸命に働き、ソ連人看護婦からも高く評価された。しかし、ソ連人看護婦にも感心させられた。
病気になった1人の収容所日本人看護婦(林正カツエ)が入院。捕虜なのにこんなによくしてくれるのかと思うぐらい、ソ連人看護婦の看護は献身的だった。日本軍では、赤十字の看護婦でも敵の捕虜の看護をするなどあり得なかった。
やっと帰国できることになったが、ナホトカでは文字の書かれたものを持って帰国しようとするとスパイ行為だと思われる。抑留中の志望者名簿を持ち帰ろうとして見つかり、懲役10年の刑を受けた人も。12人の軍医、27人の看護婦が勤務していたチョプロ・オーゼロ収容所病院では、全員の帰国が決まったが、軍医たちは収容所で亡くなった兵士の氏名と住所を、帰国する看護婦たちそれぞれの都道府県別に振り分けて暗記させた。
なお、先日読んだ嶌信彦著「伝説となった日本兵捕虜」では、収容所で共に働いた457人全員の住所と氏名を隊長が何ヶ月もかけて丸暗記した話が出ていた。
たどり着いた舞鶴でも、また屈辱が待っていた。舞鶴には厚生省の外局・引揚救護院があった。下船と同時にDDT消毒。入浴、脱衣の消毒、種痘接種などがあり、女性だけに行われた検査も。「妊娠している人は申し出てく���さい。ここで処置します」と。
引き揚げ者はソ連の収容所について7日間にわたっていろいろ聞かれた。しかし、恐ろしい体験の真実が先方に伝わると残留者への過酷な報復が待ち受けていることを想像し、真実を語らなかった。スターリン時代だから必ず伝わるだろうと思っていたそうだ。
1988年12月、「中国残留婦人交流の会」が山口で設立。中国で改革開放政策が始まり、残留孤児の肉親捜しや一時帰国が脚光を浴び始めていたが、日本政府は終戦当時13歳以上になっていた女性たちを「自らの意思で残留した」と見なして国からの支援を行わなかった。
戦争における国家の身勝手さ、頼りなさ、ひどさは筆舌に尽くしがたい。とりわけ日本は、国民などまったく守らず、天皇を中心とする国家のテイ、いわゆる国体を守ることに終始したことが、こうした女性に関するルポルタージュからも感じられる。
****(メモ)*****
ちょっと綺麗な看護婦をソ連人が宿舎で女中みたいに使っていた。看護婦の一人が強姦されそうになり、相手の腰の銃を取って撃った。彼女は収容所に戻ってこなかった。
当時、陸海軍は「女子軍属」として若い女性を募集し、事務職などに従事させていた。確かな総数は不明だが数万人に及ぶことは確かで、従軍看護婦も軍属に当たる。
終戦後の満州で、女性が危険から身を守るため男装して兵士たちの間に紛れて行動しているうち、そのまま収容所に送られ、到着後にソ連側が気づいて大騒ぎになった話はたびたび登場。
夫とともに収容所に行くことを希望した女性おいた。おそらく、日本に帰っても生活するすべがないと思ったのだろう。収容所で二人目の子供を産んだ人も。
林正カツエが満州で菊水隊員1人がソ連兵にさらわれたまま行方不明になって気にかけていることをマリア婦長に言うと、真剣な顔で「自分もレニングラードから専科に追われて逃げて来た。ドイツ兵は村を焼き、母親の手から赤ん坊を奪って火の中に投げ捨てる場面も見た」と言った。
憲兵の妻だったという理由だけでタイシエトの戦争裁判にかけられ、労役16年になった女性。他の4人は同じように軍部の従業員だったという理由で8-10年の労役。
菊水隊で移動中にソ連兵にさらわれた上田房江は、結局、殺された。遺体はとても親兄弟に話せないありさまだった。
広大なロシアの中でも最果ての流刑地であるマガダン市を中心とするコリマ地方は、収容所群島の顔を象徴する地名で、一度送られたら生きて帰ることはできない陸の孤島、囚人の墓場として恐れられていた。村山明子はここに送られた。おそらく抑留された日本人は60万人の中の1%にも満たない。(269)
ソ連軍は1945年8月末までに北朝鮮全域を制圧し、平壌に軍司令部を置き、「日本の植民地統治から朝鮮民族を解放する」と宣伝し、朝鮮人の自治組織を樹立させた。しかし、現地ではソ連軍兵士による略奪、暴行、婦女子に対する強姦が横行し、また「スパイ摘発」と称した密告と監獄送りによって市民の間に恐怖と分断が。ソ連に対する不満と反発が密かに高まり、抵抗のために「朝鮮国家社会主義労働者党」が組織され、村上明子も何らかの動きに関わった。
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終戦後、日赤と陸軍の看護婦たちは、陸軍の部隊と行動を共にし、シベリアへと送られる。
彼女たちは、厳しい労働の中でどうやって明日への活力を生み出していたのか…
自分の意志などあってないようなものだろう。
ただ毎日生きることをそれだけを願っていたのだろうか…
死んでいく者…
女囚となり帰国しない者、できない者…
真実はどうだったのか⁇
帰国しても自らのことを語らない者もいるだろう。
語れない者もいるだろう。
今はもう誰も真実はわからないのでは…。