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中村びわさんのレビュー一覧

投稿者:中村びわ

491 件中 61 件~ 75 件を表示

紙の本ヴィーナス・プラスX

2005/06/23 23:35

確固たる「美」のイメージを、強力な言語の構築力で体系ある「世界」として現出させたのち、それを絶対視しない勇気と英断。

8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

奇想で滑らかにまとめられる短篇群では、物語の背景に、大きな体系で完結する「世界」の存在を感じ取りながらも、その断片にしか触れることができない。こうして初めて長篇を読んで深く感じ入ったのは、「何て美しい全体を書けるのだろう、この作家は……」ということ。
一目見て「美しい」と反応できる視覚芸術、ささいな和音やフレーズで同様に反応できる音楽芸術などと違い、言葉を積み重ねイメージを現出させる文芸の場合、「美しい」と響くには、読み手の想像力に頼らねばならない困難がつきまとう。また、創作と読む行為の双方に、辛抱強い時間の経過も必要であろう。題名だけで十分美しい作品もあるし、詩や俳句の形式で、詩情のエッセンスを捉える方法もあるけれども……。
そうした詩情を取り込めるものなら、小説のわずか1行、2行で泣きたくなるほど切ない文を書くことも可能。実際、『不思議のひと触れ』所収「雷と薔薇」中にあった「人間のすべての手をポケットに深く突き入れると〜」という部分など、どうしてこうも美しいイメージを結晶させられるのかと忘れ難い。ただ、この一節とて、主人公の追い込まれた情況と彼が下した判断が言葉として先に積み重ねられていたからこそ、波紋のように打ち寄せてきたものなのである。
人間が住んでいたのと同じ地球上にある「レダム」という世界——昼夜の区別なく、睡眠が要らず男女の区別もない人びとが暮らす謎の閉鎖的ユートピアをスタージョンは現出させた。
皆が争いもなく友好的に暮らし、揃って幸福感に満たされるユートピアがSF小説のなかで最後までつづくわけがないと、どこか心に留めて読んでいく。だが、スタージョンの魔術的な言葉の構築力は強力で、めくるめく表現に心躍り、いつしか疑念は薄らいでいく。
たとえば、謎の世界レダムで目覚めた男性主人公が案内される、衣装の詰まったクロゼット。横棒もハンガーもないそこには、多種多様の服が吊るされている。懐かしいピエール・カルダンやサン・ローランの近未来的モードを思わせるキュートな型、鮮やかな色のイメージも楽しいが、それらが意志があるように自然にフィットしてくる着衣の様子が何とも面白い。人体にとって服がどうあるべきかの人類学的考察も経ているからこそ書ける、美しいイメージではないかと推察する。
もう1箇所、レダムの子どもたちの遊びの場面も印象的だ。水遊びやらボール遊びやらグループごとに違うことをしていても、常に皆一緒に歌を歌っている。音楽に集中することなく……。規則的に発せられた和音は空にたゆたい、子どもたちに一体感を与える。これも単に歌が美しい、遊ぶ子が美しいというのではなく、子どもの集団の在り方の理想が、美しいものとして作家の意識の根底に横たわっているためだ。
当たり前のことだが、言語で「美」を構築していけるのは、対象とすべき確固とした美のイメージがそこにあるから。スチールや動画の美しい場面を単に言葉で転写しようという作法ではなく、「愛」「幸福」についての深い思索あってこそ成功するのが小説という言葉による「美」の創造である。その意味では、服や遊びより、レダムを成立させている「Aフィールド」「セレブロスタイル」という2つのシステムを美しい概念の例として取り上げるべきなのかもしれない。
レダムという世界の各種断片から見事に全体を立ち上がらせたあと、スタージョンはユートピアそのものの在り方に問いを投げる。1つの大きな価値体系に構成員全員が価値を認め、幸福を感じる世界。逆に言えば、その体系から外れる個性や異種が存在しない、認められない、そのような世界は果たして人類にとって真のユートピア足り得るのか。
そこを読み取るとき改めて、スタージョンが私の頭に描いてくれたレダムという世界、それを構築する彼の想像力の元にある、意志と姿勢の美しさに気づかされる。

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森と湖のフィンランドに生きる庶民を英雄にいただく国民的叙事詩。子ども向け編集本の翻訳ということで、自然と魔法が支配する独特の神話的世界入門にぴったり。

8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

フィンランドはほかの北欧諸国とは異なりゲルマン民族ではなく、ウラル語系の言語や独自の神話を有しているらしい。600年もの長きにわたりスウェーデン王国支配下で公用語はスウェーデン語となり、1809年、ロシア帝国の自治大公国となってようやく民族意識が芽生えてきた。1839年、医務官であったロンロート(リョンロット、レンロートなどとも表記)が、その民族の気運のなかでまとめあげて出版したのが最初の『カレワラ』だったという。出版部数は少なく、世紀末にナショナル・ロマンティシズムが高揚するまで何十年も脚光を浴びなかったようであるが……。
『カレワラ』は元々、フィンランド東部とロシア北西部に広がるカレリア地方の伝承詩で、吟遊詩人たちがカンテレという竪琴をかき鳴らしながら歌い継いできたもの。ロンロートはさまざまな歌い手からいろいろな種類の詩を採集し、50章23000行に及ぶ一貫性のある叙事詩を練り上げたのだ。たくさんの詩を知識として溜め込んだロンロート自身もすぐれた歌い手であり、方言による歌をフィンランド語の標準語に直し、自分の創意も加えたことで普遍的な国民的芸術に高めたという。
日本では今までに、2人の研究者によって岩波文庫と講談社学術文庫から翻訳書が出されたようだが、現在は古書流通のみ。本書は、2002年に「フィンランドの子供のための」という副題を伴って出版された本の邦訳である。文字は大きめで字詰めもゆったりしている。
原書には美しい挿画がついているということだが、それは使用できなかったようだ。しかし、日本人イラストレーターAKIKO(「A」は正確には天地逆で表記)氏の精緻で不思議な妙味ある章扉ごとの絵が、目を楽しませてくれる。
物語は児童向けということで枝葉の挿話は省かれているが、古代のフィンランドの英雄譚である。「サンポ」という万能の道具とポホヨラの地の美しい乙女をめぐって、カレワラの英雄ヴァイナモイネン、イルマリネン、レンミンカイネンたちとポホヨラの魔女ロウヒ(あすなろ書房からバーバラ・クーニー絵『北の魔女ロウヒ』という絵本が出ている)が抗争を繰り返す。
戦いや復讐、冒険や嫁取りといった神話的叙事詩の定番内容だが、鉄器についてのこだわりやサウナに入るというみそぎがユニークだなと思う。英雄たちも高貴な身分の騎士でなく、魔術の心得はあっても農民だったり漁師や鍛冶屋であったりするし、戦いは血で血を洗うというものばかりでなく、呪文を使った魔法合戦もあったりする。
ほかの特徴としては、叙事詩につきものの荒唐無稽な表現が豊かな自然を背景としている点を面白く感じた。たとえば次の2ヵ所。
——母の涙は盛り上がって三本の川になり、三本の急流になった。急流の一つひとつに岩山ができ、その上に三本のシラカバの木が育った。その梢に三羽の金色のカッコウが飛んできて止まった。(27P)
——アンテロ・ヴィプネンは死んでから久しいので、そのからだの上には苔が生え、木が生い茂っていた。肩の上にはポプラ、こめかみにはハンノキ、ひげの上にはヤナギが生え、ひたいにはモミ、歯にはマツが生えていた。(89P)
いかにも水と緑あふれるフィンランディアを背景にした雄渾な語りのほとばしり。花嫁への婚礼祝歌も戒めを自然の比喩にしていて、披露宴のスピーチに使ってみるとしゃれているかも……などと思った。

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紙の本ブエノスアイレス食堂

2011/11/29 19:52

食人というセンセーショナルな内容がどう消化されているのかに注目しがちな小説だが、作家はところどころに、ぐつぐつ煮立つ鍋からもれる「香り」と「熱」のような心地よさで、分かり良く共感しやすい人生の摂理をまともに漂わす。食べたものを戻しそうになる気味悪さがあっても、咀嚼し、消化せずにはいられない。

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 自分の心の奥底には、何か恐ろしいものが隠れている。その何かを飢え死にさせてしまえば、亡き骸が朽ち腐臭が漂い、生身の自分が心身健康では過ごせまい。だから、その何かをおとなしくさせ、人知れぬ場所でうごめき続けさせるよう私は時々こういう本を読むのだろう。
 読み終えた後の「うえっ。気持ち悪かった~」というかなりの後悔に対し、自分を納得させるために見つけ出した答えが、こんなところなのである。

 本書は、シックで居心地の良さそうなビストロの表紙写真とはうらはら、食人を扱った猟奇事件を含む小説。のっけから「セサル・ロンブローソが人間の肉をはじめて口にしたのは、生後七ヶ月のころのことだった。というのは母親の肉のことだ。女は彼に乳をやっていた」とくる。日々が楽しくさえあればいいというエピキュリアンなら、目もくれないたぐいの本だ。
 うまくまとめられた帯の内容紹介には、「故郷喪失者のイタリア人移民の苦難の歴史と、アルゼンチン軍事政権下の悲劇が交錯し、双子の料理人が残した『指南書』の驚嘆の運命……」云々とあり、世界文学を愛好する者なら吸い寄せられてしまう「故郷喪失」「イタリア人移民」「苦難の歴史」「軍事政権」といったキーワードが散りばめられている。
 では私は、キーワードのいくつかに惹かれたのか。その内容紹介の最後には、しっかり「猟奇的事件を濃密に物語る」と書かれていたのに……。

 今年は、悲劇的な死のおびただしい報道に触れ、「物語の中のこと?」「映画の一場面?」と、社会や日常の信じ難い脅威に神経がさらされた。しんどかった。共感性が無駄に強いのか、生きていくことの困難、社会が動いて行く先の不安にすっかり疲れ、その疲れからまだあまり癒されないままでいる。
 元気のなくなった人間というものは、そういうものだと思うが、温かそうなもの、楽しそうなものに安易に手が出せない。かといって、何も折も折、このように読み通す前から気分が鬱屈することが明らかな暗黒小説など読む必要はない。
 「一行でごはん三杯は行ける」というような表現がはやっていて、言ってみればこれは、「一行でごはん三杯はもどせる」ひどい内容であった。何でよりにもよって、こんな本を買ってしまったのか。

 読者が読み通そう、読み通そうと思って挑んでも、誰もが気持ち悪くなってしまい、結局誰も最後まで読み通すことのできない奇書が書けないものか。そんな考えが、以前頭をよぎったことがある。『ブエノスアイレス食堂』が扱っている中身はその線に達している。しかし、惜しむらくは、魅力的すぎる表現力と含意が読者の「挫折」の妨げとなっている。
 系図片手に楽しむ家族の年代記で100年、200年を読ませるものは多い。けれども、ああそうだ、これは破格のクオリティを誇る絵本『百年の家』にどこか似ている。アルゼンチンの海辺の保養地、マル・デル・プラタに建てられたビストロを舞台に、その店を支えた何人もの料理人や家族たちの数奇な人生を追いつつ、アルゼンチンの20世紀の100年をも呑み込んだ一軒のビストロが、ゆっくりと時の流れを咀嚼する。
 人が人を食べるという薄気味悪いものが書かれている。一番腹を減らし、一番人肉を欲していたのは、他でもないブエノスアイレス食堂に違いない。

 センセーショナルな内容をどう消化しているのかに注目が集まりがちな作品だが、作家はところどころに、ぐつぐつ煮立つ鍋からもれる香りと温かな熱のような心地よさで、分かり良く共感しやすい人生の摂理をまともに漂わす。
 例えば、次のような記述はどうだろう。
「人生というのは、こちらに十分な説明もなしに、蜘蛛の糸のようにいろいろなことをしかけてくる。私たちはまるで一歩前に踏み出したと思ったら、次の一歩を横に踏み出すかのようで、様々な出来事を前にして酔っぱらいのような歩みにならざるを得ない。そしてそれだからこそ、過去に向かって歩き始めると、多くのイメージが、まるで最初はばらばらだったのに、ゆっくりと繋がり合って響きが良くなる音の集まりのように押し寄せてくる」(P67)
 この後も、素敵な文章が続くが、引用が長くなり過ぎるので自重しておく。

 どういう人物なのか、その内面が十分に説明されないセサルその人の性癖や嗜好に、私の奥底に隠れている恐ろしい魔物は、どこか通じ合うのかもしれない。生き物が暴れ出し、生身の人を人道にもとる行為に突き動かすこともあるけれど、ノワール小説をエサとして与え、満腹感でおとなしくさせておけば、とりあえず表立ったところでの暴走は抑制できる。
 「ほふれよ、お前」と投げ与えよ。
 本来なら人知れずそっと隠しておかれるべき本があるとするなら、それが暗黒小説というジャンルであり、バルマセーダという人の書く作品なのかもしれない。

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日米戦があったからこそ日本に深く関わり、研究者ドナルド・キーンは生まれた。日本の文学や伝統を深く理解し、日本的感覚や美質に心酔し、それらを次世代に引き継いでいきたいと永住を決めたキーン氏が、長年の友を聞き手に「戦争体験」と「日本人」を語る。

7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「3月11日の東日本大震災を受けて」「震災で傷ついた日本を励ますため」というように、89歳になった日本文学研究者ドナルド・キーン氏の日本永住への決意が報道され、話題を呼んでいる。
 しかし、本書のための対談が行われた2010年11月の時点ですでに、キーン氏は30年来の友人である小池政行氏に、コロンビア大学の授業は2011年を最後に日本へ移り、骨を埋めたいと思っている旨を打ち明けている。

 日本文学に心酔しているなら自然なこと、親日家のヒューマニズムとして東日本大震災に心寄せたのは納得できることと思えるものの、それでもなぜ90歳にもなろうという米国人学者が、ニューヨークの住まいを引き払い、この国で死のうと決めたのか。そこには、深い奥がある気がして、分け入ってみたく、この新刊を読み始める。

 読んで理解できたのは、強く心に残る体験のいくつかが積み重なり、人はそれによって人生を歩んで行き、そして人生の幕引きのあり方についても思い描くようになるのだという、考えてみれば当たり前のことだ。
 だが、200ページちょっとのインタビューで明らかにされていくキーン氏の体験と考えは実に数奇で独特なものであり、「生きざま・死にざま」を見つめた日本の歌詠みや物書きたちの姿、そしてその作品へと重なっていく。
 日本文学や日本という国に殉教を決めた聖人のように、語られる体験は伝説めいている。太平洋戦争勃発の前年、新古書を売る書店で、分厚くて安かったから『源氏物語』の英訳本を買った物語も、戦争へとひた走る先進国の軍靴の音に、耽美な世界へひたることで耳をふさいだ物語も、日米戦の語学将校としてアッツ島に上陸、ハワイの収容所では日本人捕虜を尋問し、ある日、ベートーベンが好きだという捕虜のため、シャワー室で「英雄」を聞かせたという物語も……。

 3回にわたって行われた対談の2回目の最後で、永住の心づもりは吐露されている。だが、書かれたもの、活字になったもののうち少なからずがそうであるように、事実はいつも正確に記録されるばかりとは限らない。
 キーン氏が徐々に移住への気持ちを固めていく間に、それは何となくでも親しい友の小池氏には伝わっていたのかもしれない。そこで、決意に至った境地を、キーン氏が日本に深く結びつけられた日米戦の回想から語ってもらおうと企画は成り立ったのであろうか。

 日本人に浸透していた虜囚になることの恥辱、日米の兵士の手紙や日記についての比較など、戦時の一般的価値観を支えていたものに対する分析は、「日本人らしさ」なるものがここ数十年でどう変わり果てたか、しかし何は残されているか等を考えるのに大変興味深い。
 また、日本の作家たちの開戦に対する意外な反応、京都を原爆から救った陸軍長官、三島由紀夫の自決の意図など、日本文学の研究者ならではのトピックスと見解に、「そうだったのか」と発見が沢山あった。

 日米戦があったからこそ日本に深く関わり、研究者ドナルド・キーンが生まれ、戦後という長い歳月は流れた。
 私たち一般的な日本人より、はるかに詳しく日本の文学や伝統を知り、はるかに深く日本的な感覚や美質に心酔し、それらを次の世代に引き継いでいくべきだという熱意を持つ。そのように生きようというキーン氏に、過去、数々の日本人が強い印象と体験をもたらした。それが、彼の学究や明日を支えてきたのである。
 同じようにして、この本の強い印象と読書体験は、読者の意思と、それが向かう明日を、影になり日向になって支えてくれると思う。

 
 

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紙の本犯罪

2011/07/03 00:55

ドイツで刑事事件弁護士として働く作家が書いた、弁護士が語り手の短篇小説。猟奇的事件の犯罪者の「異常」や「正常」を描くと共に、弁護や裁判の正義、正当性も問う。現実の受け止め方のあやふやさについても注意を喚起させる。紙に描いたリンゴを、「これはリンゴだ」と言うのか、「これはリンゴではない」と言うのか――私たちの日常世界の構成を「ゆらぎ」として提示する。

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 何の罪もない人たちの人生が、ごっそり根こそぎ引き抜かれていった現実を意識の深層に蓄える経験をしたぱかりだ。それなのに、せっかく生きて在る人生を罪人として汚す人たちの不条理を苦々しく感じやしないかとためらいながら、なぜかこのような本を手にした。
 だが、弁護士である作家が、実際にあった事件を元に書いたであろう11の罪の短篇のうちいくつかは、奇妙な正当性に納得させられるものであり、それゆえ困惑させられるものであった。

 各篇いずれにもリンゴが出てくる。日本のリンゴと違い、ドイツのリンゴは大人なら片手で握られるテニスボール大で水分が少なく酸味が強い。ポケットに忍ばせておいて、がぶりしゃりしゃりとやれるものだ。そういうリンゴが小道具として使われているというのは、キリスト教の原罪が意識されてのことだろう。
 また、リンゴは木からもいで食べられなければ、熟して重力ゆえに枝から落ち、いずれ腐る。罪人と重なるイメージなのかどうかは分からないが、何かほのめかされていることもありそうだ。

 最初の短篇「フェーナー氏」は、地方都市の旧家の出で、開業医としても趣味人としても人々から尊敬を集めた男性が引退後に起こした猟奇事件の話である。
 子どものいない彼は、妻とずっと二人暮らし。その私生活で苦難に耐え続けていた。常軌を逸した生活だったからこそ、常軌を逸した犯罪につながる――そういう内容なら、ミステリにも文学作品にもありがちで珍しいものではない。
 特徴的なのは、これが弁護士を語り手として回想の形で書かれた小説だという点。弁護士が物語る終盤、弁護の余地がなかったこの事件について、法哲学上の問題が見解として語られる。こういう展開は、他の本ではちょっとお目にかかれない。シーラッハという人が、弁護士をしながら、なぜ小説を書く気になったのかが分かる気にさせられる。

 「サマータイム」「正当防衛」の2篇も司法関係者ならではの視点で書かれている。
 「サマータイム」は成功した実業家の援助交際の相手が、ホテルの部屋であわれな死体として発見された事件の話である。部屋に残された証拠も、事件当日の実業家のアリバイも、実業家が真犯人とされておかしくない状況で、語り手の弁護士は依頼人を救うための材料を探しつづける。

 「依頼人と刑事弁護人は奇妙な関係にある。弁護人は別にすべてを知りたいとは思わない。なぜなら、依頼人がベルリンで殺人を犯したことを知っている場合、弁護人は依頼人が当日ミュンヘンにいたと主張する人物を証人として出廷させることはできないからだ。そういう裁判上の決まりがあるのだ。実際、それは危ない綱渡りとなる」(P114)
 そりゃそうだという記述である。そりゃそうなのだが、弁護とはどういう仕事なのかにハッとする気づきがあった。

 「正当防衛」は、郊外の駅で起きた傷害致死事件の話である。前科あるスキンヘッドの若いチンピラ2人が、ベンチにすわっていた男にからんでいって、反撃を受ける。その攻撃が、動いたかどうかもわからないほどの一瞬の出来事だったという。
 その男の弁護を、語り手の弁護士は、世界的に有名な弁護士事務所からの外注で受けることになる。だが、男は一言も口をきかず、衣服や持ち物にも身元を知る手がかりになりそうなものは一切ない。男が所持していたのは、世界的に有名な弁護士事務所の名刺だけだったので、警察が連絡してみたのだ。
 正当防衛なのか過剰防衛なのか、事件の全容を明らかにしようとする検察もすっかりお手上げとなる。完全な黙秘が貫かれるが、警察の尋問担当者から、この事件のあったのと同じ日に起きた別事件についての情報がもたらされ、男の弁護を引き受けた弁護士は薄気味悪い思いをする。

 衝撃的な事件が素材とされた短篇小説集で、ドイツの暗黒の部分、「うみ」の部分が見え隠れする。異様な犯罪が多いからこそ、このような文学作品が注目を集め、複数の文学賞を取る評価を受けるのかと考えたが、シーラッハの本懐は、社会の病理の告発だけには留まらないだろう。
 ここには、弁護というものの一面に対する批判的な評価もあるのだ。ある事件、ある弁護においては、それが犯罪すれすれになること、犯罪になる可能性もあることを示唆する。神の裁きとは異なる、人間の人間による裁きがどういう性質を持つのか――そのような問題提起のために、リンゴという小道具が投げかけられたのか。

 19世紀に発見され野生児と言われていたカスパー・ハウザーを映画化したヘルツォーク監督は、最後の場面で、カスパーの奇形を笑う男たちの方にこそ見受けられる「異常」をほのめかした。その場面にぞっとさせられた経験が、この本の読後感に重なる。

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紙の本バムとケロのもりのこや

2011/01/10 17:34

【コレクション向】【枕元で読みきかせ・幼児~小低】人気の絵本シリーズ、バムとケロの世界では、前作『バムとケロのおかいもの』の水曜日から、この本の木曜日に移るまでに12年もの時間がかかりました。絵本って、手間をかけて作られるべきものですよね。古くてボロボロの森の小屋を、くせのある雑貨とおいしいおやつ、バムケロワールドの愉快な仲間たちでいっぱいにするまでの秘密の場所づくりのお話。

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「バムとケロ」は思い出深い絵本シリーズです。10年前、保育園に通っていた息子と、全4冊をなめるように眺めて絵探しをして楽しみました。その話を聞きつけた園の先生に、「子どもたちに見せてあげたいので持ってきてほしい」と頼まれ、初めに1冊持っていったところ皆に大人気となり、すぐに残りの3冊も持っていきました。
 なかなか返却される気配がないので、その4冊を園に寄付し、新たに4冊を買い直したのです。

 残る3冊を園に持っていった時、「バムとケロ? 続きを持ってきてくれたの?」と、絵本などふだんは見向きもしないようなわんぱくな男の子が目を輝かしてとびついてきました。いたずらや突拍子もないことばかりをしているケロちゃんが気に入っていたのか、かわいいというよりは奇妙なキャラクターたちばかりが出てくるのが気に入っていたのか、何に子どもたちが惹きつけられていたのか、今でもよく分かりません。
 けれども、大人の自分が、「バムとケロの家にあるカレンダーに、あの時のあのキャラが描かれているじゃないか」「このフライパンはあの時に買ったものだ」「この色のカップは、こっちのページではどこへ行ったのか」と何度も何度も繰り返し眺めては飽きません。細部まで凝った楽しめる絵なので、子どもにとってどうなのかということは、もはや、どうでもいい気もしてきます。

 今回は糸電話、クモ、マトリョーシカ、ラジオなどが、絵さがしをして楽しめる要チェックのアイテムです。やはり、どれほど丁寧に眺めたつもりでも、一回では探し切れず、二度目、三度目にも新しい発見があり「あっ、ここにこんなものが描いてあった」と嬉しくなるのがこのシリーズの特徴です。どこに何を描き込むのか、それはそれは細かい絵柄を見て確認するだけでも大変なのに、これを細い筆で描いている人がいるかと思うと気が遠くなります。
 作家島田ゆか氏のカナダのアトリエの様子は雑誌「イラストレーション」で特集されていて、それが『絵本 作家73人の話』というムックにまとめられたようですが、緑多いところへ移住しての生活が、「森の中」という舞台設定に大きく影響したのかもしれません。

 このシリーズでは、ふたりの動き回る空間をどう面白く設定できるのかが、一冊ごとの仕上がりを大きく左右すると言えそうです。『バムとケロのにちようび』では、ふたりの暮らす家のリビングにお風呂にキッチン、屋根裏部屋、『バムとケロのそらのたび』では、バムのおじいちゃんの家に飛んで行くまでの奇妙な山やほら穴に海、『バムとケロのさむいあさ』では、家の裏の池とふたりの家、『バムとケロのおかいもの』ではいろいろなお店のある市場が舞台でした。
 『バムとケロのもりのこや』は、森の中に放置された小屋に手を入れていって、秘密の場所づくりをしようという設定で、空間がじょじょにバムケロ色に変わっていくというのが、とても素晴らしいアイデアだと思えます。
 その場所を片付けて修理していくのに、何でも屋のソレちゃんという新キャラクターが登場します。彼の乗り物やら道具、得意技やら習慣などのユニークさにより、ふたりの世界にまた広がりが加えられたことにも「なるほど」と感心させられます。

 日曜日の朝に始まった『バムとケロのにちようび』(初版1994年)は、5冊目の『バムとケロのもりのこや』(初版2011年1月)で木曜日を迎えました。少なくとも、あと金曜日と土曜日がやってくるのは待ってもよさそうで嬉しいことです。
 島田さんのご健毫(と言うのかしら)をお祈りしたいと思います。

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紙の本おかのうえのギリス

2010/12/08 15:55

【読みきかせ・年長~小中】とても売れそうにない、渋くて地味な絵本。しかし、米国の絵本黄金期に生まれたこの本の「芯ある物語」「絵の線の迫力」には、子どもの育ちに求められる力強さが備わっているのだと思います。

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 渋い! 渋すぎるぜ、岩波。

 何も岩波書店の渋さは、絵本や児童書に限ったことではないでしょう。学術書でも文芸書でも出版価値が高いのは分かりますが、「いったい何人読むんだ、この超専門的な本を」「何部刷るんだ、この売れそうもない本を」と、ひとけないリアル書店の片隅の書棚の前で、半ば呆れつつ感嘆することが多いです。
 しかし、もしかすると、「こんな渋い本は、自分のような者しか読まない」と、矜持を持って岩波本を買い続ける読書子が少なくないから、実は、そう心配するほどのものでもないのかもしれません。
 ゲド戦記シリーズも、『床下の小人たち』もアニメになって注目され、ロングセラーの部数をまた一気に伸ばしましたし、岩波新書で国民的ベストセラーになるものもありますし、最近出たウンベルト・エーコの『バウドリーノ』も年末年始休暇用の需要もあってか評判が良さそうです。このように、たまに思い出したように岩波から売れる本が出ると、何やらホッと胸をなでおろしているファンもいると思います。
 そういう岩波書店の出版物から、この秋に出た絵本で、とびっきり売れそうになくて、けれども、とびっきり面白いものを紹介してみます(暴言は、スルーしてください)。

 表紙からしてとても地味で、男の子の顔が描いてあるけれどイケメンではありません。『おかのうえのギリス』という題名からアッピールしてくる要素もありません。
 私の場合は、タータンチェック好きで、「おお、これはもしやスコットランドの話か」と思えたのと、お話を書いたマンロー・リーフが良い作家だということを知っていたので、読んでみようかという気になりました。
 マンロー・リーフには『はなのすきなうし』や『ヌードル』など素敵な絵本があります。『おかのうえのギリス』の絵は『はなのすきなうし』を描いたのと同じマンロー・リーフです。『おかのうえのギリス』を紹介することで、『はなのすきなうし』がついでに紹介できるから、そちらだけでも誰かに注目されて売れてほしいな……などという気持ちもあります。

 本文は、表紙のカラフルなタータンチェックとは異なり、これが黒一色で、渋いといったら渋いこと、この上ありません。おまけに文字量がそこそこあり、本文が65ページもあります。短い絵本をさっと読んで、子どもを早く寝かしつけたいというようなニーズにはとても合わないでしょう。

 しかし、しかしですよ。
 今ちょうど上野の国立国会図書館国際こども図書館で、2011年2月上旬まで「絵本の黄金時代展」が催されていますが、『おかのうえのギリス』も1938年という、まさにその黄金期に米国で出された佳作の一冊で、言ってみれば銀河の連なりを構成する1つのキラ星です(1938年という年には、この本と似た体裁の名作『アンディとらいおん』も出ています)。

 お話の展開の面白さと、百戦錬磨のデッサン力という感じで描かれた迫力の絵によるこの一冊は、じっくり時間をかけて子どもたちと味わう価値があります。
 OECDの国際学力調査「PISA」の最新結果では、どうやら日本の子どもの読解力低下が下げ止まったようですが、こういう良質の「絵本→絵童話→童話」に親しんでおけば、状況や心情、意味を読み取る力は、楽しんでいるうちに自然に身につくのではないでしょうか。
 そして、そういう効果の他に、この絵本には、スコットランド特有の文化伝統を知るという異文化に触れる面白さ、自分という存在について考えるきっかけを期待できる普遍的な哲学的要素も含まれています。
 良い児童書というのは、そのように、ふところがどこまでも深いものなのではないかと私には思えます。

 ギリスはスコットランドに生まれた男の子です。お母さんは谷間の村生まれで、そこの村人たちは牛を飼って暮らしています。お父さんは山の村生まれで、そこの村人たちはシカを狩って暮らしています。
 ギリスは、2つの村のどちらで暮らすのかをいずれ選ばなくてはなりません。2つの村の人たちはギリスのことをかわいがってはくれますが、互いの村を見下しており、話を聞いただけでは、どちらが良いのか分かりません。

 ギリスは、まず1年間、お母さんの親せきがいる谷間の村で暮らすことになりました。そこで牛の放牧を手伝い、牛を呼ぶために大声を出せるようになり、「肺」を鍛えました。次の1年間は、お父さんの親せきがいる村でシカの狩りを手伝い、シカを待ち伏せするのに息を止める練習をして、「肺」を鍛えました。
 その次の年は、再び母の生まれ故郷へ、その次の年は、再び父の生まれ故郷へ行き、ギリスの「肺」は相当強くなっていきました。

 スコットランドのお話で「肺」ということになると、察しのいい人はある楽器を思い浮かべるかもしれません。バグパイプです。バグパイプは羊の皮袋に、パイプから空気を送って音を出す楽器です。この先の展開は、バグパイプをめぐって、ギリスの肺の力が発揮される流れになっています。

 スコットランドの谷と山の様子は、黒一色なのに表情豊かに描かれています。村人たちの意地悪そうな顔つき、徐々に成長していくギリスの生き生きした動作や動き、バグパイプの迫力やふくらました頬の愉快さなど、色のない絵が作り出す印象は、力強く深いものです。
 物語と絵の線が持つ力強さは、子どもたちが求めるべきものであり、実際、常に求めているものなのかもしれません。渋くて地味なこの絵本には、今の日本で出版される大多数の絵本には欠けた、その力強さが備わっていると感じ入りました。

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紙の本どこへいってた?

2010/12/08 10:17

【コレクション向】【就園前~年中】いろいろな動物たちが「どこへいってた?」と問われ、どこそこへいってた、何してた、こう思ってる……などと答えるだけの他愛ない詩の絵本なのですが、小声で読んでいると心地よくなってきます。墨色とレンガ色で刷り分けられた版画が本当にきれい。しばし、森の中にいる気分になれます。

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 たまに絵本の読みきかせに行っている保育園では、「クリスマスのプレゼントを絵本に」とサンタさんに伝えたようです。もちろん保育士さんの多くが絵本好きだからということが大きいのですが、私たちの活動が多少なりとも、絵本と親しむ雰囲気作りに役立てたのではないかと、仲間たちでうれしさをかみしめました。

 何かお薦めがあったら教えてくださいと言われていたのに、リストや資料が用意できたのが遅きに失したようで、すでにサンタさんの準備は進んでしまっていたようです。けれども、4月1日現在でゼロ歳から5歳だった子どもたちが、8ケ月たった今、どういう本に喜び、強い反応を示すのだろうかを考え、この先に親子で楽しめそうなプレゼントをリストアップしてみるというのは意味深い作業でした。
 さすがに70人からいる子どもたちへの個別対応は無理ですが、年齢別クラスごとに、クラスの雰囲気を考え、2冊ずつを選んでみました。
 しかし、「男の子でも女の子でも良く」「宗教色はなくて」「できれば今の時季に合っていて」「大勢で楽しむ本は私たちの活動用にとっておき、そこでは紹介できない、絵柄が細かく文章量も多めの本で」「仕事と育児との両立で疲れているご両親もいやしてあげられるようなもので」と考えていくと、なかなかに「これぞ」というものを見つけるのは難しいことなのでした。価格のお手頃感にも気をつけました。

 と、長々の前置きですが、この絵本は「ああ、この本もあったじゃないか」と後で気づいたものです。もし来年、同様の作業が必要になったら、紹介しなくては……と考えました。

 表紙の右下で、りすがマフラーをしている。左の方では、ひきがえるが何かの赤い実を集めている。秋の実りでしょうが、元々、「実り」を思わせるようなものを飾りつけていたクリスマスツリーを連想させるし、装丁のまとまり感が、ギフトらしくて良い感じです。
 何より、20世紀最高の絵本作家であるマーガレット・ワイズ・ブラウン作、バーバラ・クーニー絵なので、「虎屋のようかん」「ウエストのドライケーキ」ばりの安心感があり、どこへ出しても恥ずかしくないというのも大切な要素です。
 装丁のまとまり感がギフトらしいとはどういうことなのか、言葉ではなかなか説明しにくいですが、ぱっと手に取ってみた時に「わっ、素敵」「きれい!」「かわいい」といった第一印象を与え、一瞬にして、もらって嬉しい気分にさせられる「見目」がまずは大切だと言えそうです。
 それから表紙をめくったところにある見返しの美しさもポイントかもしれない。そのあたりは、やはり本の装丁はパッケージなのだと思えます。
 そして、あとあと何回も読み返してもらえるような内容の良さが、最終的には一番のポイントとなってきます。

 りすとひきがえるは紹介しましたが、真ん中の後ろ姿はねこです。左端におすまし顔のうさぎがいます。来年の干支が入っているというのも良かったのですが……。
 本文には、他にも魚やくじら、小鳥に馬、もぐらなど多数登場します。
「さかな さかな どこで およぐ?
みずのなか すいすい
およぎたい とこで およぐんだ」
「うさぎ うさぎ なぜ はしる?
なぜって きまってる
たのしいじゃないか はしるって」
 という調子で、ワイズ・ブラウンの詩は展開します。単なる繰り返しパターンではなく、動物のキャラクターに合わせた問いかけと答えが工夫されていて、詩と絵で動きを感じさせるところが、動き回りたい子どもたちの資質に合っていると思います。
 動きというのは、前向きなものも感じさせます。だから大人が手元に置いて、くたびれ切った夜に、明日へのエネルギーをもらうにも良いのかもしれませんね。

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紙の本百年の家

2010/07/09 14:50

【コレクション向】マルケス『百年の孤独』、ベルトルッチ監督「1900年」など、壮大なクロニクルを愛す人びとのための、精緻で美しい絵本。ただし、これは人の年代記ではなく、姿形や背景を変えた「家」そのものの年代記である。

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 破格のクオリティを誇る絵本が出たと思っている。絵本に求める質や内容はもちろん受け手一人ひとりにとって異なりはするものの……。

 ある「家」を画面右に含む風景をトリミングするようにして、固定カメラを置き、それを100年間回しつづけたら、どのような光景が見えてくるのだろうか。映画カメラやビデオカメラを100年分回し続けたものを、自分が存命中に見るというのは、ほぼ不可能なことだろう。しかし、何としてもそういうものを表現してみたい、人の関わった特定空間の変遷を絵本の中に封じ込めてみたいというのが、あるいは作家や画家の創造欲の源泉であっただろうか。
 作家と画家がここに作り出したのは、過去から現在、そして未来へと同じテンポ、同じ様子で流れて行く均質な「クロノス」という時間の再現のようである。けれども、結果として読者の目前に表れたのは、「ゆったりと」「あわただしく」「過去に戻ったかのように」「遠い未来へ飛んでいったかのように」「その場に凍りついたかのように」速度を変え、変形・歪曲しながら流れたり留まったりする、私たち個々の内部に存在する「カイロス」と呼ばれる時間なのである。

 100年回しつづけたカメラの中から選ばれた光景は「1900」「1901」「1905」「1915」「1916」「1918(第一次世界大戦 終戦)」「1929」「1936」「1942(第二次世界大戦下)」「1944(第二次世界大戦下)」「1958」「1967」「1973」「1993」「1999」の15画面である。それぞれが4ページずつ、2見開きずつで構成されている。
 1ページめには必ず、オリーブ色の地に年号が白抜き文字で置かれ、そのそばに小さな絵が添えられている。そこには、「家」に関わった人びとの日常の一場面か家の一部の様子が添えられ、その時代が家にとって安らかなものであったのか、辛いものであったのかが象徴的に表されている。その右ページの白地には、かつて経済学者であったJ.パトリック・ルイスによる詩片が、たっぷりの行間を取ってレイアウトされている。翻訳は長田弘氏。
 例えば、こんなふう。
「破壊が、絶望が、憎悪が、犠牲者を追いたてる。
丘のわたしを明るく照らしだす、遠くの戦火。
わたしは最後の避難所になった。何もかもなくした人たちの。
苦しんで、苦しみながら、なお耐えてきた人たちの。」
 ページをめくれば、それに続く見開きが、固定カメラに記録された瞬間の光景である。石、そしておそらくはスタッコでできた家と周辺の景色が、小さなクギの穴、服のほころびに至るまで精緻に描かれている。

 時にある百年の家の姿を、どういう時間感覚で表現してみようとしたのかについては先ほど触れた。それは絵本だからこそ可能な手法だと言えよう。
他にも、絵本という形だったからこそ可能となった手法や鑑賞が挙げられる。
 例えばそれは一つには、家に主体性を与え、人びとに匿名性だけを与えたというテクストの書き方である。上の引用で「丘のわたし」と語るのは家だ。大きな家に住んだ代々の人びとを追うならば、そういう物語は『百年の孤独』をはじめとして世界中の『百年の孤独』にたとえられる年代記があり、児童文学の中にもそのようなものはある。しかし、この家で育ち、1915年にレンガ職人で兵士でもあった男性と結婚した丘の娘が、男の子を育て、1967年に柩で運び出されるというドラマは流れていても、彼女の名は明らかにはされてはいない。果たしてここで何人の家族や使用人が暮らしていたのかも説明はされない。人びとはネット上の掲示板やTwitterに書き込みをする誰かさんもどきの匿名性しか与えられていない。
 したがって、屋根の補修をしている男たちが何者なのか、開墾されたブドウ畑で働く女たちが何者なのか、銃を突きつけられた一家が何者なのかを知ることはない。百年の家にとってのキャストなのか、エキストラなのかも分からずじまいなのである。

 モザイクのように大小さまざまな形の石が壁に埋め込まれた家を、15画面とも同じにように描くことの労を想像すると、気が遠くなりそうである。けれども、よく眺めれば、廃墟だった家は補修され、家族構成によって増築され、雪が降り積み、戦争の傷跡を残され、時代を経ての変化が見られ、同じ場所に立ってはいるけれども決して不変だとは言えない。
 同様に、家の周囲の様子も、次々と変容していく。野生の動物たちが遊んでいた荒地は切り拓かれ、ブドウの苗や小麦が青く育ち始め、実りの時を迎える。時代によっては戦火に追われた人たちの野宿する場所となり、レジスタンス部隊の休憩所となり、荒れるがままに放置された野ともなる。
 家のはずれには井戸があるが、それがどのように整備されていったか、何に改築されたのかと部分だけを追っても文化史が読みとれそうである。細部に気が配られ、さがし絵のように「何があった、あれが隠れていた」と発見できる絵のシーケンスとなっている。トタンや電線、荷馬車や自動車、戦車、人物たちの服装や持ち物、道具など、ページを繰り返しめくる楽しみは尽きない。

 絵本は1900年という区切り良い年から始まるが、この家は、その年に作られたわけではなく、1656年というペスト流行の年に作られたことがプロローグで紹介される。1900年は、放置されていた家が人に発見され、再び住む人を迎えることになった年なのである。そのような前史とともに、最後の1999年の見開きで、意外な姿に生まれ変わったこの家は、21世紀も生きつづける家になったことが読み取れる。そこでの人びとの暮らしがどのようなものなのかは、奥付のある後ろ扉に付された小さなカットにヒントが描かれている。百年だけを追ってみたのではなく、その前後の時の流れも盛り込む絵の表現もまた、絵本ならではの力を見せつけるものだ。
 この詩人と画家のコンビになる絵本は、すでに昨年秋『ラストリゾート』が邦訳され、大きな評価を受けた。これから先、彼らは私たちに一体どのようなクロノス・カイロス体験、幻想体験、疑似体験を授けてくれるのてあろうか。

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紙の本青い野を歩く

2010/01/29 11:47

「苦みとさわやかさ」「絶望と希望」「劇的なものとユーモア」など、一見共存しがたいと思えるものが共存する時間がきちんと表現されている。1968年、アイルランド生まれ。新進とはいえクレア・キーガンは相当の作家と見た!

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 ここ数年のうち日本で出された海外文学の短篇で、どしんと胸にくる、読みごたえある作品をいくつか挙げよと言われたら、本書に収められている「青い野を歩く」と「クイックン・ツリーの夜」をリストに入れたい。見事であった。
「森番の娘」も候補に加えてもいいかもしれない。もっとも、偉そうに書いているが、「ときどき読書家」に過ぎない自分は、さほど多く短篇小説を読み込んでいるというわけではないが……。
 1968年生まれの女性が40歳になるかならないかという時に、これだけ肝の据わった短篇のいくつかを書き上げてしまったのかと驚きを禁じ得なかった。クレア・キーガンは、親子関係を軸にする家族という血の「タテ糸」をよく知っているし、男女という、間に深い溝が横たわる細い「ヨコ糸」もよく知っている。その2つがまるで、彼女の胸にしっかり刻まれた十字架であるかのように、小説世界は形作られている。

 ただ、収められた8篇の満足度は、すべて一様に高いわけではない。
「別れの贈りもの」という最初の話は、正直「この先の作品、あまり読みたくなくなるな」という感じの内容であった。虐待のあった家庭の話なのである。
 日本ではまだ発覚すれば大騒ぎになる類いの出来事であるが、ヨーロッパを始めとする世界には、おびただしい数の事件があると聞く。クレア・キーガンはアイルランドの作家で、ほとんどの小説が、厳しさと隣り合わせの野や丘、森、海岸といった自然の中で営まれる生活を描いたものだが、敬虔なカトリック教徒が多く、あまりにも厳格な道徳観の下に暮らす人びとには性的抑圧が大きいということなのか。それゆえ、この種の出来事も決して珍しくないということなのだろうかと、しょっぱなから暗澹とした気持ちにさせられた。
 つづく「青い野を歩く」から先に読み始め、キーガンの小説世界の圧倒的な場の魔力に酔ってから「別れの贈りもの」に戻って読んだ方がいいようにも思われた。

「青い野を歩く」は、まさに厳格なカトリック社会であるからこそ紡がれ得た作品である。小さな村でつい先ほど執り行われた結婚式、そこで新郎新婦に神の祝福を伝えた神父の秘密と内面が徐々に解き明かされていく。

 ホテルでの披露宴に招待された客たちが野卑なうわさ話や冗談で盛り上がるなか、神父は内面で、神にその存在の「しるし」を求めている。忍びがたい思いを何とか抑えながら……。やがてディナーが終わると、宴会はダンスの時間を迎える。そこで新郎新婦は何とも迷惑なハプニングに直面するのである。
 自然でリアルな会話と、簡素で読みやすい叙述。その表現が、言葉が、ひとつひとつ的確に場面を現出させていく。

――だれかに触られたのは三年ぶりで、他人の手のやさしさに、彼ははっとする。どうして、やさしさのほうが怪我よりも人を無力にするのだろう?
(P47)
 この短篇では、惑いをくぐり抜けて行こうとする神父の内面に励まされる。青い野を行くさわやかさが読後に残る。

 最後から2番目には「降伏」という、(マクガハンにならって)と副題の添えられた作品がある。注目している作家マクガハンの名があり、しかもキーガンはマクガハンの後を継ぐ作風だと言われているらしい。けれども、話の内容がきちんとつかみ切れなくて残念な思いをした。
 小さな駐在所の巡査部長の面白いエピソードも出てくるのだが、設定が何度か読んだだけでは釈然としなかった。未だに把握できたのかどうか自信がない。自分の血のめぐりの悪さもあろうが、何やら人物たちの関係がよく分からず、混乱してしまったままだ。
 記述のそっけなさのせいなのか、結びの部分が、全体に対しどのように効いていくのか疑問を残している。

 そういう受け止め方しかできていない作品もある一方で、「森番の娘」「クイックン・ツリーの夜」はどこか神話を思わせる物語の行く末が強烈な印象を残す。
「森番の娘」は、一家の母親が伏せてきた家族の秘密が、亭主の残酷な仕打ちをきっかけに、村人たちへ語る素話の形で暴露されそうになるというものだ。その出来事のあと、空中分解直前と思われた一家を大きな悲劇が襲う。しかしその悲劇の渦中にありながら、一家が再生の可能性を意識するという、実に不思議な話である。絶望と希望が同時にある状況を、小さな家族の輪のなかで無理なく書いているのだ。素晴らしい終わり方だった。

「クイックン・ツリーの夜」は、巨女神話とでも言うべき結末に発展していく小説である。亡くなった神父が住んでいた丘の上に頑丈そうな女性マーガレットが越してくる。長屋のように作られた家の隣人は、雌ヤギと生活を共にしている男性である。
 マーガレットの悲しみに満ちた過去が明らかにされていくと共に、壁をはさんだ変り者の男女の間に不思議な関係が結ばれていく。
 この作品は、劇的な運命を示しながら、しかもユーモラスなニュアンスも入れて結ばれている。劇的要素と軽やかなユーモアが共にある状況というのも新鮮であった。

 2つの要素、それ以上の要素が複雑に絡み合っているのが人の内面であり、生活であり、運命である。それを言葉で表すことが小説の難しさであり、表すことに成功したものだけが現実味をもって読者に襲いかかり、もう1つの人生を体験させてくれるのだと思う。
 キーガンの小説には、「苦みとさわやかさ」「絶望と希望」「劇的なものとユーモア」など、一見共存しがたいと思えるものが共存する時間がきちんと表現されていて、小説世界をしばし生きる自分の実在を生々しく感じさせられるのである。

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紙の本白い城

2009/12/25 18:42

書生気分のイタリアの若者とオスマン帝国の学究の徒。偶然出会ったふたりの容貌はうりふたつであった。共に長い時間を過ごしていくうちに、互いの自我の境界が浸食し合っていく。ノーベル文学賞受賞の20余年前に、オルハン・パムクがすでに到達していた、異なる二者の関係を問う深み。

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 美しい幻想文学だ。
 作家が物語の躍動力に身をあずけ、外見がそっくりなふたりの人物に起こった奇異な運命のいたずら、取り替え譚を綿密に語り尽くしていく。そのあと、物語を支配していた重力から逃れるように、ファンタジーの魔力で、たった今語り終えたばかりの物語を、おだやかな一段落の情景のうちに揮発させてしまう。

 片や始まりの方には、ちょっとした仕掛けがあって、「わたし」というイタリア人が、手記の中で語りだす前に「序」が添えられている。「序」は、歴史家で百科事典の編纂にたずさわる人物が書いたことになっているが、彼はパムクの別作品の登場人物なのである。ゲブゼ郡役所の文書庫で、どういう由来のものか判然としない手記を発見し、すっかりそれに入れ込んだ上で出版することにしたのだという。
 メタフィジカルな枠物語の形式を取り、それも別作品にもまたがる「枠」を設けながらも、決して仕掛けの偏重になってはいない。枠入り物語の中で披露する人生観や世界観にこそ作家としての本懐をきちんと包み込んでいる。
 それは、『白い城』が出された1985年当時、文学の世界でもてはやされていた前衛的な各種実験に対するパムクなりの回答なのだろうか。1990年にバイアットが『抱擁』で、2001年にマキューアンが『贖罪』で到達した深みに先駆け、文化や歴史など重要なテーマをきちんと消化させつつ、現代文学らしい試みにも取り組んでいる。

 23歳の「わたし」は、フィレンツェで手に入れた「学問と芸術」の書とともにヴェネツィアからナポリへと船で向かう途中、トルコの海賊船団に襲われる。ガレー船をこぐ奴隷にされてはたまらないと機転を利かせ、持っていた本を説得材料に、科学者であり医者であるふりをしてオスマン帝国の高官に認められる。イスラム教への改宗を拒絶したことで再び身は危険にさらされるのだが、高官の屋敷で引き合わされた学者に救われ、彼を助け、まだ幼い皇帝の好奇心を満足させようと働くようになるのである。その学者は、あろうことか「わたし」とうりふたつの容貌をしていたのであった。
 オスマン帝国の学者は、西欧の科学的知識を「わたし」から吸収しながら、新しい理論をまとめたり、新しい道具や装置を作り上げようとしている。「わたし」は彼を「師」と呼ぶが、初めは主人と奴隷であったふたりの関係は徐々に変容していく。
 失意から自分の内に閉じこもりがちになった師は、自分という存在自体を疑い始め、自我を問う思弁のなかで「わたし」の存在を鏡像のように捉え始める。ふたりが生い立ちを語り始めることで、互いの境界は次第に浸食を始めるのである。

 奴隷として疎外された身のままであれば、遠く離れた故郷で続けられたはずの生活への無念は募るばかりであろう。しかし、「わたし」と「師」が結ぶ関係は、協業の達成感や「我と汝」の理解といった特殊な条件下で、「わたし」に異郷での居場所を与えていくのである。そして、人生に本来あるべき幸福感や情熱ももたらすのである。

 東西のせめぎ合いやら、異なるイデオロギーの衝突やら、宗教と民族の対立やら……。現代作家としてのパムクの意識のなかには、評論家たちが指摘する通り、あらゆる要素は常にうごめいているのであろう。だが、考えてみれば『わたしの名は紅』(1998)も『雪』(2002)も、とても幻想的な文学であった。
『わたしの名は紅』では、西欧化されていく社会の中で伝統文化はどう在るべきかが大きなテーマとしてあり、『雪』では、閉ざされた地方都市で発生したクーデターの顛末が書かれていたものだから、書き手としての彼の立ち位置がどうしても、政治を動かす発言力もある作家、異文化理解についての言及も期待できる作家というように映った。
 何となく社会から求められてしまう役割を文学作品のなかに昇華させながら、本来的に持つ幻視者としての資質を生かしていくように書いたということもあったのかもしれない。それにしたところで、両作品とも堂々の素晴らしい芸術作品ではあったのだけれども……。

『白い城』は初期を代表する作品だが、もしかすると社会からの期待がまだ強くなかった分、純粋な語り部としての力が発揮しやすかったのだろう。ある時点から勝手に走り出していく物語の躍動にまかせておきさえすれば、あるいは、物語の神に憑かれたまま最後まで走っていきさえすれば、読み手の官能に直に触れる作品ができてしまったのかもしれない。そのように思想的にはニュートラルな立ち位置にあったために、語りと表現の美の力を存分に発揮できたのかもしれない。

 話が少しそれるが、この本を読む前、私は80歳を目前にしたル=グウィンが書いた『ラウィーニア』を読んだ。性差や人種など、様々な差別意識へのイデオロジックな姿勢を自作に次々と注ぎ込んできたル=グウィン。彼女の近作は、そういったものの呪縛から逃れたかのように、極めてニュートラルな立ち位置で書かれ、だからこそ物語のうねりが気持ち良いまでに最後まで貫かれていた。
 そして最後、やはり最後の最後になって、そのうねりからも自由になるように、ル=グウィンもまた、ファンタジーの階層をもう一段上げる形で物語を揮発させていたのであった。偶然のことなのだが、作者の想像力と物語との距離、読み手の意識へ物語をどうあずけて結ぶかという点において、『白い城』と『ラウィーニア』があまりにも酷似していたので驚いてしまった。

 作家がまだ社会からの要請に染まっていなかった、さらな状態。そこを目指すかのように、物語の登場人物たちは次第に殻を脱ぎ捨てていく。民族、宗教、文化、思想、年齢、身分といった殻。そういった属性をどこまで剥いでいけば、人は単なる個人と個人として通い合えるのか、分かち合えるのか。また、互いの存在を支え合えるのだろうか。真摯な問いかけが、物語の中から現実社会へ向けて漏れ響いてくる。
 運命に翻弄され、考えもしなかった場所で予想もつかなかった役割を与えられ、不本意だったはずの人生を送る「わたし」。『父のトランク』という本にまとめられた2006年ノーベル文学賞受賞講演にあったように、この世の幸せからかけ離れていても「いい人生」と言える生があることを、パムクは『白い城』ですでに、「わたし」という人物に与えた運命を通して描き切っていたのである。

[付記]「序」の部分から、音読したくなる美しい訳文であった。和久井路子氏の労あって、邦訳でこの作家の素晴らしさが確認できるようになり、今回、新しい翻訳者の行き届いた訳や解説で、それが再認識できた。カバーも美しい。画像検索で調べる限り、この物語に導かれていくのに日本語版が一番似つかわしいように思う。
 邦訳の読者でラッキーだった。

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紙の本トマトさん

2009/08/29 14:14

熟し切って、畑の地面にどったと落ちてしまったトマトさん。かたわらの涼しい小川に自力では転がっていけない図体の大きさに、さまざまな姿を重ねてみる、逝く夏の「大人読み」遊び。夏の新しい定番絵本。

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「デルモンテ」ではなく、ピエモンテというイタリアの州で「スローフード」運動が始まった。それに代表される先進国的な食の見直しの流れの中で、私たちも随分と食育に感化され、楽しみながら栄養のことを考えたり、食材やその産地・調理法のことまで知ったりする機会が増えた。
 トマトは、イタリアでは、どうも日本の「大豆」的な食材に当たるらしい。確かにトマトソースやピューレは味噌のようなものだろう。ピッツアソースやパスタソースとなって、料理の主役たちを盛り上げる。主役としての登板は少ないが、サラダや煮物、炒め物など様々な調理法に力を貸し、栄養価高く体を支えてくれている感じがする。大豆とは異なり、「真っ赤」という色が「使える」存在でもある。その色は、太陽から受けたエネルギーを素直に表現しているので、余計に体への恵みが多い印象を強める。

 トマトと大豆は体に良いという頭があるものだから、私は朝食にトマト、夕食に大豆の消費をなるべく心掛ける。大豆の件は置いておくが、秋口から初夏あたりまでは、トマト入りの野菜スープ、夏場はトマト入りのサラダがここ1年ほどの朝の食卓の定番で、毎朝作る。「トマトに含まれるリコピン酸は成長期の子どもにとても良い」という情報をどこかで見かけたものだから、最近は1日2食ないしは3食、トマトがお目見えするということもなくはない。

 トマトという野菜は、見た目の色と形の愛らしさから、子どもにとっても近しい存在で、ナスやセロリ、ニンジンなどのように嫌われやすいものではない。
 絵本の世界でも、リンゴほどのスター性はないけれども、科学絵本『トマトのひみつ』あかちゃん絵本『きゅうりさんととまとさんとたまごさん』、月刊絵本で出た『とまとがごろごろ』など、あちらこちらの読みきかせで使ってみて楽しんだ覚えのある作品が浮かぶ。
 上の3冊に関しては、表現方法にそれぞれ違いはあるけれども、いずれもトマトは、お日さまの光をさんさんと浴びた健康優良児というイメージを崩していない。

 しかし、この『トマトさん』の面白いポイントの1つは、その健康優良児的イメージがちょっぴりの毒気でもって後ろの方に追いやられ、ちょうど良く色づいた美しい状態で提示されるのではなく、熟して腐っていく自然の存在として捉えられていることだ。
 こういう切り口の独自性に触れると、ついつい「大人読み」をしてみたくなるものである。

 子どもの本で植物の「実」や「花」などを扱うのであれば、普通の発想なら、種や幼葉の状態から徐々に育っていくものを取り上げるものだ。なぜなら、それを小さな子どもたちのこれから大きくなっていく姿に重ねられるから……。
 ところが、『トマトさん』は、うれたトマトが「どった、と おちた」という前扉から物語が始まる。大人である人なら、すでにこの段階から、何やら切ないものを感じ取る。「そうか。うれたのか。うれてしまって、どったとカッコ悪い音を立てながら地面に落ちてしまったのか」と。
 表紙の大写しでは、トマトさんの体のラインが断ち切りになっている。そのため、どういう図体をしているのかということがよく分からない。しかし、前扉をめくると、そこにトマト畑の地面にしっかりと重量を預けているトマトさんの全身が捉えられる。俊敏さや肌の張りは、もう失った、もっさりとした様子の姿である。

 トマトさんは、かたわらの小川の水の音に耳を澄ます。そこでも、「どった」と同じ、擬音が効果的に用いられていて、「ころころ ぽっちゃん!」という好ましい音が聞こえてくる。何が立てている音なのかというと、自分よりはるかに身軽なミニトマト軍団が、木から落ちてはリズミカルに転がって、小川に次々飛び込んで行くのだ。
 ここで大いに読者の感情移入が始まるのであるが、トマトさんの心理描写は控えられている。すると、そこへ浮輪を腰に当てたトカゲが2匹通りかかるのである。カラフルでリゾート気分を漂わせている。
「トマトさんも およいだら」と誘われるのであるが、「ふふん、けっこう。ぷかぷか およぐのなんか、みっともないでしょ」というのがトマトさんの精一杯の受け答えである。
 それから、トカゲたちが去って行った場所で、暑さにさらされ、ほっぺたがひりひりし出したトマトさんは、泳ぎに行きたいのに、体が重くて自分では動けない我が身が悲しくなり、遂には涙を流し始めるのである。
 
 頭の中に余分な知識や情報を詰め込んでしまった人であるならば、この場面で思わず目尻をぬぐい始める。そして、贅肉がついてぶよぶよしたような熟し切ったトマトさんの図体、自分ではもはや身動きができなくなった図体に、自分の姿を重ねてみたり、日本の姿を重ねてみたりという無駄なことをし始めるのである。
「ああ、一体、トマトさんをどうしてくれるのだ」と同情が最高潮に達するのであるが――やはり物語はいいものなのである。
 何となれば、トマトさんの窮状を知ったアリンコたちが仲間の虫たちを読んできてくれるのだ。それで救出作戦が始まる。小さな虫たちが力を合わせて、何とかトマトさんを小川まで送り出してやろうとするのである。だがしかし、そうは簡単にメタボ化したトマトさんが転がるわけがない。

「ああ、だめか」と心を痛めていると、さっきのトカゲたちもどこからともなく仲間を大勢連れて現れ、おまけに同じ爬虫類だからなのか、カメまで現れて、虫たちと共にトマトさんを押してくれるのであった。
「ごろん ごろん ごろ ごろ ごろ」
「じゃっぷーん!」
 そしてそして、それに続く「ぶくぶく ぷっくり」という音の心地よさ。
 泡に洗われるトマトさんの姿は再び大写し。見開き画面に収まらずに断ち切りとなっていて、恍惚の表情をしているのである。これは大型絵本で出す価値がある場面だ。

「む・く・わ・れた~」と全身を通り過ぎて行く爽快感に浸るのであるが、そこに至っても「よかったね」で終わらせず、「いや、待てよ」と深慮に立ち返るのが「大人読み」の鉄則正道なのである。
 報われたと言っても、トマトさんがしたことは「泣く」という感情吐露だけで、「助けてほしい」と乞うことも、自ら転がろうという試みもしなかったではないかなどと考え直してみるのである。

 さあて、さて。ファンタジー世界でどっぷり遊ばせてもらったから、気分を入れ替え、残り少ない夏休み、昼のまかないにでもかかるかねー。

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紙の本千の輝く太陽

2009/03/07 12:47

イスラム原理主義という因習的社会のなかで疎外された2人の女性。屈辱を受け、苦しみに希望を失いそうになりながらも、互いに通わせた心と心を支えに、より善く生きるための選択を重ねて行く。

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 カーレド・ホッセイニは、全世界で1000万超という驚異的な部数に達したベストセラー『君のためなら千回でも』の作者である。
『君のためなら千回でも』は、めまぐるしく政権が変わったアフガニスタンの現代史を背景に、幼い頃から兄弟のようにして育った2人の男性の関係を軸にした物語であった。それと重なる背景のなかに、2人の女性の関係を置いて書かれたのが本書『千の輝く太陽』である。2人の女性は違う場所で生まれ育ち、たまたま一緒に暮らすことになった。そして、因習的社会のなかで疎外され、屈辱を受け、苦しみに希望を失いそうになりながらも、互いに通わせた心と心を支えに、より善く生きるための選択を積み重ねて行くのである。

 第一部では、マリアムという私生児として生まれた薄幸の女性の、少女時代から不本意な結婚生活の数年までを追いかけている。第二部になると、ライラという進歩的な家庭に生まれ育った女性の少女時代から、突然の悲劇で運命ががらりと変わってしまう事件までが書かれている。
 マリアムとライラの受難がどういうものであったか、2人がどのようにしてめぐり逢うことになるのか、そしてまた彼女たちが出逢ってから待ち受ける人生の困難がどのようなものなのかといったことを明かしてしまうと、これから読む人の興をそいでしまうだろう。
 第三部に入ると、「マリアム」と見出しがつけられた章と、「ライラ」と見出しがつけられた章が代わる代わる登場する。これも何が起きたかを具体的に紹介してしまえば、こういう構成の効果がもたらす面白さも半減してしまうように感じる。説明がなかなかに厄介な小説なのである。

 そこで、あらすじというところから離れて、作家が何を問題にして小説を書いたのかというところからの紹介を試みることにする。
 前作『君のためなら千回でも』には、内紛や戦争、身分格差や社会の在り方というものが、どれだけ一人ひとりの人生を狂わせてしまうかが描かれていた。そういうなかにあっても、個人が大切にすべきは「義」を貫き通すことであり、前向きに為すべきことを為さねばならないというメッセージが読み取れた。それを表現するために、友情や親子の絆、贖罪といったテーマが扱われていた。
『千の輝く太陽』でも、作者のそのような主張の姿勢は変わることなく踏襲されている。しかし、今回特に焦点が当てられたのは、イスラム原理主義社会にあってのフェミニズムということになろうか。

 マリアムは結婚して初めて、夫にブルカを着用するようにと言い渡される。頭巾の部分に詰め物があり、目の部分に空いた網を通してだけ外の世界を覗けるようになった、全身をくるむ襞つき布である。女の顔は夫だけのものであり、女には見てはならないもの、言ってはならないことがあるというのだ。
 彼女は外出も制限され、限られた空間の中で生活することを強いられる。それは夫の出身地での慣習だったわけだが、結婚から短くはない時間が過ぎた1992年、共産主義政権が崩壊し、アフガニスタン・イスラム国が成立すると、それまで個人の選択であった女性の生活や服装の在り方は、社会的に規定されるようになる。女性は皆が皆、ブルカで体を覆うことを義務づけられたのである。
 ムジャヒディーン政権の基盤は弱く、そこから内戦が始まり、やがてタリバンが台頭、1996年秋に首都カブールがタリバンにより制圧される。そうなると、女性は化粧、宝飾を禁じられ、仕事を奪われ、それどころか公の場で笑うことも男性に自ら話しかけることも禁じられる。少女たちからは教育も取り上げられる。
 また、抑圧は女性ばかりではなく、社交や文化との触れ合い、学問にも及んだ。歌唱や舞踊の禁止、トランプやチェスなどのゲームも凧揚げも、本を書いたり絵を描いたり、映画を見ることも禁止となるのである。

 ここで誤解してならないのは、イスラム教がそもそも女性蔑視を謳った宗教ではないということだろう。そして文化の享受を禁止する宗教でもない。
 フェミニズムの方にのみ絞って考えていくとすると、イスラム社会で男性が複数の妻をめとることが許されているのは、そもそも戦乱の時代に男性が少なかったことに関係しているらしい。
 その独自の結婚観とは別に、男女が立ち入る空間を区別するというイスラム社会の慣習もあった。こういった宗教や慣習の特徴を歪め、悪用する形でイスラム原理主義やタリバンによる女性の抑圧、虐待が行われているようなのである。
 作者のホッセイニは、あからさまに「イスラム教ではなく、原理主義こそが女性の権利を侵害している」とは訴えていないので、彼がどこまでそれに意識的にこの作品に取り組んだのかは分からない。しかし、マリアムの夫のような個人、あるいはタリバンのような為政者などの物の考え方こそが多くの女性を肉体的にも精神的にも傷めつけていることが伝わってくる。

 デビュー作『君のためなら千回でも』で作者は、比較的穏やかだった共産主義政権下の社会のあとに、市民たちがどのように日常生活を断ち切られ、家族や地域の共同体から離散し、考えてもみなかった環境で新たな生活を築きあげていく破目になってしまっていたのかを描いていた。少年であった主人公は米国に亡命し、そのこともあって自ら壊した友情に対し、長く修復の機会を得られなかったのである。ソビエト軍、タリバン、米軍といった外圧に翻弄された市民たちの生という構図が大きなテーマとして世界に問われた。
 一方、この『千の輝く太陽』では、2人の女性が自らの意思では思うように切り拓いていけない人生を、イスラム原理主義の内部における問題として、内部告発的な視点で世界に紹介している。
 いくら独自の慣習や価値観があるとしても、文化というものは、あるいは文化という隠れみのを被った主義というものは、個人の領域にどこまで立ち入って良いのかという問いかけがあろう。

 物語の終盤、弱い立場にあるマリアムとライラには、抑圧された生活の局面をがらり変えてしまう出来事が起きる。その出来事をホッセイニは、彼女たちの前向きな意志の力から起きたものとしては書いていない。偶発的に起きたこととして書いている。それは注目すべき点である。
 タリバンで訓練されている兵士たちのなかには、戦争孤児として寝食を与えられ、生き方の選択が1つしかなかった子どもも少なくないようである。子ども時代に、イスラム原理主義とは異なる価値観に触れたマリアムとライラは疑問や不条理を感じることもでき、だからこそ我慢の限界に向かっていく。そして、それが限界に達する瞬間を迎えた。しかしながら、別の物の見方をよく知らないままに育ったとき、疑問や不条理、我慢はどうなるのであろうか。
 アフガニスタンの復興と市民の再生を願いたくなるような、光射すラストが用意されてはいる。だが、女性史やマイノリティの問題に興味がある向きにとってだけではなく、異文化との共生が誰にとっても無関係ではない現代にあって、なかなかに厳しい現実をこの小説はつきつけてくる。

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紙の本アフリカで一番美しい船

2009/02/17 14:43

第一次世界大戦下、列強覇権争いのため、アフリカ内陸タンガニーカ湖で繰り広げられた戦いがあった。ドイツ帝国海軍、大英帝国海軍共に利用したのは貨物船や客船。船を運んだ人びとの波乱の運命を描いた歴史小説。

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 アフリカの内陸にある大きな湖に船を就航させる。それは、隔たった西の岸と東の岸、北の岸と南の岸どうしをつなぎ、品物を流通させたり人を乗せたりできるので便利であるには違いない。誰にとっての便利なのかというと、現地で暮らす部族たちにとってではなく、その土地を植民地支配していたヨーロッパ人たちにとっての話である。第一次大戦前夜にあった話、それも本当にあった話だという。
 そういう発想でキリマンジャロの南、ドイツ領東アフリカのキゴマというところに連絡船兼貨物船が運ばれることになった。キゴマはこの領土の西端にあり、その先はタンガニーカ湖である。縦に長い湖をタテに切る感じで国境線が引かれ、スライスされた湖の西の方はベルギー領コンゴとなっている。
 地図で見ると、キゴマへは、海岸沿いの町ダルエスサラームから直線距離でも1100キロ以上もあるのだが、そこへはすでにドイツ帝国の技術力で鉄道線路が敷かれていた。組み立て前の部品の状態ならば、鉄道を利用すれば運べる条件は整っていたわけだ、一応は……。
 しかし、かんじんの船はアフリカでは建造できない。ドイツの造船所でいったん進水式を済ませたものを部品にバラし、貨物船でダルエスサラームまで運搬、それから内陸への旅が始められたのである。この旅には、造船の技術者が必要で、現地での組み立てだけで約1年が予定されていた。ドイツ北部の港町から、特別な報酬を期待した3人の造船技師が参加することになった。

 このようにしてタンガニーカ湖に浮かぶことになる「ゲッツェン」が、題名の通り「アフリカで一番美しい船」である。この運搬の経緯だけで小説としてはもう十分なドラマがあり、壮大なスケールで展開していけそうな気配を漂わせている。
 しかし、ゲッツェンにとっても、3人の技師にとっても、旅につづく造船は「本当にあった話」の一部分でしかなくなる出来事が起きる。世界的な規模での大戦が勃発してしまったのだ。ゲッツェンはドイツ帝国海軍の軍艦となり、3人の技師も軍属となる。
 そして、貨物の運搬、人の運搬のために行き来するはずであった対岸のベルギー領アルベールヴィルは、敵地ということになってしまう。ここに、ベルギーの同盟国イギリス海軍から軍船が送られてくる。軍船と言っても、それは川に浮かべる遊覧船程度のもの。それが2隻。
 指揮に当たっていたのは、左遷され窓際族として苦渋の日々を送っていた士官で、彼は任務のために位階を上げてもらった。タンガニーカ湖の戦いで功を成し、名を挙げたいという野心を抱いてやって来たのである。ところが、目的地まですべて鉄道が敷かれているわけではない。2隻の遊覧船は、敵にその存在を知られないように気を配りながら、ジャングルの中、アルベールヴィルを目指さなくてはならなかった。
 道なき道を船を引いて行くという苦労ばかりが劇的なのではなく、遊覧船が攻撃目標としていたのは、ゲッツェンではなかったというドラマもある。ゲッツェンはまだイギリス軍の知るところではなく、彼らの目標は、すでに就航していた「ヴィスマン」という小型のドイツ船であった。ゲッツェンは想定外の存在であったのだ。

 ここまでで随分と内容を書いてしまっているのではないかと心配されてしまうかもしれないが、背景や史実の流れを追ってみただけで、かんじんの小説に描かれていることにはさほど踏み込んでいない。
 映画「アフリカの女王」の元にもなったという、この史実を紹介するダイジェストをカバー袖に見つけたとき、「植民という行為自体を批判的に見ていくだけでなく、わざわざアフリカの内陸まで出かけ、湖に浮かべた小さな船でドンパチやったことの愚かさをも伝えるような内容か」とあたりをつけてみた。確かに、そういう読み方もできなくはない。
 けれども、そのように社会の動向を批判的に捉える姿勢は、ここに登場する人びとの小説的現実を読んでいくと、どこかに追いやられてしまう。
 歴史として習う史実がいかに「人類の愚行」を感じられるものであっても、もし、そこに関わった人たちの「懸命さ」に触れる機会があるとするならば、史実を単に「何と愚かな……」と否定的に言って済ますことはできなくなってしまう。読んでいて、ふっとそんなことを考えさせられた。

 意図せず戦争に巻き込まれてしまった3人の造船技師のアフリカでの苦闘が丁寧に描かれている。想像を越えた暑さや衛生状態の悪さのなかで、体がどうなってしまうのか、仕事はうまく進むのか。家族から離れた彼らが、寂しさをまぎらわせるために三者三様の時間を持つことも分かってくる。食事や生活の世話をしてくれる現地人とのふれあいについても展開がある。
 このように3人の任務や生活を追いながら、イギリス人士官スパイサーがタンガニーカ湖に至るまでの様子もはさまれていく。挫折や野心で彩られた彼の俗物的な生が、打ち続く困難な状況のなかで新たな形で光を放ち始めるとき、征服や戦いは避けるべきものであっても、それが絶対的なことであっても、征服や戦いによって人類に生み出された価値がいくつもあることをどう考えていけば良いのか。そういう問いも湧き上がってくる。

 日本では紹介されていなかったスイス人ジャーナリストのこの小説、史実に対する一元的な価値判断を元に構成していくのではなく、複数の人の営みや思いを交錯させながら辺境の地での戦争という歴史を再現してみせたところに広がりや深みがある。戦争は絶対悪だとしても、それを生きる生には良いものも悪いものもあるのだ。コンパクトながらに読みごたえずっしりの本であった。
 それから、ドイツ船「ゲッツェン」が名を変え、タンザニア管理下で今も湖を航行しているという、あとがきに書かれた事実。そのことがこちらに伝えられなければ、「時間の問題」という意味の原題についても受け止め方がまるで違っていたように思える。船が現存するからこそ、『アフリカで一番美しい船』という邦題に十分納得し、私は本を閉じた。

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紙の本われらが歌う時 上

2008/09/23 20:22

歌を絆に、世間の非難を恐れず自分達らしくあろうとした家族が、どういう葛藤を抱え、どう前に進んで行ったのか。黒人人権史を背景に、「人種」「時」「価値観」の壁を越えて流れる歌の調べを言葉に置き換えた華麗な大作。

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「私たちは、愛し合うべきでない」――この理性的な判断力をほころばせ、2人が家庭を築けたきっかけは何だったのか、1050ページを超える大巻の最後まで読まないと、それが明らかにされない、何とも「いけず」な小説である。

 ユダヤ系だということで、ヨーロッパでの職を失ったドイツ人理論物理学者デイヴィッドと、歌手を夢見ながら病院でアルバイトをする音楽学生ディーリアが出会う。
 デイヴィッドはニューヨークに住み、コロンビア大学に職を得ている。ディーリアの方は医師の父を持ち、家族でフィラデルフィアに在住だ。東京と静岡ぐらいの遠距離も障害なのだが、時は1939年。白い肌と黒い肌を持つ2人が互いに惹かれ合い、運命的なものを強く感じようとも、それを良しとしない世間というものが米国にはあった。40以上にわたる州で施行されていた黒人と白人の婚姻を禁止する法律が違憲とされたのは、1967年のことなのである。
 戦時下にも制作されていた古いハリウッド映画を観て、米国の底力を見せつけられた気がしながら「古き良きアメリカ」を思い浮かべたことが何度かある。しかし、よく考えてみると、黒人の存在の印象が薄いこと、陰となりがちであったことに気づく。奴隷や従僕に兵士、そしてジャズやブルースのミュージシャン。
「ブラック」がパワーとして肯定的に表立って認められ始めたのは、まだ30年に満たない最近のことだ。経済上の格差、黒人が貧困から脱却しにくい社会のありようを考えれば、「民権」が得られたとしても「人権」の問題は現在も進行形なのだろう。

 さて、人種の違いばかりではなく、それぞれの属性からも一体どのようにしてめぐり逢ったのか男女なのか、きっかけが想像できないデイヴィッドとディーリアの話に戻れば、彼らには、復活祭の日の野外コンサートという出会いの場所が用意されたのである。
 ヨーロッパで成功を収め、米国で凱旋ツアーを敢行した黒人女性歌手マリアン・アンダーソンが、首都ワシントンでのコンサート会場使用を拒否され、奴隷解放の功績者リンカーンの記念碑がある公園で歌うことになった。その歴史的コンサート会場の、美声を求めたおびただしい群衆の中で、ディーリアの発した小さな歌声、そして、もうひとつの小さな声が、新しい家庭と、そこから始まる血族たちの運命の源となるのである。
 実は、その「もうひとつの小さな声」は、最後の最後になってようやく登場する。そこに至るまで、「しつけ」の行き届いた家庭に育った娘であるはずのディーリアが、なぜ思い切った決意をして結婚に踏み切れたのかが、読んでも読んでも、なかなか出てきやしないのである。

 それに、少しばかり分かりにくいことに、「ふたりが出会って結婚して子どもが3人生まれ、その3人がどう育っていったのか」という具合に、物語は時間の流れに沿って進行してはくれない。ふたりの歩みと並行に、子どもたちの少年少女時代から社会的位置を獲得するまで、その先へと進む軸がある。そしてまた、デイヴィッドとディーリアの生い立ちを辿る軸も出てくる。
 レコードのコレクションを1枚ずつ増やすことで、次第にジャンル全体のことが分かるようになっていった――音楽に限らず、誰でもどの分野でも、このような知識の獲得に覚えがあることと思う。そういう形で、この小説は「特別な人種」を生み出した家庭と「特別な人種」たちの三者三様の生涯を鮮烈に書き切っていく。作者パワーズから1枚ずつレコードを聞かせられるようにして、物語が私たちの内部に満ちていくのだ。

 小説の皮切りは、1961年のコンクール会場。ここで20歳になりたてのジョナ・シュトロムが初めて歌手として認知されるという、小さなエピソードで始まる。偉大なる歌手の社会的誕生シーンで、それをジョナの弟が40年後から回顧している語りである。
 コンサート会場から始まった回想は、兄弟の少年時代、シュトロム一家として一番幸せだった時代へと飛ぶ。音楽を目一杯楽しんだ一日の終わり、夕食後にアップライトピアノの前にまた集う家族の様子が語られる。
 語り、語り、語り。白人の父と黒人の母を持った次男の語り尽くしである。時さえ止めるような兄の才能あふれる歌声は、コンクールやコンサートなどの場で繰り返し披露されるわけだが、その歌がどういう様子だったのか、言葉の力を駆使しての語りが埋め尽くされている。人の心の一番奥深いところに到達できるのは「音楽」なのか「言葉」なのか。パワーズは、その勝負に挑んだのかもしれない。
 美しい声に美しい音楽――「美しい」という表現を超えた声や音楽を聴いたとき、息も意識も止まったかのように感じる。心臓を射抜かれたようにも感じる。それと同じことが、ジョナの歌う場面の描写で何回か起るのだ。たとえば、男の子に訪れる「声変わり」をどのように描いたのか。その部分を読むだけでも、歌声を言葉によって響かせようとした作家の苦心惨憺が分かるというものだ。

 この上巻では、歌を絆に、世間の常識と非難を恐れずに自分達らしくあろうとした家族が、それでもなお強い葛藤を抱え、軋轢を感じながら過ごさなくてはならなかったのかが書かれている。そして、そこから兄の天才と、それをピアノ伴奏で支える弟の才能がいかに巣立っていったのかが書かれている。
 けれども、兄弟ふたりの成功を待たずして、シュトロム家には信じ難い大きな悲劇が襲ってしまうのである。

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