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  3. Straight No Chaserさんのレビュー一覧

Straight No Chaserさんのレビュー一覧

投稿者:Straight No Chaser

35 件中 16 件~ 30 件を表示

紙の本

紙の本天人五衰 改版

2004/12/19 08:03

仮初に拙い感想文を。

2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『豊饒の海』四部作を読み終えて、いま、とても不思議な気持ちだ。ほんとうの静けさのなかにいる、と感じる。時間をかけて、深く味わいたいと思う。

明治から戦後・高度成長期にかけて日本近現代史を背景に、(輪廻)転生を主題にして書かれた三島由紀夫のライフワークが『豊饒の海』四部作である。「春の雪」「奔馬」「暁の寺」「天人五衰」という四巻それぞれに、松枝清顕、飯沼勲、月光姫、安永透という主人公がいて、それぞれを別個の小説として読んでも充分に楽しめる作りになっている。

『第一巻 春の雪』において松枝清顕は不可能な「愛」を追い求めつづけた。世界のミシマ・渾身の純愛物語。
『第二巻 奔馬』において飯沼勲は不可能な「志」を追い求めつづけた。世界のミシマ・渾身の武士道物語。
『第三巻 暁の寺』において月光姫(ジン・ジャン)は不可能な「美」を追い求めつづけた。世界のミシマ・渾身の女神物語
(第四巻は少々微妙で、少なくとも上のような纏め方はしたくない感じ。)

これらの各主人公の傍らには四巻を通じて本多繁邦という男がいて、狂言回しの役を割り振られている。物語が進むにつれ、彼は「松枝清顕→飯沼勲→月光姫→安永透」という転生の連鎖を信じ込み、徐々にその転生物語に取り憑かれ、巻き込まれてゆく。とくにガンジス河畔の町ベナレスでの体験(第三部)を境にして、彼は一気に転生物語の濁流に飲み込まれてゆく。

三島由紀夫が『豊饒の海』四部作において追い求めたものは、「純粋」であり「不可能」であり「永遠」である。

もしこの世界に「純粋」が存在可能なものであるとするならば、それは「不可能」を求めつづける「永遠」の運動のなかにこそ存在しうるものであるに違いない。そしてもしその表現が完成するとするなら、『豊饒の海』という大きな「物語」が止まることが不可欠であった。「時間」が止まる場所へと、すべてが移動することが必要であった。

明治の華族・松枝清顕、昭和初期の右翼テロリスト・飯沼勲、戦後日本へチベットからやって来た女子留学生・月光姫。日本近現代史の奔流に揉まれながら輪廻転生しつづけた「純粋」の化身たち。三者三様の不可能の追求(とその死)を傍らで見つづけた本多繁邦。独り取り残された本多はその転生物語を止めることによって「永遠」を完成させようとした。

『豊饒の海』四部作は各巻のラストがどれも美しい。なかでもこの『第四巻 天人五衰』の美しさは、この世のものとは思えない。

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「……」のなかに三島由紀夫の割腹自殺という事件の幻影を見てしまうのではなく、僕はこんな言葉をそっと投げ入れてみたいと思う。仮初に。

私は止まったが、完全に止まることは不可能だった。私は初めて誰かに頼ることを知った。退路は消えていた。そうして過去は私の手の中から消えていた。過去は私のものではなかったし未来も私のものではなかった。今だけが私のものだったが今もまた過去へ流れて私の手を離れてゆく。そのことが慰めを与えてくれる。未来もまた私の手の中にはない。そのことが希望を育んでくれる。今という瞬間に存在するのは私独りだったが過去と未来には私ではないあらゆる人たちが集っている。だから寂しくないのだと気付いた。

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紙の本

だいじなことは、自分で発見すること。

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哲学とは「問いそのものを自分で立てて、自分のやりかたで、勝手に考えていく学問」である。そんなふうな態度(立場)に基づいて展開されるのは、ベネトレというチェシャ猫のような猫と、ぼくの哲学対話。

ペネトレの哲学は、ときにニーチェ、あるいはスピノザ、そしてカント、ときにはホッブズ、さらにはウィトゲンシュタイン、たとえばそんな思想家の思考に触発されて形作られてきたらしい。「なにか自分にとって重要なことが言われていると思ったら、あとは自分で考えていけばいい」と、彼(猫)はいう。

第1章 人間は遊ぶために生きている!

第2章 友だちはいらない!

第3章 地球は丸くない!

各章のキー概念は、たとえば「倫理」「他者」「存在(と認識)」とかいう感じになるのだろう。でも、もちろんそんな難解そうな言葉は使われていない。

著者の永井均さんは、とてもわかりやすく、それでいて乱暴な(粗雑な?)明快さとは無縁の言葉で(本気で哲学をやっている人の言葉はいたずらに明快ではあり得ないだろう、だってそれはその人が生きることそのものであるはずだから。)哲学を語ってくれる人だという印象がある。たとえば僕がウィトゲンシュタインの考えに興味をもったのは、永井さんの本を読んだからである。そんな永井さんの分身のように、ペネトレは語る。あるいは、ペネトレを通して語られる言葉が、永井さんの哲学になっている。(「永井さんの」という言葉はいらないのかもしれない。ただ「哲学」というほうが、より正確かもしれない。)

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いつもどこでも、こんなふうなスタンスで生きられたらいいと思う。使い古された言葉で、かなり手垢がついているかもしれないけれど、「自然体」ということ。

ペネトレはこんなことも言う。

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ペネトレ自身が「ニーチェ」の影響があると言っている第一章にあるこの文章、ニーチェの強烈な言葉にかぶれてしまうことへの、やさしい注意の言葉として、心に留めておきたいと思う。

彼はこんなことも言う、「人間は自分のことをわかってくれる人なんかいなくても生きていけるってことこそが、人間が学ぶべき、なによりたいせつなことなんだ」。同じような意味の言葉は、いろいろな場所で見かける。でも、これほど目から鱗な説得力を感じた文章はない。

素敵に哲学な本である。そう思いました。

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紙の本

やさしい本。

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なにはともあれ素敵な引用がたくさん散りばめられた本である。そういう意味ではロラン・バルトの『恋愛のディスクール・断章』と並べてみても遜色がない……というのは言い過ぎだろうか……

たとえば……

>(矢内原伊作『顔について』)

>(土屋恵一郎『能』)

>(レヴィナス『存在するのとは別の仕方で、あるいは存在することの彼方へ』)

『顔の現象学』は12の章に分かれている。「」「顔の規則」「ほんとうの顔?」「顔の所有」「顔の外科手術」「震える鏡」「転写される皮膚」「魂のパスゲーム」「負の仮面」「不在と撤退」「不可能な顔」「見られることの権利」、それぞれがとても興味をそそる表題を付されている。

解説の小林康夫教授は、「大きな視野から見た場合は、われわれの時代におけるの哲学は、一方でメルロ=ポンティ的なの認識論、そして他方でレヴィナス的なの倫理という二つの広大な勾配に規定されざるをえません。二つの斜面に支えられた険しい尾根を、どこにどういう道を切り開きながら通過していくか」と書いて、という誰もにとって身近なもの(?)を素材にして、現象学的な方法を用いつつやがてひとつのやわらかな「倫理」にたどりつくように、たおやかな文章が紡がれてゆくこの本を、とても的確な言葉でまとめてくれている。

鷲田清一さんの軽やかな思考の軌跡を辿ることは、難解な哲学書を紐解きつつ難解な顔をして難解な言葉をぶちかますような野蛮さの対極にあるような、しなやかさの印象を帯びて、そこでは「内部/外部」というような二分法の暴力は影を潜めている。解説の小林教授は「この辛抱強い思考は、をもはや意味の現象としてではなく、として、つまりとしての自己のとしてとらえる地点に達している」と書いているけれど、この『顔の現象学』という本のあり方が鷲田さん自身の「としての自己の」という印象のある、とてもvulnerableなものであるがゆえか、その文章、その言葉の暴力性があたうかぎり外へ向かうことのないように、そんな細やかさが行き届いて、読者を傷つけることのないやさしさに満ち溢れている。

について思考をめぐらすうちに、乏しさ、貧しさというものに視線がどんどん吸いよせられていった。貧しい存在、「情けない」「哀しい」とは言えても、「清く貧しく美しく」などとは口が裂けても言えぬ、存在の乏しさについてである。じぶんのなかのそういう乏しさに独り向きあっているひとの顔に惹かれる。そしてその顔をまなざしているうちに、じぶんまですごく落ち込んでしまう。そういうときの他人の顔というものが、いまのところぼくにはいちばんリアルである。>>(「原本あとがき」より)

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紙の本

「顔色の悪さ」を踏み越えて。

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IPは、オヌマという男の手になる180頁ほどのハードボイルドな日記(5月15日〜9月15日)を本体とする。これに「M」なる人物の手になる3頁ほどのオマケが付されている。(まるで『人間失格』のように?)

「M」は、第一義的にはオヌマがかつて所属していた「高踏塾」(スパイ養成学校?)の主宰者である「マサキ」という人物(変態)を指す。オヌマは某映画学校の卒業制作で仲間たちとともに「高踏塾」のドキュメンタリーを制作、マサキの「人間美学の最終洗練形態という観念」(「M」は三島由紀夫?)にとり憑かれ、仲間たちとともに入塾、五年ほどの歳月をスパイ訓練に明け暮れて過す。あれこれあって今、オヌマはかなりハードな状況に追い込まれ、ドンキホーテ的に大活躍する。

……それにしてもIPの文庫版はカバーが素敵♪ うまいこと素敵な女の子を見つけたものだと、ほとほと感心してしまう。なんというか、このカバーガールは「個人的な」記憶(?)を「投影(映写)」しやすいタイプだ。CG等には見えないから、現実にこの世界のどこかに実在する誰かなのだろう。でも、そういうことを問題にしたくならない。「Individual Projection」を日本語に訳すと「個人的な映写(投影)」とでもなるのだと思うが、まさにバナナフィッシュにうってつけの日!……オヌマは現在、渋谷国際映画(渋谷国映)で映写技師のバイトをしている。

>(154〜5頁、八月二七日)

日記形式というところがミソで、オヌマは自分の行動を対象化してクールに記述しようとするが、勿論それは不可能だ。おまけにオヌマは「顔色が悪い」と言われつづけたせいで(?)完全にキレてしまう。従って『ニューシネマパラダイス』のごとき感動的なラストを迎えることはない。彼は「顔色の悪さ」を指摘されても反論できず日記でそれをぶちまけつづけ、編集は狂いつづける。

>(八月八日、112頁)

これが(たぶん)「顔色が悪い」の初出である。さらに「顔色の悪さ」はつづく。それにつれて事態は切迫し、カタストロフへ一直線の様相を呈する。

>(八月一六日、132頁)

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解説は「哲学研究者」の東浩紀。『グランド・フィナーレ』と併読してみると、さらにおもしろいはずだ。

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紙の本

紙の本グランド・フィナーレ

2005/02/19 03:14

LaDolceVita!!

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“Grand Finale”----そんな言葉で、Marcello (Mastroianni)は夜を徹しての享楽パーティの幕を降ろす。夜明けの砂浜に打ち上げられたグロテスクな魚の屍骸、虚空を見上げる空虚な眼差し。少女(天使)の言葉は届かない。

『アメリカの夜』というトリュフォーの映画(映画撮影現場が舞台)と同じ名をもつ小説からはじめた阿部和重は、『グランド・フィナーレ』ではフェリーニの『甘い生活(ドルチェ・ヴィータ)』の幕引き(の始まり)の台詞を小説のタイトルにもってきている、と思い込んでしまったのは、一昨日TVでやっていた『甘い生活』を堪能したからにすぎないのだろう。(思い込みが激しく、思い付きで喋る僕)

『シンセミア』がこれまでのものとはかなり違うヴィークル(vehicle)であったことは確かだ。ウェブ(的)小説。徹底的にメディア(媒介)への違和感を掘り下げまくる。屈曲の深み。ウェブといえば『電車男』ブームが気になりだしたので、はじめて2チャンネルにアクセスしていくつかのスレッドを覗いてみると、そこに、今自分が利用しているメディアに対する違和感(懐疑)をあけすけに表明する言葉が数多存在していることに驚くとともに、可能性(シンパシー)らしきものまで感じてしまい、やばいかもこの自分……そんな悩みが深まりゆく気配であった矢先だからこそ『ドルチェ・ヴィータ』&『グランド・フィナーレ』に感動したような気もする。「死んじゃだめだ(ぜ)」という魂の叫びがフル・オーケストラの圧倒的な音楽にのって、身体のなかから衝き上げてきそうだった……

「わたしは世に言うロリコンであり、今現在は露悪趣味に走って自身をあえて貶めることにより逆説的に自らを際立たせた気になって悦に入っている、古くさくて凡庸な下衆野郎」(51頁)ではないつもりだけれど、いやまったく違うのだが、この37歳のトーキョーから撤退した沢見という男が“動”き始めた時点で、蜘蛛の巣(ウェブ)にかかってしまった僕は完全に。

これは僕の体質のせいかもしれないが、阿部和重の小説が動き始めるとき、きっかけはきまって「顔色の悪さ」なのだ。『アメリカの夜』と『グランド・フィナーレ』にどこか反復的な印象(むろん悪い意味ではない)があるのは、つまり「顔色の悪さ」だ。“鏡”を通さなければ絶対に見れない(自分の)“顔”という“メディア”?

>(37頁)

『アメリカの夜』とはちがって、『グランド・フィナーレ』の沢見は「そうかな、気のせいだろ」とか「嘘つけよ。ここが暗いせいだろ」とか、執拗に反論する点が気に入ったわけだが、そもそも先ごろ宮沢章夫の『不在』を読み進めながら、どうにも『シンセミア』が重なってきて仕様がなく(文章の感じは少し『千年の愉楽』ふう)、「『シンセミア』→(『不在』(←『千年の愉楽』←『豊饒の海』))→『グランド・フィナーレ』→?」という図式が浮んでは消え、さらに阿部和重はフェリーニを宮沢章夫はシェイクスピアを“遊”んでみたのでは、と考えを進めるのは楽しく素敵だ。“不在”の観客を前にしてさえも。

*「馬小屋の乙女」というふたつめの短篇の主人公「トーマス井口」は「機関車トーマス」と「トータス松本」を思わせる。「驚いたことに、そこいら中にエロスの芳香がむんむんと漂っているみたいな東洋的風情のある、抒情的な町並みだな」とはじまる、なんだか坪内逍遥訳『ハムレット』のごとき彼の独白には笑いを堪えきれなかった……最近なんだか顔色の悪い人間としては、「電車のなかで読むなよ『馬小屋の乙女』は」とアドバイスを残して“Grand Finale”、かな。

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紙の本

紙の本不在

2005/02/16 05:14

はむれっと・げーむ

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クローディアスの策略でイギリスに送られるハムレットが旅の途中で海賊船に襲われ、彼のみが海賊たちの捕虜となり、至れり尽くせりの“歓待”をうけ、無傷でエルシノア城に戻ってくるという事態。あそこでハムレットがウルトラマンのように帰ってくるというのはどうなのか。

神戸の連続児童殺傷事件について宮沢章夫は、「『子どもっぽい犯罪を、子どもが犯した』ことにひどく驚いたのだ。『子どもっぽい犯罪』はたいてい大人が犯すことになっており、『子どもじゃないんだから、このばかが』と人は報道に触れてそう感想を口にしてカタルシスを感じる。だが、子どもが、『子どもっぽい犯罪』を犯してしまった。これはかなりまずいことになっているのではないか」と考え、『十四歳の国』(1998)を書いた。十四歳の少年少女が“不在”の教室を舞台にした戯曲である。「けっして十四歳の人物をそこに登場させてはいけない。十四歳についての大人の劇にしなければ、あの幼稚な劇を再現してしまうことになるからだ。むしろ、一度、上演されてしまった劇をあらためて表現しなおすことでようやく、あの気持ち悪さから、私自身、抜け出せるのではないか」

『不在』(2005)もまた、『ハムレット』を巡る気持ち悪さを抜け出そうとする小説なのかもしれない。“幽霊”に夢うつつの田舎青年たち、利根川を流れる若い女の屍体……彼女の元恋人である失踪青年は“復讐”を行いつづけ、秋人という名の彼はけっして観客の前に姿を現わさない。

たとえば鷲田清一は「傷としての顔、見られることへの呼びかけとしての顔、それがいま見えにくくなっている」(『顔の現象学』1995)と書いているし、ドイツの奇才ハイナー・ミュラーは『ハムレットマシーン』をこう始めたのだった。

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そして、「生きているのか、死んでいるのかわからない。その曖昧さに耐えられるか」という『サーチエンジン・システムクラッシュ』(2000)のテーゼ。

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家人の寝静まった真夜中、スピーカーから流れる洋楽を聴きながら、“夢”という名の妄想を巡らせる。「十四歳の危うさ? そうではない。自分を見たかったのだ。十四歳だった頃の自分が知りたかったのだ。そしてそこにある暗さは彼らを突き放すに十分だった。『見てはいけないものって、きっとあるんですよ』それは自分のことだ。ほんとうは誰だって、自分のことなど見たくない。だが、目を閉じたいと思いつつ、それと向かい合い、はっきり見つめることで、ようやく彼らもまた、十五歳の誕生日を迎えることができる」……そして彼らは、盗んだバイクで走り出すのだ! (間) どうだろうか、それは。

*最後にシェイクスピアのテクストからこの本に関連のありそうなフレーズを引用、しかも坪内逍遥のすてきな訳で。

「そもそも演劇(しばい)は、今も昔も、いはば造化に鏡を捧げて、正邪美醜の相容(すがたかたち)や当国(そのくに)、当世(そのよ)の有りのままを写して見する筈のものぢゃよって、度を過しては本意に外る」(ハムレット)

「死んでるか、生きてるかが分らいでか? 土のようになってしまうてをる! 鏡を貸せ、鏡を。息が少しでも此鏡を翳(くも)らすか、汚すかすりゃ、はて、きッとまだ生きとるんぢゃ!」(リヤ)

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紙の本

紙の本劇的言語 増補版

2005/01/30 07:55

演劇という仕掛け(1976→1998)。

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『劇的言語(増補版)』は鈴木忠志と中村雄二郎(哲学者)の対談集である。そこには早稲田小劇場解散の年=1976年(で、鈴木さんは富山の山奥にある利賀山房を本拠として後に世界的に有名になる劇団SCOTを立ち上げる。その成果については『演出家の発想 批評空間叢書3』という本に詳しい。)の対談に加えて、1998年の対談が収録されている。いわば日本の現代演劇が形作られてきた二十年余りの歳月がまるごとサンドイッチされているわけで、とにかくスケールの大きい一冊なのだ。

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1976年の対談で鈴木さんは「(演劇の)現場性」(=その場に「概念」を立ち上げるだけの力がある)という言葉を連発して、中村さんに「おいおい」と言われたりするのだが、思うにその「おれは現場で生きてるんだ」という意識が彼の言葉に“強烈”な射程を与えているのだ。もちろん彼はその現場性をナイーヴに信じているわけではない。「>なるものを疑うということは、>を疑うことであり、それを>表現を企てる以外にないということになる」(太田省吾『劇への希望』)のであり、演劇の現場では「演劇(ドラマ)」を疑うことなしに生きる=表現することなど不可能なのだから。(そして1998年の対談では、鈴木さんの“自信”も若干トーンダウンしているように思う。その温度差もこの本の醍醐味の一つである。)

ここで「演劇という仕掛け」の核心に触れた、ふたつの言葉を思い出す。

「上手い役者さんは、相手が喋っている間、相手のセリフを聞いています。聞いて、自然に浮んだ感情を、セリフに託すのです。何ヵ月も前から知っていて、しかし、今思いついたように感じるセリフに。この“何ヵ月も前”と“今”のせめぎ合いを楽しめば楽しむほど、スリリングに“練習”と“今の感情”の綱渡りをこなせばこなすほど、その人は名優となるのです」(鴻上尚史『名セリフ!』)

「表現という行為では能動が積極であるとは思えないのである。>では積極的受動と消極的能動という語法で対比しなければならないように思えるのである」(太田省吾『劇の希望』)

太田省吾のいう「積極的受動と消極的能動」の対比、鴻上尚史のいう「“今の感情”と“練習”のせめぎあい」を、鈴木忠志はこんなふうに表現する。

>(鈴木忠志『演劇とは何か』1988)

「会話をするということではなく、喋るということがそのまま何事かであり、意味をもつようなときにドラマがある」という言葉は、今なお力強い。

言うまでもなくそれは、「喋るということがそのまま何事かになるように意味をもたせることでドラマにしちまえ!」ということとはまったく違うのである。

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紙の本

芯のある、やわらかさ。

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 Japanese Fashion Model Hana Presents「英語を学ぶエッセー集」。とても肩の力が抜けていて、エッセー集としての完成度も高い。いっけん若い女の子向けのつくりだけれど、性別・年齢に関係なくおすすめの一冊である。
 たとえば、「I have a very bad sense of direction(私は方向音痴です)」というタイトルの一篇はこんなふうに始まる。

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 この人についていくのはちょっと危険なのでは? と思う。おまけに子どもの頃から英語と日本語のちゃんぽんで生活してきたはなさんの日本語は(本人も書いているように)少々あやしげな感じなのだ。大丈夫なのか? でも読み進むうちに、そのふわふわした感じが、英語嫌いな自分が英語にかんして抱いている不安や迷いと絶妙なハーモニーを奏でていることに気づく。
 はなさんはあまり美人とはいえないと思うけれど、僕は気がつくと「新日曜美術館」にチャンネルを合わせてしまっていて、それというのも、はなさんと共演者のひとたちやそこで扱われる画家や展覧会との距離感がとても心地よいからなのだ。こういう人のことをキュートというのだろうな、と思う。I think she's cute.
 さいきんはやりのものというのは、どこかギスギスしたところがある。他の商品との差異化(いまどき“差異化”も何もないように思うのだけれど…)をはかるために、ときには巧妙に親切心というオブラートにくるみながら、結局あれもこれもと詰め込みすぎたりするものだから、異質なものがごつごつぶつかって、ときに悲鳴が聞こえてきそうなものさえある。英語の本にしたって、なんでもかんでもCDを付ければいいってものではないだろう、おい。そんなふうに感じる人には、この本がぴったりくると思う。

What are your reasons for learning English?

 はなさんは「この本を書いていくうちに“自分らしい英語”を話す大切さを改めて感じていきました」と書いていて、それだけならごくあたり前の意見にすぎないみたいだけれど、その言葉にとても説得力がある。たぶん、そこに彼女のモデルとしての経験から育まれてきた感性があるからなのだと思う。

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 ぜんたいにとぼけた感じのエッセーが並ぶなかでここだけはかなり真面目な感じで、どきりとさせられたのだけれど、「洋服は、人が身につけることによって初めてLifeが与えられます」という文章がいかにも彼女らしい。やわらかいんだけど芯の強さを感じる。「The style is the man himself(文は人なり)」である。

“How much time have we got?”
“Oh, plenty...take your time.”
“But we'll miss the bus!”
“Then we'll take the next one!”

「自分なりに」っていうのは、実はとても難しいことだと思うのだけれど、それをさらりとやってのけるはなさんはとても格好よい。この本は、そんな彼女の力を分けてもらえる一冊でもある。

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紙の本

紙の本カフカズ・ディック

2005/01/19 16:52

ケラリーノ・サンドロヴィッチとユースケ・サンタマリアの区別がつかなかったことを思い出す。

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>(横田創「出来事としての演劇論」より)

カフカ的な真剣さ。今をときめく(という言葉は不似合いな)ケラさんの戯曲を手に取ると、大人気劇団ナイロン100℃の主宰者でもある彼もまた、とても真剣である。ノイローゼ状態。これなしでは生きられないという切実さを全身で受け止めて、それでもかるぅく楽しもうとしている素敵さ。楽しませようとしているという言葉がなんだか傲慢なことのように思えてしまうような場所が確かにあって、とても清々しい。それがケラさんの世界の空気感。

思い出す「なにか」は決って「自分」である。鼻持ちならない。ただ、「鼻持ちならない」という台詞を口にする“権利”があるのは、この場合あくまで「自分」以外の誰でもない。もしも世の中が「いじめっ子」と「いじめられっ子」でできているとすれば、この場合他人に対して「鼻持ちならない」という言葉を発するのは決って「いじめっ子」であるのだから。

「いじめられっ子」というのは、できることならば、そんな「自分」は無しにしてしまいたいと思っている。でも、どうすればいいというのだろう。肩の力を抜いたり、「自分」を棚に上げてみたりすること、そういうことが他人をどれだけ傷つける可能性をもっているか、「いじめっ子」は知らないようなのだ。だから、運悪く「自分」をどうするかということに真剣に苦悩するときがやってきたら、「いじめられっ子」の意見を聞いてみよう。彼らはそのことを、骨がらみで考えつづけているのだから。

>(横田創)

「死んだらすべての原稿を燃やしてくれ」と言ったフランツ・カフカと、彼を励ますマックス・ブロート、そしてカフカの(所有の「の」ではありません)女たち……要するに、ケラさんの戯曲には「いじめっ子」が存在しないということだ。シリアスな匂いのするコメディというようなスタイルで、カフカの世界が描かれる。そこでは、フランツ・カフカとケラリーノ・ザンドロヴィッチはよく似ている。

たとえばケラさんは『すべての犬は天国へ行く』のあとがきに書いている。「僕は自分に嘘をつく芝居だけは絶対に作りません。だって、作れないから」(きっとカフカもそうだった、と僕は断言します)……そんなケラさんが描き出す、おもしろかなしく、やっぱりおもろいカフカの世界。カフカなんて知らない人も、カフカ大好きな人も、読んでみたらどう。時代はいまや戯曲だし、戯曲を読み慣れていない人にとっては、ケラさんの戯曲はうってつけ。とろける感があるから。しかもこれ、カフカで・す・か・ら。

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紙の本

紙の本魚の祭 新装版

2005/01/18 04:42

僕にとっての宮沢章夫と柳美里。

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 宮沢章夫・作「ヒネミ」と同時に岸田戯曲賞(第三十七回、1993年)を受賞したのが柳美里さんの「魚の祭」。むかし、このふたつの戯曲が一冊にまとめられて、白水社から出ていた……。

 1990年代のはじめというのは旧ソ連の崩壊とバブル崩壊につづく時代、そんななかで「喪失感」のようなものが日々さまざまな場所で語られていて、そんな時代を代表する芝居が1993年の岸田國士戯曲賞をとった二作品である、と総括してもよいと思う。
 「喪失感」というのはとてもポピュラーな感情だから(たとえば『ノルウェイの森』に至る村上春樹の初期の小説があれほどのポピュラリティを獲得していることからも窺えるように)、戯曲というものを読みなれていない人にとっても、「喪失感」を入口にして読むことが可能な二作品がセットになったあの本はオススメである(今は絶版なのだろうか)。
 そもそも「喪失感」を語るとき、人間の肉声で語られることを前提にした「台詞」からなる戯曲という表現手段は、その「今ここに無い」感じを掬い取ることにとても適している。その線上に今、宮沢さんは「不在」というものを見出しているのかもしれない。(彼は今、ネット上に「不在日記」という日記を公開している。最近までは「富士日記」という武田百合子さんの本と同じタイトルだったのだけれど、そこらへんの経緯をあれこれ考えてみるのも面白い。)
 で、この二作品のカップリングがとても絶妙なのは、「失われたもの」についていかに語るかという点で、宮沢さんと柳さんがきわめて対照的な手法をとっていることにある。
 柳さんは「失われたもの」にとてもこだわっていて、ときにそのことが暑苦しく思えることもあるけれど、そのこだわりが柳さんのあたたかさでもある。「魚の祭」には、つっぱらかっていながらもどこか自信なさげな少女っぽさが覗いていて、彼女特有のあたたかさの質がとてもよく出ているように思う。
 いっぽうの宮沢さんは「失われたもの」について語っているかに見えて、じつはそうでもないような節がある。彼が「遊園地再生事業団」という演劇ユニットを率いながら、じつは「遊園地」を「再生」しようとはしていないように見えるのと同じように、彼にとっては自分が何を失ったかなどということはどうでもいいのではないかと思えてくる。

「そんなにこだわらなくてもいいじゃない」という声が聞こえてくる。
「でも、こだわっちゃうの、こだわらずにはいられないの」という声が聞こえてくる。
 宮沢章夫と柳美里、僕のなかでは、ふしぎに相性のいいふたりなんです。なんだか、言訳くさいですが、当時芝居を始めたばかりだった僕にとって、このふたりはとても大切な演劇人なのです……(多謝)

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紙の本

紙の本牛への道

2005/01/18 02:45

「原っぱ」で抱腹絶倒必至のエッセイ集を読みながら、小説修業の厳しさを知る。

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かつて竹中直人やいとうせいこうや中村有志とともにラジカル・ガジベリビンバ・システムという伝説的な演劇ユニットを組んでいた宮沢章夫は1992年、のひょひょんとした彼には少し不似合いにも思える『ヒネミ』という芝居から遊園地再生事業団の活動を本格化させた。かつて自分が住んでいたらしく今はもうない「日根水(ひねみ)」という町の地図を作らなきゃいけないような気がするのだが……みたいなお話。欠落をめぐる物語、とか定義するとすでに何かが違うのは確かだ。当時の劇評のなかにあった言葉か、それとも宮沢章夫自身が言ったか書いたかしていた言葉か、いずれにせよ「水族館」のなかの静かな感じが漂っていて、僕たちの坐っている客席はまるで水底(みなぞこ)の町ヒネミそのものと化していた。とうとつに上から石がいくつも落ちてきたとき、白々と「ぼこ、ごろろ、ごつ、ごろろろ」と静寂のなかにひびく鈍いはずの音が、不思議に澄んでいることに感動を覚えた記憶がある。当時、平田オリザ率いる青年団と宮沢章夫の遊園地再生事業団が「静かな演劇」の代表格で、野田秀樹の夢の遊眠社や鴻上尚史の第三舞台の時代からチェーホフばりの「静かな演劇」へと向かいつつあるというのが日本の現代演劇の趨勢として語られていた。平田オリザに比べて、宮沢章夫というひとは「ことば」ではないものに向かっているような感じがあって、それが「遊園地再生」ということにつながるように思う。その遊園地というのは、ディズニーランド的なものではなくて、浅草の花やしき的なものでもなくて、僕が個人的に思い浮かべたのは冬の夕焼け空の下、当時横浜ランドマークタワーの近くにぼつんと存在した(今もか?)大観覧車のようなものだった。きっちりと演出された遊び場(遊ばされ場)ではなく、あからさまな「昔」でもなく、『原っぱと遊園地』(青木淳)のことばを借りようか……

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あるいはもっと端的に「すべての建築は道から進化した」という青木淳の仮説に沿って、「不可解な気持ち悪さ」を少しでもはっきりさせようと書き連ねられた『牛への道』というエッセイ集は、その後宮沢章夫が書いた小説という構築物への道、その傍目にはおもしろおかしい“修行”の道のりを描いたものである。

>(金杉忠男『グッバイ原っぱ』)

それとも金杉忠男が「原っぱ」が演劇的に不可能になったことを宣言した頃、宮沢章夫は「遊園地再生事業団」を立ち上げた、というまとめ方。公演ごとに無名の役者とともに一本の芝居を作り上げてゆく遊園地再生事業団が「そこで行われることでその中身がつくられていく」「原っぱ」(青木淳)を見る者のなかにひととき存在させる力をもっているように、『牛への道』をはじめとする宮沢章夫のエッセイは、どんな「遊園地」が「再生」されるのだろうかという期待をはぐらかすようにして、いつの間にかたしかに「原っぱ」と呼びたくなるような場所での抱腹絶倒へと僕たちを連れ込んでくれている。

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紙の本

紙の本愚か者死すべし

2005/01/13 04:11

青い鳥に乗った“hard-boiled”な男が帰ってきました。

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この歳になってフランク・ザッパを初めて聴きながら思うのは、世の中にはとても素敵に楽しいものがたくさんあって、自分はそんなものたちのほんの一部しか知ることもできずに死んでいくのだ、だからできるだけたくさんの素敵に楽しいものに触れて、できればそんな体験から育まれてきたものを分かち合っていければ、ということである。

僕はチャンドラーの『長いお別れ』を二十歳の頃初めて読んで、どこが名作なんだろう、と首を捻ったような男である。きわめて信用ならない。センスが欠如している。十年ほどの間に二回、三回と読んでみて、そのあいだにHARA RYOの本を読んでみたりして、やっと『長いお別れ』のすごさがおぼろげにわかってきたような気がしているところなのであるが、『愚か者死すべし』を読み終えた今、また『長いお別れ』を読んでみよう近いうちに、と思っている。四度目の『長いお別れ』はどうだろう。……僕にも「愚か者、死すべし」という声が聞こえてきたので、個人的なことはこれぐらいにして。

ハードボイルドものに触れることの楽しみの一つは、“リアルな名台詞”に触れることの喜びにあると思う。そこから、あれこれと連想が拡がってゆく。頭と心がとても活発に働き始める。たとえば、いまどき「君の瞳に乾杯」(名画『カサブランカ』でボギーが言った台詞ですが……)なんて言葉はリアルではない。たぶんギャグにすらなれない。哀しいことだけれど。As Time Goes By

『愚か者死すべし』には、引きこもり青年、恋(愛)に悩む人たち、素敵な女性たち、あやしげな政治屋、やくざの世界、警察の腐敗、プリペイド携帯を使った犯罪やらが描かれている。愛車ブルーバードを駆る沢崎の眼を通して“今”がハードボイルドに、“言葉”にされていくことに快感を覚える。その感じは、むかしリドリー・スコットの『ブラック・レイン』を見たとき、日本の街が『ブレード・ランナー』のように映っていることに感動したりしたことに少し似ている。(『ブラック・レイン』では、癌に蝕まれた松田優作が命懸けの芝居を見せている。)

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魯迅がおんなじようなことをどこかに書いていて、僕はそれを『ことばが劈かれるとき』(竹内敏晴、ちくま文庫)という本で知ったことを思い出す。「絶望の虚妄なること、希望と相同じい」。ふたつの言葉は、微妙に絶妙なハーモニーを奏でて、僕のどこかにひっそりと蓄えられる。

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これは作家HARA RYOの決意表明でもあるのではないかな、芝居で言うところの「第四の壁(=客席)」というヤツなのではないかな。見ることと、見られること。今の人たちは「見る」ことには慣れているようだけれど、「見られる」ことには慣れていない、などと考える……と書いてきて、自分が誰かの“名台詞に触れる楽しみ”を奪ってしまおうとしている愚か者に思えてきたので、最後にひとつだけ、ハードボイルドの真髄をあらわしている(と僕が思う)さりげない会話を……

「ぼくはそれをあなたに、自分の口からはもらしていませんよね?」
「そうだったな」

強くてやさしい、素敵な小説です。

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紙の本

紙の本俳優修業 新装 第1部

2004/12/30 23:55

稽古不足を幕は待たない♪(from夢芝居)

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 『桜の園・三人姉妹』の解説に、作者チェーホフと演出家スタニスラフスキーの芝居に関する考え方の“相違”を示す有名な逸話が紹介されている。

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 逸話(ゴシップ)というものは誇張して描かれるのが常だから、このチェーホフとスタニスラフスキーの図式的な対立を鵜呑みにしてはいけない(上の逸話では、スタニスラフスキーの旗色が悪すぎる)。
 また、演劇的なもの(ドラマ)は二者の対立・葛藤を起点にして作り上げられていくことが多いから、その生成過程において、半ば“確信犯的に”対立・葛藤を作り出すという手法が採用されることが少なくない。
 ここで大切なのは、その対立・葛藤が“作られた”ものにすぎないこと(つまり“壊される”ものでもある)、そしてそこを起点にしなければ“芝居”を作り出すことができないことの“罪深さ”を忘れないことである。だからこそ芝居は、見る者の、演じる者の、作る者の心を捉えるのだ。

 『俳優修業』は“モスクワ芸術座でチェーホフの芝居を演出していた”スタニスラフスキーによって書かれた本である。(だからチェーホフの戯曲と併せて読むと味わいが深まる。)
 そこには「スタニスラフスキー・システム」というシステマティックな役者養成法が書かれており、その方法論はアクターズ・スタジオのリー・ストラスバーグらによって「メソッド」というより洗練された手法に纏め上げられ、現在では演劇界・映画界にかぎらず、教育をはじめさまざまな分野に応用可能な優れた手法として幅広く浸透している。

>(第一章 最初のテスト)

 台本に引きずられる機械のような演技ではなく、既成のスタイルを真似た紋切り型でもなく、自己顕示欲丸出しのやりすぎでもなく、台本に書かれた“役”の人物と役者“自身”をいかにすりあわせて、ひとりの“人間”として作り出すか……スタニスラフスキーはその気の遠くなるような道程を、演出家トルツォフのもとで学ぶ俳優志望の青年コスチャの手記というスタイルで生き生きと描き出している。
 『俳優修業』という本の(万人向けの)面白さは、ここにある。つまり簡潔なマニュアル本とか、あまりに実践的すぎるワークブックとか、深遠(ではあるが難しげ)な演劇思想を語った本ではなく、「コスチャという一人の青年が一人前の役者になる」という成長物語として楽しめるのである。

>(第十六章 潜在意識閾)

 チェーホフの“静かな”演劇を評して、よく「事件は会議室で起ってるんじゃない。現場で起ってるんだ!」……もとい、“事件が起るのは舞台の外”であると言われる。そういう意味では、この『俳優修業』は、ひとつの“事件”であるのかもしれない。

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紙の本

紙の本文章読本 改版

2004/12/29 01:49

この“僕”の文章は、“悪い例”です。

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(噺の枕)
 最近ひょんな偶然から「プレイヤーズ王国」というホームページを見つけた。そのページには音楽ファイルが山と置かれていて、アマチュア音楽家たちの“熱い”演奏を聴くことができる。自分の好きな曲を探し出して、「さて、どんなもんかな」と期待して待つ。「お、なかなか渋いイントロやんか」と期待が高まる。やがて、歌が始まる……(一瞬の“ま”)……「なんじゃこりゃぁ!」(松田優作ふう)と唸ることも少なくない。
 自分の好きな歌が自己満足的に歌われているのを聴くと、「うぇ〜」と思う。で、ふと我に返る。ジャンルこそ違え、「BK1」に素人書評を書いている自分も同じじゃないか。
 「う〜ん、愛おしい」、と“現金”な僕は考え直す。この人なりにこの曲を愛してるんだ……どう考えても“技術”が足りないとしか思えないこともあるけれど(ぼくもだ♪)……など、つらつら考えている今日この頃である。(赤面)

(本題)
 “技術”的なことを学ぶために、と谷崎潤一郎先生の『文章讀本』を読んでみた。
 この本のすごさは、昭和九年に書かれたものなのにまったく古びていないところだ。しかもポイントになる部分が「太字」になっていて一目瞭然、分かりやすい。この本自体が素晴らしい(=分かりやすい)文章の「実例」なのである。
 この本には谷崎流の艶っぽい話の書き方が書いてあるわけではなく、そもそも小説の書き方の本でさえなくて、要するに「人に伝わる文章を書くためにはどうするか」ということが懇切丁寧に書かれている。(かつて人づてに「宇多田ヒカルがこの本を愛読書として挙げている」と聞いて驚いたけれど、いま自ら読んでみて「むべなるかな」と思う。)
 「文章に実用的と藝術的との区別はない」と断言する谷崎潤一郎は、「文章のコツ」の第一条として「言葉や文字で表現出来ることと出来ないことの限界を知り、その限界内に止まること」を挙げ、「口語体の大いなる缺点は、表現法の自由に釣られて長たらしくなり、放漫に陥り易いこと」であり、「(シンプルな)古典文の精神に復れ」と書いている。(耳が痛い、ものすごく。)
 個人的な話で恐縮だが、最近、岡部伊都子、円地文子、三島由紀夫など“古典”の素養が豊かな人たちの本を読むことが多い。そして、かつては“古典”嫌いだった自分がその文章の美しさにとても魅かれていることに驚いている。
 谷崎潤一郎は本書で繰り返し強調している。

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 ここで「なにをあたり前のことを」と馬鹿にしてはいけない。「言語」のプロが発する言葉として謹聴すべきである。ここで、たとえば「言語」という言葉を「人間」と置き換えて考えてみたらどうだろう。岡部伊都子はこんなことを書いている。

>(岡部伊都子『美を求める心』)

「言語」が“切る”ものであるように、「人間」もまた“切る”ものである。だからこそ、“つながり”を求める心、行動が大切なのだ。そのための心得、技術的アドヴァイスに満ち充ちた一冊、それが谷崎潤一郎の『文章讀本』である。

(最後の戯言)
「プレイヤーズ王国」で、僕の一押しは「umine」(うみね、海音)さん。スゴク上手いし、何より聴くと元気になります。谷崎センセーも「ブラボー」と叫ぶかも。なんといっても、そもそも僕が『文章読本』を読もうと思ったのはumineさんの歌声に刺激されたからだったりして……感謝の意味を込めて。

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紙の本

紙の本檸檬・冬の日 他九篇 改版

2004/12/26 05:18

愛のために。

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そうやないのか? ざんこくやろ、それ。

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(ちなみに「抓って」は「つねって」と読む)

よけいな茶々が入ったが、1930年に書かれた「愛撫」という短篇の書き出しである。猫好きにはこたえられないのではあるまいか。この人は“愛”というものを知っている。そうは思わないだろうか。恋はすれども(たぶん)女を知らなかった彼だけれど。

猫嫌いの人に向けていえば、このごつい男は、“びいどろ”のおはじきを嘗めるのが好きだったりもする(「檸檬」)。昨今の世相を鑑みるに、こんな紹介の仕方では、「梶井基次郎ってかなりアブナイ(キモイ!)奴だったんじゃないか」と切り捨てられてしまいそうだけれど、この茶目っ気というか稚気が梶井基次郎の大きな魅力のひとつである。だから、読んでみたら、きっと大らかな気持ちで世界を見れるようになると思う。
(ちなみに「愛撫」という短篇は、新潮文庫版の『檸檬』とちくま文庫の『梶井基次郎全集』で読むことができる。残念ながら岩波文庫版の『檸檬・冬の日』には入っていない。)

梶井基次郎の作品は、とにかく書き出しが見事である。「見事」なんて言葉では足りない。それほど多くの小説を読んでいるわけではない僕が言うのもなんだけれど、世界中を探しても、これほど鮮やかな書き出しをもつ作品を書く人はいないのではないかと思う。個人的なベスト3は「愛撫」「冬の蝿」「闇の絵巻」。

たとえば「メロスは激怒した」に代表されるような太宰治の書き出しも上手いと思うけれど、彼の場合は笑わせようという魂胆(道化師ぶり)が見え透いてしまうことも少なくない(そんな部分も含めて中毒になってしまうのだが……)。

梶井基次郎の場合は、太宰治とは非常に対照的である。彼はいつも一つのものを凝っと見つめていて、五感のすべてを使って対象を味わいつくそうとしている。そして、その透徹ぶりから生じるふわりとした可笑しみが、すぅっと心に染み透ってくる。(そこに美しさがある。)そして読み進むにつれて、梶井基次郎という人は完全に姿を消してしまう。いつの間にか、読んでいる「私」も消えている。そんな印象がある。

「檸檬」の書き出しは、雰囲気だけみると、かなり暗い。なにせ「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた」である。でも、暗く感じない。たとえば「得体の知れない」としないで、あえて「えたいの知れない」と書いていること。あるいはそのすぐあとに、「これはちょっといけなかった」なんて軽口を挟んでいること。次の頁まで読み進むと、唐突に「察しはつくだろうが私にはまるで金がなかった」なんて虚を突くようなフレーズが飛び込んでくる。ここらへんで、もう虜になっている。

「檸檬」がどうにも好きになれない人は、まずは「冬の蝿」あたりを読んでみてはどうだろう。書き出しはこう。

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唐突だが、もし奥田民生(おくだ・たみお)が小説を書いたとしたら、なんだか梶井基次郎ふうのものが出来上がってくるような気がするのだけれど、どうだろう。

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