サイト内検索

詳細検索

ヘルプ

セーフサーチについて

性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示を調整できる機能です。
ご利用当初は「セーフサーチ」が「ON」に設定されており、性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示が制限されています。
全ての作品を表示するためには「OFF」にしてご覧ください。
※セーフサーチを「OFF」にすると、アダルト認証ページで「はい」を選択した状態になります。
※セーフサーチを「OFF」から「ON」に戻すと、次ページの表示もしくはページ更新後に認証が入ります。

新規会員70%OFFクーポン

ローマ人の物語[電子版] みんなのレビュー

  • 塩野七生
予約購入について
  • 「予約購入する」をクリックすると予約が完了します。
  • ご予約いただいた商品は発売日にダウンロード可能となります。
  • ご購入金額は、発売日にお客様のクレジットカードにご請求されます。
  • 商品の発売日は変更となる可能性がございますので、予めご了承ください。

みんなのレビュー67件

みんなの評価4.5

評価内訳

76 件中 16 件~ 30 件を表示

塩野七生がやった。

4人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:どぎい - この投稿者のレビュー一覧を見る

 子どものころから歴史物が好きで吉川英治や司馬遼太郎を読みふけった。中学・高校のころ,世界史は好きではなかったけど,“シーザー”や“ハンニバル”という英雄がいたことは知った。でも日本にはこんな美味しそうな素材を扱う作家もほとんどいないこともわかった。
 悲しかった。ずっと待っていた。

 ……塩野七生がやった。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

塩野の冷静さに思わず頭がさがる。それにしても思うのだ、もしコンスタンティヌスがキリスト教を認めていなかったら、いまごろ世界はどうなっていたのか、と

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る

巻頭に、この巻の扱う時代を簡単に説明した1頁の「読者に」があって、以下、第一部「ディオクレティアヌスの時代」(紀元284年〜305年)、第二部「コンスタンティヌスの時代」(紀元306年〜337年)、第三部「コンスタンティヌスとキリスト教」と続き、それに年表、参考文献、図版出典一覧という構成。

このシリーズを読み始めて10年以上にもなるので、正直、年代的なことを殆ど忘れている。そんな私に配慮してくれたのか「読者に」では、

「紀元前八世紀からはじまって紀元後五世紀に終わるのがローマ史だとする史観に立つならば、ローマの全史は次のような進み方をしたと言えるだろう。
 王政→共和制→初期・中期帝政(元首政)→後期帝政(絶対君主政)→末期
 この巻でとりあげるのは、歴史上では「帝政後期」の名称で定着している、絶対君主政体に移行した時期のローマ帝国である。
 なぜ、絶対君主政に移行したのか。
 その実態は、どのようなものであったのか。
 そのどこが元首政とはちがうのか。
 そしてそれは、どのような結果につながっていくのか。」

その鍵を握る人物が、第一部で取り上げられるディオクレティアヌス。たしかに、名前は覚えている。しかし、この人は何をやって有名だったのだろう、なにか大きな戦争で劇的な勝利を挙げたとか、あるいは凄い建築物を造ったとか、文化的に寄与したとか、はたまた悲劇のヒーローだったとか。

そう、どれも違う。塩野の「読者に」では、最初からこのディオクレティアヌスが絶対君主政への道をこじ開けたかのような印象だけれど、本文を読めば、まず彼が手をつけたのは、ローマ全土を二人の手で統治する「二頭政」であり、それをさらに「四頭政」にまで拡大していく。

しかし、この巻で印象的なのは組織の肥大化と、それを機能させるための官僚機構、それがもつ非効率への言及である。帝国が大きくなる。ピラミッド型の組織を作る。それを分割する。分割されたピラミッドは、各々が重複する部分を持つ。必然的に官僚の数が増える。そして増税である。税を納める人間より、税で食べる人間が増える。おいおい、これって今の日本だろ。

勿論、塩野のことだ、それを十分に意識している。組織が完成度を高めることは、必ずしも国民の幸せを意味しない。その例がディオクレティアヌスの時代だとすれば、巨大化した国家を延命させるために無駄な努力をする、そのために宗教を利用するというのがコンスタンティヌスの時代だ。

そして重税にあえぐローマ人は、税が免除される官僚になるか、同じく税金を払わなくていいキリスト教のどちらかになろうとする。それがさらなる国家の肥大化と、キリスト教の興隆をもたらす。そして、現在にいたるも止むことのない宗教を旗印にした戦火の発端もここに始まる。

それらを、塩野のこの本ほどに分かりやすく、説得力をもって解き明かした例を私は知らない。見事、である。無論、塩野はキリスト教の問題に深くは踏込もうとはしない。むしろ、その距離感が、たとえば紀元325年に開かれたニケーア公会議での三位一体説採択のもつ意味を、明らかにする。

それにしてもだコンスタンティヌスの死の直前の洗礼を巡って、吉田茂の例をだしながら「だがこうなると、処女作以来一貫して非宗教的な視点に立って歴史を書いてきた私にも、キリスト教的に救済されるには、死の直前に洗礼を受けるという道がまだ残されていることになる。」とは見事の一語につきる。この冷静さなくして、歴史を語る資格はない。「国民のため」などという大げさな謳い文句をつけ、血が頭に上ったような歴史書のレベルの低さと塩野のそれとの差は、決して埋まることはない。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本ローマ人の物語 3 勝者の混迷

2024/01/07 17:55

この時代を乗り切ったからこそ

1人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:Koukun - この投稿者のレビュー一覧を見る

前巻の「ハンニバル戦記」で不屈の闘志を見せたローマ共和国が、内訌 内乱 困難に苦しむ時代を描いている。世界史上の多くの国は、この段階で崩壊してしまっている。しかしローマはなんとかこの困難な時代を乗り切っている。その理由は色々あるだろうが、私にはローマ人が宗教的熱狂と無関係であった という点を挙げたいと思う。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

情けない終末

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:Koukun - この投稿者のレビュー一覧を見る

大帝国の最期はなんとも情けない終末ぶりである。中国における「周王朝」の最期にも少し似ているかな。前前巻あたりからローマ帝国がローマでなくなり、登場する皇帝たちやその部下たちも大半が情けない人物ばかり。事実であろうから仕方がないが、読んでいてがっかりする思いの連続である。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

ローマがローマでなくなる

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:Koukun - この投稿者のレビュー一覧を見る

ローマ帝国という「形」を保とうとする最後の努力が、ディオクレティアヌスとコンスタンティヌスの二人の皇帝にってなされ、ついに「ローマがローマでなくなる」という ローマ的な主体も精神も変質してしまう改革がなされてしまう という巻である。自分たちの「第一人者」としての皇帝を、至高の存在「神」から任命されたもの としなければローマ帝国という「形」は保ち得なかったのか 深く考えさせられる。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

第2代皇帝

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:Koukun - この投稿者のレビュー一覧を見る

文字通り1000年帝国となった古代ローマ帝国の長命な理由を考えたとき、カエサル アウグストゥスだけでは不足で、第2代皇帝ティベリウスを加えて初めて盤石の体制になった と作者塩野七生は主張している。一般的には「暴君」と言われていた第2代皇帝ティベリウスであるが、盤石にするためにはもうひとり必要だった と言われるとそれももっともだろうと思わされる説得力がある。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

魅力的でない世界帝国の創業者

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:Koukun - この投稿者のレビュー一覧を見る

比類なき世界帝国であった古代ローマ帝国の創業者オクタビアヌス アウグストゥスの一代記である。前巻のユリウス・カエサルと比べていかにも地味で表面的な魅力に乏しい人物の成果、作者塩野七生の筆もずいぶんと抑えられた感じになっている。しかし、振り返ってみると創業者 初代皇帝と言うにふさわしい凄まじいまでの業績を残している。業績や言動ははっきりと残っているが、今ひとつ謎の人物である。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

有名人ぞろぞろ

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:Koukun - この投稿者のレビュー一覧を見る

主人公カエサルを始め、ポンペイウス アントニウス クレオパトラ そして後継者オクタビアヌスと有名人がぞろぞろ出てくるこの巻である。主人公カエサルを持ち上げるあまり、キケロやポンペイウス等の敵対する人物をあまりにも卑小に描いているが、当時の人の視点から見てもそうだったんだろうか?

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

ローマ繁栄は

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:エムチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る

ローマが、かつて、なにゆえにあの繁栄を得たのか……それは常勝将軍のハンニバル率いるカルタゴをやぶったからに他ならない。しかし……なぜ、ハンニバルはローマに敗れたのか…この本で、…よくわかります。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

ローマ帝国の変質と対照的な二人の皇帝

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:苦楽 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 相次ぐ異民族の襲撃と治安の悪化という目に見える現象の下、ローマ帝国は衰退の道を歩みつつあったが、それを食い止めようとした二人の皇帝がいた。ディオクレティアヌスとコンスタンティヌスである。
  ディオクレティアヌスは当初は二頭、ついで四頭と分割統治によって帝国の防衛線を再構築し、皇帝の権威を高めるために既存の宗教を優遇、キリスト教を弾圧することになる。
 対照的に、コンスタンティヌスは分割統治体制を崩壊させ、自らが唯一の独裁君主となることで帝国の再構築を行い、さらにはミラノ勅令でキリスト教を公認、ニケーアの公会議で教義を統一し安定化させ、自らの統治に役立てようとする。どちらも手法は異なれども、創成の頃の皇帝達と比肩できる久しぶりの実力派の皇帝である。
 しかし、これらの努力が、守ろうとしたローマ帝国を変質させ、結果として衰退が続いたというのが何とも皮肉な結果であろう。異民族をも同化させ、そして同化されることに魅力を感じたローマ帝国ではなくなったということをつくづく実感できるのがこの巻である。重い税負担、継ぎ接ぎや放置されたインフラ、そして第一人者から君主へと変貌した皇帝、そして、宗教的寛容さの消失。
 住民にとって、異民族にとって、そして日本の読者にとっても魅力的であったローマ帝国が変質したということを読むにつれて理解できる。
 そして、もう一つ本書を読んで痛感したのが、ディオクレティアヌスの人生の痛ましさである。分割統治によって帝国の防衛を安定させ、東西の正副帝の設置によってそれを制度化し、キリスト教を否定することで従来の宗教を背景にした皇帝の権威を高めようとし、そして存命のうちに皇帝の地位を譲ることで自らのシステムの継続を確認しようとした、その全てが否定されるのを人生の末期において目の当たりにすることになる。
 ビジョンも、意欲も、実務能力もあったが、ただその理想故に自らの仕事の成果が全て否定されるのを己が目で見るというのが、どんなものであるのか、私には見当も付かない。
 キリスト教の公認によって、ローマ帝国を決定的に変質させるレールを引き、はるか中世や現代に繋がるレールを敷いたコンスタンティヌスより、私はディオクレティアヌスの方が印象に残った。
 ローマ帝国存続のための努力と、それによる帝国の変質、やがて訪れる破滅と中世の到来を予感させて本書は幕を閉じる。
 歴史上に屹立する二人の皇帝の業績の光と影を描いた本書は、「こうまでして」と作中に引用された歴史家の言葉を自分でも呟きながら、ローマをローマたらしめていたもの、ローマとはなんだったのか、それを深く考えさせてくれる一冊である。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

多様性が失われていく斜陽のローマを描く

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:アラン - この投稿者のレビュー一覧を見る

 本シリーズも本巻を含め、いよいよ2巻を残すのみとなった。誠に寂しい限りである。本巻は、大帝と呼ばれたコンスタンティヌスの死直後から、これまた大帝と呼ばれたテオドシウスが死し、帝国が東西に分裂するまでを描いている。題名のとおり、キリスト教が帝国のヘゲモニーを握り、ローマ発展を支えていた寛容の精神が失われていく様が描かれている。本巻では、“背教者”ユリアヌスが歴史の流れ(?)に抗してギリシア・ローマ古来の神への信仰を復活させようとしたのを除けば、一貫して他の皇帝たちはキリスト教を保護・優遇し、テオドシウス帝の治世でついにキリスト教がローマ帝国の国教となるに至った。
 著者はキリスト教を大変嫌っているようである。あるいは多様性を愛し排他性を嫌っていると言った方が正確かもしれない。正直言って本巻の最初の1/3は、文章に力がこもっておらず、著者も手を抜いているかと思ったが、ユリアヌス帝の章になると、文章がとても活き活きしてきて、引き込まれていった。キリスト教中興の祖とでも言える司教アンブロシウスの章についても、ローマのよさが失われていくことが鮮やかに描かれているという点で、これまた文章に引き込まれていく。そして最終巻で蛮族に帝国が乗っ取られることが暗示されている。次巻を早く読みたくて待ち遠しい一方、最終巻となるのは大変残念であり、すこぶる複雑な心境である。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

最後の泣き笑い

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:コーチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る

 『ローマ人の物語』最終巻が取り扱うのは、テオドシウス帝の死から、帝国の東西分裂、西ローマ帝国の滅亡を経て、6世紀なかばまでの時代である。東ローマ帝国は1453年まで続くが、この国は本来のローマとはまったく異質のものである。というわけで、このシリーズ、泣いても笑ってもこの巻で終わりである。「泣いても笑っても」は誇張ではない。そこには悲哀ばかりではなくある種の感銘やおかしみもあるからだ。
 第1章「最後のローマ人」の主人公は将軍スティリコ。テオドシウスから後継者である2人の息子の面倒を託された彼は、蛮族侵入、反乱、宮廷の腐敗のなか、懸命にローマを立て直そうとする。もっと楽に権力を利用する方法はあったはずだが、前帝との約束を律儀に守り、少年皇帝たちを支え続けた。結局彼は、宮廷内の讒言にあい処刑されてしまう。ゲルマン人を父にもつスティリコが後世「最後のローマ人」と呼ばれるのは、死にゆくローマ社会の中で、彼だけがかつてのローマ人気質をもっていたからであろう。塩野は蛮族と文明人という言葉を躊躇なく使い、両者を分ける一つの基準を「信義」つまり約束を守る態度に求めているが、これは建国当初からローマ人が重視してきた徳目であった。
 余談ながら、本巻での蛮族すなわちゲルマン人の侵入に関して、塩野は「歴史研究者の中にはこの現象を、蛮族の侵攻ではなく民族の大移動であると主張する人がいるが、かくも暴力的に成された場合でも「移動」であろうか」と問いかけている。
 それが実際、どれほど暴力に満ちたものであるかは本書の記述からも窺える。たとえば、ゲルマン人たちは女子供もローマ帝国領内へ侵入したが、これら「か弱き者」による略奪や殺戮の方が、兵士による以上の被害をもたらした。当然彼らのうちには被害者も多かったが、人的被害に対して敏感なのは文明の民だけで、蛮族は同胞の死に対して無頓着である。それがまた彼らの強さの要因でもあった...つまり、老若男女問わぬ無法者集団があらんかぎりの略奪と殺戮をおこなったのが、「ローマ末期の民族大移動」なのであった。
 今も歴史教科書の多くは、この集団的破壊行動を「民族の大移動」と形容している。他方、日本の大陸進出は、インフラ整備など現地にあたえた恩恵を無視し、「侵略」と一方的な表現で呼ぶ。塩野のひと言は、このような矛盾に一石を投じるものとして評価したい。
 さて、スティリコの死後、西ローマ帝国は蛮族の天下となる。二度にわたる首都ローマ劫掠に加え、いたるところでゲルマンの王国ができ、帝国の支配は事実上イタリア半島のみとなる。476年にこの国の息の根をとめたのは、ゲルマン人傭兵隊長のオドアケルであった。しかし意外なようだが、彼が西ローマを滅ぼした者とされるのは、単に彼が自ら皇帝を名乗らなかったためである。しかも滅亡に際して、国内には破壊も混乱もなかった。オドアケルはその後立派な統治を行い、彼を殺して権力の座についたテオドリックもまたそれを踏襲した善政をおこなったという。つまり西ローマ滅亡後のイタリアでは、これら蛮族によって平和が保たれたのである。これを塩野が「蛮族による平和」(パクス・バルバリカ)と呼んでいるのは、おもしろい。
 しかし平和は永遠ではなかった。テオドリックの死後、イタリアは分裂状態となる。ローマの故地イタリアを完全に滅ぼしてしまうのは、皮肉にもこの地を奪還すべく兵を送った東ローマ皇帝ユスティニアヌスであった。彼の夢は一時実現したものの、結局はくじかれ、その後イタリアは正真正銘の蛮族であるゴート族とランゴバルド族に、かわるがわる侵略され、暗黒の時代へと入ってゆくのである。
 最後に泣きごとは書くまい。本書中思わず笑ってしまった箇所を引用して、本シリーズの書評を締めくくりたい。オドアケルによって退位させられた皇帝の名は、ロムルス・アウグストゥス。「西ローマ帝国最後の皇帝は、ローマ建国の祖とともにローマ帝国の祖の名をもつようになった。」

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本ローマ人の物語 9 賢帝の世紀

2007/08/22 15:57

平和についての透徹した視点

9人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:コーチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る

 『ローマ人の物語』もいよいよ、ローマ帝国の最盛期にして「人類が最も幸福であった時代」(ギボン)、すなわち五賢帝時代に突入する。しかし、本巻の目次を見てだれもが気づき、不思議に思うだろう。ここで扱われているのは、五賢帝の最初の三人、ネルヴァ、トライアヌス、ハドリアヌスだけである。残りの二人、アントニヌス・ピウスと賢帝中の賢帝マルクス・アウレリウスはどうしたのか?
 『賢帝の世紀』と名づけた本巻に、作者の塩野がこの二人の皇帝についての記述を入れず、一巻はさんだ次の巻(第11巻)にそれを移したのはなぜか?私はこのような構成を、「平和とは何か」に関する透徹した視点の表れと見なしたい。すなわちそれは、平和とは決して手放しで得られるものではなく、不断の努力によって勝ちとられるものという視点である。
 次皇帝への橋渡しをしっかり行った点においてのみ賢帝の名に値するネルヴァは別として、トライアヌス、ハドリアヌス両皇帝は、平和の中にあっても常に国家の防衛という皇帝にとって最大の責務の一つ(その他の責務は国民の食と安全)を怠らず、治世のほとんどを外征、帝国防衛線(リメス)の強化、視察に費やした。殊にハドリアヌスは、その在任中に大きな外憂は存在しなかったものの、常に各地の軍隊を回り、補強すべき箇所があれば直ちに補強させていた。(ハドリアヌス城壁はその典型。)
 その一方で、彼らの私生活にはどちらも美少年たちの影がつきまとったが、ギリシア人とは異なり男色を嫌悪するローマ人には、これらがスキャンダラスにとらえられる。またハドリアヌスは晩年、頑固になり、その奇妙な振る舞いから民衆に嫌われる。死後は、あやうくカリグラ、ネロ、ドミナティウスに続く記録抹殺刑に処せられるところを、アントニヌス・ピウスの懇願でそれをまぬがれた。
 彼らに続くアントニヌス・ピウスとマルクス・アウレリウスは、ともに内政を立派にこなし、ローマに善政をほどこし国民から愛された。「ピウス(敬虔なる)」というあだ名からもわかる温厚なアントニヌス、哲人皇帝としても知られ知情意のバランスのとれた人格者マルクス。為政者としても人間としても申し分のない二人であったが、彼らが前二皇帝と大きく異なる点は、帝国防衛への取り組みであった。
 アントニヌス・ピウスは皇帝在任中、ローマをほとんど離れず、帝国防衛線への視察などいっさい行わなかったという。またアントニヌスの婿養子であったマルクスも若い頃に、次期帝位が確約された身でありながら、各地の軍隊を回るなど辺境防衛の実際を学ぼうとはしなかった。親子としてローマ市内にいっしょに住み、多くの子と孫に恵まれた二人のマイホーム主義―自己の責任を果たしたうえでのもので非難すべき態度ではないが―その幸せのかげで彼らが怠っていたものがあるとすれば、それこそ帝国の防衛であり、マルクスが皇帝になった途端に辺境で生じた数々の動揺も、長い平和に安住したこのような怠慢に原因があったのではないか?
 以上、アントニヌスとマルクスに関する議論は、本巻ではなく主に11巻でくりひろげられるものであるが、賢帝と一言でひっくるめられている五人の皇帝のあいだに一線を引き、国家防衛のありかたについて重大な示唆をあたえる塩野の歴史認識とその描写方法には、舌を巻くしかない。本書と第11巻とを読み、平和の時代における二種類の政治姿勢を比べてみることは、平和を享受して60年、「国防=戦争と暴力」としか考えられなくなった我が国の多くの国民にとって、国を守ることの意味を深く考えさせてくれることだろう。そういう点でこれらの二巻は、日本人必読の書!と断言したい。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

カエサルを扱った巻を除けば、一番分かりやすかったかかもしれません。なんたって、あの「背教者ユリアヌス」が登場するんですから・・・

10人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る

さてさて、10年以上読みつづけてきたこの塩野ローマ史も残すところ一冊になってしまいました。今年の暮には、最後の一冊が出てしまう。次は何を書いてくれるのかな、少し休養かな、でももっと塩野に教えて欲しいことがあるしなあ、なんて思います。で、今回のカバー写真、結構ショボイです。なんだ?このオッサンは、と思う方も多いのでしょう。それへの対策はちゃんとうってあります。
彼の名は聖アンブロシウス、ミラノの聖人に列せられるほどの人物だそうです。私、全く知りません。で、「読者に」のあとのほうで、何故この巻の表紙にアンブロシウスが選ばれたか、その理由が書かれています。要するに、時代を表わす顔なんですが、今までの雄々しい皇帝たちに対して、どこか卑しい顔つきですよね。それがキリスト教である、とは私の勝手な理解です。
本の構成を書いておけば、「読者に」に始まり、第一部 皇帝コンスタンティウス(在位、紀元三三七年から三六一年)、第二部 皇帝ユリアヌス(在位、紀元三六一年から三六三年)、第三部 司教アンブロシウス(在位、紀元七四年から三九七年)、年表、参考文献1、図版出典一覧6、ということになっています。
で、この時代がどんな時代であったのか、各部の章のタイトルからキーとなるものを書いておきましょう。まず第一部では、「コンスタンティウスとキリスト教」「ゲルマン民族」「ローマでの最後の凱旋式」。第二部では「ササン朝ペルシア」「「背教者」ユリアヌス」「対キリスト教宣戦布告」。第三部では「フン族登場」「「異端」排斥」「キリスト教、ローマ帝国の国教に」といったところです。
最初にキリスト教を公認したのが、後世から「大帝」の尊称づきで呼ばれるコンスタンティウスで、彼の死が紀元三三七年で、この巻で取り上げられるコンスタンティウスはその三男。で、ユリアヌスは甥にあたります。私だけなんでしょうが、カイサルのあたりを別にすれば、結構、名前だけは朧気に頭に残るんですが、人物相互の関係が意外と理解しにくかったりしていた権力者たち。でも、この巻だけはそこが理解しやすいです。
しかも、読んでいて思うんですね、いよいよ出たか「背教者ユリアヌス」って。そう、この本の中で塩野も言及している辻邦生の傑作『背教者ユリアヌス』、その人が第二部で出てきます。背教者、っていうのが如何に勝手な命名であるか、キリスト教の害毒というのは果てしないなあ、何て思うんです。
その道を開いたのが第一部の主人公・皇帝コンスタンティウスであり、その父親であるコンスタンティウス大帝です。そして、着々と布石をうって、キリスト教を世界宗教にし、現在の世界の混乱の元を作った男というのが、冒頭で私がショボイ、と書いた司教アンブロシウスです。裏に回って画策する官僚みたいな奴です。
ともかく、ローマとキリスト教の関係が手に取るように解ります。個人的に思うんですが、今まで出た14巻のなかでも読みやすさで言ったらベストではないかな、そんな気がします。なぜ20世紀が戦争の時代であり、21世紀がテロの時代であるのか。もし、ユリアヌスがあと10年生き長らえていたらこの悲惨はなかったのではないか、そうすれば黒船はなく、当然、鎖国も開国もなく、明治維新や天皇制や帝国軍人といった悪夢のような存在もなかったはず、なんて夢想もできます。
策士をアンブロシウス描いたモザイクはミラノ・サンタンブロージョ教会所蔵だそうです、装幀は勿論、新潮社装幀室。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

『グラディエーター』に描かれた時代の真実

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:コーチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る

 第1巻からの読者の多くは、この巻以降胸を引き裂かれる思いを強くするだろう。いよいよローマ没落の物語がはじまるからだ。
 五賢帝最後の人、マルクス・アウレリウスの皇帝就任直後から帝国は蛮族の侵入に悩まされ、彼の皇帝としての後半生は戦いに次ぐ戦いの日々となった。『自省録』によって今も広く尊敬を勝ち得ている哲人皇帝の彼が、不慣れな戦場でほとんどの時間を過ごし、やがて遠征中に戦地で死んだことは、実にかわいそうである。しかし、これは前皇帝アントニヌス・ピウス、そしてマルクス自身が蒔いた種でもあった。彼ら二人は、人格的にはすぐれていたが、長い平和に甘んじて、前線の視察など帝国防衛の任を怠った。トライアヌス、ハドリアヌス両帝に見られたような平時の危機管理意識が、この二人に欠如していたことが、ローマ没落の第一段階における、少なくとも一つの要因にはなった。
 さらに、マルクスの息子コモドゥスの愚行が帝国の衰退に拍車をかける。五賢帝のうち前四名については男子がいないため世襲がまったく行われず、現皇帝が適性を見込んだ人物を後継者に据えるという、ある意味、理想的な権力の移譲が続いていた。ところが、マルクスには男子がいた...マルクス唯一の失政とも言われる、コモドゥスへの後継指名はしかし、その後に予想される権力闘争を考えれば仕方がなかった。子供は選べないが、後継者は選べる―ハドリアヌスのこの言葉は、偶然が生んだ後継指名制度の妙をうまく言い当てている。
 本書では、コモドゥスとその時代を描いた映画『グラディエーター』についても興味深い分析が行われている。曰く、冒頭、マルクスに率いられたゲルマニア戦役での戦闘シーンは、往時のローマ軍の戦い方とは似ても似つかぬひどいものだが、何度もDVDを観ているうちに皮肉なことに、これがマルクス時代の戦闘の実際ではないかという気がしてきた。マルクス死後、戦役を終わらせざるをえなかったのも無理はない。等々...作品評としてもなかなかのもので、映画鑑賞の手引きとしてもおもしろい。
 余談ながら、ローマ史をテーマにしたハリウッド映画の多くが、ローマが極悪非道の帝国で、キリスト教徒にもひどい迫害を加えたかのように描いているが、『ローマ人の物語』を読むと、そのような描写のほとんどが嘘か誇張にすぎないことに気づかされる。実際のローマは、市民の権利も他国の主権も尊重し、あらゆる宗教に対して寛容な国家であった。アメリカの映画産業がかくも歪んだローマ像を一方的に作り出してきた理由は、非キリスト教徒に対する軽蔑・嫌悪もあろうが、第一には、ローマ同様覇権国家である自国が、ローマよりもずっと理想的な民主国家であると自国民に信じさせたいからではないか?
 自分としては、『グラディエーター』にはヒーローのマクシムスに代表されるローマン・スピリットが生き生きと描かれ、上のような誇張や嘘はさほど感じられない。だがそれも、実際のコモドゥスが悪役としてはほとんど脚色不要なほど愚かだったからかもしれない。大切なのは、これがローマ皇帝と帝国の一般的な姿だと信じぬことだ。コモドゥスとその時代は、ローマの内部崩壊という長いドラマの最初の一コマなのだから...
 コモドゥス暗殺後、皇帝が乱立し、再び帝国に混乱が訪れる。最終的に覇者となった軍隊たたきあげのセヴェルスは、ローマに再び秩序を取り戻し、内政・外交それぞれに多くの成果を残したが、衰退する帝国の流れはそのような努力によっても止めることはできなかった。遠征中のブリタニア(イギリス)で死を迎えるセヴェルス。遠征地で死ぬ皇帝はマルクスに次いで二人目であったが、のちの皇帝たちにはよくあるパターンの最期となる。彼の死後、長男カラカラは弟ゲタを殺して権力を手中にする。以後、皇帝のほとんどが暗殺や戦死で生を終え、自然死がほとんど見られない暗黒の時代へと突入する。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

76 件中 16 件~ 30 件を表示
×

hontoからおトクな情報をお届けします!

割引きクーポンや人気の特集ページ、ほしい本の値下げ情報などをプッシュ通知でいち早くお届けします。