紙の本
現代思想に興味がある人、あるいは全く興味がない人にもぜひ読んでほしい1冊。
2022/04/24 14:31
10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:coziro - この投稿者のレビュー一覧を見る
私のように現代思想を勉強したいのだけど、何から手を付けてよいかわからない人のための入門書。
著者の本は『勉強の哲学』もそうだが、徹底的に読者に寄り添ってくれる。
こんな感じだ。
『確認ですが、本書においては、デリダに「概念の脱構築」、ドゥルーズに「存在の脱構築」を見て、最後のフーコーが「社会の脱構築」なのでした。』
と、デリダ、ドゥルーズに続いてフーコーの解説に入る前に、おさらいをしてくれる。
(ちょうど前の記述を忘れかけている頃合いを見計らって)
あるいはまた、『ここ、かなり難しい話だと思います。ですが(中略)「否定神学批判と合わさることで理解できると思いますので(中略)大丈夫です』と、迷路に入りかけて不安な読者を安心させてくれる。
この1冊で「現代思想が分かった!」とはとてもならないし、「なんとなくわかった」までも難しいかもしれない。
けれども、近代以降の思想の流れはざっくりつかめるし、その中で入門書の紹介があり「よし、ほかの入門書も読んでみよう!」という気にさせる。
おまけに付録として哲学書の読み方のレクチャーまである。(これがまた秀逸)
まさに手取り足取りで、恐る恐る現代思想の入り口をのぞき込んでいる初学者を導いてくれる。
「おわりに」にある次の一文に、著者の熱い思いが吐露されていて、私など、涙ぐんでしまった。
『本書は、「こうでなければならない」という枠から外れていくエネルギーを自分に感じ、それゆえこの世界において孤独を感じている人たちに、それを芸術的に展開してみよう、と励ますために書かれたのでしょう。』
理想的な、入門のための入門書。
紙の本
大学生におすすめ
2022/07/21 16:44
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:さくらの - この投稿者のレビュー一覧を見る
『現代思想は差異の哲学である』とある。この差異の哲学(必ずしも定義に当てはまらないようなズレや変化を重視する思考)というものがとても重要な考え方だと思った。また、脱構築の基本的発想はフィールドワークにおいてよく使われるものと同じだと思った。こんな感じのよく分かんないけどなるほどって思うような所が多く面白かった。
紙の本
かつて「現代思想」にかぶれた人も楽しめる書
2023/03/27 02:42
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ぶんてつ - この投稿者のレビュー一覧を見る
2002年の内田樹による『寝ながら学べる構造主義』では、フーコー・バルト・レヴィ=ストロース・ラカンが構造主義の「四銃士」だった。
その後、フーコーはポスト構造主義のメンバーにも入れられていたが、フランスの「現代思想」は、構造主義とポスト構造主義を合わせたものというのが私の認識だった。
それが2022年のこの本では、「現代思想」の代表者として、デリダ・ドゥルーズ・フーコーが挙げられている。ラカンはルジャンドルと共に、「精神分析と現代思想」として、1章が与えられている。
取り上げられるメンバーの違いからもわかる通り、この本では、ポスト構造主義が「現代思想」とされている。
そして、デリダは「概念の脱構築」、ドゥルーズは「存在の脱構築」、フーコーは「社会の脱構築」と、極めて明快に解説してくれる。
また、この本の面白いところは、第6章に「現代思想のつくり方」という章が設けられているところだ。自分で作ってこそ、本当に理解できたと言えるということだろう。
構造主義の面白さから「現代思想」にかぶれた私でも、著者のわかりやすい解説で、充分に楽しめた「現代思想」入門でした。
紙の本
二項対立を使いこなす
2022/06/05 11:02
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:サンバ - この投稿者のレビュー一覧を見る
二項対立は善悪のように、+対-で語られることが多い。本書は、-で語られる部分の重要性を指摘し、マイナスとされる方にも相応のエネルギーがあり、時にはプラス側を支えていると指摘。その上で二項対立からの逃走を指南する。物事の複雑性を認め、共通認識を仮固定しながら、相対的に生きることが見えてくる。
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入門の入門
2023/01/21 21:19
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:H2A - この投稿者のレビュー一覧を見る
デリダ、ドゥルーズの章だけでも読む価値ありだと思う。目から鱗だった。音声中心主義、差異、とかそういう解釈があるのかと今さら納得。無意識のもんだいにもそんなに関心あったわけではないが、ドゥルーズにおいてどういう意味があったのか少し蒙が拓いたような気がする。これほどくだいて書けるのも著者の地に足のついた理解のおかげ。それから終章のポスト・ポストモダンもおもしろく読んだ。
紙の本
前半=Very Good、後半=Not So Good
2022/04/13 19:06
9人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Haserumio - この投稿者のレビュー一覧を見る
評者如きが内容を云々出来る筈もないのだが、前半の判りやすさと明晰さは素晴らしい。(この世は差異ないしは多様性の「海」なので、多くの言説類が「仮固定」であって、そうでもしないと前に進めないことはそりゃ一般常識からも理解できる。また、ドグマを壊すのに、二項対立を揺るがす(=脱構築する)というのも、ビジネスなどではよくある話。)が、第5章から第7章はイマイチで、こなれていない。もっと工夫が必要かと。末尾の「付録 現代思想の読み方」にきて判りやすさと明晰さが復活しましたが、結局、評価としては星4つとさせて頂きました。
紙の本
人生観が変わるかもしれない
2022/05/12 19:49
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:nekodanshaku - この投稿者のレビュー一覧を見る
「読書はすべて不完全である」この言葉に救われた。デリダ、ドゥルーズ、フーコーを中心にポスト構造主義の現代思想家の概念を読み解くことができた。実際には前半だけが理解したつもりになったにすぎず、後半のラカンなどの話題にはついていけなかった。複雑なことを単純化しないで考えること、文章を理解するときは二項対立を意識すべきであり、思考する場合は、その二項対立を揺るがして脱構築することが重要であること、などなど、確かに人生が変わる読書経験であった。
紙の本
世俗性と偶然性。
2022/05/26 00:26
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ゲイリーゲイリー - この投稿者のレビュー一覧を見る
本作は、難解な現代思想を懇切丁寧に解説している。
デリダ、ドゥルーズ、フーコーを中心に二項対立からの脱構築とはどういうことなのかを段階的に取り上げていく。
そこで述べられるのは、秩序の中にある攪乱要因や同一性を絶対視しないことの重要性である。
白か黒かではなく、グレーゾーンをグレーゾーンとして受け入れることが如何に重要であるかを述べているわけだ。
また本作は現代思想を解説するだけでなく、なぜ今現代思想が必要なのかということにまで触れていく。
更に巻末には現代思想をどういう風に読みこむべきか、といったレクチャーまで記載しているのだから、タイトル通り現代思想の入門書として最適と言う他ない。
秩序を何よりも重んじ、必然性を求めてやまない今の世の中だからこそ、本書の様に世俗性や偶然性を肯定する作品は読まれるべきだ。
無限の反省から脱却し、自らの人生において今ここで何をするかに注力することを後押ししてくれる一冊。
電子書籍
入門書
2023/07/12 20:16
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:エムチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る
入門というには、むずかしいです。というか、知らない用語がけっこう出てきたせいかもしれません。自分は、哲学は、大学生のとき、一年間だけ一般教養で学んだだけで……、と、言い訳しときますが。
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2022.06.29 フランスの現代思想の本は、色々と読んできました。ほとんど理解はできてないと思いますが(笑)。その中でも、とても平易に表現してくれていて、現代思想との距離をグッと近づけてくれるとても良い本でした。ありがとうございました。
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【はじめに】
2017年の著作『勉強の哲学:来たるべきバカのために』で一躍有名になった感がある千葉雅也氏。「「カッコつけ」から出発した現代思想ファンの総決算として書いた」とし、「青春の総括であり、憧れへの終幕」と位置付けた本書は、現代思想の入門書として、フーコー・ドゥルーズ・デリダといったフランス現代思想史の巨人を導入部としながら、自ら影響を受けたと認めるマラブ―やメイヤスー、東浩紀へと現代思想の流れを整理したものとなっている。
【概要】
■ 本書の流れ
第一章から第三章までは、それぞれフランス現代思想を代表する「デリダ」、「ドゥルーズ」、「フーコー」の解説に当てられている。まずもって、この三人の名前が並ぶことに対して、蓮實重彦の『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』(1978年刊)を思い出し、いまだ現代思想を語るにこの三人の名前が出てくることにやや唖然とした。著者が1997年東京大学文化三類に入学したときの東大総長である蓮實に対する思い入れもあったのだろうかとさえ思う。なお、それにしても蓮實重彦が教養学部長となって東大総長にまで昇り詰めることができたのも、当時の現代思想の学際的な領域におけるポジションの高さが伺えるエピソードである。
そういった感想があるとはいえ、著者が現代思想、とくにフランス現代思想においては脱構築のが概念が重要であると確証し、この三者にその脱構築概念の具現化を見ていることは確かである。著者は脱構築の概念を、二項対立による評価の留保、にあると指摘するが、その観点で、デリダに「概念の脱構築」、ドゥルーズに「存在の脱構築」、フーコーに「社会の脱構築」を見ているのである。
これに続く第四章は「現代思想の源流」と名付けられ、さらに時代を遡ぼることになる。この章のサブタイトルにもある通り、ここではニーチェ、フロイト、マルクスが扱われるのだが、この名前に関しても、過去の読書体験の既視感が生じた。なぜなら、そこに出てきた名前は、選ばれし30人の現代思想家をそれぞれの専門家が一巻を割いて紹介する『現代思想の冒険者たち』というシリーズが企画されたときに、それを祝うために捧げられた「第00巻」のタイトルがまさに『現代思想の源流』であり、そこで紹介された源流たる思想家がマルクス、ニーチェ、フロイト、フッサールの四人だったからである。1996年に始められたこの企画について著者が知らぬわけはなく、また「現代思想の源流」という言葉の選択をした時点から、この『現代思想の冒険者たち』という意欲的なシリーズを意識してはいたのではないかとも想像される。いずれにせよ、現代思想の源流がマルクス、ニーチェ、フロイトであるという図式が25年経った今でも変わらず成立するということは、ある意味ではこの世界の停滞を示しているようでもあった。もちろん、彼らの思想自体がそれまでの思想から一線を画するものであったことは間違いないということでもあるのだが。
そして第五章はラカン、ルジャンドルを取り上げて精神分析について解説する。ここでは精神分析が著者に与えた影響の大きさを見てとることができる。
第六章は少し視点を変えて「現代思想の作り方」とされ、現代思想の研究者として新しい成果を産むための著者が整理をした「四つの原則」が紹介される。この辺りに、著者が「伝統芸能」と称した現代思想の読み方・作り方のエッセンスが凝縮されているように思う。一方でこういった技術論に走るようにも見えるやり方が「伝統芸能」化している要因のひとつでもあるように思われる。
第七章はポスト・ポスト構造主義として、メイヤスー、ハーマン、ラリュエルなどが紹介される。ここで彼らの新しさが、第六章で紹介された『現代思想の作り方」の四原則に沿って解説され、著者自身の芸達者ぶりであるところの腕前を見ることができるのだが、彼らの著作を読んだこともないので、ここは本の構成としては評価できるのだけれども、肝心の思想の内容は理解することは自分自身できなかった。何より、読んでみたいと思えないところが残念なところかもしれない。
最後の付録として書かれた現代思想の読み方は、翻訳の問題の一部を実際的に解決してくれるテクニックとしてとても面白かった。
以下、本書で書かれたいくつかのテーマについて解説してみたい。
■ ジャック・デリダ
著者をして、「今日、こんな書き方をする人はいないだろうという難解な書き方をする」と評される。先に出た蓮實重彦にもそれは言えることだが、その晦渋さ加減がフランス現代思想のシグネチャーでもあったし、ソーカル事件が起こったことはそのことを一定程度疑問に付した。『エクリチュールと差異』や『グラマトロジーについて』を読んだのはもう何十年も前のことだが、当時も今もやはりよくわからなかった。それでも、デリダのテキストは注意深く書かれていて、ひどく抽象的ではあるが同時にそれも含めて戦略的でもあることは十分に感じとることができた。
著者は、デリダは「本質的なことが大事だ」という常識を覆そうとしたという。二項対立を宙吊りにして脱構築を行うのがデリダの手法だと。著者は、この本質主義批判からジュディス・バトラーが『ジェンダー・トラブル』を書いて、同性愛の名誉回復のための原理論を書くことができたと評価する。また、ポストコロニアルの思想もデリダ的な発想によって可能となったとも指摘する。
一方で常に二項対立を保留し続けることはできず、逆説的に非暴力的に生きることは不可能であり、何かを決断して生きていくほかはないこともデリダの思想からは伺えるという。未練込みでの決断という倫理性を帯びた決断ができるものこそが本当の「大人」だというのが著者の見立てでもある。
デリダと言えば、「話し言葉(パロール)」と「書き言葉(エクリチュール)」の対立で、近代西欧の「書き言葉」に対する「話し言葉」の優位性の構造を脱構築してみせたということで有名だが、これについて昔から感じていたことがある。この部分は自分も含めて、日本人にはなじみづらいし、そこに日本語という言語特有のものが潜んでいるように思われるのだ。なぜなら、われわれ日本人は読めない(発音できない)漢字でも読んでしまうのだ。それは正確に発音できないのではなく、発音自体を知らないし、さらにはそれを気にすることすらなく読めてしまうということなのである。だからこそ「話し言葉」の優位性がそもそも成立していない場に身を置いているのではないか。そこには近代西洋のバイアスがそもそもかかっていたのではと今でも思っていて、すっと入ってこない部分でもある。この本をきっかけに本棚に埋もれた『グラマトロジーについて』と『エクリチュールと差異』をぱらぱらとめくってみたけれどやはり頭に入ってこなかった。でも、あらためて手に取った箱に入った装丁は、大切な本を読んでいるという感覚を産んで素敵だった。
なお、入門書の入門としての位置づけを自認する本書ではそれぞれの章で入門書を紹介しているが、デリダに関しては高橋哲哉の『デリダ ― 脱構築と正義』を紹介している。高橋さんは、『現代思想の冒険者たち』でも『デリダ』の巻を担当していた。ずっと昔からその道の第一人者だったんだなと再認識。
■ ジル・ドゥルーズ
その昔、デリダ以上に頭に入ってこなかった思想家がドゥルーズだった。ガタリとの大著『アンチ・オイディプス』は購入してみたが、ついぞ読み進めることができなかった。ニーチェにはまって一気にニーチェの代表作を読んだ時期にドゥルーズの『ニーチェ』も読んだが、やはり何を言っているのかわからなかった。ちなみにこの『ニーチェ』の装丁はニーチェらしくない感じで素敵。
著者は、ドゥルーズが存在ではなく、運動することにこそ注目する必要性を規定したことをもって高く評価している。リゾームの概念は、インターネットの広がりとともに現実化したとも捉えている。何よりも同一性があるためには、まず差異があることが前提になるとの指摘は、分断が言われる現代社会でも一定の必要性がある認識だろう。何より哲学に軽やかさのイメージを付けることに一役買った哲学者ではあった。
國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』が入門書のひとつとして紹介されていた。これくらいは読んでみるかなと思った。
■ ミシェル・フーコー
フーコーの権力論では、権力は上から押しつけられるだけではなく、下からそれを支える構造でもあるとされる。監獄だけではなく、工場や学校、軍隊ではたらく「規律権力」の話がそれだ。著者曰く、フーコーには、支配するものと支配されるものという二項対立の脱構築があるという。近代における精神病院や監獄・パノプティコンを分析することで、個人と規律権力の関係性の成立とその結果としての支配者の不可視化が進んでいく歴史的様相や仕組みを明らかにしてきた。ただ、権力に関するこの言い方も自分の感覚では正しくなく、「権力」という言葉がどこか誤解を招いているのではないかと思う。権力と訳される「pouvoir」は、単に「力」と読むべきではないのかと考えている。著者も指摘するように、『性の歴史I』の中では、「権力とは「無数の力関係」」だと定義されている。
また今回のコロナ禍においては、フーコーのいう生政治が現代社会において強く働いていることが明らかになった。アガンベンがフーコーやニーチェを援用して、社会の行動規制について批判的な言動を行うのはフーコーの議論を踏まえて考えるとよく理解できる。
「狂気」「異常」「倒錯」などが画定され、隔離されたように、同性愛という性的嗜好に関しても「同性愛者」というアイデンティティが作られ、それが個人の特質に���れていくことをフーコーは古代ローマやギリシアまで遡って明らかにした。つまり、かつて同性愛はあったが、同性愛者はいなかった。そのことを考えると、マイノリティのアイデンティティを確定させた上で、カテゴリーの権利を主張するLGBTQの社会運動はフーコーの眼からは権力関係における新しい隔離の方法となるのではないかとも考えられる。著者は自らの性的嗜好として同性愛を持つことを表明しているが、彼から見てフーコーの思想は、多様な同性愛行動を肯定しなおすという道を拓くもののように思われる。
また本書の流れとは異なるのだが、フーコーをデリダやドゥルーズと同じフランス現代思想の中の流れの一人として位置付けるのも自分は違和感がある。蓮實重彦は『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』と並べたが、彼らの仕事の内容を知るにつれて、彼らには共通点よりも相違点の方が多くあるように思えるようになった。何よりもフーコーはいまだ現代性を強く持つ思想である。
なお、フーコー自身は『知の考古学』の中で、「私が『言葉と物』のなかで構造という用語をただの一度も用いなかったということについては、あなたもそれを容易に認めていただけるだろう」と言って、構造主義者であることも、またポスト構造主義者であることも否定している。フーコーは、フーコーなのだ。
フーコーの入門書としては、慎改康之さんの『ミシェル・フーコー ― 事故から脱け出すための哲学』を挙げているが、これは本当によい解説書。慎改さんは、先日ようやく刊行された『性の歴史IV』の翻訳者でもある。難解な『知の考古学』も改訳されていて、フーコーに対する考察の深みを分かりやすい形て解説できる方だと思う。なお、他にもうひとつ挙げるとすると重田園江さんの『ミシェル・フーコー』もフーコー愛が感じられてよい。
■ 現代思想の源流
現代思想の源流として、ニーチェ、フロイト、マルクスを取り上げているのは先述の通り。
ニーチェの思想は、キリスト教倫理の否定とその後の神なき世界における新たな倫理の構築であるというのが自分の理解だ。本書では、ドゥルーズに寄せてのことなのか『悲劇の誕生』のディオニソス的なものに寄った解説になっているのが、ニーチェの解説としては偏りがあるのではと感じるところ。ニーチェの解説が主眼ではないので、それはありだと思うが、少し先に解説したフーコーにもっと絡めた登場のさせ方もあったのではとも思う。
フロイトについては、著者の「無意識」の理解が、いわゆる精神分析における無意識を指しているのだと思うが、「自然科学的な脳研究ではまだ結論が出ていません。ですから否定も肯定もされていない仮説です」としているところがやや気になる。脳科学での研究の結果として、無意識の働きについては今ではフロイトの理解を超えて、ある意味では否定するとも言える形で進んでいるし、かつそれは無意識に触れる際には非常に重要なことと思うので、もう少し踏み込んでもらいたいところではある。意識されていないものとしての無意識は確実にあるし、脳の活動においては意識以外の活動が大部分であるということはいまや前提となっている。無意識こそが主で、意識が従であるというのが最新の認識になっているというのが自分の理���で、フロイトの功績はその認識を先導したことにこそあるはず。その点を省略して、無意識を「言語化して捉えることができないような深いロジック」と書いてしまうところも無意識の捉え方として課題があるのではないかと思った。
また、無意識の理解についての例として、「誰かをいじめている人がいるとして、嫌いだからいじめているのが表面的な次元ですが、実はその人物のことが気になっていて、好意があるからこそいじめている、というのがひとつの解釈としてありうる。こうしたことは同意してくれる読者も多いと思います」と書くのはあまりにも不用意ですらある。いじめは、いじめだ、というのがポリコレ的にはおそらく正しい。少なくとも「いじめ」を好意と結びつけることは適切ではないだろう。
一方で、フロイトやラカンの精神分析を援用するのは、著者自身の性的嗜好とも関連があるのかもしれない。欲動の可塑性こそが人間であり、欲動のレベルにおいてたとえば同性愛という別の接続が成立することがありうる。そこには、異性愛も再形成されたものであり、人工物であるという観点では異性愛も同性愛もそれ以外の性愛の形も同列であるという認識は大切なのだろう。
■ 現代思想の四つの原則
著者は現代思想において新しいものを創造するための四つの原則を提案する。それは、①他者性の原則、②超越論性の原則、③極端化の原則、④反常識の原則、である。知的創造のための本質を突いているようであり、本質的な進歩なく形式的に新しいものを生み出すためのテクニックにも感じられた。二項対立ではないのかもしれないが、著者の一種の冷ややかな目線の露悪にも感じたのは自分だけではないだろう。
■ 本を読むこと (付録)
「本を読んだ」という経験は、実に不完全なものだと著者は言う。現代思想の本であれば、なおさら一度で理解することは難しい。著者にしてもそうであったと告白する。読書とは、薄く重ね塗りをするように、「欠け」がある読みを何度も行って理解を厚くしていくのだという。
また、翻訳書であれば、原文が西洋言語であることを意識することが大事だという。こういうことを系統立てて、さらには例文まで持ち出して解説してもらえるのは大変うれしい。ここで、「カマし」のテクニックと言ってしまうことも先の四つの原則で感じたように、一種のデタッチメントすら感じる。もしかしたら、著者は世間的には有名になったものの、学界的にはあまり評価をされてこなかったのかもしれない。知らないけど。
なお、翻訳の難しさに関しては、否定文の場合に英語や仏語などの西洋言語であればその文の内容が否定されることを文の初めに明示されることになるが、日本語だと最後に行くまでその文自体が否定文であるかどうかが分からないことから、特に長い文においてはスムーズな読書の妨げになった。特にフーコーは否定文の多用が顕著で、『知の考古学』などはその点で苦労した。また、関係詞に関しても西洋言語では修飾される語がまず出てきた上で、語順的にそれがどういうものかが説明されるのだが、日本語では修飾内容が先に来て、より重要で本質である修飾される語が後にくることも複雑で当たり前ではない内容の場合には理解の妨げにもなる。
いずれにしても、このパートは実践的でとてもある意味で役に立つ章であった。
【所感】
あとがきで著者は、「現代思想はもはや「二十世紀遺産」であり、伝統芸能のようになっていて、読み方を継承する必要があります。などという意識を持つようになるとはかつては想像もしませんでした」と語る。
「現代思想は、秩序を強化する動きへの警戒心を持ち、秩序からズレるもの、すなわち「差異」に注目する。それが今、人生の多様性を守るために必要だと思うのです」と書きつつ、いまや「伝統芸能」と自虐的に表現する現代思想の今日的意義について今一度見直した本と言えるだろう。
こういった本には珍しく、著者の躊躇いがそこかしこに見られる。それは著者の現代思想に対する思いから来ていると言ってよいだろう。そのことがこの本に付いた色にもなっている。現代思想によらず、本を読むことには一定の訓練が必要であるということを改めて認識する本でもあった。
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『勉強の哲学 来たるべきバカのために』(千葉雅也)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4163905367
『ミシェル・フーコー: 自己から脱け出すための哲学』(慎改康之)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4004318025
『ミシェル・フーコー: 近代を裏から読む』(重田園江)のレビュー
https://www.youtube.com/watch?v=yn3UbBZ46FM
『フーコーの風向き: 近代国家の系譜学』(重田園江)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4791773039
『ミシェル・フーコー』(内田隆三)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4065198984
『監獄の誕生 ― 監視と処罰』(ミシェル・フーコー)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4105067036
『知の考古学』(ミシェル・フーコー)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4309463770
『性の歴史 4 肉の告白』(ミシェル・フーコー)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4105067125
『フーコー 生権力と統治性』(中山元)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4309245110
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窮屈で生きづらい現代社会。
現代思想は、それをどう解釈しているのか。
ということで読んでみた。
まあ若干知識としてあった内容ではあるが、哲学者は思っていた以上に自己主張が強く、芸術的であった。
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ポスト構造主義のフランスを中心とした哲学を現代思想とし、デリダ、ドゥルーズ、フーコーの3名を軸に入門書の入門書としてわかりやすく解説している。
現代思想は秩序から逃れる思想で、差異に着目する。大きな物語が失われた中で、徹底的に既存の秩序を疑ってこそラディカルに共の可能性を考え直す。デリダは二項対立を脱構築した。ドゥルーズは存在を脱構築した。フーコーは社会を脱構築した。現代思想の源流としてニーチェ、フロイト、マルクスにも言及。さらに先の人たちとしてラカンやルジャンドルも紹介している。さらには現代思想の読み方、作り方まで。
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いわゆる「現代思想」と言われるポストモダンの哲学史的な立ち位置と概要が簡潔に述べられている。特に、「ジャック・デリダ」、「ジル・ドゥルーズ」、「ミシェル・フーコー」を中心として、それぞれを「概念の脱構築」、「存在の脱構築」、「社会の脱構築」としてとらえかみ砕いてくれているところに著者の力量が現れている。そしてさらにそれぞれの哲学の応用、活用のハウツーまで丁寧に行っている。人文書としては行き届きすぎていて、本来は下世話な感まで残るところだが、著者がそれをあえて行っているところに、著者の現代社会に向けた、特に人文離れがはなはだしい若者に向けたアイロニーを感じてやまない。
しかしやはり著者の千葉氏のポストモダン思想に対するパラフレーズの鮮やかさが強烈に印象に残った。いや、すごいなと。
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現代哲学を概観する入門書。
冒頭の文章で引き込まれて読み進めるうちに後半でデリダやラカン、レヴィナスなど説明が始まるとだいぶ難しくなる。
しかし本書はなんとなくわかったような気持ちにさせてくれるし、そういう思想なんだとフワッと理解させてくれる。
それでもかなり難解だが、肩肘張らず等身大で語ってくれるのが救いだ。
フーコーのパノプティコンの規律訓練の話しは興味深かったし、
最後の哲学書の読み解きのコツで、二項対立を意識して読めとか、知らない単語は読み飛ばせとか、英語の方を読むとか、飾りは退けて読めとか、も参考になった。