紙の本
ランナー・村上が目指すもの
2011/01/20 19:26
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ルルシマ - この投稿者のレビュー一覧を見る
村上さんのエッセイというと、「村上朝日堂」その他で解るように、
小説から受けるイメージとは違って明るく庶民的。
彼の作品が重くていや、という人はエッセイを読んで欲しいと思うくらい、
自然な人となりが出ていてファンも多いのではないでしょうか。
でも今回のこれは、厳密に言うとエッセイではないです。
これは彼のランナーとしての現在・過去・未来への記録だと思う。
今までのエッセイではランニングのことはあまり触れず、
もっぱらスポーツといえばスイミングについて書かれていることが多かったように思います。
周知の事実で、彼は朝は早く起きて、簡素な食事に散歩やスイミング、
その合い間、というかほとんどは午前中の早い時間の執筆活動、といった生活について多くのところで書いています。
それがこの本で語る「走ること」については、珍しく熱くアグレッシヴに取り組んでいることが判ります。
でも本人は、「勝ち負けは頭にない」といいきり、大事なことは「自分の目標をクリアすること」だと述べているのです。
確かに彼の「走ること」の歴史はすばらしい。
20何年、毎年フルマラソンに出場していて、そのうちの何年かはトライアスロンにも参加している。
ボストンマラソン、ニューヨーク・シティ・マラソン、
サロマ湖100キロマラソンに、村上国際トライアスロンなどなど。
勝ち負けは気にしなくとも、自己目標をクリアするために、
何ヶ月も前から完璧にも思えるトレーニングと調整を続ける村上氏。
しかし、その折々に様々なアクシデントが彼を襲い、完走するも思ったような走りが出来なかった時が続くと
周到な準備にもかかわらず不発だった自分のランを様々な角度で分析していく。
そしてその度に彼が行きつくのは自分の「老い」。
ここまでして、調整も続けて、体調も悪くない。
ウエアも装備もシューズも完ぺきだ。
なのにダメだったのは、どうにもならない「老いた自分」。
写真で見る村上さんの若い頃のランニング姿。
彼は、「小説をしっかり書くために身体能力を整え、向上させる」と書いているけれど、
いやいや、どうして、かなりの本気です。
家で小説を書く「静」の自分と、
水泳やトレーニングやランで絞り切った「動」の自分とのバランスを上手くとることで、たしかにより創作活動はしやすいのでしょうが、
この本を読むと、彼の中で時としてランの方が執筆活動よりも熱いのでは?と思わずにはいられません。
そのためには自分の「老い」もきちんと受け入れ始めた村上さんが、自然体で今後のランナー人生を進まれる宣言のような作品だったと思います。
紙の本
生きているという実感
2021/08/09 14:54
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投稿者:ジミーぺージ - この投稿者のレビュー一覧を見る
村上春樹はフルマラソンをライフワークとして毎年1回は走っている。
絶対に歩かないで最後まで走る。これが心情。
トライアスロンもやる。
なぜ辛い思いをしてまで走るのか?
村上春樹は言う。
「この苦しさを通過していくことをあえて求めるからこそ、
自分が生きているというたしかな実感を、
少なくともその一端を、僕らはその過程に見いだすことができるのだ。」
私は、フルマラソンを2回走った。
1回目は4時間40分。2回目は5時間5分。
実に辛かった。本当に辛かった。レース後に実感した。まだ、生きている。
自分の身体の限界に挑戦する者たちは、
生を人一倍実感しているのは本当だと思う。
紙の本
一途にまっすぐに。
2015/11/24 20:53
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投稿者:雪空スウィング - この投稿者のレビュー一覧を見る
成長したいと日々願うことがある。
楽しさと、うまくいかないことへの焦り、それでもやっぱり好きなこと、永遠の片思いのような気持ち、その一途さ、まっすぐさがこの本には詰まっているよつに思う。
私に走る趣味はないけれど、村上さんにとっての走ることと私の好きなことを重ね合わせ、一緒に走っている気持ちになった。
紙の本
何度でも読み返したい、勇気の湧く1冊
2021/11/28 22:59
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投稿者:yino - この投稿者のレビュー一覧を見る
初めてこの本を手に取った際には、確か就活真っ最中で、この本に勇気づけられた記憶があります。1冊を通じ、終始一貫して村上春樹氏の「ランナーとしての哲学」に触れることが出来る。レースに備え粛々と、着実に準備していく姿には敬意を表したいし、目標に向けストイックに取り組むメンタル面での強さは、「走ること」に限定せず見習いたいと思う。-もし僕の墓碑銘なんてものがあるとしたら、“少なくとも最後まで歩かなかった”と刻んでもらいたい-のコメントはしびれる。
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学びたい背中
2020/10/07 00:02
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投稿者:タオミチル - この投稿者のレビュー一覧を見る
表紙を開くとすぐに、村上さんが走る後姿の写真があって、ハッとする。表紙の真ん中にあるのと同じもので、大きく引き伸ばすことではっきり見えてきた、感じの良い美しさを持つ背中。おおよそ考えられるすべての無駄をそぎ落とし、しなやかな筋肉に汗して走る。その写真に見とれた読者は多いんじゃないかと思う。
その背中を一生懸命追いかけるように本を読んだ。読書をやめない限り、その美しい背中はいつも私の視野の中にある醍醐味。様々なフレーズが自分の中から生まれては消えてゆく。長距離を走ったり歩いたりするときに、いろいろなことが自然と頭に浮かんで消えてゆく...あれと同じだ。
そして、途中から、村上文学が世界中のひとのココロを打つ理由は、マラソンランナーの日々の努力と似て、ストイックに日々積み重ねてきたことに過ぎなくて、あっけらかんとするほどシンプルなのでは?と思ったりする。
この本の帯に「少なくとも最後まで歩かなかった」とあって、もうただひたすらその通り。「学ぶべき背中」は、絶えず言っている、「自分次第なんだよ」と。
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現代文学のトップランナー
2020/04/16 23:05
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投稿者:Todoslo - この投稿者のレビュー一覧を見る
読書とランニングに明け暮れる日々に憧れます。健康な肉体を保つことで、旺盛な執筆活動を続けてほしいです。
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走る小説家、村上春樹が語る、走ることについて。
…春樹の本を単行本で買うのって、久しぶりだなぁとしみじみ思う。
昔、軽くストーキングされたことがあって、そのストーカーが、村上春樹そっくりで、しかも村上春樹の文体を真似た小説を書いてた。
春樹には責任は全くないけど、やっぱり、嫌な記憶が戻ってくるのよね。
ってことで、しばらく遠ざかっていた村上春樹。
でも、小説とか、普通に読めるようになってきたし、今回は走ることについての話だから、勇気を出して買ったよww
写真見ると「やっぱ、似てるというか、同じベクトル上の顔だよな」とうげげと思うんだが、だからといってどうってことないので、ようやくトラウマが癒えたのかもしれない。
長かったよ…(涙)
と、内容と関係ない話をしてるけど…。
ま、いかに村上春樹は走る小説家になり、どうしてフルマラソンやらトライアスロンやってるのかといえば、結局小説書くためなんだよ、っていう話。
春樹のこういう姿勢って、ある意味励みになると思う。
つまり、毎日こつこつ積み上げていくと、それが結果を生むという。たとえ、結果を生まなかったとしても、積み上げていった過程で何か得るものがあるはずだと。
簡単そうで、とっても難しいシンプルな法則。
春樹は、それにのっとって、走り続けているわけだ。
私も昔、走ってた時がある。
学生時代、長距離が苦手と思ってたが、やりはじめると、一人で黙々とやれるジョギングはとても性にあっていた。うん、学校のように強制されて、その上集中できない状況で走るのが、単に苦痛だったんだな。
走ってると、物事を色々集中して考えることができるので、頭が冴えてくる感じがした。
多分、これが集中力をもたらす体力というやつだったんだろう。
…また、走ってみようかなと思う今日この頃。
こういう気分にさせてくれる、珠玉のエッセイですww
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文中で語っているように、村上は、思考の力で人々のあらゆる生態や大宇宙を構成してみせるような作家ではない。息づかいや手触りでわかる確かなものだけを、丁寧に鋭利に形作る作家だと思う。
「遠い太鼓」と同じく、こういう風に自分も生きて、老いてみたい、と共感できる本。
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読みながら何度も、小説を読んでいるような錯覚に陥った。
職業的小説家。走り続ける「僕」の物語。
特に印象に残ったのは、「誰かに故のない非難を受けたときは、いつもより少しだけ長い距離を走ることにしている」というくだり。そして、不健全な魂もまた健全な肉体を要する、というテーゼ。
だって、こんな平凡な日常にも、毒素はたくさん散らばっていて。ただ生きているだけで消費されることは確かにあって。そのバランスをとる方法として、身体を強化するということは、確かにまったく有効だと思うのだ。
哲学があって、経験則があって、小説的エッセンスと、素晴らしい文章がある。村上春樹ファン以外にもお勧めしたい秀作。
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読み終わったとき、いや読み始めてから、すぐに走りたくなる本。走るのは道を、そして人生の両方を。世界各国で有名な著者なので、多くを語るよりは読んだらいい。おしゃれな文章、比喩、人生論、みんなが思っている村上春樹が詰まってます。最後の結びは鳥肌がたち、ぐっと感情をゆさぶられた。だから、最後はみずに読んで欲しいな。やれやれ
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自分もランナーのはしくれである。その走っているときの気持ちを表現することはむづかしい。「走る」という事がもたらすもの、気分、快感を素人には表現出来ない事を独特の文体で表現。走ることを用いて、小説を書くこと、人生を語っている。エッセーというより自分史に近いのかな。オリンピック級のランナーの書いたもの、コーチが書いたものなどあるが、表現では一級だと思う。ちょっとランナー文学を深堀りしてみたい。
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村上春樹さんの語る、走ることと書くことはつながっている、ということの意味がよく分かった。自分も村上さんと同じ年齢から走り始めたことが嬉しい発見であり、同じく一生ランナーであり続けたいと思えた1冊であった。
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誰かに故のない(と少なくとも僕には思える)非難を受けたとき、あるいは当然受け入れてもらえると期待していた誰かに受け入れてもらえなかったようなとき、僕はいつもより少しだけ長い距離を走ることにしている。いつもより長い距離を走ることによって、そのぶん自分を肉体的に消耗させる。そして自分が能力に限りのある、弱い人間だということをあらためて認識する。いちばん底の部分でフィジカルを認識する。そしていつもより長い距離を走ったぶん、結果的には自分の肉体を、ほんのわずかではあるけれど強化したことになる。腹が立ったらそのぶん自分にあたればいい。悔しい思いをしたらそのぶん自分を磨けばいい。そう考えて生きてきた。
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2010/6/26購入
p123
世間にはときどき、日々走っている人に向かって「そこまでして長生きをしたいかね」と嘲笑的に言う人がいる。でも思うのだけれど、長生きをしたいと思って走っている人は、実際にはそれほどいないのではないか。むしろ「たとえ長く生きなくてもいいから、少なくとも生きているうちは十全な人生を送りたい」と思って走っている人の方が、数としてはずっと多いのではないかという気がする。同じ十年でも、ぼんやりと生きる十年よりは、しっかりと目的を持って、生き生きと生きる十年の方が当然のことながら遥かに好ましいし、走ることは確実にそれを助けてくれると僕は考えている。与えられた個々人の限界の中で、少しでも有効に自分を燃焼させていくこと、それがランニングというものの本質だし、それはまた生きることの(そして僕にとってはまた書くことの)メタファーでもあるのだ。このような意見には、おそらく多くのランナーが賛同してくれるはずだ。
p143
それに比べると僕は、自慢するわけではないけれど、負けることにはかなり慣れている。世の中には僕の手に余るものごとが山ほどあり、どうやっても勝てない相手が山ほどいる。
p144
彼女たちには彼女たちに相応しいペースがあり、時間性がある。僕には僕には僕に相応しいペースがあり、時間性がある。それらはまったく異なった成立ちのものだし、異なっていて当たり前である。
p147
小説を書くのが不健康な作業であるという主張には、異本的に賛成したい。われわれが小説を書こうとするとき、つまり文章を用いて物語を立ち上げようとするときには、人間存在の根本にある毒素のようなものが、否応なく抽出されて表に出てくる。作家は多かれ少なかれその毒素と正面から向かい合い、危険を承知で手際よく処理していかなくてはならない。そのような毒素の介在なしには、真の意味での創造行為をおこなうことはできないからだ。
p148
しかし僕は思うのだが、息長く職業的に小説を書き続けていこうと望むのなら、我々はそのような危険な体内の毒素に対抗できる、自前の免疫システムを作り上げなくてはならない。
p150
僕の考える文学とは、もっと自発的で、求心的なものだ。そこには自然な前向きの活力がなくてはならない。僕にとって小説を書くのは、峻険な山に挑み、岩壁をよじのぼり、長く激しい格闘の末に頂上にたどり着く作業だ。自分に勝つか、あるいは負けるか、そのどちらしかない。
p152
妙な話だけれど、人前で話すということに限っていえば、日本語でやるよりは(いまだにかなり不自由な)英語でやる方がむしろ気楽なのだ。それはたぶん、日本語で何かまとまったことを話そうとすると、自分が言葉の海に呑み込まれてしまったような感覚に襲われるからだろう。そこには無限の選択肢があり、無限の可能性がある。僕は文筆家としてあまりにもぴったりと日本語に密着してしまっている。だから日本語で不特定多数の人々に向かって話をしようとすると、その豊穣な言葉の海の中で戸惑い、フラストレーションが高まる。
p164
「僕は人間ではない。一��の純粋な機械だ。機械だから、何を感じる必要もない。前に進むだけだ」
p171
生きることと同じだ。終わりがあるから存在に意味があるのではない。存在というものの意味を便宜的に際だたせるために、あるいはその有限性の遠回しな比喩として、どこかの地点にとりあえずの終わりが設定されているだけなんだ、そういう気がした。
p180
前にも書いたが、職業的にものを書く人間の多くがおそらくそうであるように、僕は書きながらものを考える。考えたことを文章にするのではなく、文章を作りながらものを考える。書くという作業を通して思考を形成していく。書き直すことによって、思索を深めていく。しかしどれだけ文章を連ねても結論が出ない、どれだけ書き直しても目的地に到達できない、ということはもちろんある。
p182
なにしろ時間は、時間というものが発生したときから(いったいいつなのだろう?)、いっときも休むことなく前に進み続けてきたのだから。そして若死をまぬがれた人間には、その特典として確実に老いていくというありがたい権利が与えられる。肉体の減衰という栄誉が待っている。その事実を受容し、それに慣れなくてはならない。
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日頃からすてきな写真を撮るひとたちに、かるい嫉妬心を抱いている。プロフェッショナルであるとかアマチュアであるとかは関係ない。
コピーライターになってまだ間もない頃、たぶんAPAの広告写真展だったと思うのだけれど、その告知ポスターのコピーが『写真はコピーより速く走る。』だった。「やられた」と思った。
村上春樹が筋金入りのランナーで、フルマラソンやトライアスロンの大会に何度も出ているのは知っていた。
この本には実際に走っているところや走ったあとの表情をとらえた写真が何葉か掲載されている。あまりプライベートな写真を撮らせないひとだから、珍しいことだ。この写真をみただけで、どんなランナーなのか察しがつく。村上春樹ほどの作家がどれだけ言葉を重ねるよりも速く、率直に。またしても「してやられた」と思った。
そこで鈍足ランナーは考える。速く走るだけがすべてではない、と。なにかを伝えるには、いろいろな方法、いろいろな時間感覚、いろいろな世界観があっていい。ゆっくりとしみこむように伝わるやりかたがあっていいはずだ、と。文章を綴るときの、ある種独特のまどろっこしさは写真では伝えられない。それでいいのだ(・・・と思いたい)。
ゆっくり走るランナーは、季節のうつろいをゆったりと楽しみながら走れるだろう。そう、負け犬が吠える声は、遠くまで届くのだ。