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  3. 春都さんのレビュー一覧

春都さんのレビュー一覧

投稿者:春都

77 件中 31 件~ 45 件を表示

紙の本モルグ街の殺人事件

2001/05/29 05:47

原点、その一言では語れないもの

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 なぜ今ごろ「モルグ街」を、と思う人もいるだろう。ミステリファンならば、読書体験のどこかでこの作品について語られるのを聞いており、ほとんどはトリックも含めたおおすじの内容までも知っているに違いない。「盗まれた手紙」もそうだろう。

 あるいは、いわゆる古典を推奨する人たちのなかには「やはりこれを抑えておかないと」という観点から、つまり、後々までつづいてゆくミステリの「原点である」との理由のみで、この作品を勧める人もいるかもしれない。

 どちらにせよ、そこには「ミステリの歴史」という作品外の評価基準、または価値が付され、『モルグ街の殺人』なる名前のみが前面に押し出されている。ミステリ史における作品の位置、すべての祖であるという揺らぐことのない肩書きが、いつだってついてまわるのだ。

 僕が読んだきっかけは、なかの一編を学校での講義に使うから、にすぎない。期待感などほとんどなく、前述の2つの理由ぐらいしか、読もうという気分にさせるものはなかった。しかし読後の、いや読中の印象はそれとはまったく異なるものだったのである。

 結論から言えば、僕は「小説とは読むものである」ことを再認識させられたのだった。『モルグ街』を形づくっている一文一文、そしてそれらの連なり。外側からでは見ることのできないそういった「構成要素」にこそ作品の魅力があるのであり、それに比べれば「開祖」や「原点」などという言葉は、まるきり余計な飾りにすぎない。なんら『モルグ街の殺人』を表したものではなかったのだ。

 読むことによって、自ら手に取り触れることによって、初めて「知る」ことになる。あらすじやトリック、そして名前などをいくら聞いたところで、それは「その小説」ではないのだ。知った気になるのと、実際に知るのではおおいに違いがある。

 では「知る」にはなにをすればいいかといえば、「作品を読む」以外にはあり得ない。そして作品には「ミステリ史」や「原点」などまったく付きまとってはいず、ただ作品のみがあるだけなのである。

 おそらく僕と同じように、さまざまな付加価値の覆い越しに『モルグ街』を見ている人がいるだろうと思う。内容やトリックを知っているだけで、読んだ気持ちになっている人もいるかもしれない。
 しかしそれは決して『モルグ街』そのものではないことに気づくべきだろう。百聞は一見にしかず、というわけだ。

 ぜひ、一文一節を味わってほしい。語るのはそれから。

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紙の本陰陽師

2001/05/29 05:27

異形よ、聞け

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 時は平安。闇が闇として残り、人も鬼も物の怪も、同じ都の暗がりの中に、時には同じ屋根の下に、息をひそめて一緒に住んでいた。安倍清明は陰陽寮に属する陰陽師。妖しのものを相手に、親友の源博雅と力を合わせ、この世ならぬ不可思議な事件を解決する。

 陰陽師とは、語りかける者である。ふつうの人間であれば見ることすらもできないような「異形の者ども」の声なき声を、その叫びを聞き、あるべき場所に帰らせるために語りかけることのできる者、それが陰陽師なのだ。

 こちらに未練を残し、あちらとの狭間で頼るものなく漂いつづけ彷徨いつづける「闇の者」に、安倍清明は優しく、ときには厳しく言葉を連ねる。これは陰陽の力を持ってしまった自分にしかできない業だと、彼はもしかしたら思っているのかもしれない。

 もっと伝記物のようなのを想像していたのだけど、これは「連作ミステリ」だ。ほとんど「妖術」としか言えない安倍清明の力でもって、謎を解決していくっていう。呪とか式神などの知識も、京極堂のほうで習っていたので、すいすい読んでいけた。

 夢枕獏が「こいつ(安倍清明)を書きたい」と思い続けていたのがよく伝わってくるけど、心ゆくまで書くなら、この短編集では物足りないに違いない。将来、長編で見れるだろう。もうあるのかな?

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紙の本オルガニスト

2001/05/29 05:20

音楽に捧ぐ

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 芸術家という、ある種特異な人たちがいる。彼らはその身を捧げることで優れた作品をつくりだしているのだけども、一方で捨ててしまうもの、捨てざるを得なかったものも少なくないのではないか。

 だからこそ他人には成しえない「創造」をすることができるのだ、と言ってしまえばそれまでだが、代償はあまりに大きい。ときに狂気さえひきおこしてしまうのである。登場人物の一人がいう「僕は音楽になりたい」とは、真摯でありながら凄惨な言葉だ。

 欲をいえば、言葉によって音楽を奏でてほしかった。それこそ僕でも知っているバッハから、聞いたこともない音楽家の曲までいろいろと演奏されるのだけど、周辺情報、つまりこれはどういうときに書かれた曲でどんな意味を持っているなどの記述ばかりで、音そのものの描写がほとんどなかったのだ。

 「言葉にはできない」といわれればその通りなのだけど、やはり音楽をあつかった小説としては、聴いている者の主観的印象で充分だからそれを書いてほしかった。
 そう、本を開けば音楽が流れでてくるかのような。

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紙の本BH85

2001/05/29 05:13

ファンタジーかSFか

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 日本ファンタジーノベル大賞、第11回優秀賞作品。
 つぎつぎと融合をくりかえす生物「テロメア」とはいかにもSFチックであり、またその取り込んでいくさまと追われる人間という対比を描けばパニック小説にもなったかもと思ったが、途中から方向が変わり、テロメアを触媒とした「個」の哲学論にうつっていったのがおもしろい。

 読者のサンプルとして登場人物たちをそろえたため、感情などの書き込みは物足りないところもあるものの、思考実験的なストーリーに悲壮さはなく、あくまでユーモアに包もうという意識は読了後に心地よさを残す。
 ファンタジーの奥深さ、懐の深さを感じた。

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紙の本水野先生と三百年密室

2001/05/29 05:10

素直に読んでね

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 万松学園女子高校に新任教師として採用された水野光一は、理事長から学園内で生徒が起こしたと見られる殺人事件の解決および有力な容疑がかかっている1年6組の担任を頼まれる。そのクラスの生徒は「殺人クラス」と見られ続けることに疲れ果てていた。
 そんな折、同宿の教師から「御信用蔵」と呼ばれる不可解な謎が江戸時代より伝えられていることを聞かされる。そこに入れられた「婿」は、悪人の場合に限り密室の中で息絶えるのだという。

 教師に望まれることは何だろうか。学業の成績を上げること、生徒に感謝されるような行為をすること、より良いポストに就くことを目的とそえること。
 どれでもない。教師が、人が人と接するにあたって一番大事なことは「信じること、信じ続けること」である。そう村瀬はくり返し訴える。読者はその真摯で素直な姿勢に忘れていた何かを揺り動かされることだろう。

 1年6組の生徒たちを励まし鼓舞しともに立ち直ろうという水野先生、教え子である彼に助言を与え支える幾人かの「先生」たち、そして水野の生徒を信じる姿勢に「教師とは何か」を気付かされる先輩教師。
 自らも教鞭を執っていた経験のある村瀬のおそらく「理想の教師像」が作品を通じて語られていく。水野によって徐々に事件の傷を癒されていく生徒たちの姿は微笑ましくも感動的である。

 テーマとしては上記のことを語りたいのは間違いないだろうが、それを彩る2つの「謎」もまた魅力的である。「藤田先生」もそうだが、物理トリックと心理的錯誤によって構築された「不思議」が気持ちがいいほど明快に解き明かされる村瀬の作風は、すでに完成されたような美しさがある。
 伏線の張り方はけっこう見え見えなのだが、小気味いい文章にのせられてしまうので不備は気にならない。

 長さもちょうどいい。が、そのために後半駆け足になったのか、あるいは解決に向けて水野を引っ張り回したかったのかは判らないが、少し展開が唐突なような気がした。読者としてはあっちこっちに連れていかれるので楽しいといえば楽しいのだが。

 もう一つ。「御信用蔵」の真相解説には図解がほしかった。間違ってその辺を開いてしまっていきなり判らないようにとの配慮だろうが、そもそも蔵の中の図解が事前にないために正直イメージしにくいのだ。細かいことが判らなくっても非常に面白い真相であることは間違いないのだが。僕のイメージ能力が弱いのだろうか。

 「藤田先生」は主に短編用のキャラなのかもしれない。とすると「水野先生」の活躍はまだ見られる可能性が充分あるということか。いわゆる安楽椅子探偵ならぬ安楽椅子助手(つまりヒント係)の友人も用意されていることだし、更なる不可解事件に関わることは不思議ではない。その作品もまた「あたたかい」のだろう。

 読者にはぜひ「素直な気持ち」でページを繰ってほしい作品である。

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紙の本竜は眠る

2001/05/29 05:07

きみとの距離は、こんなに遠い

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 僕らから少し外れたところに立っている人たちがいる。それは多くの場合、理不尽な「運命」や「生まれつき」などにより、自分たちの望まないままにそこに立たされている。
 僕らと彼らのあいだには、ほんの一歩で渡れるほどのの距離しかないのに、なぜこんなにも遠いのだろう。心の距離は、いくら手と手を触れあおうとも、近づけることは難しい。

 それでも僕らは距離をちぢめたいと思う。なぜなら、ある日、彼らの孤独を感じてしまうから。そして、孤独でありながらも強く生きている姿、周りの視線と自分自身の嘆きに押しつぶされそうになりながら、それでも前を向いて歩き続ける、その背中に気づいてしまうから。
 歩み寄ることが難しいなら、手を伸ばしてみればいい。彼らはきっと、僕らの心を読んでくれる。

 中心に高坂をめぐる事件を置きながら、宮部みゆきの関心はそこにはない。彼女が目を向けているのは、事件によって結びつけられたり絆を深めたりした人々の心の移ろい。

 人と人とがその人生のうちで交わる、その一瞬のすべてを見逃さない、宮部みゆきという作家の強さと優しさはここに表れる。そう、宮部みゆきは心を描き、これからも描き続ける人間なのだ。たぶん。

 とにかく人物配置が抜群だ。この物語にするには、どこに誰をどう置いて、こいつとの距離はどのぐらいにして、過去にどんな経験をしてきたか。そういった諸々が驚くほど精密に計算されている。もちろんキャラも立ってるから、ストーリーの駒のように感じることなんてない。
 もしかしたら計算じゃなく、人物を置いてから物語を動かしていく手法なのかもしれないが、どちらにせよスゴイ。
 いやはや、こりゃ次の作品はやく読まなくちゃな。

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紙の本黄泉津比良坂、暗夜行路

2001/05/29 04:58

絢爛豪華か、装飾過多か

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 作中に登場する屋敷と同様に、物語全体が異様な雰囲気につつまれている。いつ地獄のものどもが現れてもおかしくない、閉じた世界がここにある。
 その中に充満した数えきれないほどの暗号とは、地獄の蓋でありながら、しかしそれ自体がもうすでにこの世の物ではないのかもしれない。

 もちろん暗号を解き明かすことのできる唯一の人間、朱雀十五もまたこちらとあちらの狭間に生きている、得体の知れない畏怖すべき存在なのである。もし彼が盲目でなければ、おそらくこちらに来ることもないのかもしれない。

 さて、下巻に入って一気に輝きが無くなってしまうのは、おそらく解明のやりかたが巧くないのだと思う。せっかく空々しいほどの言葉を費やして飾りたて構築した謎を、なんの工夫もなく「説明」するだけで、解明による新たな驚きといったものがほとんど演出されていない。
 それはそもそも朱雀十五のキャラ・性格設定から間違えてしまったのではないかと思えるほど。個人的には、藤木稟が小説の前にしていた仕事(ノンフィクションを書いてたらしい?)で習得した書き方、それがまだ抜け切れていないのだろうと思うのだが。
 物語にあまり必要ない知的情報も、存分に出すなら出すでけっこうだから、もうちょっとおもしろく読ませる工夫をしてほしいものだ。

 これまで藤木稟作品3作を読んだうえでの印象として、本格ミステリにこだわって小綺麗にまとめてしまうよりは、ジャンルの境界上にあるような「腑に落ちない」物語、あるいは装飾そのものを魅せるような小説を書いたほうが、この人の良いところは出ると思う。

 ところで、明石散人の解説の「書き手自身が自らの答えを全く持たずにこのゲームを開始している」ってのは、たぶんその通りだろう。伏線もないし、いかにもつじつま合わせの魅力に乏しいトリックだし。
 決定的な情報をその時になってから「つけ足して」、しかも科学的な解明に逃げる(としか僕には思えない)ということを今後も続けるようなら、僕は藤木稟をイチオシ作家リストから外さざるを得ない。そんなのねえけど。

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紙の本そして五人がいなくなる

2001/05/29 04:52

そして僕らはまっ赤な夢をみる

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 自信家の名探偵、「伯爵」を名のる犯人、そして不可能状況での人間消失。これでもかと言わんばかりの道具立てで「本格探偵小説」へと読者をいざなう。もちろん、中心にはやはり「こども」がいる。

 実を言うと、前作『バイバイスクール』もそうだったが、はやみね氏の作品はたしかに面白い、しかし一方で物足りないものも感じているのだ。ジュブナイルなのだから当たり前だ、と切り捨ててしまうのもなんなので、ちょっと考えてみた。もう書評というよりエッセイみたいなものか。

 一番気になったのが、どうもストーリーやテーマの中心となる部分以外が、極力カットされているようだということ。ジュブナイルという一応こども向けとして書かれる小説であるから、わかりやすい・読みやすいが絶対条件としてあるわけで、言ってみれば「簡略化されたミステリ」になっているのだ。「おとな向けミステリ」に比べると、装飾(ある意味いらない部分)が少ないのである。だから書評も、ネタバレせずに書くのが難しい。

 ミステリの核となるもの、つまり「驚き」や「謎」などというものは、もともと子供じみているんじゃないだろうか。アッという真相だの、奇想天外なトリックだの、こんなものを楽しめるなんてのは「こども」以外にない。

 今のミステリがほとんどおとな向けなのは、いろいろなジャンルとの統合・混合がなされてきたこととも関係してくるが、一言でいえば前述の「核」に、ストーリー的なものや描写・文章的なもの(装飾)を肉づけしていき「ミステリ」たらしめているから、という理由にすぎない。核にもっとも近い「本格ミステリ」でさえ、そういったものは不可欠だ。装飾をしなければ、ミステリ以前に「小説」にならない、クイズみたいなものだからである。

 はやみね氏は、その核に「ジュブナイル用」の装飾をほどこしている。これはおとな向けミステリよりもはるかに少ない文章量を求められるため、出す情報を厳選していかなくてはならない。切り捨てられるものも多くなる。そんなわけで、これまでの「装飾の多いミステリ」に慣れていた僕は、物足りないものを感じてしまったのだろう。

 じゃあ、そんな僕がなぜ「はやみねミステリ」に他のおとな向けミステリと比べても、遜色ないぐらいのおもしろさを感じたのか。こっちは簡単。「核に優れた素材をもってきているから」である。

 ……書評が書けないことへの「言い訳」はたいがいにしときましょう。

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ずっと、ノスタルジィ

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 廃校という、自分たちが昨日までいた場所がなくなってしまう「最大の事件」をむかえながらも、前向きに対応していく人たちがここにはいる。動かしようのない現実をどう受け入れればいいのか。
 はやみねかおるの用意した結末は、登場人物すべてに限りなく優しく温かかった。いや、結末だけではない。物語のはじめから終わりまで終始一貫、作者のまなざしは温かい。

 すごく「本格」してるじゃないか、これ。というのが素直な感想である。「読者への挑戦状」をはじめ、ひとつひとつの不思議を成立させているトリック、きっちりと張られた伏線に、論理的に真相をみぬく探偵役など、ここまでやれるのかと思うほどしっかりしている。なるほど、これならミステリ読みに受け入れられるのもわかるなと思った。

 しかし、子供向けに書くというのは決して楽な状況ではないと思う。わかりやすいもの、残酷でないもの、そういった様々な条件、もっといえば「縛り」のなかで、自分の伝えたいことを書かなければいけないからだ。
 たしかに、いわゆる大人向けの小説を中心に読んでいる僕らには物足りないところもあるのだけど、やはりそういうことも加味して評価しなければいけないと思う。それだからこそ得られる・読みとれるものも少なくないだろうし。

 将来僕に子供ができるようなことがあれば、彼あるいは彼女の本棚にそっとしのばせておきたい1冊。ミステリを好きになってほしいとか、そういうことじゃなく、もっともっと大事なことがここにはふんだんにつまっているから。

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紙の本この闇と光

2001/05/29 04:47

そういえばミステリ

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 ある事故によって視力を失ってしまったレイア。革命によって自由を奪われた1国の王女として育てられたレイアは、小さなころから身の回りの世話をするダフネに「死ねばいいのに」と言われつづけていた。その一方で父親の溺愛を受け、多くの書物・音楽に惹かれる。
 やがて「暴動」が起き、レイアは「病院」に連れていかれるのだが、そこには「父と母を名のる人たち」が待っていた。

 対極の位置にある「闇」と「光」を同時に持つというアブラクサスの神。この作品で目指したテーマはそれの具現化である、と言っていいだろう。
 盲目のレイアが感じる世界は闇から光へ、そしてまた闇となったあと、ラストにいたって「闇であり光でもある」世界へと変わってしまう。読者は「どちらを選択するか」ではなく「どちらも受け入れなくてはならない」のである。

 作中作のように語られていた章もあるのだが、それも同様に「虚構と現実」を同時に持っていることが、読了してはじめてわかった。ねらいを結実させえた技術はたいしたものだ。

 その一方で「レイアの成長」というのも、作品の見どころだろう。「厳選された情報」によって、どういった知識を獲得していき、人格に影響をおよぼすのか。目が見えないという制約の中で、かすかな記憶をたよりに文字をおぼえ様々な概念を体得していく1人の子供。

 いわば「成長の記録」をレイアの視点で追体験していくのは、当たり前と思って忘れていた「スリル・驚き」を読者に与えるに違いない。それによる新たな発見もあるだろう。

 この大きな(スケール云々ではなく)トリックには恐れいった。あとから読み返してみれば至るところに伏線が張ってあるのだが、文体と雰囲気にミステリであることを「忘れさせられてしまった」ため、真相の驚き・落差にこれ以上ないほどのカタルシスを感じ、楽しくなってしまった。良い。

 「犯人」の動機とかはかなり不自然なのだが、「虚構・創作」の中で書かれているためにツッコミを逃れることも可能となっている。だから言及しない。

 僕のこれまで持っていた服部まゆみ氏の印象をくつがえすような、とてもやわらかい感触の作品だ。もちろんそれだけで終わりはしないのもまた服部まゆみなのだろうが。

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紙の本転生

2001/05/29 04:40

貫井徳郎の欠片

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 突然の心臓病に侵されたおれは、幸運にも心臓移植手術を受けることができた。ところが術後におかしな夢を見るようになる。
 全く知らない女性・恵美子と親しげに会話を交わし、行ったこともない美術館に行き、ついには何者かに殺される夢だった。そして以前にはまるで不得意だった絵の才能も表れるようになったのである。

 心はどこにあるのか、とは人間の抱える謎のひとつであろう。現代の科学では「脳の電気信号の集まり」にすぎないとわかっているけども、しかし私たちが直感的に思う「心」といえば、やはり「心臓」ではないだろうか。心が痛い、というときに頭を抑える人は少ない。
 心臓移植とはそういった考えにはとらわれず、あくまでも人体を構成する一パーツとして、悪い部品を取りかえる行為である。もちろん、悪いことではない。

 しかしながら、心臓を移植した彼にとって、「心臓=心」という考えもまた受け入れがたいのである。なぜならこの体に入っている心臓は他人のものであり、心を心臓のみが司っているのならば、この心もまた他人のものと認めることになるからだ。

 自分の知らない様々な体験を感じはじめた彼は、心臓を提供したドナーを探すことを決心する。それはすなわち、他人探しであると同時に、「自分探し」であるとも言えるのである。

 僕にとってこの貫井徳郎という人は、真保裕一や北森鴻と同じく「信頼」できる作家だ。高水準のものを書くとか、外れが少ないということではなく、自らの作風の外枠といったものを自覚し、その中で完成度を高める方向に進んでいるのではないかと思うからである。特に貫井徳郎はデビュー作ですでにそれを発見していたかのようにも見える。

 しかしその反面、いい意味での「裏切り」がないのは、読者としては物足りない。冒険と言ってもいいだろう。今回の作品も、さすがと思わせる完成度ではあるのだが、ではこれをもって貫井徳郎という作家の新たな一面が見られたかといえば、決してそうは思えない。
 むしろ、『慟哭』に続くいくつかの著作で発揮されている彼の「手腕」あるいは「才能」が、ほとんど変わらぬ形で現れており、しかも貫井徳郎の貫井徳郎たるゆえんともいえる「本格魂」をあえて排除しているため、見事なまでに「無難な」作品に仕上がってしまっている。

 『鬼流殺生祭』のように、不格好なまでに自らの作風を崩し、新たなものを求める企みの一方で、『転生』のような作品も追求していくことは、もしかしたら貫井徳郎という作家にとっては良いことなのかもしれない。しかし、やはり僕としてはひとつひとつの作品に、驚きと感動を期待してしまうのだ。

 そういった面から言って、この作品は完成度はそれなりに高いのだろうけれど、喝采するほどではない、いや喝采するタイプではないというのが、僕の印象なのである。もっと魅せてほしい。

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紙の本レフトハンド

2001/05/29 04:25

4つの「恐怖」

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 最近ホラーを少しずつ読みだして思ったことは「恐怖」にもいくつかの種類があるということだ。
 我が身の危険、未知、生理的な嫌悪・不快感、そして人間の怖ろしさなどが思い浮かぶが、いずれの作品でもそれらを取り混ぜて使っているようである。しかしただ並べ立てればいいというわけではなく、なにか突出したものがなくてはならない。

 例えば『黒い家』などは人間の怖ろしさ・おぞましさを先鋭化させた作品だと僕は思っているし、『リング』は我が身の危険に対する恐怖を突きつめた作品といえるだろう。とにかく「なにか」がなければ恐怖も面白さもある程度までしか感じることは出来ないのである。

 その観点でいくと『レフトハンド』は興味深い構成をしている。上記にあげた4つの恐怖原理(勝手に命名)を場面ごとに使い分けているようなのだ。
「未知」の生物であるLHVは人を襲うから「我が身の危険」を感じるし、本体から離れる際や動き回る姿などは「生理的な嫌悪感」を催させる以外の何ものでもない。そして後に判明するLHVの正体は「人間の怖ろしさ」だ。
 これらを織り交ぜることで読者にそれぞれ異なった「恐怖」を感じさせようとしているのであろう。突出したものはなかったように思うが、あえて僕が一番良かったと感じたのをあげるとすれば「脱皮」の気持ち悪さだろう。この部分の筆は作者のノリを表しているかのように迷いがなく、グロテスクな映像が頭に飛び込んできたのだ。

 面白いのは、これまで僕のイメージしていたホラーの「欠点」をこの作品は払拭してくれたこと。何かというと、未知の生物や訳の分からない怪物などが人を襲ってコワイのはたしかにそうなのだが「で、こいつらは結局何なのよ」という煮え切らない思いを抱えたまま終わってしまうことがホラーには多い気がしていたのである。すっきりした終わりでないことが読者にまた恐怖を与える方法だというのは判るし、無理に現実まで引きずり下ろさない方がよい作品もあるのだが、でもなあ……という感じだったのだ。

 ところがこの「左腕」は解剖される。どんな組織がありそれはなんの機能を司っているのか。なぜ光や音に反応できるのか。どうやって食物を摂取し、なぜ動き回ることができるのか。津川の観察から推測されることにしか過ぎないのだが、未知の生物の不気味さと不思議さを現実レベルまで下ろしてくれるのだ。
 もちろんそれで「左腕」のことをすべて知ってしまうなどという心配もなく、さらに先があるため興味は尽きることなく読みすすめていくことができる。

 惜しむらくは、作者の提出の仕方があまり上手くないことだ。きわめて説明的な語り口が随所に見られるし、また視点の混乱がはなはだしいなど文章的な未熟さもネックとなっている。ストーリーは飽きさせないよう山をいくつもこしらえているのだが、ところどころ読みすすめるのに苦労した。勢いで書ききったのであろうと思えるのだが。

 ホラーはいま隆盛の時機にあるという。『レフトハンド』は完成度は低いかもしれないが、読者を惹きつける理由が何となく判ったような面白い作品であった。

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紙の本孤独の歌声

2001/05/29 04:19

孤独が好きと言うけれど

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 もっと「どろどろじめじめ」な重厚なものを予想していたのだが、文章が若者っぽさもあり読みやすい(語り手が若いからだろうけど)ので、思ったよりライトな印象。

 しかし事件そのもののショッキングさと、その裏にある現代的病理は決して軽くない。「独り」と「家族」、そして「他人」。
 よくあるような「あとは読者それぞれが考えましょう」といったものではなく、作者が信ずるそれらへの認識というか「距離のとりかた」を強烈に主張している。
 天童荒太は安易に問わず、ただひたむきに語るのだ。

 「時代を切り取った」と評される作品というのは、えてして数年経ってからみると評価が落ちがちになってしまうと思う。時代が作品に追いついた、ではないだろうけど、発表当時には斬新だった「作家が敏感に察知した感覚」が知らず知らず世の中に浸透し、慣れてしまうのかもしれない。

 この『孤独の歌声』もある意味で時代性を持っていて、それが表れる事件とその真相にさほど新鮮味も驚きも感じない。表面上のストーリーがおもしろいから楽しむぶんには困らないものの、そういった点を味わえない、味わうためには「その当時」を鑑みる必要があるだろうことには、少しばかり悔しさを覚えたり。

 孤独は悪なのか善なのか。悩む時代はおそらくすでに過ぎている。

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紙の本八月のマルクス

2001/05/29 04:06

わたしを笑え

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 第45回江戸川乱歩賞受賞作。それ以外はとくに言うことが浮かばない。放浪してたらしいが、その間のことを書いたエッセイとか発表したらこいつは見捨てようと思っているなんてのはまだ内緒である。

 主人公は元・売れっ子お笑い芸人。数年ぶりに会いに来た相方がその直後姿を消した。捜索をはじめた主人公は、昔所属していた事務所の不正行為に気づく。それとともに掘り返される主人公の古傷。彼はある番組ロケのとき、一人の若い芸人の死に関わっていた。

 セリフ・行動・思考、どれをとっても真っ正直なハードボイルドである。ところが彼が「お笑い芸人」だったため、他のハードボイルドなら気の利いたセリフととられるであろう言葉が、すべて「笑える・笑えない」という基準で受け取られてしまうのが興味深い。新たな視点と言ってもいいかもしれない。

 「格好いい小説を書きたい」と作者は述べる。この作品で、お笑いという道化の仮面の裏にある、暗く哀しい素顔を描ききったと言えよう。しかし結局、主人公は人を笑わせるために奔走することになる。

 それは「笑い」ではなく、涙のあとに見せる安心の「笑顔」だ。誰でも生まれてくるときには泣いているが、その後、温かい胸に抱かれて笑うだろう。彼はいちばん欲しかったその笑顔を手に入れることができたのである。

 ミステリー的にはフツー。素材はおもしろいんだけど。小説でのギャグは不可能ということを逆手に取ったのだと解釈するのは無理無理だろうか。

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紙の本闇色のソプラノ

2001/05/29 03:29

殉教の幸福

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 なにをもって人は「幸せ」というのか?
 愛しい人を守ること、想いを遂げること、事実を知らないこと。作品中で語られるそれらにはどれも同等に真実の響きがあり、どれが正しくどれが間違っているとは言えない。人それぞれと言い切ることもできないのだ。
 読者はその「盲目の殉教性」に接することで少なからず感動を覚え、またそれ以上の恐怖も感じるだろう。
 これは「己が信じていたものが揺らぐことへの怖れ」を描いた作品と言えるのだ。

 ラスト10ページは驚愕の一言に尽きる。それまでは、不世出の詩人・樹来たか子を巡って物語が展開するが、彼女同様につかみ所がない。それ故に魅力があるとも言えるのだろうが、読者は桂城真夜子と同じ歯がゆさを覚えつづけるはずだ。
 しかしことラストにいたって「偶然」という点であったことどもが収斂し、「真実」という面を形成する。はたして読者はそこに何を見いだすのだろうか。
 それは、前述したように「愛」と「幸」と「怖」ではないかと思う。

 上手いと思ったのは、その舞台設定。いくつも偶然が重なり合うことでしか起こりえない諸々の事件を「遠誉野」という、それ自体が魔力を秘めた町を舞台にすることで違和感なく説明している。これは作中でも触れられているように「遠野」のことだろう。

 サブストーリー的に語られる、「遠誉野とはいったい何なのか?」という謎。民間・郷土史研究家である殿村三味によって徐々に語り明かされていく町の由来はかなり魅力的であり、なおかつメインストーリーとも密接に関わり合ってくる。
 こういった「郷土史」が語られる際にときどき見受けられる「言葉の難解さ」も、殿村自身が平易な言葉遣いをするという理由から解消されているので頭に入って来やすいだろう。

 今回は小手先の技術よりも、作品の構造で魅せたような感じだ。もちろんミステリであるから相変わらず大胆な伏線を張っているし、それぞれの事件の本当の姿はどこにあるのかという謎と、そこにいたる転がせ方も手が込んでいる。

 ただ一つ、ずっと気になることがあった。どうでもいいことだろうが、一部の視点人物の「独り言」が異常に多いのだ。まわりに誰もいないときには会話のしようがないし、とすると地の文が延々とつづいて読む感触が多少悪くなるので仕方ないのだろうが、やはり変だ。気にしなければ、文章は安定しているから読みやすいはずなのだけど。

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