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紙の本
両氏の翻訳の秘密や翻訳に対する姿勢、両者の違い
2016/08/23 10:47
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投稿者:まなしお - この投稿者のレビュー一覧を見る
作家かつ翻訳家の村上春樹氏と翻訳家の柴田元幸氏のフォーラムでの対談及び出席者の質疑応答、また、レイモンド・カーヴァーとポール・オースターの同作品の両氏の翻訳が載っている。両氏の翻訳の秘密や翻訳に対する姿勢、両者の違いなどがわかって大変興味深かった。
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翻訳家にはなれなかったが
2002/06/23 17:28
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投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る
学生時代、何冊かのペーパーバッグを買ったことがある。まるごと英語である。そのうちのほとんどが向こうのポルノ小説だった。ポルノ小説を買ったのは、自分の興味がある物語だったら翻訳しようという意欲が続くみたいなことを聞いたからだが(そして、大急ぎで自分の名誉のために、一冊だけ真面目な小説があったことを付け加えておこう。サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」の原書だ)、もちろんそのことで僕は翻訳家になったわけでもないし、なれもしなかったはずだ。たんに気まぐれにすぎなかった。でも、この本の村上春樹さんの翻訳についての話を聞いていると、僕の英語の勉強方法はまちがっていなかったと思われる。ただ、根気と運命が、たぶん違っていたのだろう。
ちなみにサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」は就職してから翻訳本で、しっかり読んだことも付け加えておく。
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名人二人の競演
2001/06/24 22:19
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投稿者:katu - この投稿者のレビュー一覧を見る
3回のフォーラムと二人の競訳からなっている。1回目は柴田元幸の大学のクラスの生徒を相手に、2回目は翻訳学校の生徒を相手に、3回目は上級編ということで実際に訳書もある若い翻訳者たちを相手に行っている。
競訳ではレイモンド・カーヴァーとポール・オースターの短編をそれぞれが翻訳している。
村上春樹は翻訳の上達には自分が惚れ込むことのできるテキストを見つけることだという。村上春樹にとって、それがカーヴァーやフィッツジェラルドということになるのだろう。しかし、一般の人がそれを見つけるのは難しいのではないだろうか。
競訳におけるカーヴァーの翻訳は、当たり前かもしれないが、もう圧倒的に村上春樹の方がいい。オースターの翻訳はいい勝負だと思う。
文芸翻訳を目指す人は必読だと思うけど、村上春樹の言うことはちょっとレベルが高いと忠告しておく。
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翻訳とはなにか
2001/04/17 18:06
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投稿者:55555 - この投稿者のレビュー一覧を見る
村上春樹は創作が終ると、その穴を埋めるかのように翻訳にのめり込む。
柴田元幸は大学で学生を教える傍ら、翻訳をする。
そんな数十年来の付き合いの二人が翻訳について語ったこの本。確かに翻訳については多く語られているが、技術的なことや実際的なことについては余り多く触れられておらず、そんな話を望む人には勧められないが、村上春樹や柴田元幸や翻訳が好きな人には面白いのではないか。
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捨ててこそ浮かぶ自我あり翻訳道
2001/02/11 16:42
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投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
少し前から翻訳をしてみたいと思うようになっていた。たとえばロレンスとかワイルドの短編などを休日の午後、たっぷりと時間のあるときに楽しみながら翻訳することで、他人の脳を使って遊んでみたいと考えるようになっていた。その思いが少しずつ高まり、私の英語力に見合った「手頃な」素材を物色しかけた矢先、本書にめぐりあった。初級編、中級編、上級編と段階的に進んでいく(?)二人の翻訳名人の芸談義と競訳(村上がオースターを訳し、柴田がカーヴァーを訳す)を憧憬と陶酔をもって読み終えて、その思いがますます嵩じてきた。
本書で村上が「翻訳的自我」(211頁)という言葉を使っていたのが面白かった。そこへ到るまでの発言を、前後の脈略抜きに思いだせるまま抽出しておくと、村上はまず「翻訳とはエゴみたいなものを捨てることだと、僕は思うんです。」(63頁)と語り始める。──昔、印刷術のないころには、現実的な必要に応じた写経や写本を通じて「人々は物語の魂そのもののようなものを、言うなれば肉体的に自己の中に引き入れていった。魂というのは効率とは関係のないところに成立しているものなんです。翻訳という作業はそれに似ていると僕は思うんですよね。翻訳というのは言い換えれば、「もっとも効率の悪い読書」のことです。でも実際に手を動かしてテキストを置き換えていくことによって、自分の中に染み込んでいくことはすごくあると思うんです。」(111頁)──「僕が感じるのは、翻訳をしているときには一つの仮面を被るというか、ペルソナを被るみたいなところがあって、…自分の立場の置き換えみたいなのが常に行われていて、それは、精神治療的な見地から言っても意味のあることなんじゃないかという気がしなくはないんです。」(198頁)──「翻訳というのは、極端に濃密な読書であるという言い方もできるかもしれない。」(199頁)──「僕が言いたいのは、自己表現的な部分は、柴田さん本人が思っているよりは強いんじゃないかということなんです。無意識的にというか、まるで自分の潜在的人格を愛するように…」(210頁)──「柴田さんの「翻訳的自我」と、まで言ってしまうと言いすぎかもしれないけど、でもくっきりとしたものは見えてきますよね。」(211頁)
捨ててこそ、浮かぶ自我あり、翻訳道。──西田幾多郎も書いている。《自己の真摯なる内面的要求に従うということ、すなわち自己の真人格を実現するということは、客観に対して主観を立し、外物を自己に従えるという意味ではない。自己の主観的空想を消摩しつくして全然物と一致したるところに、かえって自己の真要求を満足し真の自己をみることができるのである。》(『善の研究』第三篇第十一章)
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ベストセラーだが、内容が万人向けとは思えない
2000/12/01 14:42
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投稿者:白井道也 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「片手間」以上の翻訳をしている作家・村上春樹。オースターの翻訳でお馴染み、「柴田くん」こと東大助教授・柴田元幸。本書は、ふたりの対談と質疑応答を中心に、翻訳の奥深さを明かしてゆく。
第1部は、東大の教養学部生を相手に。第2部は、翻訳学校の生徒を相手に。途中、レイモンド・カーヴァーとポール・オースターの同じ短編をふたりがそれぞれ訳し、それを受けて第3部では若き翻訳者を相手にしている。ふたりの話や質問の内容は、もちろんページが進むにつれて、高度かつ技術的になってゆく。柴田もいい聞き役として、村上の文章観や翻訳観を引き出している。
翻訳そのものに興味を持っている人、村上の熱烈なファン、柴田の仕事のファンであれば、全編を楽しく読めるであろう。そうでない人にとって、ほんとうに面白いのは第1部。ここでは質問が漠然としているだけに、村上春樹の文章観がいちばん強く、広く表れている。「書いたものは読み直さないが、英語に訳された自分の小説は距離を持って読める」など、普段のインタビューからはなかなか見えてこない作家・村上の真意が垣間見える。
本書の売れ行きは順調であるが、内容は万人向けとは思えない。それだけ、村上春樹と柴田元幸のネームバリューがすごいということか。