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キャッチャー・イン・ザ・ライ みんなのレビュー

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みんなのレビュー306件

みんなの評価3.6

評価内訳

306 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

出版社コメント

2003/01/21 10:13

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:白水社 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 1964年の刊行以来、累計250万部のロングセラーを続ける『ライ麦畑でつかまえて』の新訳が、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のタイトルで白水社から出版されます。訳者は村上春樹氏。「ずっとやりたかった仕事」だそうで、気合いが入っているようです。
 何度目かの退学処分を受け、たったひとりでニューヨークをさまよう16歳の少年——ホールデン・コールフィールドの目に映る世界を一人称で語るこの作品は、美しいとしか言いようのないイノセンス、おとなの「インチキ」に対する辛辣な批判、そして何よりもユーモアに彩られた「永遠の青春小説」です。
 今回の村上訳では、登場人物や情景がさらにクリアに、鮮烈になり、歴史的名訳となった従来の版とはまた一味違う喜びを与えてくれるでしょう。
 初めて読む人も、すでに読んだ人も、清新な「ライ麦」をお楽しみください。

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紙の本

サリンジャーのライ麦畑でつかまえて

2008/11/16 08:05

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:龍. - この投稿者のレビュー一覧を見る

サリンジャーのライ麦畑でつかまえて。

この本は、大学生の時に英語で読んだのが初めて。

その時に訳本も一緒に読んだので、今回で3回目です。

私が大学生の時ですから、かれこれすでに20年前。

光陰矢のごとし・・・

ともあれ、今回は村上春樹さんが新訳の本です。出版当時、村上さんの訳ということで話題になった本です。

ただ訳者が変わったからといって、もちろん内容は変わりません。

内容は、ホールデン少年の日常生活を通して、少年の持っている漠然とした不安とその葛藤を描いたもの。

いわゆる青春小説。

この本をはじめて読んだとき、私とホールデンの年はほぼ一緒でした。ですから、ホールデンの心情にとても共感した記憶があります。

今回は・・・ちょっと様子が違っています。訳者が変わったから、ということではありません。村上さんの訳は、現代調でいいです。ただ自分の青春時代の言葉とは、違うのです。もっと心に響く言葉だったような・・・

あきらかに原因は訳者にあるのではなく、自分自身にあります。

学生から社会人になって、純粋な部分が失ってしまったのでは?

極端な話、あの頃、共感したホールデンの心情が、今ではわがままな少年に思えてしまう。

若いときに読むべき本なのでしょう。

かなりさびしい感覚。


龍.

http://ameblo.jp/12484/

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紙の本

ま、村上春樹が訳すから傑作、てなふうな幻想から私たちも抜け出てもいいんじゃあないかって思うよね、でも村上が訳さなかったら私の中でいつまでもこの本は読まない傑作だったんだから、やっぱり感謝はするね

2003/08/10 20:53

5人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る

最初に書いてしまうけれど、ダメ男がでてくる小説ってのは、面白くないんだよね。勿論、若さってのは愚かさの代名詞ではあるし、そこに共感を抱くって言うのは分からないではないけれど、ユーモア小説でもないのに、愚者礼賛てのはね、現代人には合わないって思うんだよね。で、村上春樹の新訳が出るまでは、読んだこともないけど、長年気にはなっていた、知り合いが青春小説の傑作というこの本を、わくわくしながら読み始めたわけ。ちなみに、いろいろ話題になった「奴さん」云々は、何度読んでも探し出せなかった、ほんにおまえは屁のような。

語り手は僕。現在、ハリウッドに住む兄は作家でDBで表現される。僕はペンシー・プレップスクールという、ペンシルヴェニア州のエイジャーズタウンにある学校の学生。サクソン・ホール校とのフットボールの試合の日、フェンシングチームとニューヨークから帰ってきた。交流試合に行ったのに、マネージャーの僕が用具一式を地下鉄に置き忘れ、試合が出来なかったから。ここらあたりで、少しも反省しない主人公に共鳴する人、嫌いになる人が分かれる。

僕は4科目に落第点をとりながら、何もする気がせず、学校から切り捨てられた形で退学処分。ルールを守ることが全く出来ない僕。試験の答案用紙にも、不真面目な答を書きながら、むしろ悪いのは先生ではないか、とふと思ったりもする。スペンサー先生との話の最中でも、関係ないことばかり考えている。そんな僕だから、退学はこれが初めてではない。ウートン・スクールでも、エルクトン・ヒルズでも退学になっている。勿論、僕の中では、自分から辞めたのであって、退学させられたのではない。

僕の名前はホールデン・コールフィールド、家族の中で一人だけ頭が悪い。嘘つきの三年生。ヘビー・スモーカーで、アルコールが大好き。面白い話であれば興奮して、他人の言葉など耳に入らなくなる。勿論、童貞、といってもそうならないように頑張りはしたんだけどね。喧嘩も弱いし、ちゃんとしたデートも出来ない。弟のアリーは、二歳年下、1946年に白血病で亡くなっている。多分11歳の時だ。妹はフィービー10歳、今も元気だ。退学処分の手紙が家に届くまでは、両親がうるさいだろうから家に帰りたくない。とりあえず、ホテルで時間を潰そうと、少ないお金を持ってNYに向う。出るのは嘘ばかり。人に文句をいわれれば黙り込み、娼婦を買っても何も出来ず、夜中だろうが何だろうが思いついたら、電話をしたり人の家に押しかける。

ジェーン・ギャラガーは、恋人というか片思いの相手。サリー・ヘイズは美人で格好いいのに、簡単に声をかけることが出来る。思いつきの寄付をしたり、お金もないのに妹へのプレゼントを買ったり、嘘の読書感想を平然と口にしたり、街の子供達に声をかけたり、はっきりいって怪しい青年。デイトに現れたサリーの美しさに、結婚を思いついたり、嫉妬をしたり。

多分、この本が最初に出版された1948年?には新鮮だったんだろう。長い戦争が終わって、暴力的でも、道徳的でもない、かなり酷いだろうダメ男の話が、当時の人々に衝撃を与えたというか、共感を得たというのが分からないでもない。でも、今の時代、現代小説に出てくるのはこんなダメ男ばかり。村上春樹の軽めの訳文は、確かに主人公にはぴったりだし、時代を感じさせない。誰が、第二次大戦の臭いを嗅ぐことが出来るだろうか。サリンジャー自身、時代を描くというつもりはない。だから、私はあくまで現代小説としてしか読むことが出来ない。大したことないじゃん、こんな奴、最近の小説じゃあ当たり前。角田光代『愛がなんだ』を読みながら、もしかして今ではこっちのほうがダメ人間としては上ではないかと思ったり。娘も同じことを言っていた。読者だって世代交代をしている。名作が、いつまでも名作であり続けるということこそ幻想だろう。

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紙の本

凍った池のアヒル

2003/09/21 17:04

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る


 ニューヨークに着いたホールデンは、二十分くらい電話ボックスの中でぐずぐずして結局誰にも電話をかけず、ほとんど放心状態のままでタクシーに乗る。「セントラルパーク・サウス通りの近くに、アヒルのいる池があるじゃない。わりと大きな池だよ。あのアヒルたちって、池が凍っちまったらどこに行くんだろうね?」「俺のことをからかってんの?」「いや、そうじゃなくて、ただ知りたかっただけだよ」(9章)

 物語の後半、ろくでもないバーですっかり酔っぱらい、手持ちの金が尽きかけてタクシーに乗る余裕もなくなったホールデンは、ずぶずぶに切ない心をかかえて公園に向かう。「池はある部分は凍り、ある部分は凍っていなかった。でもアヒルはただの一羽もいない。…もしまだそのあたりに居残っているとすれば、アヒルたちはきっと水辺近くの、草のわきとかで寝ているはずだと僕は考えた。おかげで池にあやうく落っこちそうになったわけさ。ともあれ、アヒルは一羽もいなかったね。」(20章)

 タクシーの運転手から狂人でも見るみたいな目で見られ、「知らんね、マック」と素っ気なくあしらわれたホールデンは、ここでも、ろくでもないバーの電話ブースから出てちょっとした会話を交わしたろくでもないピアノ弾きから「おとなしく家に帰りなって、マック」と、とてもフレンドリーとは言えない態度であしらわれている。

 この凍った池のアヒルたちが、「だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところ」(22章)というイメージと重なっていて、その重なりが死んだアリーと生きているフィービー、「僕」と「君」、スペンサー先生とアントリーニ先生等々の人物の分岐や、電話とタクシーと「マック」で対句的につながってく場面の対称ともパラレルになっているわけだ。だからどうということはなくて、ただそれだけのことなのだけれども。

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紙の本

ホールデン君のこと。

2003/06/12 14:36

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:奈伊里 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 野崎訳の「ライ麦畑でつかまえて」を読んだのは、中学生だったか高校生だったか。ずいぶん昔のことだし、覚えていたのは、ちっとも面白いと感じず、うざったい読み物として投げてしまったということだけ。
 新訳に出会い、読了し、それにはちゃんとした理由があったのだとわかった。
 わたしはホールデンと似た者同士だったのだ。同じような痛みや憤りを感じていたし、同じように、鼻持ちならない面倒な奴だったのだ。自分だけでも大変なのに、似たようなホールデンのあれこれにまでつきあいきれなかったんだと思う。

 人生の折り返し地点を過ぎて読む村上訳「キャッチャー・イン・ザ・ライ」は、甘酸っぱい思いに囚われつつ、あの頃の曖昧な感情たちの在処がこみあげるように蘇る、実に実に愛おしい物語だった。
 読んでる間中、わたしはずっとホールデン君に話しかけていた。
「ほら、そんなこと今言わなくったっていいでしょうよ」
「どうしてそうなっちゃうわけ?」
「またそんなわざとらしいことを……」
「なんだ、君、子供のくせして、わかってるじゃない」
「わかる、わかるけどさあ、ほっときゃいいじゃない」
「あーあ、だから言わんこっちゃない……」
 ってな感じで。まるで当時の自分に話しかけるみたいにして。
 
 そして、なんと言っても、ホールデン君にはフィービーがいた。
 フィービーのためにレコードを買う時間、持ち続けた時間があって、バラバラに割ってしまう瞬間があって、その先に、「そのかけらをちょうだい、しまっておくから」と手を差し出すフィービーがいたってこと。そしてまた、フィービーがスーツケースを抱えてきた時間のちょっと先に、回転木馬の時間があったってことだ。
 わたしは、ホールデン君と一緒になって、フィービーが回転木馬に乗る姿を眺めた。わたしも、あやうく大声をあげて泣き出してしまいそうだったし、ぐるぐる回り続けるフィービーの姿が、やけに心に浸みた。ホールデン君が「いや、まったく君にも見せたかったよ」と言うように、わたしもわたしの周りの人に、そのフィービーの姿を見せたかった。

 彼と並んで、あるいは彼を俯瞰して読み進め、物語の最後には、不思議な感じを味わった。 
 わたしはもう、ミスタ・アントリーニの世代だ。彼は実にまっとうな教師でまっとうな人間で、ホールデンへの対し方にも、年齢にふさわしい責任感と愛情が感じられる。わたしはまさしく今、そちら側にいるし、社会に対して、そちら側に立っての責任を担っている。でも、ずっとホールデンの行動につきあった流れでミスタ・アントリーニに出会うと、なんだかホールデンの側に立って、「そんな分かり切ったようなこと聞くのはうざいんだよな」って気持ちにも、なっていたりするのだ。世の中の、正しいとされることへの、嫌悪感不信感っていうのかな。そういう、ちょっと正しいこと当たり前なことに、斜に構えていたいって感じ。
 わたしの中で、かつてのわたしと今のわたしが、対峙する。不思議な感覚。

 この物語は、全編、ホールデンが誰かに語りかける体裁を取っている。彼が誰に向かって語りかけているのかは明示されない。彼は相変わらず当たり前な人生の波に乗り切れていないような感じだし、もしかしたら、精神病院につっこまれてしまっているのかもしれない。とすると、彼の語りは、ちょっと空しいものになる。でも。読後、わたしの心は明るい。「平気、平気。そんなもんでしょ」と彼に伝えたくなる。「ちゃんと生きてれば生きてるほど、わかんないこと多いよ。おかしいと思わないやつらの方がおかしいんだよ」と。ま、16歳を生きるホールデン君にそんなことストレートに言ったって聞いてくれないのは分かってるから、心の中で。「待ってるよ」と告げる。同じものをいっぱい抱える、仲間として。

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自分

2003/06/02 14:34

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:mute - この投稿者のレビュー一覧を見る

十代の頃、“Nothing gonna change my mind”とはつぶやいてみたものの、やっぱり世界は過酷で、大人になっても変わることができない自分と世界に腹を立ていました、ホールデンのように。

40代になって、彼が大切に思っている記憶や、突然泣き出したい気持ちが、以前よりいっそう痛くわかる気がしました。大半がホールデンの罵詈雑言ですが、だからこそふとそういった場面が心に入ってきます。

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やれやれ、さ。

2003/05/11 20:49

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投稿者:きょん - この投稿者のレビュー一覧を見る

 なるほどね、古い映画が何度もリメイクされるように、小説もいまふうに味つけすれば、何度でもリメイクできるものなんだ。それだけ普遍性を持つ作品なんだと言えるのかもしれないけど、若者なんていつの時代だってやけくそで、あらゆるエスタブリッシュメントを侮蔑していて、悲惨で愚かなことは、そう変わらないんだからね、要するに変わるのは語り口と時代の風俗だけなんだ。だけどその語り口っていうのはけっこう重要で、ほとんど文芸作品のすべてとさえ言える要素なんだから、リメイクにはとてつもなく大きな意味があるんだね。その影響力たるや絶大なるもので、読んだあとはぼくの語り口まで自然にこんなふうになっちゃうんだよ。やれやれ。だけど『キャッチャー・イン・ザ・ライ』というタイトルはもうちょっとなんとかならなかったんだろうか。せめて本文に出てくるような『ライ麦畑のキャッチャー』にするとかさ。これじゃ、最近の映画の邦題と同じじゃないか。予告編なんかでナレーターが完璧なカタカナ発音で『リバー・ランズ・スルー・イット!』と絶叫するたび、とことんうんざりさせられるんだよね、まったく。
 でもこのホールデンってやつは、けっこういやなやつだと思うよ。自分でもそれがわかっているから、まじで落ち込んでいるんだろう。この世の中の通俗的なもの、ブルジョア的なもの、インチキくさいもの、偽善的なものを軽蔑しまくっているわけだけど、自分もどうしようもなくそういうものの一部であることを知っているから、とことん気が滅入ってしまっているんだ。彼はガラスのなかで展示品がじっと動かない博物館が大好きで、何十万遍でも行きたいくらいなんだけど、そこへ行く人がこのあいだの自分とはもう違っているということをすごく考えるんだ。時間とともに人間が変わっていかざるをえないことに耐えられないんだよ。きたないおとなになっていくと思うと、心底落ち込んでしまうんだね。そういうモラトリアム小説なんだよ、これは。いまどきモラトリアムなんていう言葉を使うのかどうかわからないけどさ。
 幼くして死んだめちゃめちゃ性格のいい弟や、ものすごくかわいくて頭のいい小学生の妹のことをしょっちゅう思っているところは彼のいいところだし、この本のもっとも泣かせるところでもあるんだけど、彼はそのふたりに救われてもいるんだよ。ふたりが、もっと言えば子どもが、かろうじて彼をこの世に繋ぎ止めているんだ。この本で子どもだけがきちんとしたまともな人間に描かれているのも、自分はだだっぴろい麦畑みたいなところで、崖から落ちそうな子どもを片っ端からつかまえる「キャッチャー」になりたいと妹に言うのも、そういう意味があるんだよ。つまり、俗にまみれないまともな精神を守りたい、そういうものに繋がって生きていきたい、みたいな。
 それでもやっぱり彼は、なんだかんだあったあとで、ハーヴァードみたいなところへ行って、またおおぜいのインチキ野郎に会ってとことんうんざりしながら、すごい美人の感じのいいキャリアウーマンを奥さんにもらったりして、世の中の通俗さに気を滅入らせつつ、人に優しくしたり優しくされてほろっとしたりして、やれやれと思いながら生きていくんじゃないかな。山奥に隠遁するとか、肉体労働をしながら底辺生活をするというような人生は送らないだろう。つまるところニューヨーク生まれのアッパーミドルクラスの育ちで、田舎者や鈍くさいもの、体だけりっぱで頭からっぽの類いには耐えられないわけだからね。そう言われるほうは、へん、なにを甘っちょろいことをとむかつくだろうけど、彼らは本なんて読まないからね。本を読むモラトリアム人間にとっては果てしなく共感を誘う、永遠の青春文学であり続けるわけなんだよ、まったくの話。

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紙の本

アメリカ版【引きこもり】雑感

2003/05/10 11:49

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投稿者:栗山光司 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 僕が本当にノックアウトされる本というのは、読み終わったときに、それを書いた作家が僕の大親友で、いつも好きなときにちょっと電話をかけて話せるような感じだといいのにな、と思わせてくれるような本なんだ。とホールデンは君に語りかけるが、[君である私]はサリンジャーに「日本の引きこもりって知っていますか?」と電話したくなった。

 野崎訳を再読した時、日本だけの現象らしい「引きこもり」について考えなかったのに、村上春樹訳で思い浮かべたのは、新訳が「内面の葛藤」に重心を置いたメロディカルな文体であったためか。
 旧訳はロックのリズムに近い文体だったためか、街を彷徨く反社会的なパンク野郎を背景に想像して、「家出少年」には結びつくけど、「引きこもり」にはリンクしなかった(当時、引きこもりなんて言葉はなかった)。
 精神病院らしい施設から発信するホールデンの独白は、社会適応願望が過剰にまで強くて、完全さを求める余り、「大義のために卑しく生きる」ことが出来ず、「大義のために高貴な死を求める」無垢なる未熟さに満ちている。自己防衛のために日本の若者は引きこもる。私の引きこもり解釈と重なったのです。

 旧訳の投稿書評では、全く思い至らず、新訳で引きこもり少年の治癒過程の記述と読解したのは新訳の文体のなせる技が一番の因と思う。
 それに、「インチキ野郎」を「おぬし、なかなかの役者じゃーのう」と、むしろ、イカサマ氏の度胸に対して感心する日常を経たり、ホールデン君から金を巻き上げた黒人のエレベーター係に拍手したくなる作者の意図と違う読みをやってしまう海千山千の年を経たためであるか。どちらにしろ、ホールデン的イノセントを相対化して、大人の読解が出来る年になった事は間違いない。

 この独白的物語のキーワードは「インチキ野郎」である。両訳ともこの言葉を使っている。罵倒語として穏便である。仮に誰かに面と向かって言われても、「それが、どうした、おまえがアホなのよ」と、突っ込みたくなる。私の実体験では「イノセントな男」と言われた方がショックであった。「君って、大人だねえ」と言われてみたかった。逆に、どうしようもない大人を陰で「ガキじゃあ、あるまいし」と、どうやら、無垢なるもの=善、無垢でないもの=悪、と単純に割り切れない価値観の日常で生きてきた気がする。
 ホールデン君の立ち位置は、正音者になることを拒否して聾唖者になってみたい吃音者の贅沢な悩みに似ている。日本独自の引きこもり達は、日々ホールデン的呟きをひとりごちて、自己言及し、聴き手を求めているのかも。
 もし、君が耳傾ければ、それに似た叫びを聴取ることが出来るはずだ。
 【ライ麦畑のキャッチャー】になりたいなんて、日本版引きこもり少年の言いそうなセリフである。もう、インチキ生活に飽きて、余裕の出来た気障な大人も言ってしまうセリフでもあるけど…。

 ー僕にとりあえずわかっているのは、ここですべての人のことが今では懐かしく思い出されるってことぐらいだねー。春樹さんらしい濃密な記憶の優しさに包まれる。
 野崎訳では、僕にわかってることといえば、話に出てきた連中がいまここにいないのが寂しいということだけさ。クールだねぇ。
 村上節は泣かせる。俗情に結託した品性の卑しさはないけれど、そのスレスレのところで、書くことの出来る村上さんの芸が多くの読者を獲得する秘密かも知れない。
 

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紙の本

ライ麦畑でつかまえられて

2003/05/04 19:17

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 私が初めて「ライ麦畑」(ここでは野崎孝氏の『ライ麦畑でつかまえて』と村上春樹氏の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の両訳に敬意を込めて、こう表記する)を読んだのはいくつの時だったろうか。大学の授業も学生寮の生活も面白くなく、それでいて何をするでもない日々の中で、ポール・ニザンの「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどと、だれにも言わせない」(『アデン・アラビア』)という文章に酔いしれていた、二十歳前だったように思う。生意気にも私は原書で「ライ麦畑」を読み始めたのだ。私の英語の実力からいって、読了できたはずもない。それなのに、今回村上春樹氏の訳による「ライ麦畑」を読んで、主人公のホールデンがこの本の書名となる話を妹のフィービーにする終わり近い場面をよく覚えているのはどうしてだろうか。野崎孝氏の翻訳本を読みながらのことだったのかもしれない。なにしろ、三十年も前の、昔の話だ。主人公は永遠に十六歳だが、私はもう四八歳だ。記憶も薄れていく。

 当時の私は主人公のホールデン・コールフィールドのことをどう思っていたのだろう。少なくとも四八歳の私は、嘘つきで、強がりで、それでいて臆病な主人公を最後まで好きになれなかった。もし、こんな少年がいたら、この物語に出てくる多くの大人たちのように、叱りつけたり、あきれたり、見捨てたりしそうな気がする。そして、そういう感じ方は三十年前の私自身を裏切っているような気がしないでもない。あの当時大人たちは何もわかってくれないと地団太踏んでいたのは、この私自身なのだから。だから、当時の私はこの本の書名となった主人公の話を記憶にとどめたにちがいない。

 「誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。…ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ」(村上春樹訳・287頁)

 当時の私は崖から落ちそうな若者だった。自分の居場所がわからずにただうろうろしていた。どこへ行っていいのかもわからなかった。そんな私をつかまえてくれたのが、この「ライ麦畑」であったはずだ。そのように二十歳前の私は「ライ麦畑」を読んだはずなのに、今の私は主人公がもっとも毛嫌いした大人になってしまっている。今の私こそが、本当の「ライ麦畑のキャッチャー」になるべきなのに、である。今回四十年ぶりに「ライ麦畑」が新しく訳し直された。訳者が村上春樹氏ということで多くの若者たちが新しい「ライ麦畑」を読むにちがいない。でも、本当に読むべきなのは、かつて「ライ麦畑」でつかまえられた多くの人たちなのかもしれない。

 あなたは「ライ麦畑のキャッチャー」になれましたか。

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紙の本

訳について語るべきか、物語について語るべきか、それが問題だ

2003/05/02 00:15

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:nory - この投稿者のレビュー一覧を見る

初めて「ライ麦畑でつかまえて」を読んだのは、たしか20歳くらいのときだったと思う。そのころ小説というものはどこか教訓的な意図がないといけないと思い込んでいた私は、この本を読んで胸のすく思いをした。
16歳の少年のシニカルな心の内を「イカした」話し言葉で描いたこの小説は、教訓めいたものを拒否し、その愚かしさをただ純粋に指摘している。それがとても新鮮だった。そして、何か生産的なことばかりしなくてもいいと頭の中のスイッチを切り替えられたのも、この小説がきっかけだったかもしれない。

そんな作品を春樹さんが訳し直すという。私にとってはベストマッチというものだ。
改めて旧訳を読み返してみると、あのころあんなに新鮮に感じた文章が、今ではもう16歳の少年の言葉としてはしっくりこなくなっている。これからも読み継がれていくであろうこの作品を、新たに翻訳するというのは必然だったかもしれない。

そして春樹訳についてなのだが、今回あえてそれを意識せずに素直に読んでみようと思った。読み進めるうちに、もう誰の訳かなんてことは関係なしにホールデンワールドにはまっていってしまったのだ。

ホールデンの目はある種の真実を写し出している。この世の中がいかにインチキに満ちているかということだ。そのインチキだらけの世の中を、非力な16歳はどうやって渡っていけばいいのだろう。アントリーニ先生にいわれた、『自分の知力のサイズを知る』ということを考えるべきなのだろうか(そのアントリーニ先生だってインチキ野郎なんだけど)。

そして、先生からはこういう一文も送られる。
『未成熟なるもののしるしとは、大義のために高貴なる死を求めることだ。その一方で、成熟したもののしるしとは、大義のために卑しく生きることを求めることだ』

20歳のころ、大人になんかなりたくないと思っていた。今ではそんなセリフは口にすることはできない。だけど心のどこか片隅で、大人になんかなりたくないという思いは残っている。そして願わくば、春樹さんの心の中にもそんな思いがあってほしい。そうあることで、私にとってこの本の価値は倍増する。

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昔むかしの「青春<ホールデン>体験者」へ、新体験のススめ

2003/04/28 01:54

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:中村びわ - この投稿者のレビュー一覧を見る

 今回の新訳の出版は、「青春経験者」にとって、ずっと自分の中で眠り続けていた作品を甦えさせられる貴重な機会である。私もまた、10代のころホールデン少年の物語を経験した1人であるが、それは多くの『ライ麦畑でつかまえて』読者の衝撃的な印象とは違い、ごくおとなしい読後感に終わった。
 同世代の男の子の「もやもや感」「いらだち」「挫折感」に興味はあったけれども、自意識過剰な年代だったので、異性の心情にピンとくるものは少なかった。「この子は、女性経験があるんだろうか」というドキドキで途中まで引き摺られたあと、「妹思いの少年の物語」というところに収まって、以来20年余り、そのイメージを定着させたままに来た。
 春樹版ホールデンが出たときに考えたのは「『ライ麦』って、今の私に読む意味があるのだろうか」という点だった。それはある意味、単純に「青春文学であるから、妙齢のマダムたる私には遠い世界」と、虚勢を張りつつ加齢というシビアな現実を認めることである。だが、その一方でもうひとつ、いつまでも成熟を拒否して社会生活に適応しにくい、自分の困った性向をほじくり返す怖さも意味していた。
「ホールデン君よりも、今や彼が尊敬していたアントリーニ先生の心境に近いのか、やれやれ」と感じながら読み通した結果、ぴしゃーっと冷水を浴びせられたように感じたのは、果たしてこれは、世間で言われるところの「永遠の青春文学」なのであろうかという疑問である。

 中流家庭の子息であるホールデンは、高校を何回目めかの放校処分にされることになり、退学前に寮を出て、自宅のあるニューヨークのアッパー・ミドル・イーストへ舞い戻る。夜を徹して遊ぼうとするうち、おしゃまな妹のフィービーに会いたくなって、こっそり家に忍び込む。
 妹に責められるようにして将来設計を訊かれた彼の用意した答が、タイトルの指し示す「ライ麦畑のキャッチャー」である。何千人かの子どもたちが遊んでいるライ麦畑の端で、崖っぷちになっている場所に立ち、落ちそうになった子どもを助けたい……という、意味不明の存在だ。

 人を煙に巻くこの返答について、今回初めて気づいたことがある。それは、アントリーニ先生がホールデンに渡すメモの内容に響き合うということである。
「未成熟なるもののしるしとは、大義のために高貴なる死を求めることだ。その一方で、成熟したもののしるしとは、大義のために卑しく生きることを求めることだ」——ホールデンの言うキャッチャーは崖を背にしている。だから、「命賭して」という、ぎりぎりの場所で体を張る重い意味が含まれている。
 でも、「高貴なる死」は先生が書いたように、決して「成熟」の判断材料ではない。むしろ、真に成熟して完成に近づいた人間であればこそ、大切だと思える誰かを救うため、何かを救うために命を投げ出せるものではないのか。
「ライ麦畑のキャッチャー」であるかどうかを判断される年齢にとうに達し、いざという試しの瞬間が来たとき、自分は果たして我が身をDedicationできるのか。この小説が問いかけてくるものは、思いのほか熟年向けなのであった。

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恥ずかしながら

2020/03/04 02:47

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投稿者:るい - この投稿者のレビュー一覧を見る

村上春樹さんの本を読んだのは、初めて!
読まず嫌いだったのか!
五木寛之さんの本で、村上春樹さんと五木寛之さんの以前の対談を読み、いつかは読んでみようと思っていた矢先に、読書会の本がこの本になりました!実は、五木寛之さんも読まず嫌いで、この本が初めて!
「ライ麦畑でつかまえて」を高校の図書館で手にして、読み始めて、どうしてもその時は、文体が合わず、読み進められず、読むことを断念しました。それだけに、今回、この本が選ばれた事に、読み進められるか、心配しました!来週に迫って、読み進めると、文体のテンポが良くて、読み進めることができています!
高校ののときに手にした役での本も、手にすることが出来たら、そちらも読んでみたいと思います!
来週の読書会で、担当教授の講義が楽しみです!

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紙の本

不器用な、切なさが、ここに、あります。

2003/05/11 02:30

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投稿者:どくた - この投稿者のレビュー一覧を見る

サリンジャーと言えば、「ライ麦畑でつかまえて」が何しろ有名である。
多くの著名人が愛読書としてあげ、不思議な魅力がある一方、
学校の推薦図書として出会う機会があるほど、その文学的評価は高い。

その作品を、今一番日本で人気のある作家といってもいいだろう村上春樹が翻訳したのが本作である。
彼の文体はとても独特でかつ自然である。
それが見事にサリンジャーの文章とマッチしている。
世界に対する姿勢みたいなものの描き方が彼ら(サリンジャーと村上春樹)は似ているからだろう。
クールに構えているんだけど感じやすい、という。
さらに村上春樹は「僕」という一人称の口語体の文章をよく使うが、この作品自体ももともと一人称で口語体であるということが訳がマッチしている一つの要因かもしれない。

さて、推薦図書などと言ってしまうと、それだけで敬遠してしまいたくなる人もいることだろう。
しかしそういう人にこそまさにこの作品はうってつけの小説だと思われる。

主人公のホールデンは16歳。
いくつかの学校を転々とし、今度もまた追い出されることになる。
なにしろ学校に関わるあらゆるものが大嫌い。
勉強が嫌い。寮のルームメイトが嫌い。先生が嫌い。校長が嫌い。
それどころか目に付くもの全てにうんざりしているような少年。
好きなものといえば、兄のDBや弟のアリー、妹のフィービーくらいだ。
世界との折り合いがうまくつかなくて、でもそれをどうしたらいいかもわからないでいる。

そういった感覚って、程度の差こそあれ誰しもどこかで感じるものじゃないだろうか。
見ようによってはホールデンはどうしようもない甘ったれにも見えるけど、やっぱり憎めない。
生意気で強がりで泣き虫でどうしようもないんだけど、そうなんだよな、と共感してしまう部分があるのだ。
納得できない物事に直面して、なんで? と思うのはみんな経験のあることだろうが、多くの人はそれをうまく処理しながら生きている。
つまり軽く捉えてしまうわけだ。
たいした問題じゃないと。
ホールデンはそのそれぞれに見事に真正面からぶつかっている。
そしてうまく処理することができず、ことごとく切なくなってしまっているのだ。
その様はひどく惨めで不器用に映るが、彼が真摯に生きようとしているからこそなのかもしれない。

この話には、すごい冒険も、とんでもない事件も、めくるめくラブストーリーも描かれていない。
わくわくしたり、涙をぽろぽろ流したり、というのとは違う。
ただ、色褪せるないことのない、ちょっとした切なさが残るだけだ。

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紙の本

「キャッチャー」と「デクノボー」

2003/05/07 16:33

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投稿者:T−MIHO - この投稿者のレビュー一覧を見る

 「ライ麦畑でつかまえて(野崎孝訳)」はいまでもちゃんと本棚にあるのに全く覚えていなかったのは、その昔(1970年)ファッション感覚で買ってはみたものの、たぶんホールデン・コールフィールドの不器用さにうんざりして途中で投げだしてしまったからだと思う。当時の私にとって、彼はただのハタ迷惑なガキで、だから彼のガールフレンドには同情さえしたと思う。
 だいいちこの題名のわかりにくさ。中味と全然ちがうじゃない、とも感じていたにちがいない。
 それが、「ザ・キャッチャー」という主語に変わって何か納得できそうな気がして、今度はちゃんと全部読んだ。そして(最愛の妹)フィービーに問い詰められた ホールデンが、ようやく「ライ麦畑のキャッチャーになりたい」と告白する場面(P.280)になって、このせりふはどこかできいたことがある、と思いだしたのだ。
 「雨ニモマケズ」
 サリンジャーが宮沢賢治の同類だと思うのは自分でもちょっと突飛だとは思ったが、考えれば考えるほど似ているので書評を書く気になった。
 第一にホールデンとフィージー。心から愛し合いだから互いに必要とし合っている点で、賢治と妹のトシの関係も同じである。
 だから賢治はトシを喪って『未成熟なるもののしるし』である『大義のために高貴なる死を求める』ことにのめりこむ。
 「グスコーブドリの伝記」のブドリは、「火山を爆発させて大気中のCO2を増やし、冷害を救う」という高度な技術を完成させながら、「最終スイッチを押す」というおよそ「無価値な」〜そんなことができるなら遠隔操作ができるはずだ〜大義のために高貴なる死を選ぶ。それは妹ネリの身に起こった悲劇を二度と起させないためなのだ。
 「キャッチャー・イン・ザ・ライ」に訳者の解説がないことを、村上春樹はそれが不可能であったことをわざわざ書いている。
 三十年前の野崎訳には解説があるが、そこには「サリンジャーは自分の正体を人前にさらすことをひどく嫌い(中略)家の周囲には高い塀をめぐらして外にはめったに出ず、ほとんど世を避けたような恰好で暮らしているそうだ(後略)」と書かれている。
 一方の賢治は、羅須地人協会の活動を通して実り少ない奮闘を続けた結果若くして死んだ。それは、文字通り未成熟なもののしるしとしての死だったと思う。
 そしてそれが「大義のために卑しく生きる成熟」への敗北として認めざるを得なかったのが「雨ニモマケズ…」という「メモ」であり、死を迎えた賢治がなお捨てきれなかった「想い」だろう。
 「ミンナニ デクノボートヨバレ」て東に西に南に北に走り回る姿は、「だだっぴろいライ麦畑みたいなところで(中略)よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どこからともなく現れ」るサリンジャーのキャッチャーに通じる。
 どっちみち、人は「未成熟」な無垢のまま生きることはできないのだ。しかしサリンジャーもまたそれを認めたくなかったにちがいない。短いエピローグ(P.352)がそのことを語っているように思う。

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紙の本

回転木馬に乗る君を、ただ見ていたかった

2003/05/07 00:27

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投稿者:深爪 - この投稿者のレビュー一覧を見る

初訳は1964年だったのですか。実は私の生年です。で、これまで読む機会がなかったなんて。ていうか読まなかったなんて! ここに書評を寄せている方々の中では、どうやら稀有な例のようです。やはり不朽の名作なんですねえ。恥ずかしさを通り越してすがすがしく感心する次第です。

ですから村上さんの訳について、既訳と比較してうんぬんという感想も書けないですが、単に新しい読者の獲得という意味のみにおいても、意義ある試みと感じました。この作品の言わんとするところが、現代においても充分に通用しうることが実証された、そんな類の堅実な仕事ではないでしょうか。

私もですから40になろうかって歳の頃なんですけど、でもたとえば主人公と同じ16歳の時にこれを読んだとしたら、たぶん「なんじゃこら? これのがどこがいいんだ?」って思ったに違いありません。世の中はインチキや欺瞞に満ちていて、ろくなもんじゃないってことにはもう気づいていたかもしれない。でも、まだ自分はこれからだし、これからいろんなことが起こるわけだし、みたいなことを思っていました。学校ではそこそこだけど、別に学校がすべてじゃないし、自分もいつかは何かができるだろうって漠然と思っていました。ホールデンのように酒もタバコもデートも夜遊びもやりつくして、やれやれ何も見つからない、誰もわかってくれない、っていう状況とはずいぶん距離感を感じたことと思います。

大学生のとき、初めて海外へ出て一月ほど旅をしました。でたらめな旅で、でも旅先でさまざまなバックパッカーの人々に出会い、ともにいろんな経験をし、いろんな話をしました。大半は同じ「卒業旅行」に来てる学生でしたが、中にはずっと年輩の人も何人かいました。自分の父親ほどの歳の人もいました。それはちょっとした驚きでした。定職に就かず、旅をして、お金がなくなったら働いて、また旅をして。行きたいところ、見たいものはまだたくさんあるし…。そんな話を聞きながら、へえ、こういうのもありなんだ。その気になればどこへだって行けるし、どんなふうにも生きられるんだ。そんな人たちを実際に見たのは初めてだったので、新鮮な気持ちでそう感じました。と同時に、でもどこまで行っても、きっとどこにも行けないんだ、とも感じてしまっていました。初めて貧乏旅行のようなことをしてみて、この経験は自分の人生にとってきっと大いにプラスになるんだろうな、とか思っていたところだったので、ちょっと複雑なものがありました。

終章近く、ホールデンとフィービーのエピソードを読みながら、ふとそんなことを思い出しました。この美しく味わい深いエピソードに至って初めて、この小説は本物だ、と納得できた気がします。回転木馬に乗りたがるフィービー、それをただ見ていたいホールデン。そのどちらの心情も痛いほどわかる気がするのです。でもそう思えた私は、まさしく今の私です。「どこまで行っても、きっとどこにも行けないし、自分以外のものにもなれない」ってことを本当の意味で知ったのも、まだここ近年のことですから。

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