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澤木凛さんのレビュー一覧

投稿者:澤木凛

66 件中 1 件~ 15 件を表示

古民家移築に挑むハットリ夫婦のドキュメント、そこには古いものを新しい中に取り込む技術が必要だ。

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 この本は作家である服部真澄氏が趣味である骨董収集の延長として(?)福井県から東京に古民家を移築するという話が「夫の視線」で書かれている。服部真澄という人物が女性であることを知っていれば、「ああ、わざとダンナの視線で書いたのだな」とわかるのだが、知らなければ知らないでそのまま読めてしまうのが面白かったりもする。もっとも、あれだけ、妻のことを辛辣には書けないだろうけど。

 さて、古民家の移築というのは単に土地があるところに古い民家を運んでくるだけではない。古い民家のよい材料を生かして、新しく築くのである。昔の民家は樹齢百年クラスの木材をふんだんに使っている。もちろん、家は古くなっているけど木材としてはまだまだ現役で使える。しかも数十年使われて「味」も出てきているという。だが、これが田舎の人にとってはただのボロ家でしかない、というところも興味深い。アンティークというのは特定の人にとっては価値のない物が、別の人にとっては高価であったりするのだと、当たり前のことに納得する。

 また単に骨董趣味というだけではなく、樹齢百年以上の木を40年で使い捨てしていればサイクルとしてあわない、というのもなかなか説得力のある言葉だ。百年物は百年使ってこそ、意味がある。そして、それだけの力も持っている。リサイクル社会の考え方の基本はこういう部分にあるのかもしれない。

 そして興味深いのは全く新しい物を否定しているのではないということだ。古い家を移築するが、中で暮らすのはもちろん現代人。必要なところは便利にしておかなければならない。古い部分と新しい部分をいかにして共存させるかがポイントなのだ。そしてそれをやるにはやはり「職人の技」が必要不可欠。この本にも魅力的な人がたくさん登場する。そういった人々の協力の上に「古民家移築」の一大プロジェクトは成功した。

 この本を読むと家を建てるということだけではなく、古いものをいかに取り込んでいくか、ということを考えさせられる。もちろん、「ああこういう家に住みたいなぁ」という思いで読むこともできる。所々に載せてある写真が実にハットリ邸の良さを写しだしている。古民家移築という事業に立ち向かう二人の様子も楽しげだ。肩をこらずに読み通せる実用も兼ね備えた一冊である。

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紙の本ボーイフレンド

2001/03/31 15:50

理系の男の子必読の一冊、北川悦吏子氏の魅力の秘密が少しだけわかるかも。

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 この本は元々今をときめく脚本家北川氏がいい男を順番に友達にしようという月刊カドカワの連載を本にまとめたもの。まあ軽く読み流すには抜群の一冊。

 どこがいいかといえば「北川悦吏子さんはお嬢だった」という下りです。つまり彼女は育ちがいい、とゲストにきて解説まで書いているつんく氏は語っています。単なる金持ちとかではなくて、「育ちがいい」のがポイントらしい。そしてそんな彼女はむちゃくちゃもてたりはしなけど、必ず何人かの男の子が「北川さんっていいなぁ」と思い描いているはずだ、とつんく氏は指摘する。このあたりの指摘はさすがつんく、と私もうなずいた。

 北川氏の育ちの良さが彼女の書く脚本に出ている。彼女の描く主人公はどことなくノーブルだ、というのも鋭い指摘。たしかに「愛していると云ってくれ」のトヨエツもお母さんからして吉行和子さんで育ちの良さが浮かび上がっているし、「ビューティフルライフ」のキムタクも医者の息子が放蕩のあげく美容師になっているという育ちのよさでは抜群にいいわけだ。その安心感が品のいいストーリーを作っているのか。北川氏の世界を一瞬にして分析してしまうつんくの嗅覚にも脱帽してしまう。

 北川氏のもう一つのポイントを忘れずに指摘しておこう。彼女は自分でもいっているけど昔から「理系の男の子がすき」らしい。このことは非常に重要だ。もちろん、別に「オタクがすき」といっているわけではないが(別にいってもいいと思うが)、理系の男の子が好きというのはどことなくロマンチストを愛する彼女の性格が出ていると思う。どんな理系の男の子でもいいわけではないが、知的な感じのするロマンチストを彼女は理想に思い描くのだろう。だから彼女のラブストーリーの主人公はそんなテイストが乗っている(これが理系の男の子へのエールになればいいが…)。

 案外、北川ドラマの陰の視聴者はそんな理系の男の子かもしれない。そして素顔の北川氏は間違いなく理系の男の子があこがれる育ちのよいお嬢さんであるのだろう。かくいう私も彼女もような人に惹かれてしまったりする。そんな私がはっきりと断言しよう。この本は、理系の男の子には必読の一冊なのである。

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紙の本希望の国のエクソダス

2001/03/31 15:44

疲労しすぎた現実とその中に見出す理想郷、村上龍渾身の近未来経済小説

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 久々に村上龍氏が経済をちゃんと勉強して近未来小説を書く、ということで期待して読んだがその出来は期待を裏切らないものであった。ストーリもさることながら、その着眼点はなかなか面白かった。

 まず学校教育の問題。たしかに現代日本において学校教育の退廃はゆゆしき問題だ。でも法という制度のもとでは変革はなかなかおきえないのも事実。ではどうすればいいか。村上氏は「不登校生徒がとんでもない数が出る」ことで国政が動くとしている。たしかにそこまでやらないと日本という国は動かないかもしれない。

 次に日本という国の現在が経済という軸をもとに的確に切り取られていたのがよかった。村上氏はこの執筆のために(というか、結果としてこれになったということだろうが)経済関係の勉強会を主催している。その結果はJMMという形で現れているが、経済という共通語を主軸に切り取ることで今の日本社会を具現化している。案外我々が思っている以上に富の偏りが起きている不平等社会である(または、それがもうそこまで来ている)と言っているのだが、これは佐藤俊樹氏の「不平等社会日本」の主張とも一致する。そしてそれを社会という建前を意識する我々は気がつかないが、敏感な中学生達は知ってしまうという展開をもってくる。旧型の日本社会が中学生の前に機能しなくなる、それは現実問題おきていることもかもしれない。

 この世紀末的な社会に対する解決法まで氏は書いている。いささか理想郷すぎるという指摘もきっとあるだろうが、理想郷無くして理念は実現しないのも事実だ。あまりにも現実に疲労した現代社会に置いてはありえない理想郷が支持されることも逆に可能ではないか。それは大きな時代の激変の兆候かもしれないし、破滅への第一歩かもしれない(実際、オウムがあれだけ一部の若者の支持を得たのは「理想郷」を彼らに示せたからだろう)。村上氏はあえて最後に理想郷を書くことでそれを試金石としたのだろう。支持される程度をみて日本という疲労しきった社会の今を知ろうとしたとは言えないか。この作品をどう感じるか、というのは実は大きな意味をもっている。

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日本という国はは本当は不平等なのか?それとも平等なのか?それを統計という技術で切り出す一冊。

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 日本という国は平等なのかそうではないのか?これは常々我々庶民が漠然と考えることである。それならばこの問題を統計的に切ってみたらどうなるか?、それがこの本の主旨である。きちんとした統計をとりそのなかでの調査をもとに綿密に分析してあり、なかなか説得力がある。いや、彼の分析と我々が感じているギャップをどうとらえるかという意味で面白い。

 佐藤氏は日本にも階級(クラス)が存在することをまず示唆する。それが戦前ほどきっちりとしたものではないが、ホワイトカラーかブルーカラーか、それが雇用される側かそうでないかなどから日本をリードする十数パーセントの知識エリートたちの集団を区別化し、分析を展開している。つまり各階層が実際問題存在していることを示した上で、平等かどうかを問うているのだ。

 平等かどうかというのは階層間の出入りが自由か、世襲されていないかをみればわかるという。つまり親が特定階層にいればそこから抜け出れないような社会は開放型ではないというのだ。当然、明治からずっと流れをみていけば、戦後という一つの時代に向かって社会は開かれてきている、と誰も思っているだろう。ところが、佐藤氏は統計的に調べていくとそうではないことを指摘する。

 つまり団塊の世代とよばれる人々になると戦後でも逆に階層は閉じられているというのだ。これは「学歴が世襲される」ということが影響しているという。学歴というものは本人が努力すればなんとかなるものであるはずだが、実際に統計的に見れば父親の学歴に影響を受けるのだ。そのことが社会の上層部と考えられる階層を閉じたものにしてしまう。その閉塞感が社会に浸透する。

 日本は平等だと我々は思っている。少なくとも自分がつきたい仕事に努力さえすればつけると思っている。しかし、個人個人のレベルでみればたしかにそうだが、それが全体という物差しでみてみれば案外そうでもなくなっている。日本にはびこる悪しき平等主義の下で現実は不平等が成り立っている。それは佐藤氏の分析を聞かなくても「ぼんやりと」我々が感じ取っていることではないか。しかし、一番問題なのは「悪しき平等主義」に都合のいい部分だけをあずけているところにある。西欧でもはっきりと階層社会が成立している。しかし西欧ではその閉じた社会の中で上層に位置する人々は「自分たちの役割」をはっきりと認識している。つまり階級社会特有の「高貴なる義務(ノブレス・オブリージュ)」という概念がしっかりしているのだ。我々はそういう面倒くさいものは「平等だから」といって放棄する、これでよりよい社会などできるはずがない。

 今の日本に必要なのは実際の姿をきちんと見極めて、これからどうすればいいか、を考えようとする姿勢である。まずは、自分の姿を鏡に映してみること。それが出来ないと何も始まらない。今一度、自分の姿を見つめ直さねばなるまい。その時この本はきっといい羅針盤になるに違いない。

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紙の本まどろみ消去

2001/03/31 15:41

森博嗣先生の些細な本音をかいま見られる短編集

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 この短編集は習作というのが一番ふさわしい気がする。二つ目の短編集「地球儀のスライス」の方がやはり上手になっている。短編はごまかしがきかないから、余分なものがはっきりとわかってしまう。簡単にいうと優劣がわかりやすい、ということか。森先生の場合はヘタとは言わないが(笑)、コンセプトがバラバラという感じ。その点、「地球儀」の方がまだまとまりがあった。

 でも、普段書かないようなものというか「ミステリー」という枠から少しはずれたものを書いているのが特徴で、そういう意味では面白かった。でも森フリークでないとわからないトリックもあり(すばる氏って誰?とか言っているとわからないレベル)、そういう意味ではフリーク好みの「濃ゆい作品集」のかもしれない。

 個人的には最後の作品「キシマ先生の静かな生活」がよかった。森先生の本音というかそういう部分が少しだけかいま見れる。きっと今なら先生はこの作品を書かないでしょう。「いまさらこんなことを書いてどうする」と思うんじゃないかな(違う?)。でも「いつから、僕は研究者をやめたのだろう?一日中、たったひとつの微分方程式を睨んでいた、あの素敵な時間は、どこへいってしまったのだろう?」という下りは理系出身の技術者なら誰もが思わず頷いてしまうのではないか(そうでないあなたは恵まれているだろう)。そういう時代はあっという間に過ぎ去ってしまうということ。一日中、微分方程式を考えていられるというのは本当に貴重で贅沢な時間の使い方だ。それだけの集中力をもっていることと、その時間を確保できること、両方が必要だから。今は両方とも持っていない。そう思えば森先生自身が我々からすれば羨望の人なのだろう。理系のノスタルジィを運んでくる一冊だ。

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紙の本毎日がテレビの日

2001/03/31 15:40

タイムマシーンに乗って過去をのぞき見する面白さ、「愛していると云ってくれ」から「ロングバケーション」までの裏話満載の一冊

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 北川氏はいまや多くの人々が知っている売れっ子脚本家であるが、このエッセイはその北川氏がまだブレークする直前ぐらいに雑誌に連載していたものをまとめたもの。(単行本にまず出版されて、それが文庫になってから読んでいるのでかなりタイムラグがある)時期にすると95〜97年くらいで作品で言うと「愛していると云ってくれ」から「ロングバケーション」が終わるくらいに該当する。

 読んでいて面白いと感じたのは、北川氏の書いている時と我々が読んでいる時に間があるということだ。当たり前といえば当たり前なのだが、この「時間差」が思った以上に面白い。つまり北川氏が書いているときというのは、あくまで雑誌に連載目的で書いているのであって、ほぼ「現在進行形」である。その「時々」を切り取って書いているのだ。それに対して我々が読んでいるのは、今ではその「時々」は既に過去になっているわけで、ちょっとおおげさに言うとタイムマシーンで昔に行ってみている、みたいな感覚がある。

 後に大ヒットとなる「愛していると云ってくれ」や「ロングバケーション」がこうやってつくられているのか、ということも当時はまだ「キムタク」になっていなかったキムタクの様子、常盤貴子嬢の部屋にいって彼女の生活を垣間見た話、その二人で後に大ヒットする「ビューティフルライフ」がつくられることも、当時は誰も知っていない(当たり前だが)。そういうのは振り返ってみると「ああ、こういうことがつながっているのだな」と思うのだ。

 そういう意味で日記や随筆というのは面白い。その時間を切り取って書く作業だからに違いない。きっと「あのときの自分(または彼、彼女)はこう考えていたのか」という「過程(プロセス)」が後の「結果」と見比べることが出来るからだろう。それ故に結果が見えない過程は興味があまりわかない。十分に時間が経過せず、まだ結果が出ていない日記は面白くないし、逆に時間はたっていてもアウトプットとして結果が出ていない日記も面白くない。

 だからこそ結果が出ている北川氏のこの作品は十分に面白い。タイトルの通り、毎日がテレビの日というくらいの読者にはたまらない一冊だろう。

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紙の本輓馬

2001/03/31 15:39

作家が大きく変わるときがある。もしかしたら鳴海章氏にとってこれはそんな一冊かもしれない。

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 失礼を承知で書くと、鳴海章氏はどちらかといえばあまりぱっとしない作家であると私は思っている。もっともだから「嫌いだ」とか「くだらない」というのではない。どうもぱっとしないのだけど、なんとなく読んでしまう、そういうところがあるということだ。これは実は一番大切なことで、「この作家は素晴らしい、とても上手だ」と思っていてもどうも読めない…というのはけっして誉められたことではない。作家は読んでもらってなんぼだから。つまり私にとっては非常に「気になる作家」なのだ。

 その鳴海氏の作品「輓馬」は予想以上によく書けていた。しばらく前に「今度の作品はよくできている」とどこかの書評で誉めてあったけど、確かに「よく書けている」という印象をもつ作品だ。舞台は北海道で開かれている輓曳競馬、輓馬とよばれる巨大な馬が大きな橇(そり)にのせた騎手をひき競争する。もちろん、公的な競馬場で行われる歴としたギャンブルの場所でもある。平坦な芝生の上を駆け抜けるのではない、巨大な橇を引き、障害を乗り越え、勝敗を決する。そんな北海道らしいダイナミックな競馬場が舞台になっている。

 主人公の男は北海道の貧しい家に育ち、成功することのみを考えて東京で一旗あげた。最初は上手くまわっていた彼の人生もここへきてつまずき、彼は二千万円の負債を背負って、借金取りから逃げるようにして北海道の地に戻ってきたのだ。そこでは実の兄が輓曳競馬の調教師として働いていた。しばらく兄の元で輓馬の世話をする主人公、その中で彼を自分の人生をもう一度見つめ直す。最後のシーンで彼は東京から追ってきた借金取りにつかまるが、その時には彼には自分のなすべきことが何かはっきりと見えていた。

 最後の方で主人公が語る「おれにとって、今度の借金が第二障害だと思うんだよ。逃げるわけにはいかない。ここまで逃げてきたおれがいうのは何だけど、ここで逃げ出したら、一生逃げなきゃならなくなる」という台詞は秀逸。決して心温まるわけではないけど、力強い素描を繰り返すことでこの物語にはぼくとつとした素朴な感覚がわき上がる出来になっている。今まであまり上手くない、と思っていた私の印象は一変した。鳴海章氏の今後の作品にも期待が膨らみそうだ。

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紙の本ダーティー・ユー

2001/03/31 15:38

育というものを帰国子女という黒船来航で切り開く。

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 主人公は米国からの帰国子女で、日本語は堪能だが考え方が米国人といういわゆるバナナな奴(外見は黄色が中は白い)である。この主人公が今の日本の中学校という環境にはいるとどうなるか、いやもっと具体的に言うと「いじめ」というものをどのように見るか、という視点で描いているのがこの本の切り口だ。

 確かに米国ほど日本の中学校は危険な環境ではない。スクールポリスが徘徊していなければいけないようなことはないし、学校に銃が持ち込まれることもない。しかし、米国の場合はそういった現実を受け止めて防衛策をとっている。そして子供達は「自分の身は自分で守れ」ということがきちんと身に付いているのだ。もちろんありとあらゆる差別が存在し、それがどうしていけないのか、ということを自分たちの範疇で理解している。

 それに対して日本という国はどうだ?全ての人が平等、皆等質故に差別なんてないと「いうことになっている」。差別は本当にないのか、悪しき平等主義にかくれておきていないのか、と考えることはない。そしていじめ。学校に暴力はないと教師が思っている(自分たちが体罰を放棄したからだろうか)のだから、いつまでたっても「いたちごっこ」。日本社会の本音と建て前をそのままもちこんだ学校という閉鎖空間で主人公はもううんざりと感じてしまう。きっと外からみれば日本という国はこんなにも閉塞しているということなのだろう。大人も子供も同じである。

 主人公の偶然仲良くなった友人がいじめを苦にして自殺してしまう。なにも出来なかった自分を友人の死後、何ができるのか考えた主人公はいじめた連中を相手取り訴訟を起こそうと考える。このいかにも米国的な手法を読んでいるものはどう感じるだろうか。荒唐無稽だろうか。いや日本の常識でものごとを処理できるのにも限度があるのかもしれない。ここは日本だ、といいきっても世界の中のだろ?といわれればそれまでではないか。鎖国をしているわけではないのだ。

 しかし、この本の著者はその構造をなんども指摘する。日本の学校教育は鎖国状態であると。つまり学校というシステムには自由競争がないという。一度教師になったらずっと同じ地位を与えられる。義務教育という名の下に決められた学校へ通わなければならない。選択の余地はないのだ。こんな状態でどうして教師が努力し、よりよい学校運営を考えるというのだと主人公の父親は怒る。「文部省と日教組が日本の教育をダメにした」父親のこの言葉はおそらく著者の叫びそのものだろう。競争なき社会をいつまでつづけるのか、それが続く限り鎖国は変わらないのかもしれない。鎖国を解くには…やはり黒船来航しかない、ということか。いつまでたってもこの国の島国根性はかわないのかもしれない。

 扱っている問題は奥が深いが、文章は非常に滑らかで展開も計算が行き届いている。我々が無意識に抱えている問題を上手に書き出した一冊。

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紙の本最強のプロ野球論

2001/03/31 15:36

辛口コメンテータ二宮清純氏のプロ野球論。理論派にはうってつけの一冊。

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 二宮清純氏はスポーツライターで最近ではNHKのサンデースポーツにコメンテータとして出演している。辛口のコメントはなかなか聞いていて小気味いい。今のスポーツ界にあえて苦言を呈する人がいないから、彼のような理論派がどんどん厳しく言っていくべきだろう。

 その彼が「プロ野球はけっして偶然で起きていることではなく、ミリ単位の微妙な駆け引きのなかで成り立っているものすごい世界だ」とその奥深さに切り込んだのが今回の著書である。いろいろ興味深い話は書いてあるが、江夏の21球を引き合いに出した上で「好投手はどこまで球を制御できるか」ということをイチロー対松坂の初対決を取り上げている。松坂対イチローは最初3打席連続三振を松坂が奪い「今日で(プロでやっていける)自信から確信にかわりました」と言わしめたので有名だ。二つ目の三振が捕手が構えたところと逆のコースに行っていることに二宮氏は注目している。イチロー自身もおもいも寄らないコースにきたことで全く動けず見逃しの三振にとられていることをあげて「松坂が投げる直前に感じてわざと逆球を投げたのではないか」と確信犯であることを取り上げている。そこにはモーションに入ってからも微妙な投球変更が出来る「ミリ単位の技」を二宮氏は絶賛する。それは出来るだけボールを長く持つ投手のみが可能にし、どの時点で球筋を変えることができるかがポイントだという。出来るだけ遅くまで変更がきく、それが究極のプロの技だというのだ。

 江夏豊がどうして日本シリーズであのスクイズをはずすことができたか、それは江夏にその技術(投げる途中でコースを変更する技術)があり、それを捕手であった水沼も十分にわかっていたからだという。だからスクイズにでたとき、あわてずにあえて「ゆっくりと」立ち上がって江夏と意志疎通をした、そう決して偶然ではない。ゆっくりとたちあがることで「はずせよ、お前ならできるだろう」意志疎通をしたのだ。あわてて立ち上がっては捕手が動揺したに過ぎない、ゆっくりとたちあがることで二人で「確信犯」になったのだ。

 けっして偶然から生まれるものではない、その素晴らしさに気がつくかどうかで野球観戦というモノはかわってくる。理論派の野球観戦者には必読の書である。

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紙の本人体再生

2001/03/31 15:35

生体再生工学の最先端を探索、近い将来をのぞきみる先端技術の入門書。

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 この本は「ティッシュ・エンジニアリング」という生体再生工学について書かれたものだ。これは人体の損傷箇所を人工のもので補助しようという考えだが、工学といっても単なる合成物にとどまらないのが今の最先端のようだ。

 一昔前は高分子材料で人工心臓や人工血管をつくっていたりしたが、やはり人間の体にとっては異物なので免疫の問題で拒絶反応が出たりする。いま流行の脳死ドナーからの生体移植というのも似たような問題がある。それをもう一歩進めて本人の細胞を培養して本人に移植したらいいのではないか、という辺りの話が書いてある。それが技術的にどうすれば可能なのか、真剣に研究すれば突破口が見えて来るという非常に興味深い話だ。

 実際皮膚の培養はかなり進んでいて実際にビジネスになっているという。全身火傷を負った人間も体のごく一部に残っている本人の皮膚組織を培養して移植するということも出来るという。細胞培養の技術は格段に進歩している。細胞が増殖するのに必要な因子はなにか、支えとなる枠組みがあれば細胞は自分の力で増殖し、「再生」する。そしてその枠組みとなるものが生体分解性の材料で出来ていれば自然となくなるのだ。そういった設計こそが技術というものだろう。

 いつも最先端の技術を素人にもわかりやすく、それでいてけっして妥協することなくあくなき追求心で取材する立花氏の手法は健在。読んでいて、最新の技術が次々に明らかになる。もちろん、この内容は近い将来ごく当たり前になることだ。知と技術の最先端を追いかける氏の本はある意味、正確な未来予想図になるかもしれない。タイムマシーンで未来を覗く代わりに一冊読んでみても損はしないだろう。

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難しい「経済学」を明快に解説、これから経済学部を目指そうとする高校生も楽しく読める一冊

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 少し前にどこかの経済大学の募集広告(大学も広告をしないと入ってくれないような時代になった)に「経済の語源は『経国済民』からきている」なんていうのがあったけど、国を運営して民を救うなんてかなり大変なことで経済学てなものがなかなかうまくいかないのはある意味当然と思っていた。経済学者が自分たちのことを「いいかげんだ」といってブラックジョークにするのはよくある話で、そういう意味でも「経済学=当たらない天気予報」みたいなところは皆常々感じているんじゃないだろうか。

 この本はそんな経済の広くみんなに紹介しようと言うとてつもないコンセプトを持っている。しかもずっとベストセラーの上位にランクインされていたのだから、当初の目的は十分に達成したといえるだろう。この本は広告プランナーの佐藤雅彦氏がエコノミストの竹中平蔵氏に質問して議論するという構成で出来ていて、まあボクらが普段よくわからないなぁとか思っているようなことを率直に聞いてくれていて、素人にもわかりやすい構成。経済っていうよくわけの分からないものを初めからあきらめるのではなくて「なんだ、そういうことなのか」と思えるようになればしめたもの、少しずつ幅を広げていけばいい。

 といってもこうした本は一度読んでしまうと、「はい、それまで」みたいなところがあるから本当は毎週ちょっとづつ読めるようなものがいい。日経の経済教室は少し(いやかなり)難しすぎて市井の人々には敷居が高すぎる。こういう企画も新聞紙上とかで取り入れて欲しいものだ。そういう意味ではこの本のきっかけとなった対談は「月刊プレイボーイ」だとか。さすがに「月刊プレイボーイ」、単にエッチなグラビアを載せているだけではない(もちろん、それも大切だが…笑)というところを示してくれている。週刊はともかく、月刊の方は昔からそういう「心意気」みたいなところがあって高校時代に国語教師から「おまえら、プレイボーイを読め、そこに社会が広がっている」と言われたことを思い出す。少年よ、プレイボーイを読め、か。なかなかいいフレーズだ。

 話はそれたけど、この本、なかなか面白いです。経済ってそんなに難しいばかりではないんだな、と思えれば十分でしょう。これから経済学部を目指そうという高校生にも十分にわかる明快な一冊。ちょっと興味のある人には一読をすすめます。

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紙の本田宮模型の仕事

2001/03/31 15:32

模型を愛する全ての人へ。田宮模型の仕事は終わりなく、いつまでも続く。

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 この本は戦後に田宮模型がいかに発展したかわかる貴重な資料であると同時に田宮模型のもの作りのスピリットというか心意気が非常によくわかる。そう初期のSONYやホンダがもっていたあの自分たちがつくっているモノに対するこだわりである。誤解しないように書いておくが、きっとSONYやホンダは今でもこだわりがあるだろう。ただ、それは会社があまりにも大きくなったことで形がかなり変わってしまったような気がする。田宮模型はそれを今もなお持ち続けているようだ。もちろん、そのためにあえて「上場しない」というポリシーを守っていたりするが。つまり、この本に書かれているのは「スピリット」である。

 田宮模型がどれだけ自分たちのやっているホビーという世界にこだわりをもっているかは是非この本を読んで感じてもらいたい。単なる模型ではなくて模型を越えた部分にこだわっているからこそ面白いのだ。模型というのは実のところなくても生きていける贅沢品である。しかし、こういう無駄なモノにどれだけ時間を割けるか、世界を広げることができるか、というのが実は文化であったりする。F1を走らせる欧州文化に象徴されるような世界がそこには広がっている。そういう意味では田宮模型は日本が欧米に誇るブランドの一つである。

 文春文庫版では解説にかのリチャード・クー氏が書いている。どうしてエコノミストである彼が解説など書いているか、それは読んでみて初めてわかることだった。クー氏はこう書いている「人間が本当にリラックスできるものというのは、そんなにあるものではない。それはせいぜいひとつかふたつで、しかも人によって異なる。それを見つけるのがストレス解消の第一歩だが、最近の学説によると、子供の頃に楽しんだものは、大人になってもリラックス出来ることをさがす大きなヒントになる」。仕事以外に熱中できる何かを持つことは、人間だけに許された最高の贅沢に違いない。そういう部分をもつ人間はやはり素敵なのだろう。

 たかが趣味、されど趣味。そしてその模型を作り続ける人々は常に「スピリット」をもって立ち向かっている。模型を愛する全ての人へ、読んで十分に満足する一冊となるだろう。

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紙の本パソコンが野球を変える!

2001/03/31 15:31

データで野球をみる、その醍醐味を十二分に伝える一冊。

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 アソボウズという会社を知っているだろうか?もともとゴルフのスウィング解析をやっていた会社で野球のスコア解析ソフトを作って、95年の日本シリーズでヤクルトがオリックスに勝ったデータ野球のソフトとして一躍有名になった会社だ。現在はそのスコア解析ソフトの精度も分析能力も格段と進歩し、プロ野球10球団と契約している特殊な会社でもある。

 この会社の社長である片山宗臣氏がアソボウズでやっている「プロ野球をデータで切ってみると」というテーマで書いたのがこの本である。導入部分はアソボウズを有名にした95年の日本シリーズ、とりわけイチローをどうやってヤクルトが押さえ込んだかが書かれてある。一般に言われている「インコース高めを使って押さえ込んだ」というのは半分事実で半分は他の部分にあったという話から始まり、野球というスポーツがどうやってデータで切り取られ分析されていくか、ということが書かれてある。一流の選手がしのぎを削ってやっているスポーツだからこそデータをきちんと分析するかしないかではっきりとした差がつく、勝敗が決まるということが書かれてある。

 日本人は野球というものに独特の思い入れでみてしまう。たとえば精神論を持ち込むことも大好きだし、人間関係でみようとしたりもする。毎年「理想の上司は野球の監督なら誰?」なんていう企画は日本人のプロ野球に対する見方を端的に表していると思う。そんな中で「データで野球を見よう」とするのも日本人の特徴ではないか。打率がどうとか、防御率とか、左対左とか相性がいいとかが気になる。そしてこの本では実際にデータでかなり正確に分析ができるということを詳しく示している。

 さらに興味深いのはアソボウズが10球団にデータを提供していることだ。もちろん、10球団のそれぞれの情報は他には漏れないように細心の注意を払っているらしいが、球団によって取り組み方、データの生かし方が全然違っているという。データは分析できて初めて有益なものとなる。その数字がもつ意味を分析できなければ所詮単なる数字に過ぎないのだ。

 野球を数字で切り取る、その試みは日々進化を遂げている。YAHOOのプロ野球速報ではアゾボウズのデータをリアルタイムで我々も見ることが出来る。それがどうやって作られ、使われているのか。データ重視の観戦者には必読の書である。

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紙の本東京デザート物語

2001/03/31 15:28

知る人ぞ知る、この本の解説はかの早大生・広末涼子嬢。甘酸っぱいフルーツのような作品をとくとご堪能あれ。

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 林真理子氏のエッセイ「みんな誰かの愛しい女」の中で「東京デザート物語」についてこう書いてある「ちなみに最近文庫化され、解説はなんとあの広末涼子ちゃん。早大国文科にふさわしい文章力である。」おお、それは読んでみたい。かの広末の書いた文章が読めるなんてなかなかないぞ。しかも林真理子先生が絶賛するくらいだからきっと面白いものに違いない。

 ありました、で早速解説を読ませていただきました。感想は「うーん…」私が予想していたものとかなり違っていました。なんというか「堅すぎる」出来。「私はこの本を読んで○○○だなあと思いました。私もそういう風にやってみたいです」みたいな文章が延々と続く。中学生の読書感想文の筆致で延々と書いてある。確かに「はい、良くできました」という感じだが、これでは面白みも何もない。嘘か真かは読んで判断していただきたい。

 そうそう、すっかり忘れていたがこの本の内容だ。この本は、そう、まさにデザートのような本である。例えば京極夏彦のような長編はじっくりと読むにはいいが、取りかかりがなかなかできない。間にこういう短く軽いものを読むあわせるとバランスがよくなる。ある意味ではそれはデザートに似ている。 濃厚なメインディッシュの後に甘いものをとることでバランスがよくなる。この本はまさにそういった話で、まあ普通の地方出身の女の子が東京の大学に受かって、東京で生活をはじめてから2年間でどう変わるかというのがテーマ、NONNOに連載してあっただけに気軽に読めてしまうのがいい。

 誤解しないでほしいが別にNONNOを馬鹿にしているわけではない、こういう文章は誰でも書けるわけではないから。目的とする読者に応じて的確なものを書くのは非常に難しい。そういう意味ではこの手のバブリーな雰囲気の作品、そしてほんのり甘酸っぱい味付けは林真理子氏の独壇場だろう。林真理子氏個人に対しては何も思わないが、作品はそういう意味で評価できる。こういった「甘酸っぱい本」はきっと生活の中に甘酸っぱい部分がある人には不必要なのだろう、と思う。甘酸っぱいものが必要なあなたにはうってつけの一冊かもしれない。

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紙の本Go

2001/03/31 15:24

深刻な毎日をドライに生きる主人公に共感、抜群のスピード感で一気に読める「元気をつける特効薬」な一冊。

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 この本、旅先で買って家に向かう電車の中で読み始め、すっかり夢中になって家に到着した後も読みすすめ、一気に読み切ってしまった。こういう熱中させる読書は考えてみれば久々だ。それだけ作品に勢いがあると言うことだろう。

 内容は在日韓国人の少年の恋の話だ。この在日というところがミソになっているのは当然だが、ジトジトした国家問題をスパッと辛口でドライに切ったところが秀逸。日経の書評でも書いてあったが人物描写が抜群にいい。特に主人公の親父のハードボイルドな部分がこの作品をぴりっとひきしめている。そう、一言で言うとこの作品自体の主張は「クール」ということだ。現実は確かに厳しい、でもクールにやせ我慢してやっていくことはやっぱり格好いいんだ、というのが一気に伝わってくる。元気を出すには最良の一冊だ。

 もちろん、バックグラウンドとして書き込まれている日朝問題は今の時代でもまだまだシリアスだ。私自身これを読むまで韓国と北朝鮮が日本国内においても対立しているとはそれほど深刻には思わなかった。そもそも北朝鮮の国民学校の存在自体、あるとは思っていなかった。北と南、大国の意志で引いてしまった国境は本当に罪を造り上げた。組織というものに縛られる人間の弱さ、切なさもこの作品では語りかけてくる。

 ともあれ、ドライに書き上げているので気持ちよく読める。元気を出したい人にはすすめる一冊、是非、一読してほしい。

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