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  3. 澤木凛さんのレビュー一覧

澤木凛さんのレビュー一覧

投稿者:澤木凛

66 件中 31 件~ 45 件を表示

紙の本暗室

2001/03/25 20:19

暗室とは光を定着させるために闇で処理する場所、そこには人の闇も潜んでいる。

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 日の当たる部分がまぶしいのはあたらない部分の暗さがあるからだ。黒い部分があるからこそ白の部分が際だつ。同じ白さでも隣にある色がもっと白いか、もっと黒いかで見え方が変わってくる。闇があるから光がまぶしい。その闇には一体、なにが潜んでいるのか。

 この本の構成は非常にわかりやすい。題名の通り、全くの暗闇である暗室を描くことで、光に照らされた部分を切り出そうとしている。彼が描きたかったのは普段日があたることのない「陰」の部分だ。小説は自分の周囲にあった話をモチーフに7つの短編から描かれている。全てが写真に関わる人々の話であり、彼らの共通項として存在しているのは暗室だ。現実の断片を切り取る写真、それは撮っただけでは切り取ったことにならない。一度暗室という一切光を遮断した闇の世界で「処理」して初めて白日にさらされる。写真という現実を達成させる瞬間が闇であること、それ自体がきわめて暗喩的である。

 この作品に出てくる人々はどこか心に闇を抱えている。いや、全ての人が心に闇を抱えているのだろう。それを暗室という真っ暗の世界が引き出してしまう。普段はけっして出てこない闇の部分。それはひどく醜い形をしているし、奇怪でもある。ただ、それを描くことで初めて人間の光の当たっている部分がまぶしく見えるのだ。小林氏はそういう人間の陰の部分を「写真」と「暗室」という二つの視点で切り取っている。実にわかりやすく、それでいていろいろ考えさせられる。

 闇をもたない人間は薄ぺっらに見える。写真と同じでコントラストが小さいと単調になってしまうからだ。だが、度を超すとそこにうつる姿はコントラストの強すぎて不自然さを残してしまう。すべてのものが強く隈取りされたような歪なものとして目に映る。闇の部分を描くことは非常に難しい。それを出すことで明るい部分は強調されるが、あまりにも出しすぎると見る方は目を背けてしまう。この作品集が全体的に暗い感じで仕上がっているのは、あえて闇の部分を切り取ったために全体の明度を抑えたからだろう。これ以上のコントラストは異形になる。それがわかっているのは氏が写真家だからだろうか。

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最強コンビの第二弾、前回以上にヒートアップした二人の強烈往復書簡に脱帽。

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 壇ふみ+阿川佐和子の「ああ言えばこう嫁行く」、この本のタイトルには「嫁」の字の上に×がはいっている。つまり「嫁いだり」はしないんだよ、我々は、という明確な意志が出ている非常に楽しい本なのである。

 この本は基本的に交互に書く二人の交換日記というか往復書簡になっている。そしてそこに書かれているのは非常に厳しい相手へのつっこみである。前作「ああ言えばこう食う」に続いての二人の軽妙なかけあいはもはや立派な「夫婦漫才」と化している。いや、こんな風にかくと彼女たちは怒るだろう。しかし、互いが本当に相方のようになっているのが文面を通してひしひし伝わってくる。

 結婚願望の強い真面目な文筆家・阿川とクールでどこか捕まえどころのない女優・壇の二人の織りなす美しくも滑稽な友情は読んでいる者達を元気づける。そこに書かれているのは等身大の彼女たちだからだ。そして、今回の作品はさらに突っ込んで彼女たちのクールな本音も出てくる。「若者、いい加減にしろよ」とかいう下りはなかなか面白かった。

 二人が婚期を逃している、というのがまさしくこの本のいわんとしていることであるが(だって、タイトルからして挑戦的だもの)、それにはやはり二人でつるんでいることが絶対に理由としてあるだろう。そこには気のおけない友人同士のささやかな友情があり、それはある意味で異性よりもはるかに強い。こういった友情を越えるものが出てこない限りはなかなか結婚できないのではないか。まあそれ以前に、この強烈な個性の二人に挑もうとする勇気有る男性がいればの話であるが。

 しかし、この本を読んで私は二人の女友達の顔が浮かんだ。誰とは書かないが、彼女たちも限りなくこの状態に近い「のり」がある。結婚願望はあるが、それ以上に今の生活を謳歌している。このままの状態でいい、と思っているならともかく、早く結婚しようと思っているならこれは結構深刻な状態である。案外、似たような人は多いかもしれない。心当たりのあるあなた、だまされたと思ってこの本を読んでみてはどうか。それで「これはやばいわ」と思うか「ああ、楽しいそうじゃん」と思うか、それはあなた次第である。ただ間違いなく読後に幸せな気分になれるだろう。そんな力強さをもった往復書簡なのだ。

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紙の本日本国債 上

2001/03/25 20:15

国債暴落、それを見立てた壮大なストーリテーリングは読み応え十分。

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 国債というものを我々はほとんど知る機会がない。もちろん、国債が日本政府の発行している借用書みたいなもので、その額があまりにも大きすぎるために現実味を失っているということくらいはわかる。この国債の存在は一体何なのか?それをちょっとした空想で教えてくれるのがこの作品だ。

 国債は一定期間その保証書をもつことで利息をつく金融商品だ。しかし、日本政府は問題を「先送り」にすることと同じく、足りない金を先から借り出すという方法に行き着いてしまった。莫大な量の国債が発行され、その貸し出し終了の期間がやってくるたびに新たな国債を発行する。その繰り返しである。こんな額の借金をもっていて大丈夫なのか、という論議もあるが、海外に出さない(国債は国内だけで処理している)ということでかろうじて踏みとどまっている。国の中の収支にすれば大丈夫というわけだ。

 では、もし国債が暴落したらどうなるのか。海外から買われていたとすれば、例えば日本という国に対する信頼感が失墜したら、誰も買われなくなり、また手元に持っている国債を売りだし、暴落が起きる危険性もある。しかし、国債の買い手はまあ、日本国民だから、国民が国を見限らないかぎりは大丈夫なはず。しかし、国民がおかみである国を信用しなくなったら…その時は国債は暴落を始める。

 国債の暴落はイコール国の信用がなくなることを意味する。所詮、お金というのは日本と言う国の信頼の上で成り立っているわけで、それは円の暴落を意味するのだ。もちろん、被害は日本だけではない。多数の米国の国債を抱えている日本はそれを売りに出すかもしれない。すると米国でも同じことが起こる。日本初の恐慌の始まりの図がそこにはある。

 もちろん、実際はそういうことは起きない。日本の小金を持っている中産階級達が国債を買い続けるからだ。国が出すものなら大丈夫、そこにはずっと国に買われてきている意志なき国民の姿が重なる。我々が一市民(シチズン)たるにはそういった全てのものを含んだ上で決断する力が必要だ。しかし、現実はなんら意識を持たない。

 この物語は国債というものを真摯に受け止めて、その現実の姿を描き出そうしている。そこにあるのは超然たる事実とそれを行っている人々の現実だ。経済(市場)はすべてつながっている、そしてそれを動かしているのは我々市民である。それを今一度知ること、それが健全なる市民への第一歩に違いない。

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紙の本車イスとハイヒール

2001/03/25 20:13

大ヒットドラマ「ビューティフルライフ」の力強い脚本の秘密はこの交換日記にあった。

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 この本は2000年年初に大ヒットしたドラマ「ビューティフルライフ」の舞台裏が書かれたものだ。もう少しちゃんと説明するとビューティフルライフの取材を通じて知り合った身障者であるすぎた氏と脚本家・北川氏の交換メール集がまとめられている。

 もともとは企画の段階で障害者をドラマの設定にした北川氏が事前の取材の中で障害者のBBS(掲示板)に出入りしているなかで偶然知り合ったすぎた氏とメールで連絡を取り始めたところからこの本はスタートしている。お互いに本音をぶつけあう、北川氏とすぎた氏の言葉のキャッチボールは読んでいる者を時々ハラハラさせながらも続けられていく。そのなかで「ああ、この二人は本当に解り合えているのだなぁ」となんとなくわかってくる。それはこの文面だけでキャッチボールを続けた本人達と同じ状況にあるのだから、かなりリアリティがあるだろう(もちろん、載っていないメールもきっとあるだろうけど)。

 北川氏が自信を持って「ビューティフルライフ」を書いているということは、放映当時私自身が強く感じたことだ。それが綿密な取材を通してもった自信ではないか、と当時の私は思っていたが、この本を読んでその理由がわかった気がする。この繋がりがあったからこそ、自信をもって書けたのだなと読んでいてわかるのだ。そして、この二人の繋がりは文面以上に深いものがある。北川氏自身が実は身体的に爆弾を抱えていて、いつ健康を損ねるかわからない(というか、常に病気と戦っている状態にある)。そういった心の中の弱い部分が共鳴し、互いの心のなかにつながる部分を見いだしているようだ。見いだしたのはもちろん、弱い部分だけでなくてともに「言葉に敏感である」という才能にも共鳴している。そういう意味でこの往復書簡集は文章的にも読み応えは十分だ。

 人と人との繋がりは思いもよらないところから広がっていく。「パソコンがなかったらきっと知り合わなかった」と言っているのは本当だろう。この二人の出会いがあって名作「ビューティフルライフ」が出来た。神様もなかなか粋なところがあるもんだとふと思った。読後に心が重くなるのではなくて、どこか軽くなる部分が見つかる一冊。

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紙の本神戸から長野へ 新・憂国呆談

2001/03/25 20:11

田中康夫と浅田彰がひたすら言いたい放題、その中にキラリと光る政治論議は注目。

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 田中康夫・浅田彰の対談「憂国呆談」の第二弾。これが実に面白い。内容的には二人でダラダラと世の中の批判をしているに過ぎない対談集だが、この後、田中康夫氏が長野知事選出馬を決意したことをみるといろいろと深読みもできる。

 この対談集の中で二人はありとあらゆる政治的問題に踏み込んで発言している。といってもその大部分は二人で「言いたい放題」の内容に過ぎないけど、とにかくこれでもかというくらい激しく治世者を批判している。おお、これだけ言ったのだからお手並み拝見と行こうじゃないか、というのは簡単だけど、それをわかっていてなおかつ政治の世界に踏み込んでいった田中康夫氏は評価に値するだろう。思っていても考えてもやれない奴が多い中、行動で示してくれると言うのは確かに説得力があるから。この本の中でもダムの問題にもちらりと触れているし、長野県の非常に封建的な部分にも踏み込んでいる。さらに「こうしたらよくなるんじゃないの」というアイデアも沢山出している。それをちゃんとこなしていってくれるか、ますます目が離せなくなる。

 ただ、この対談集は非常に「スノビッシュ」な対談だ。どうせ、馬鹿達にはわからないけど、世の中本当はこうなっているだよ、的な発言「しか」載っていない。実は非常に過激で、読んでいると「で、お前達、そんなに偉いのか?!」と思う人は沢山いるだろう。ある意味、田中康夫氏の個人的な性生活を書きつづっている「ペログリ日記」を読んでも彼に批判的にはならないけど、この文章を読んで嫌悪感を持つ人は結構いるのではないか。自分たちのことをアッパーミドルだと思っている人々には強烈なカウンターパンチになる。(石原都政なんかもボロクソだし、村上春樹なんかも完全に三文文士扱いだ…笑)。それを含めて読み切れれば、この本は面白いし、そうでなければ、この本はかなり危険だと思う。田中康夫批判をする長野県の政治家達は、「ペログリ」で攻めるのではなくて「憂国呆談」を引き合いに出すほうがいいくらいだ(とそれすらわからずにむやみやたらに「批判」しているから奴らは馬鹿なのだが…)。

 田中知事の長野県政に注目している人には一読の価値ありの一冊です。

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紙の本憂国呆談

2001/03/25 20:10

田中康夫+浅田彰の強烈スノビッシュ対談、そこに見えてくる新しい国のあり方に共感。

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 この本は出版が99年の8月、実はカー雑誌NAVIにて二人が言いたい放題の対談をしていたのをまとめたもので、連載をしていたのは94年10月から98年12月までという非常に長い期間だ。その間に阪神大震災やオウム真理教の事件があって、世の中は大きく変動した。二人が言いたい放題なのは変わらないが、こうやって読み返してみるとほんの数年前のことだが非常に面白く、興味深いことを言っていることに気づく。

 田中康夫氏などは順番に著名人をあげては文句を書いている。特に長野の五輪のときは長野県知事や長野市長のことを言いたい放題なのは知事となった今にすれば結構笑える。ただ、読んでいてわかったのはやはり彼が大きく変わったのは自分でボランティアとして動いた阪神大震災以降である。それまでは世の中に対して言いたいことや考えていることがあっても、こうしてただ文句を言うだけだった(いわないよりかなりましだが)人が、実際に自分の体を動かしてからはその言葉にリアリティがともった。さらに、引き続き神戸空港反対の住民運動を支援すると、何も政治団体を持たなくても人の心を動かすことが出来るんだなということを実感し、自分がそういった人の声を拾い上げることができるのだということを知ったようだ。いわば、今の長野県知事の秘密がここには書かれている。

 浅田彰氏が面白いことを最後に言っているが「僕だって、ポストモダン消費社会のイデオローグってことで左翼から批判されてたのが、今じゃいちばん左翼の方に来ちゃった感じだもんね」と自分たちの自身の姿勢はさほどかわらないの世の中の相対位置が大きく変化していることを指摘する。消費社会の申し子、田中康夫氏がボランティアというのも同じ、ただ、本人の中では一貫性があるという。時代とともに相対位置は大きく変わる。ただ大事なのは自分を見失わずに常に場所を把握しておくことだ。他の人の意見もどんどん聞いたらいい、その中で自分がどう考えるか、昨日までの自分とどこが同じでどこか違うか、それを知っていることが大切なのだ。

 この本を読むと本当に二人とも言いたい放題。政治家の悪口もがんがん言うし、「お前ら、そんなに偉いのか?」と思う人も多いかもしれない。でもそれでいいのだと思う。誰一人偉い奴なんていないのだから、自分がこいつは偉いと思えば誉めればいいし、ダメだと思えばけなせばいい。それがリベラルに出来る環境、思考を持つということが重要なのだ。これもダメ、あれもダメ、で考えてしまうとどうすることもできなくなる。常にいろいろな人の意見も聞いて、胡散臭い話もさらりと聞きこなせる術をこれからの世の中では必要となるのだ。言いたい放題の彼らの「戯れ言」に耳を傾けてみるのはけして時間の無駄にはならない。多くの人に一読してもらいたい一冊。

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中田英寿の成長の記録の裏に著者である小松成美氏自身の成長が読みとれる一冊。

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 ジョカトーレとはイタリア語でサッカー選手のこと、そしてこの本はもちろん中田英寿のことを書いている。著者の小松氏は数少ない中田の肉声を聞けるジャーナリストである。ご存じのように中田はマスコミをかなり嫌っている。厳密に言えば不勉強な日本のマスコミを嫌っているのであって、すべてのマスコミに対して不快感を示しているわけではない。イタリアまで大勢でおっかけてきて中田だけのコメントや写真を撮ろうとつきまとうマスコミを嫌っているのだ。当然、新参者の中田に他の選手からクレームが出る。あいつら、一体何の取材に来ているんだ?そしてマスコミはサッカーの勉強をしない。ゲームの核心に触れる質問などせずに「今日はどうでしたか?」「もうイタリアにはなれましたか?」ばかり…それでは中田に馬鹿にされても仕方ないだろう。

 中田が心を開いているのは良識有る大人だ。元サッカー選手で本当にサッカーの事が好きで書いている金子達仁氏にはきちんと自分の思いを伝える。またサッカー通で尊敬できる作家村上龍氏に対しても同様だ。彼は決して礼儀を知らない青年ではない。無礼な大人に背を向けているナーバスな個人主義者なのだ。彼は無礼な人間に対してコメントを出そうなんてこれぽっちも思っていない。「中田選手は公人なのだからコメントする義務が有るんですよ」というのはマスコミの奢り以外の何ものでもないと切っているのだ。

 そんな彼のことをまだメジャーになる前から追っかけているジャーナリスト、それが小松成美氏だ。彼女はほんのささいなことで彼の取材をし、その中で中田英寿という有能で繊細な若者に惹かれ、そしてサッカーの魅力の虜になった。彼女は素人だといいつつも真剣にサッカーのことを勉強した。それは取材対象に引きつけられてということもあるだろうが、彼女の基本的なスタンスだったのだろう。そして小松氏は中田の取材を通じてノンフィクション作家としての技量を磨き上げていった。

 この著書は中田を追いかけはじめてから、現在に至るまでの彼に対する取材が書かれている。そこにあるのはあっという間に山梨の田舎高校生から世界のナカタになるまでの彼の著しい成長の記録だ。そしてそれと同時に駆け出しのフリーのジャーナリストだった小松氏がノンフィクションライターとしての成熟をみせていく過程でもある。この本は中田英寿だけではない、もう一人の人間の成長をも読みとることができる作品だ。それは進化する二人がそれぞれに相手の努力、成長を認めあいながら全く違ったフィールドで共鳴し、連帯して初めて生まれたのだ。

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趣味の色の強い短編に隠された森思想の秘密。

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 森博嗣氏の短編集、載っている作品は犀川・萌絵シリーズ有り、Vシリーズの小鳥遊くんと萌絵ちゃんの競演有りで、かなりファンサービスあふれる作品群だ。

 といっても、短編集はア・ラ・カルトというか、一つくらいはずれてもいいだろうという余裕のせいか、趣味の世界に走った特異作品もある。今回もこれは理系でないとわからないだろう(「どちらもAから始まるのに自由(gとu)の差で、一番と二番にわけられるものはなに?」といったなぞなぞ)というものやチェスをしらないと落ちすらわからないものもあった。作品を楽しむには勉強するべしということである。

 その中で個人的に興味深かったのは理想の模型屋の話。これはミステリィというより寓話に近いもので、模型好きの少年が自分の理想の模型ショップを妄想するという話。まさしく森氏が小さな頃の自分の世界をそのまま話にしたものだ。模型好きの少年は最初は簡単なプロモデルからその世界に入っていく。模型の世界は奥が深い、動力付きのものに進み、そのうち自分でそれらを作っていく楽しみがわかっていく。それは一朝一夕で達成されるものではなく、何年も模型を作り続けて初めてその世界観というか奥深さがわかっていくのだ。主人公の少年は自分の理想の模型屋さんを想像する。あらやるパーツが揃っていて格安で売っている店だ(もちろん、そんな店はない)。そしてある時夢の中でその店に遭遇する。こんなに安くていいの?とびっくりする少年に店主は「君のように本当に模型好きの子供にはその値段でいいんだよ」という。

 そしてその店でもう一人の少年と出会う、自分には格安で売ってくれた店主ももう一人の少年には厳しい。いや、もう一人の少年は価値もわからず、ものすごく手の込んだモデルの値段を聞くと、「これは売り物ではないんだ」と言わんばかりに値段をいう店主、そこで彼ははたと気がつく。極めていって初めてわかる世界があるということを。店に並んでいるものは模型の世界を極めた者にとっては価値がわかり、「これは格安だ」とわかるが、そうでない人々にとってはただの高価なものに過ぎない。なにも知らない少年がそこで買うことのできるものはただのプロペラだけかもしれない。しかしそのプロペラから始めていって、時間がたって初めて買うことを許されるものがある。それは単にお金を持っていれば買えるものではない。キャリアを積んで初めて買うことが許されるものなのだ。

 寓話はそのまま森氏の模型感というか趣味に関する思いに通じているだろう。モノはお金を出せば確かに手にはいるが、本当の一品は人を選ぶ。趣味の世界もそうだ、ずっと続けていてある時初めて目の前がパッとひらけるときがあるのだ。野球観戦も観劇も美術鑑賞も、読書も漫画を読むこともドラマをみることもそういった全ての趣味は同じだ。わかるようになるには段階が必要なのだ。その瞬間のために我々は惜しげもなく時間や金をつぎ込む。それが趣味というものであり、生きると言うこと事なのではないか、そんなことをふと考えさせられる一冊である。

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ギャンブラーサギサワの自信作は、彼女独特のセンスと鋭い着眼点で描いたエッセイ集。

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 執筆するギャンブラ、鷺沢萠のエッセイ集。読んでいてその着眼点の鋭さにはしびれてしまう。その独自の切り口は実に奥が深い。たとえば「一人で飲んでいる女は寂しいか」という話。酒場で一人で飲んでいる女は寂しいという固定観点をもつ男は多いが、そうだろうか?酒なんて飲みたいときは一人で飲めばいい。そういう固定観念を持っている男に限って一人で飲みに行かずに必ず「おねえちゃん」のいる店に行って飲む。連中は酒を飲みたいのではなくておねえちゃんに相手(接待)してもらいたいだけではないか、そういう奴らこそ寂しいのではないか、という主旨。まさしく「ごもっとも」だ。一人で飲む酒が寂しいというのは思いこみ以外の何ものでもない。

 同じような視点で書かれた「モテなかった男達がモテようと必死になっているのが今の日本社会だ」というのもなかなか手厳しく同意できる。結局男は女にモテようとおもって金を必死で集めたり、権力を握ろうと躍起になっているところがある。そしてそれは皆風采のあがらない奴らばかりだ。ルックスのいい奴は必死にならない。「色男、金と力はなかりけり」という言葉は、ルックスの悪い奴らが妬んでいっている事に加え、ルックスがあれば金と力がなくても女をゲットできるという恐るべき事実を表している。鷺沢はそんな素で勝負できない奴らが日本を動かしているうちはこの国もダメだなとまで切り捨てているが(^^;)、まあそういう社会であることを認めないと変わらないというのも事実か。

 こうして読んでいると「鷺沢いいこと言っているなぁ」と思うのだが、ただホームページ上でみる博徒サギサワと同一人物とは思えない。結局サギサワはどこかもうイッてしまっていてもうほとんどおっさんになっているのだ。鋭い女性の感性をどこかに隠し持ったおっさんに。これほど怖い奴はいない。恐るべしサギサワ氏の実力を貴方もとくとごらんあれ。

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紙の本工学部・水柿助教授の日常

2001/03/25 00:53

工学部助教授の理想と現実、この作品は著者の限りなく現実に近い、紛れもないフィクションなのだ。

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 森博嗣氏の新シリーズ、氏のいつものタッチとかなり違うなぁと思って読んでいたが、それもそのはず幻冬社の「ポンツーン」という冊子に連載になっていた短編をまとめたものだったのだ。そうか、それならこういう「かるーい」短編集も納得、しかし、中のエッセンスは相変わらず興味深いことが多い。

 工学部の助教授の日常を描いているのだが、それよりも森氏の個人的な生活を描いているという感じが漂う。エンターテイナの森氏のことだから筆に任せて面白おかしく書いているのだが、読んでいくと「これはどこかで聞いたことがあるなぁ」と思うようなエピソードが出てくる。そうかエッセイ(というか日記)で読んだのか、と氏の実生活に微妙にリンクさせてあり、この小説の一番の謎は「どこまでがフィクションで、どこから先がノンフィクションか(逆でも可)」ということであり、最大のトリックは「これが小説である」というただし書きに他ならない。ギリギリで勝負するからこそ、面白い(といっても面白く読めるのはかなりコアな森フリークであろうが…)。

 この本の大きなセールスポイントとして装丁はかなりいいことがあげられる。最近買った本の中では瀬名秀明氏の「八月の博物館」と競うくらい。これはそういう意味でもかなりお薦めの一冊。「すべてがFになる」の犀川先生が森氏の理想だとすれば、本作の水柿くんは森先生の現実ということでしょうか、おっと、これはフィクションでしたね、フィクション。現実的な空想と空想的な現実、さて、その差はなあに?

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紙の本サギサワ@オフィスめめ

2001/03/25 00:49

博徒作家サギサワの真実の姿に迫る一冊!

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 なにげなく読み始めたこの本、実はとてつもなく面白い。まさに一本やられたという感じ。鷺沢氏は小説家、昔は美人女流という肩書きであったが今やバツイチ・博徒作家である。その氏の毎日を日記として綴り、さらにそれをWEBに載せているのが彼女のホームページ「office Meimei」である。で、この本はその日記を文庫にしたものだ。まあ形態は微妙に違うけど森博嗣先生の「すべてがEになる」と同じである。両者に共通しているのは作家の「いま」が見事に切り取られている、という面白さだろう。

 この本何が面白いかって、鷺沢氏のとんでもない生活がのぞき見出来るところが一つ。とにかく氏は「飲む、打つ、書く」なのだ。酒を飲んでいるか、麻雀を打っているか、さもなくば仕事をしているかのどれかで生活が構成されている。ううう、凄い。オヤジ化もかなりしている。我々の比ではない。だが、それだけではこんなにも大絶賛はしない。実際、この本の前半は読んでいて退屈なところも多い。ところが後半になると俄然面白くなる。それはわたべ嬢の登場によるものだ。

 このわたべ嬢は普通のOLなのだが、縁あって鷺沢氏のホームページの管理人をやっている。縁というのは行きつけの雀荘が同じだったというこれまた強烈な縁であるが、そこで見そめられてしまったわたべ嬢は鷺沢氏のホームページをつくることになった。最初は氏の日記がこのWEBのメインであったが、そのうち管理人わたべ嬢が裏ページをつくり、いつのまにかそれが鷺沢氏との交換日記の場所になったのだ。この裏のページが抜群に面白いのだ。良質のかけあい漫才というか、鷺沢氏のいい味が実によく引き出されている。まさに天の配剤とはこのことだ。

 作家の日常の臨場感・生活感を感じることが出来るのは、まさしくこのわたべ嬢という触媒があってこそ。二人の軽妙なやりとりがWEBという独特の場を借りて見事に作品に仕上がった。この本を読んで、鷺沢氏のWEBの虜になった人も多いはず。作家・鷺沢萠の新たな一面を見ることが出来る貴重な一冊である。

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紙の本いつかどこかで。

2001/03/25 00:46

スポーツライタ金子達仁氏の爽やかなエッセイ、読むと気持ちが軽くなる軽快さが魅力

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 すっかりスポーツライターとしての地位を確立した金子氏がナンバー誌上に連載しているエッセイである。読んでみると肩に力の入っていない軽やかな文章が非常に爽やかで心地よい。

 金子氏が生まれて初めて人物のインタビュ−をとり、記事にしたのがまだ有名になる前の伊達公子だったという話からこのエッセイは始まる。当時テニス専門誌の記者をしていた金子氏は高校総体の決勝の取材に行った。地元神戸で圧倒的な声援を受けて闘う沢松に敢然と立ち向かう伊達。その姿を見て彼女に惚れ込んで取材して記事を書いた。これがスポーツライター金子達仁の原点になっているという。後に世界に羽ばたく伊達との出会い、これは金子氏がもった星の強さを示しているエピソードだ。

 このエッセイの中で金子氏は何度も自分に問いかける、ジャーナリストとスポーツライターの違いは何か。自分がなりたかったのは、そしてなろうとしているのはどちらか。ジャーナリストは公正さが要求される、しかしそれを自分は求めているのではない、自分が求めてるのはどちらかに肩入れするかもしれない、そうしてでもなお書こうとする対象を見つけだすこと。夢中になって描く何かをえること。その初心を常に確認しつつ、スポーツライター金子達仁が成長していく姿がこのエッセイには書かれている。

 最初はサッカーだけだった金子氏の守備範囲もどんどん広がっていく。それはやがてスポーツという世界にとどまることなく広くライターとして自分と相手を表現していくだろう。その成長の記録がこのエッセイだ。もちろん、ごくごく自然体で書かれている。それがいい。「いつかどこかで」もう一度最初と同じ気持ちで人物を描く、金子達仁はそれを続けることがきっと出来る人にちがいない。ますます進化し続ける金子達仁というライタの今を読んでおいてけっして損はない。

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最高のアスリートが語る等身大の自分、そして人間。

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 この本は著者が自分の身におこったことをきちんと書きつづった自叙伝で、自分自身にとっての真実がきちんと書かれていて、そう意味では非常に貴重で意味のある本になっている。著者はプロのサイクリスト、世界選手権で優勝したこともある彼がなんと睾丸癌にかかってしまい、睾丸を摘出、癌は肺にも転移しており生存率10%を切るような状態から必死に闘病して見事生存を勝ち取ったという。治療後一年間に発病しなければ生きていけるが、一年以内に発病したときは地獄が待っている。そんな運命の中、彼は生き残り、そして再びレースを目指す。最愛の妻との間には手術前に精子バンクに保管していた精子で体外受精を成功させ、子供ももうけた。あと彼が目指すものはただ一つ、栄光の勝者のみが身につけるマイヨジョーヌ(ツールドフランス優勝)だけだ。

 まさかの発病から辛かった闘病生活、そしてすぐには踏ん切りがつかなくて戻れなかったレースの話。体外受精の赤裸々な告白、そしてツールドフランスで優勝するまでが、本当に彼の言葉で綴ってある。そこには成功者の奢りもなければ、敗者の卑屈さもない。ただただ彼がどうやって生き抜いてきたか、彼の最もそばで見ていた人間の手で描かれている。まさしくそれだけの物語だ。飾り気もないが、ウソもない。じっくりとリアルな出来事に触れてみるのもいいかもしれない。人間らしくとはいかなるものか、しっかりと書かれてあり、読み応えは十分ある。

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紙の本敗因の研究

2001/03/25 00:43

有能な敗者に学ぶものは大きい。

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 スポーツにおける敗者の弁を聞こうというのがこの本の主旨だ。普通は勝者にだけあたるスポットライトをあえて敗者に当ててみたというのがミソ。さらにいえば、勝つことだけを求めていればよかった右肩上がりのバブル期を過ぎて、リストラが吹き荒れ、世の中の多くの人々が敗者になる時代がやってきた。それにあわせて、「敗者が再び踏ん張る姿を描く」というのが隠れたテーマだと言うからさすがに日経の夕刊(に連載されていた)のレベルは高い。負けて何を学ぶか、それがこれからの考え方なのだろう。

 ここに載っているのは誰も知っている名勝負の敗者から、そんなスポーツ選手がいたの?というマニアックな人物まで多岐に渡って取り上げている。ただ一つ共通することと言えば負けてはいるが皆「大物」であるということだ。能力のない敗者ではない、有能な敗者なのだ。運に嫌われて負けるものもあれば、様々な勝負のあやの中で自分を見失って負ける。また全盛時の力がなくなり、我慢していたものがふっと消えて負ける。しかし彼らは皆有能なアスリートである。ただ単に負けたでは終わらない。どうして負けたか、それを自分なりに把握しているのだ。その極意、真髄を聞き出そうとする記者魂もすごい。

 敗者の応援歌では決してない。自分の敗因をここまできっちりと見極めることが出来るからこそ、優秀であるということがわかる。なにがよくないのか、それがわからないうちは本当に進歩はしないだろう。いや、勢いで伸びるときはあるが、誰もがあるとき壁にぶち当たる。それを越えていくのは「敗因の研究」ができるものだけだ。その経験を次にいかせるか、それが重要なのだ。きちんと自分の敗因がわかっているか、我々も常に考えたいテーマである。

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紙の本「捨てる!」技術

2001/03/25 00:41

ストックとフローをわけて考えることから整理法は始まる

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 一時期話題となったこの本、あっという間に読んでしまえる量で極端に言えば一つのことしか書かれていない。つまり、エッセンスとして書かれていることは「ストックとフローにわけて考える」ということだけだ。

 昔と違って情報の単価は低くなり、簡単に手にはいるようになった。それによって情報を保管することよりも廃棄することが実は大きなテーマになっている、というのがそもそもの主旨だ。そしてその情報を捨てる上で重要な見極めが「情報をどの段階で捨てるのか」ということになる。

 見た途端捨てれるものも沢山あるし、ある程度判断すれば捨てれるものもある。最終的には情報はほとんど捨ててしまう。どの段階で捨てるかがミソなのだ。大切なのは一次情報である。それを加工して出来る二次情報は重要度が低い。簡単に引き出せる(他で保管してある)情報も捨てることが出来る。となると最終的に捨てることが出来ないのは自分が作り出した情報ではないか。確かに自分が作り出したものはどこにも保管されない、自分で保管するしかない。本は捨ててもいいが、日記は捨てることが出来ない。

 また情報はフローとして扱うものとストックとして扱うものがある。処理していく中でこれは重要だと判断されるとストックとして「保管」される。一度ストックしたものはなかなか廃棄されないからストックに行く前に捨てなければならない。フローの中で捨てる技術を見いだすことが大切だ。確かにボクの生活や仕事の中でもフローの中に捨てるべきものは沢山ある。簡単に言えばファイルとして格納された書類はまず捨てられることはないが、机の上に乱雑に置かれている書類は捨てられるべきものであふれている。これを早く判断して捨てれば、情報のアクセスが速くなる、ということだろう。

 著者は究極の廃棄術はアウトプットすることだと言っている。大量に集めた資料やデータもそのまま放っておくとなんら使い道がない。ストックする意味があるのはその情報が使えなければならない。そういう意味では使える情報だけが意味がある。報告書にする、本にする、論文にする、そういう形でまとまったものをストックして初めて意味をもつ。これはまさしく「真実」だろう。結局アウトプットの過程にあるものがフローである。フローの情報をいかに管理し、素早くアウトプットし、エッセンスだけをストックする。これが究極の情報を捨てる技術、簡単にして困難、だからこそこの手の本が売れる。本当に出来るかどうかは、是非一読して実践してもらうしかない。


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